第3話 癒しの雨

 神主の居住スペースである居間の薄型テレビから、お天気お姉さんが今日の暑さを訴えている。

 真昼の炎天下の街中の映像は、日傘を差した女性や襟元を緩めた男性、公園らしき風景と水不足の影響で止まった噴水など、むしろ暑さが増すようなものばかりだ。

 何日も雨が降っていない。

 断水になった都市がいくつもあげられてゆく。

 人々は、暑さに苛立ち、不安を抱えていた。

 ささくれだった心をさらに煽るかのように、最高気温が更新されて行く。


 薄型テレビの前には、古代の姿を象った彫像のような少年が、画面に見いっていた。

(人間と言うものは、時に目まぐるしく進化をする…)

 驚くよりも何よりも、感心が勝った。

 暫く湖底に引き込もっていた身としては、人間のこの著しい進化には尊敬の念すら覚えるほどだ。

 彼はこの何時間かの間に、テレビを相手に現在いまの勉強をしていた。

 神代の時代とは大きくかけ離れた現代。

 人は科学の力でもって、様々な事柄を容易く出来るようにしてきた。

 そうして、神を、自然を忘れていったのだ、と気づいた。

 なんでも出来るようになったのだ。

 馬よりも速く走る車を作り、空を飛べるようになり、地球上のどこにいてもネットと呼ばれる手段で連絡を取り合う。ほとんどの病は治すことができ、美容と称して老いからも遠ざかった。

 結果、神に祈ることは少なくなった。

 特に自然と直結した彼のような神は、人々に忘れ去られてしまったようだ。

 忘れられたことに、悲しみも怒りもなかった。

 むしろ、忘れられていくために、湖底に潜ったようなものだ。

 宮司が神社を守り、澪のような僅かな人間が祈りを捧げ続けた事に因り、この神を繋ぎ止めた。水希のように切迫した強い願いがなければ、今ここに居ることもなかっただろう。


 神は人間によって生まれる。

 人間の強い祈りや願いが、神を形造るのだ。

 火水かみを神にしたのは、太古の人間が火水を畏れ、その力を求めたからに他ならない。そうやって、畏れられ、祈られ、願われ、自分達に恩恵を、と求めた結果、火水は意識を持ち、神に成った。

 故に神は、常に人のためにった。


 それから数時間後。

 神は空を仰いでいた。

 まだ闇に落ちる前の、そら

 薄紫と、あけが混じる。

 雲はない。

 テレビの画面を思い起こす。人々は水を求めていたが、神に祈りを捧げる者はいないようだった。

 水の気配が弱い。

 深く息を吸い込み、そして、視線を湖越しの対岸に向けた。

(穢れがある)

 水希が言うところの黒いモヤが、それほど大きくはない山の中腹から漂っている。

 太陽が隠れていくにつれ、そのモヤは拡がって、山肌を黒く覆っていった。

 あの中心に彼女の叔父がいるのか。

 神はゆっくりと息を吐き出した。

 瞳を閉じて、掌を前に差し出す。

 微動だにせず、ただそのまま待った。

 ポツリ、と水滴が神の手に落ちた。

 雲は、ない。

 ポツリ、ポツリと水が落ちてくる。

 徐々に量を増やし、いつしか霧雨ほどの降りになった。

 夏の夕立特有の激しさはなく、柔らかに、包むような雨。

 慈雨じう

 対岸の黒いモヤの拡がりが、まった。

 水に濡れるのを厭うように、モヤは収縮をはじめる。

 小さな黒い点まで縮むのに、そう時間は掛からなかった。

 閉じた瞳を開け、モヤが小さくなっている事を確認する。穢れが拡がらないようにすることは出来たが、今の神には、この穢れを祓うほどの力はなかった。

 天を仰ぐ。

 星々が煌めき始めたそら

 その姿はまるで、太古の昔に星に祈りを捧げた人々の姿を思わせた。


 水の気配に池の鯉が喜び跳ねる。

 ピチャンと水音を響かせ、神の帰還を、永き時を共に過ごした同胞の喜びを分かち合う。

 優しい雨が水面を揺らし、美しい波紋が幾筋も拡がる。その中を優雅に鯉は泳いだ。

 鯉もまた、神の眷属だった。

 街が、山が、人々が、浄められて行く。

 水滴は、大気中の熱を奪い、大地を冷ます。熱病にかかった病人を癒すように。

 神が思うままに。


 夜のニュース番組のお天気コーナーの中で、「奇跡の雨」と称してこの夕方の出来事が語られた。

 傘をささず敢えて濡れたまま、時折、天を仰ぎ見る人々は、どこか柔らかな表情だった。

 それほど長い雨ではなかった。水不足の解消になるような降りでもなかった。それでも日中の熱気が嘘のように涼しくなり、過ごしやすい気温になれば人々は安らぐことが出来た。

 そして雨に感謝した。

 それは人によっては、久しぶりのものだった。


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