第11話
無残に破られた窓は、冷たい夜風が入り込むのを防ぐため壊した本人の手によってシーツで塞がれた。
「明日には交換できるよう手配しておくから」
そう言ってカイは食事の支度を待たずに不機嫌なまま帰ってしまった。
苛立ちを纏ったままの後ろ姿が頭から離れず、サラは食器を洗いながら溜息を吐いた。あれほど不機嫌で苛立った兄を見るのは初めてで、仲直りできないまま別れたことへの胸のつかえが、時間が経つほど大きくなっていった。
居間に戻ると珍しくレクスもいない。そのせいか、いつもより広く感じる室内は静かで寒い。見捨てられたような寂しさと急に襲ってきた疲労感に、サラはソファーに崩れ落ちた。
どのくらい経ったのか、いつの間にかソファーで眠っていたようだ。身体の向きを変えようとして薄手の毛布が掛けられていたことに気付く。
「起きましたか?」
聞き慣れた声が降り注いだ。見上げるとレクスが安心したような笑顔でサラを見下ろしている。レクスの顔の位置と向きで、サラは今、自分がどんな状況か理解した。
ソファーに座るレクスに膝枕をされているらしい。
「す、すみません!」
慌てて起き上がろうとしてバランスを崩し、ソファーから落ちかける。けれど実際に床に落ちたのは上掛けだけで、サラの身体はレクスに抱き留められていた。
「あなたはよく転びますね」
レクスはサラを抱いたまま苦笑した。
最初の出会いも石を踏んで転びそうになったところを助けてもらった。あの時と同じくらい顔が火照るのを自覚する。
「いつもお手数をお掛けします」
すみません、と謝りながらレクスの手を借りて体勢を立て直した。
改まってソファーに座り直すと、サラはレクスの方に身体を向けた。
「あの、今日の解術ですが」
そこで深呼吸をすると、深々と頭を下げた。
「失敗しました。すみません」
「あれは誰でも驚きます」
「でもそれは言い訳になりません」
あれほど注意していたのに集中力を切らしてしまった自分に落ち込む。
けれど、一番許せないのが――。
「また最初からやり直しになります」
レクスに苦痛を強いてしまうことだった。また呪術を身体から抜き出さなくてはいけない。
「本当にすみませんでした。今度は血も使って――」
「またですか」
レクスの声が低くなった。
解術できると偉そうに言っておきながら、まともに解けないのだからきっと呆れられたのだろう。サラは俯いたままぎゅっと瞼を閉じた。
けれど、溜息と共に続いたレクスの言葉は想像していたものではなかった。
「あなたが傷つくところは見たくはないと言いましたが?」
驚いて顔を上げると、レクスは朝と同じ不機嫌そうな表情でサラを見ていた。
「いや、あれはそれほど」
たいしたことじゃない――そう言う前にレクスが不機嫌なまま口を開いた。
「同じです」
「同じ?」
意味がわからずに首を傾げる。
「あの程度の痛みはたいしたことありません」
慰めてくれているのだとようやく気付き、その優しさに視界がぼやける。けれど今泣けばレクスが困らせるだろうと、零れ落ちそうになる涙を必死に堪えた。
「今度は成功させます」
サラは鼻声と潤む瞳を誤魔化すように何度も頷いた。
「血は使わないでください。もし傷をつけるようなら拒否します」
「でも」「拒否します」
レクスは爽やかな笑顔で繰り返し、サラの言葉を強引に遮った。
「わかりました。傷はつけません」
一度失敗しているサラは渋々白旗を振った。
「――名前」
不意の言葉にサラはレクスを正面から見つめた。彼は一変して不安そうな表情を浮かべていた。
「名前を思い出しても、レクスと呼んでくれますか?」
それは私が勝手に付けた名前ですよ。
そう言おうとしたがレクスの表情に言葉にはできなかった。
「私が何者でも、傍にいることを許してくれますか?」
黄金の瞳は漠然とした大きな不安に耐えているように見えた。
記憶をなくしながらも今を過ごしていて、新しく生活をしているところに突然過去を思い出したら――。本当は何者なのか。それまでどう過ごしてきたのか。どうしてこうなったのか。記憶が戻れば否応なく過去の自分を受け入れなければならない。
例えそれが、今の自分と遠くかけ離れていたとしても。
サラは口角を上げてレクスを見上げた。
「私の中でレクスさんはレクスさんです」
自然とレクスの腕を掴んでいた。
「泣く子も黙る魔王でも例え今とは違う姿でも、レクスさんが望むならずっと傍にいてください」
でもこの家に入らないくらいのドラゴンだったらその時は一緒に考えましょう、とサラは冗談めかして笑った。
レクスは嬉しそうに目を細めサラの肩に額を乗せた。サラはレクスの広い背中にそっと腕を回した。
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