第34話 その5 ポケットモンスター ルビーサファイア
その女性に声をかけられたのは、ホテルのカフェで甘いコーヒーを飲んでいる時だった。
そろそろ月旅行も残りわずかとなり、単調な現実に戻りたくねえとダメな大人っぷりを見せつけてくれる桜子をなだめていると、背後から落ち着いた声で話しかけられた。
こんな月のコテージホテルで知り合いと出くわすなんて考えにくい。声の感じも冷たくて、あまり耳触りの良くないどこか棘があるようで、僕は返事なしで背後に振り返ってみた。
そこにはヨーロッパ人らしく背が高く肩幅のある女性が僕を見下ろすように立っていて、やや間を置いて、また僕の名前を抑揚もなく呼んだ。
「カンバラコータさんとナスノサクラコさん、ですね」
一目見て解った。ブリギッテの母親だ。目元が本当によく似ている。
「はい。ええと、あなたは?」
でも一応聞いてみる。
「ブリギッテがお世話になりました。聞けば、月にお住まいだそうで。よろしければ、またブリギッテと遊んでもらえればと思いまして」
そう言って、感情のこもってない頭を下げるという形だけの礼をした。そしてすぐに踵を返し、立ち去ろうとする。
「ちょ、ちょっと、それだけ?」
思わず声を上げた桜子に対し、たっぷり数秒間の間を置いてこの人はゆっくりと桜子に向き直って、とんでもないことをさらっと言ってのけたんだ。
「ブリギッテから話は聞いていると思いますが、改めて説明しますと、先ほど正式に離婚が成立しまして。ブリギッテの親権は父親にありますので、私はもうブリギッテとは何の関係もありません」
砂糖をたっぷり入れたはずのコーヒーが一気に苦くなり、どうやっても飲み込めないほど喉に何かが詰まってしまったような、そんな重い言葉だった。
翌日。ブリギッテの母親を乗せた地球行きの旅客機は音も立てずに飛び立って行った。いや、違うな。ブリギッテの元母親だ。僕にとっては本当に見ず知らずの他人だ。空港で見送る義理もない。それでも、ブリギッテが一緒に見送ってほしいと言うから、僕と桜子は見ず知らずの他人が乗る宇宙旅客機が飛ぶのを空港で眺めていた。
ブリギッテは何も言わず真っ黒い月の空を見つめ続け、やがて機影が見えなくなった頃にぽつんと一言だけ小さな声で言った。
「あたしどうしたらいいのさ」
ピンクのパーカーのフードを深くかぶり、くすんだ金髪がそこから溢れ出して、ブリギッテがいまどんな顔しているかよく見えない。
「大人になるまで我慢するしかないな」
ブリギッテが顔を上げて僕を睨むように見て言う。なんだ。泣いてる訳でもないし、しっかりと前を向いた目をしてるじゃないか。
「大人って、自分で産んだ子供を月に捨ててったり、何年も会っていないうえに夜中に窓から覗きにくるような、そんな大人になれって?」
「そんな大人にならなければいいだけだろ」
「コータくんの言う通りだと思うな。ブリギッテはまだ子供だから出来ないことがたくさんある。でも大人になれば出来るようになる。どんな大人になるかはブリギッテ次第だけど」
桜子がブリギッテの肩に手を置く。ブリギッテは少し俯いてため息を一つこぼした。
「わかってる。ごめんなさい。八つ当たりした」
「八つ当たりは子供の特権だ。どんどんやれ」
「じゃあ、八つ当たりでヤケ買いしてやる。サクラコさん、服買うの付き合ってもらえる?」
ブリギッテがパーカーのポケットから一枚のカードを取り出した。有名な会社のクレジットカードだが、気のせいか僕の持ってるのよりキラキラして見える。いや、絶対キラキラしてる。
「当座の養育費としてカードもらったの。旅行バッグ一つで放り出されたから、まずは明日着る洋服買わないと」
「いいよ。大人っぽいのコーデしてあげる」
「僕からはファミコンをプレゼントするよ。光線銃とロボットと、なんとファミリーベーシックまでつけるぞ」
「えー、マイクロソフトの次世代機が欲しい」
「VRMOゲームはまだ早いよ。子供はファミコンで遊んでろ。8ビットはいいぞー、8ビットは」
夜。と言ってもここら辺はあと十日程夜が続く。月の標準時間はグリニッジと同期してある。イギリスが夜になる頃、月も夜になる訳で。
僕は桜子と二人でベッドに転がってゲームボーイを有線で繋いで遊んでいた。ゲームはレーダーミッション。いわゆる海戦ゲームだ。二人でだらーっとだらけきって、お互いのゲームボーイの画面だけをじっと見つめて潜水艦のソナー音を頼りに無言のコミュニケーションを取っていた。
さすがに月旅行も三週間目に入ると何をするにも飽きが来る。この静かの海からわずか600kmの位置にある我が家に一旦帰って、着替えやらお土産やらを置いて来て、据置ゲーム機を持ってまたコテージに泊まるとか意味のよくわからないことになってきている。
と、ベッドに仰向けになって腕を天井に向けて伸ばしてゲームボーイをプレイしていた桜子がぴょんと跳ね起きた。
「メール」
別にどうかしたか、なんて聞いていないが、桜子はジャージのポケットからスマホを取り出して、軽く振って画像をベッドサイドの白い壁に投影させた。
「ほら、ブリギッテから」
スマホから壁に投射された画面は、桜子が斜めに横たわった状態でスマホをかざしているから画面も斜めに歪み、見にくいったらありゃしない。
「スマホ買っちゃったってさ」
ブリギッテからのメールには画像が何枚か添付されていた。数年ぶりに顔を合わせた父親とはうまくやれているんだろうか。
一枚目の画像は鏡を使った自撮りだった。最新モデルの半透明なスマホを頬に寄せて、とびっきりの笑顔でピースサインをして口元からは舌をペロリと可愛らしく出している。
「こんな子供っぽく笑える子だったんだね」
桜子がつぶやいて、次の画像をめくる。
二枚目はぴょーんと言う可愛らしい効果音がよく似合いそうな飛び跳ねているブリギッテだった。両手をウサギの耳のように頭に置いて、桜子が選んでやったファミコンカラーのミニスカートがふわりと広がっている。背景のマスドライバーで放り投げられてるようにジャンプしている。画像を撮ったのは父親だろうか。
「無理に子供っぽくしてるように見えちゃうな。どっちがほんとのブリギッテなんだろ」
とにかく大人びて、やたら頭の回転が早く、どんなゲームも遊び終えて飽きてしまったような顔をしたブリギッテと、この画像の中の笑うブリギッテは別人に思える。
「心配しなくていいよって意味で子供っぽくしてるんじゃない?」
三枚目、最後の画像は僕がプレゼントしたGBAのポケモンのゲーム画面だ。
「ジムリーダーに勝てなくて先に進めないよー、だって」
GBAが気に入ってくれたようで何よりだ。
「どこのジムリーダーだよ。って、こんなポケモンで勝てる訳がないだろ。何やってんだ?」
ポケモンルビーサファイア。本来は6体持てるのに戦闘参加ポケモンは4体のみ。それもレベルはバラバラ、ポケモンの属性もテーマ性はなく適当に捕まえたのを並べただけのように見える。
「タマザラシ、スピアーに、ケーシィとテッカニン。ブリギッテの好み? むし好きなのかな。それにしても、弱そうなのばっかり」
ふと、一枚目の笑顔の画像が思い出された。とても子供っぽく、僕の知っているブリギッテとはかけ離れた慣れていない笑顔。
そしてこのポケモン達。タマザラシ、スピアー、ケーシィ、テッカニン。これには、意味があるはずだ。
「サクラコ、このポケモンのチョイス、どう思う?」
「……あ、ちょっと、怖い」
「怖い、か」
「6体使えるのに4体しかいなくて、テーマもコンセプトもないバラバラのパーティー。私、これにメッセージが込められてるって、思い始めてる」
「メッセージって?」
「タマザラシ、スピアー、ケーシィ、テッカニン。4匹の頭文字で『タ・ス・ケ・テ』」
桜子も僕と同じ結論にたどり着いたようだ。
「サクラコ、行くぞ」
僕はベッドから跳ね起きて、いつもの黒い対静電気パーカーをひっつかんだ。
「行くって、どこに?」
「マスドライバーだ。ブリギッテの父親の職場だ」
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