第十七話:説得
『はい、柳月です。ほっとしました、電話が繋がって』
「ん、おう……」
電話の向こうから聞こえるいのりの声は、相変わらず感情の色が感じられなかった。こっちからすれば、言葉通りに受け取りにくい。本当にそう思ってんのか、と衝動的に言ってしまいそうなくらいだ。
『ラインする前にも数回お電話したのですが繋がらなかったので、心配しました』
「ああ、そりゃこくさい……」
『はい? 何でしょう』
「や、何でもない。何でもねえよ」
にもかかわらず、おかしなことにどこか安心してしまっている俺がいる。
目まぐるしく変わる状況の中だと、知っている人間と話が出来ることだけでもここまで落ち着いた気分になれるとは思わなかった。
そういえば、こいつの声を聞くのも久しぶりな気がするな。ついさっきまで、俺はこいつを含めた四人で遊園地に遊びに行っていたのに────
って、そーじゃなくて。
それより何より、どうしていのりが……?
「ってか、何でお前電話してきたんだ? 何か用なのか?」
『何でと言われますと……拓二さんが学校を無断でサボっているから何か知らないか、と桧作先輩達から訊かれたので、私からお電話したのですが』
……あー。
オーケイ、理解した。
今、こっちの時刻は午後の一時前。
確かにもうそろそろ、あの二人が不審に思う頃合いだ。日本とイギリスの時差が大体九時間だとすると、向こうは今夜の十時となる。
遊園地に遊びに行って、最後に別れてからもう丸一日が経ったというわけだ。
まあ遅すぎるくらいかもしれんが、あいつらどっか抜けてるというか、変なとこでニブチンだからな。
『一体今どこにいらっしゃるんですか? お二人とも心配していらしてますよ』
「あ、ああ……分かってる。今は────」
────イギリスにいる。
なんて、言えるわけもなく。
というかそんなこと言ったところで信じるわけがないし。いや、こいつは勝手に察しそうだから怖い。もしかしたら、言うまでもなくもう既に……。
『拓二さん?』
「……すまんいのり、今は忙しくてさ。電話してる場合じゃない」
結局、何も言わずにおいた。
いのりは今日本にいる。当然その助けは得られないし、言ったところでどうしようもない。それに、彼女をこんなところに巻き込むわけにはいかない。
俺の計画では、いのりは夕平達と過ごさなくてはいけない。
『…………』
「お前には俺からも話があるんだ。だから、また後で俺から掛け直すから」
『はい……』
おそらく、納得できないでいるだろう。
おそらく、もうとっくに俺の様子がおかしいと思っているだろう。
おそらく────もっと話したいと思っていただろう。
俺もだ。
だがあいにく、今は本当にそれどころじゃない。
「そんな心配そうにすんな。あいつらにもそう言っておいてくれ」
半分無理やり頬を持ち上げて安心させてやるように小さく笑い、意識的に声を明るくしてみせた。
果たして、そんな電話越しの努力が意味のあるものだったのかは分からない。
「……それじゃあな」
電話口から耳を離した。
離した直後、何かいのりが喋った気がしたが、敢えて無視する。
そのまま、画面上の通話終了をタップしようと指をかけ────
「……あ」
ふと、思いとどまった。
指が液晶に触れるすんでのところで、ピタリと止まる。
話をしながら、頭は別の生き物のようにずっと違う事を考えてフル回転していたらしい。
一つ、思い出したことがあった。本当に、何の気なしにふと。
それは、淡い希望だったのかもしれない。藁にも縋る心境からだったのかもしれない。
今になってよく、こんなことを思い出せたもんだ、と自分でも思う。
あれはそう、数週間前。
俺達がファミレスで一緒にムゲンループについての話し合いをしていた時の事を。桜季や夕平、暁が来る前のこと。
俺達────俺と、いのりと、〝そして細波〟。この三人で。
そして、あの時。
いのりが確かに、ムゲンループなんて信じられないものを細波に信じさせていたことを。
だったら、もしかしたら。
もしかしたら、いのりなら────あの天才なら。イギリス発の第二次世界恐慌なんて突飛なことでも、その可能性を示唆出来るのではないか。
そして上手くいけば、この場にいる彼らを上手く説き伏せられないか。
突発的な閃きで、そう思った。
「まっ待った! まだ切るな!」
慌てて口を電話を近づけて、向こうに届くように声を張った。
『はい? なんでしょうか』
幸いなことに、まだ通話を切っていなかったらしく、いのりの返事が聞こえた。
「あ……あの、さ」
『はい』
「もし、もしだぞ……」
……俺は一体、何をやろうとしてるんだろうな。
俺よりも年下の女の子に、助けを求めようとしたりして。しかも、俺が何をしてるのかも言わずに。
俺だったら。逆にいのりが俺みたいなことをしてたら、勝手なことをするなって怒るだろう。
そう思うと笑える。
まったく、自分勝手もいいとこだ。
「もし今から……イギリスで世界恐慌が勃発するって言ったら、お前は信じるか?」
目の端で、ジェウロが向き直って俺を睨んだ。
が、今は構わず続ける。
「お前の意見を聞かせてくれ。あり得るか、あり得ないか。納得できるように」
『…………』
「突然なのも、無茶苦茶言ってるのも分かってる。でも頼む。黙って俺を────助けてくれ」
虫がいいな、と自分でも思う。
でも、今こいつに頼らないと、俺はこの先に行くだけの信用を得られない。
せっかく道が見えたのに、これでは通行止めになってしまう。
俺といのりは、俺達二人だけの、この世界中を探しても、他に誰も持っていない物を持っている。
だがこのままでは、その価値を見出してもらえない。俺一人では、それも叶わない。
でも俺達が揃うことで、必ずそれは光る。そのはずだ。
これは、言い過ぎでも過大評価でもない。
間違いなく、俺がここまで来たことを無駄にするかどうかは────いのりの手に掛かっている。
『……これは、私の独り言です』
やがて、彼女は緩慢に言葉を紡ぐ。
ゆっくりと、その優れた頭脳で練り出された思考を、言葉という曖昧な手段で形を作っていく。
『……ですから、例え拓二さんが今からこの電話をスピーカーモードにしてどこか遠くの誰かに聞かせたところで、私には関与の出来ないことです。そして、私は今たまたま英語の勉強中でしたので、そのチェックも兼ねて英語でお話します。それを踏まえて、よろしいでしょうか?』
「あっ、ああ……」
こいつ……全部分かって言ってやがる。こんな唐突過ぎる話を聞いて、それでも状況把握が充実している。
こっちの状況────ここが英語圏内ないしイギリスであること、及びこの場に俺以外の誰かがいるということを既に見透かしてやがる。
そして、自分いのりの意見でその場の人間を説得させようとしている俺の意図も全て。
「それでいい。少し待ってろ、いのり」
思わず、乾いた笑みを浮かべそうだった。
一すら聞いてないのに、十を知るような奴だ、こいつは。改めて、とんでもない。
俺を見る三人を見返しつつ、スマホをテーブルの真ん中に置いた。
音を拾うマイクは、手で覆う。
『……今から、俺の仲間が第二次世界恐慌の可能性について語ります。名はイノリ・リュウゲツ。日本人です。身元は俺が保証します。電話越しで失礼ながら、彼女の話をお聞きください』
『くどいっ、そんなもの信じるわけが────!』
『まあまあ、ジェウロ』
唾を飛ばさん勢いでまくし立てようとしたジェウロを、ボルドマンは諌める。
『まだ話があるというのなら、それだけでも聞こうじゃないか。私も頭を下げた手前、そして息子が呼び出した客人である以上、すぐに追い払うのも野暮というものだよ。マフィアとはいえ、イギリス人のすることじゃない』
助けられた、と思う前に、『だが』と言って彼は釘をさすようにこう続けた。
『これはある種の、「信用の前貸し」だよ。君は今、ジョークで済ませられる領域を踏み超えようとしている。我々は本気でその話を聞く。だけどもし、君の信頼する者の話が我々の納得いかない事だったり、嘘だとはっきり分かってしまった場合……君を情報攪乱としてのスパイとみなし、相応のペナルティを受けてもらう。今からの君の立場は、本当われわれがわか嘘こうさくいんかしかない。いいね?』
『……了解、ミスター』
俺は、マイクから手を離し、その通話をスピーカーモードにして、再度彼らを一瞥した。
エレンは動かしていた口を止め、面白い話が聞けるかもしれないという期待からか画面先を見透かそうとせんばかりに見入っている。ジェウロは突っ立ったまま腕を組み、そしてボルドマンは、音楽でも聞くかのように静かに目を閉じた。
背筋に冷や汗が流れる。
彼の警告は、嘘じゃない。下手をすれば本気で、俺を始末しようとするだろう。
もしそうなったとして、俺はその組織の人間の手をかいくぐれるか? 俺はこの街一押しの店すら知らない。こんなことならイギリスにも何度か来ておけばよかった。
スマホの画面を見た。信頼する人間に向けて、思いを託すような思いで。
俺は、エレンに話をしてその信頼を得た。今度は、いのりの話が、ジェウロに、ボルドマンに受け入れられるかどうかだ。
俺はまだ、ここで死ぬわけにはいかない。
だが、今出来ることは全部やった。だからもういい。自分で言った事じゃないか、やれることをやって死ねるならそれでいいと。
もしいのりがやって駄目なら、俺はそれまでだったということだ。
『……いいぞ。話してくれ』
『はい、分かりますた』
いのりの英語は、発音やイントネーションがそれこそ現地の人間ならば違和感こそあれ、方言の訛りでくくられる範疇という感じで、聞き取れないわけでもなかった。
……何だか間抜けに聞こえるが、仕方ない。普通に話せるだけ大したものだと思うべきだ。
『そもそもの話、世界恐慌には厳密な定義は存在しますん。失業率の増加や株価の低落から見る分析・定義付けは、所詮結果ありきのものどすから』
そんな彼女の言葉は、こんな前置きから始まった。
『そんでも敢えて、「世界恐慌が千九百二十九年のそれと同規模以上の世界的不況である」と強引に仮定すっと……イギリス発の第二次世界恐慌は現実味が薄いと思います』
『えっ』
『えっ』
『えっ』
「えっ」
『えっ』
この場にいる全員が、何が起こったのか分からないというような声を上げた。
…………。
…………。
時が、止まったかのようだった。
『……うん、アイカワくん。君は……一体何がしたかったのかな?』
俺がいのりの言葉の意味を呑み込もうとする前に、まずボルドマンが呟いた。
彼でさえも、どこか呆れ気味のように見えた。
『……ふん。くだらん茶番だ』
『……ああー、まあそうだね。少しあっけない気もするけど、決まりだ。結論は出たということで、よろしいかな?』
『まっ、待った待った! 待ってくださいお願いします!』
まだ最悪を考えた上での逃げる準備も出来てないのにこれはまずい。
慌てて、向こうにいるいのりに向けて叫んだ。
『おいいのり! 本当にあり得ないのか!?』
いのりが英語を間違えたのか、と思った。というかそう思いたい。
もし本当に、いのりが第二次世界恐慌が起こりえないと言うのであれば、ここで詰みだ。
まさかの裏切り……とは言えない。俺はただ彼女の意見を求めただけ。どう思うか聞いただけだ。状況の多くを説明して、説き伏せろと直接言ったわけではない。
俺からそう頼んだ以上、いのりを糾弾するのは間違ってる。のだが、俺は命が掛かってる。せめてその可能性だけでも提案してもらわないと困るのだ。
『…………』
『……いや、すまん。無茶言いすぎた。確かに普通あり得ない事だと思うさ……でも、もうちょい考えてくれると助かるっつうか……!』
それに、確かに俺は世界恐慌が起きた世界を見た。それは紛れもない事実だ。
それをあり得ないと言うのであれば、俺が見たものは一体何だったのか。まさか本当に幻だったというのか?
『……「我々が予測するものが起こることは滅多にない。しかし、我々がほとんど期待もしない事態がしばしば発生する」』
『え?』
すると突然、いのりがそんな言葉を口にした。
どっかの偉人の名言集だとかに載っていそうだな、と思っているとそのまま声が続く。
『ベンジャミン=ディズレーリっちゅう、元イギリス首相の言葉どす。確かに、世界恐慌ゆうのは私達の観点からすれば考えにくいかもすれません。あまりに規模が大きすぎて、滅多に起こらないものと思われるかもすれません。私だって、そうどすから』
ですが、と言い置いてから大きく間を取った。
『ですがそれは、何時の時だってそうですた。何時の時だって、人々の想定外で経済危機は起きてきた』
そして、きっぱりとそう言い切った。
この時、確信した。
やはりいのりは、俺を助けようとしている。自分の考えも無理やり切り捨てて、万一の可能性を強引とさえ言えるくらいに持ち上げているようだった。
『例えば、かの暗黒の木曜日が起こることを、当時誰も予期出来ていねかった〝 どすし、例えばリーマンブラザーズの倒産によって、世界は突発的なパニックに陥りますた。それを見越していた人も、少なからずいたにも関わらず』
『それは、極論だ』
と、ついにそこでジェウロが口を挟んできた。
聞き捨てならないと思ったのか、それともこのまま聞き入ってしまうのは差し障りがあると思ったのか。
『今は当時と違う。今はそういう過去・経験から学んだ知恵がある。経済は依然より進歩した』
『いいえ。経済ほど進歩しない分野はありますん。何故なら経済は、刹那的に「流される」人々によって繰り返されるものどすから』
『何だと……?』
何にせよ、いのりの話はあながち呆れられ黙殺されるようなものじゃないようだ。
話の要点が整理されて分かりやすいのもあるが、単純に話の持って行き方が上手い。今考えた付け焼き刃の話とは思えないくらい、筋が通っていた。
これで話す内容に応じた感情の強弱さえつければ、多分俺よりも話術に富んでいるんじゃないのか?
『世界恐慌からおよそ八十年経った結果である今が、いい例どす。世界恐慌、リーマンショック……どちらの金融危機にも、共通した原因の一つには、何時だって世界という人類の大多数による将来への楽観的な見通しがありますた。現在人間の想定内というものは、総じて希望的なものが多いものどす。人間的で良い事でもありますが……』
彼女の言葉は続く。
『株価の暴落というものは、「そうなる前」の株価の上昇による過度の楽観主義の蔓延が一つの条件と言われています。ですが私は、「そうなる前」の慢性的な不景気による楽観主義の蔓延も条件ではないか、と個人的に思っています』
『……ふむ』
『「今が不況だから、これ以上酷い事は起こらない」、「不景気なのは今だけ、将来は好景気になる日が来るだろう」……どうでしょう。今のイギリスを表す言葉ではないでしょうか』
それに答える言葉は無い。
『近年の欧州全般の金融不安も、金融の中心地であるイギリスにはかなりの懸念事項でしょう。加えて、先程述べたリーマンショックの影響によるポンド安、イギリス四大金融機関であるRBSやバークレイズ銀行の株価の下落など……イギリスが今とても重要な信用をその手から取りこぼしているのも事実どす』
『信用……? 一体何の────』
『群集心理、というやつかな。お嬢さん』
ジェウロの言葉に重ねて、それまで聞き入っていたボルドマンが尋ねた。
そして何故か────俺に向けてウインクを飛ばした、ように見えた。
『その通りです。経済は常に、世俗への依存性を有してきますた。経済を動かしてきたのは政治家の力でもお金持ちのお金でもねえ、世界中の人々の動きそのものどす』
電話の向こうで、見えないこちらに演技するかのように大きく頷くいのりが目に浮かぶ。
『経済は、人間が作り上げたものどす。当然、完全でもなければ、絶対的でも無え。そちらの事件で例えれば、噂一つで二百万ポンド(五千億円)が動いたノーザン・ロック銀行での取り付け騒ぎがまさにそうどす。群集心理────人の心証一つで、経済というのは簡単に「ブレる」ものどすから』
『…………』
『────バタフライエフェクト。蝶の羽ばたきが気候の変動に影響するという理論どすが、これは決して、経済においても関係のないことではねえどす。国と国との関わりが過去最大に密接な現代だからこそ、一個人の些細な出来事が、世界規模の重大な出来事になり替わることも十分あり得ます。どこの国であろうと、そうした危険性はごく小さな可能性で語ることが出来ても、全部を否定できるものではありますん。例え考えにくいと言っても、ゼロパーセントじゃないのです』
……誰も何も言わない。
ジェウロとボルドマンは、いのりの話を脳内で噛み砕いているのか、神妙な面持ちで黙りこくっていた。
ふと、裾を引っ張られる。
エレンだ。いつの間にか、俺のそばまで来ていたらしい。俺を仰ぎ見て、小さく笑った。
どうして今エレンが笑いかけてきたのか分からなかったが、その頭に、ぽんと手を置いた。
『……以上の事を考慮すると、万が一にでも、最悪の事態が起こるための小さな布石が既にイギリスで仕上がりつつあるのかもしれ〝ねえ〟です。後は少し指で押すだけで崩れ去るような、ぎりぎり一杯の飽和状態を抱えているのかもしれねえ。そう考えると、その世界恐慌の発端がイギリスだという予測にも、納得出来るものが無いというわけではありますん。いくら私達が世界恐慌が起こりえないと言ったところで、その可能性はゼロにはなりえませんし、その将来的有無の議論は結局水掛け論にすぎないのですから。……ですが』
そして、いつものように、いのりが指をぴっと突っ立てたような、確信めいた予感がした。
……だから、電話越しじゃ見えないっての。
『「経済学の世界では、決まって多数派が間違える」……ジョン・ケネス・ガルブレイスという経済学者の言葉どす。拓二さんの言葉をあり得ないデマと受け取るか……それとも、私達含め世界中の人々の楽観的『想定内』────その範囲外を予期した貴重な少数意見と判断するかは……皆さん次第どす』
『……世界恐慌が起こらない、という確証はどこにもないというのは分かった』
ジェウロだった。
いのりの熱の無い熱弁によって生まれた沈黙を崩そうとするかのように、彼はもっともな反論をする。
『だが、それだけだ。この話には具体的な根拠を示せてはいない。スカスカの机上の空論だ』
『…………』
『それはつまり、お前が話したのはただの理屈であって、実際どのようなことが起これば世界恐慌を引き起こすのかを示せていないということなのだ。それではなんの説得にもなっていない。そうではないと言うのなら、何か言ってみるがいい。聞いてやる』
『…………』
……いのりは、出来る限りのことをやってくれた。掛け値なしに俺はそう思った。
俺の言う無茶苦茶な出来事を、精一杯肯定し、考えうる一番効果的な喚起として形にしてくれた。
まるで本当にこの場にいるかのように、俺の求める物を何も訊かずに汲んでくれた。
そしてこの瞬間────俺はいのりに話をさせて本当に良かったと思った。
いのりに任せて正しかったと思えた。
これでいい。これでいいんだ。
ほんのわずかな可能性を、迫りくる脅威として彼らに錯覚させた。それも、下手な嘘やハッタリを使わなかったのはでかい。
乱暴な言い方をすれば、最高の最低限だ。
『それは────』
求めたのは、『誘導』。
いのりが起こりうる可能性を指摘することで、話題は自然とその先に行く。
『具体的な世界恐慌の可能性』。
つまり、第二次世界恐慌が起こる条件について。
そう、これでいい。パスは確かに繋がった。
こうなることを、待っていた。
ジェウロは、ここでようやくこの話に興味を持った。話すら聞かないというスタンスを、いのりの話につられて自分で取っ払ってしまったのだ。
先程は、話をする前に戯言だと切り捨てられた俺が、口を出す機会が回ってくるチャンスが来た。
俺の話が、可能性のある話として聞き入れてもらえる時が来た。
『それは、私なんかよりも────拓二さんの方が詳しいかと存じます。そうでしょう、拓二さん?』
そこを話すのは、いのりじゃない。
ここから先は、俺次第だ。
『……そうだな。俺が知ってるのは、これから確かに起こる事と、その前に起こっていたことだけだ。それでいいなら』
ジェウロが、そこで初めてはっと我に返ったように息を呑んだ。しまった、と言わんばかりだ。
『まっ、待て! アイカワ、貴様に訊いているのでは……!』
『どうしてですか? ジェウロさん。聞きたいと言ったのは、アナタでしょう? ────だったらお教えしますよ、現実味のある具体的な世界恐慌の引き金について』
『ふざけっ────』
『ほっほっほ!』
その時、ボルドマンが大きな笑い声を上げた。思わず、俺とジェウロが彼に振り返る。
どこか嬉しそうに、その顔は明るい。ジェウロを出し抜いた俺達を、微笑ましく見ているかのようだった。
『ジェウロや……君の負けだよ』
そして、何を思ったのか俺達に助け舟を出すかのように、彼はそう言った。
『頭目! ですが────』
『私の耳にも、確かに君の口から話を聞きたいと言っているように聞こえたが……それとも、それは年寄りの幻聴かな?』
『ぐっ……!』
苦虫を噛み潰したような顔を作るジェウロに、ボルドマンは続けて言う。
『二人に、うっかり乗せられたようだねえ。君は確かに怒りを抑えられるようになってきたが、自分を出し過ぎる。頭を冷やして、一旦席を立ちなさい。ここからの話は私が聞こう。息子と────マクシミリアンと今すぐ連絡を取るのだ。いいね?』
『っ! それはまだ危険です、頭目! ぜひ私をそばに────』
『聞こえなかったかね。「席を」、「立て」。以上だ』
その一瞬、ボルドマンの目が鋭く細まった。
彼の瞳の奥深くに、ぎらりと剣呑な光が掠めた。
その瞬時の変貌は────確かにジェウロのように、この世界で生きる者の姿だった。
『…………』
その光に当てられたかのように、ジェウロは唇をわなわなと震えさせ、身をひるがえしてこの場から遠ざかって行った。
何も言わず、電話を取り出しどこかに掛ける。
その立ち去りざまに、ジェウロが明らかな敵意と怒気を込めた目でほんのわずかな時間、俺を睨んでいった。
ジェウロが声の届かないほどに遠ざかって行った頃、見計らったかのようにボルドマンが肩をすくめた。
『やれやれ、しょうのない。アイカワくん、許してやっておくれ。これでも以前と比べて相当丸くなった方だからね。以前ならもう既に君はそこの床に転がっていただろうねえ、血まみれで』
『は、はあ……』
実に笑えない。
『それにしても、いくら油断していたとはいえあのジェウロをやり込めるとはねえ……昔よりは、性根を鍛えてやったんだが』
呆れるようにため息を溢し、ボルドマンはこう言う。
『それにしても、電話の向こうの賢いお嬢さん。君はまるで、最初からここにずっといたかのようだった。素晴らしい話し振りだったね』
『ありがとうごぜえます』
『ほっほっほ、まだ英語は少し不慣れかな? ご苦労様だったねえ』
さっきまでの真剣な面持ちとは打って変わって、にこやかに続ける。
『いやあ、本当によくここまで話を持ってこれたものだよ。二人とも、ありがとう』
『ちょっ、ちょっと待ってくださいっ』
その彼の優しい口調に、思わず声を上げてしまった。
色々と違和感があった。というか、ずっと違和感を覚えていた。それが今はっきりと噴き出した。
まず少なくとも、こっちにありがとうと言われる筋合いはない。俺達は自分の部下の面子を潰したというのに。それはつまり、ボスであるマクシミリアンやボルドマンにも喜ばしくないことのはずだ。
それに、いくらなんでもあっさりしすぎてないか? ジェウロに負けを告げた時もそう、それ以前にいのりの話をじっと聞いていたのもそうだ。その気になればなんとでもなるはずなのに、それを何もしない。
ただただ、彼は俺達の流れを断ち切らなかった。黙って話を促したりもしていた。
それはまるで、こうなることを望んでいたとでもいうかのような態度のように俺には見えていた。
だが、俺のそういう心境を読んだのか、ボルドマンは小さく顔をほころばせてこう告げた。
『ほっほっほ。驚くことは無いさ。私は、最初から君の言うことを否定していたわけじゃないよ』
『なっ、で、でも……! だったら、俺の話をありえないと言ったのは……』
『まずありえない、と言っただけ。お嬢さんも言っていたことじゃないか、「我々が予測するものが起こることは滅多にない」と。……おっと、今からの話はオフレコと言うことで、ジェウロにも誰にもあまり話さないようにね』
そして、また目の前の老人は様になるウインクをした。
そう、『また』だ。彼はいのりの話の中でも、一度俺に同じウインクを飛ばしていた。
今の俺を言い表すのには、唖然、という言葉が相応しいだろう。何も言えず、文字通り口を開けていた。
信じがたい事だが、つまり……。
『お祖父様ったら、人が悪いよね。最初から、お兄様の言うことを助けようとしていたのに、あんな言い方しちゃって』
くすくす、とエレンが可笑しそうに笑う。
『おお、エレンや。そう言わんでおくれ。私にもそれなりの体裁があってね。部下ジェウロが見ている以上、あまりうかつなことは言えなかったんだよ。年寄りの惚けと思われてしまうからね』
こ、このジジイ……!
つまりこいつは最初から、俺の言葉を疑っておらず、いのりの話の意図は承知の上だったというのだ。
まさに、手のひらの上。この人がその気になれば……と思うとぞっとしない。
『一体どうやってジェウロをアイカワ君自身の手で納得させようと考えていたところへ、まさか君が電話でミス・リュウゲツの話で我々を説き伏せさせるとは思わなかったよ。思わず見守っていたが、いやはや見事だった。自分自身すら任せたアイカワ君のミス・リュウゲツへの信頼と、言葉少なにアイカワ君の望むことを理解していたミス・リュウゲツはなにより賞賛に値する。合格点だ。君達は、とてもお互いを信じ合っている、良好なパートナーのようだ』
何をいけしゃあしゃあと。こちらはまたしても死にかけたというのに。
だが恐らく、本心からの言葉なのだろう。そう思いたい。
だがあの『脅し』の言葉も、『信用の前貸し』という表現にも、嘘は無いように思える。下手を打てば『処理』されていたのも間違いないはずだ。
どれが本心なのか、ボルドマン自身が何をしているわけでもないのに、煙に巻かれているような気がする。
やはり彼は、マクシミリアンの親だ。むしろそれ以上に、『食えない』。
これ以上なく褒められているのだろうが、何もかもお見通しだったと思うと、あまり手放しで喜べなかった。
『まあとにかく、これで問題はないわけだね。少し回り道をしたが、話を戻そうか』
『あ、あの……』
だが、それでもまだ気にかかることがあった。納得できない、と言った方が近いかもしれない。
よせばいいのに、思わず問いが口を衝いて出ていた。
『うん? なんだい?』
『……どうして貴方は、そこまでして俺を助けてくれるんです? 貴方は明らかに、俺に肩入れしている。し過ぎてるくらいだ。これが初対面だというのに……』
『それは簡単さ。「マクシミリアンの客人だから」。これに尽きる。……君はこの意味をあまりよく理解してはいないようだがね』
ボルドマンが、俺を見据える。
『他がどうかは知らない。興味もない。だが我がファミリーは、他の何よりも義を最優先し、義を尊ぶ。それが最低限の礼儀マナーだ。息子の客人なら、私の客人。息子が君を信じたのなら、私もそれを信じる。それ以上の理由はいらないものなんだよ。……ま、流石に組織全体の調和を乱すほどの事は出来ないけれどね』
そう言う彼は、何の悪びれも翳りもなく、にこやかに笑みを浮かべていた。
『だから私は、日本の「ブシドー」や「ニンキョー」が大好きでね。よくそういう映画を好んで見ているよ』
また話が逸れたね、と笑って、皺の多い手が俺のスマホを指さした。
『さて、ここまで言っておいて申し訳ないが、ミス・リュウゲツとはここまでだよ。彼女は今回の件には無関係だろう? 機密保持のために、ご協力をお願いするよ』
『ああ、はい。分かりました』
スマホを手に取る。スピーカーモードをオフにして、耳に当てた。
少し席を立ってもいいか訊いて、ボルドマンが了承したので、近くのトイレ付近まで離れていった。
◆◆◆
「……ってことだ、いのり。聞いてたか?」
少し向こうのトイレの前の壁にもたれかかるようにして、いのりに喋りかけた。
ここからだと、ボルドマンとエレンの姿は見えない。もしかしたら今頃、入れ違いでジェウロは戻ってきているかもしれない。
そして、ここなら電話の会話が彼らにも聞かれることはもちろん、見られることも出来ない。人でにぎわっているから、盗聴も心配ないだろう。
『はい』
ボルドマンに言われるまでもない。
俺だって、これ以上はいのりには関わらせる気は無かった。これでも、かなりの綱渡りをしていたと思う。
もうこれ以上は────『こっちの話』に巻き込みたくはなかった。
いのりには、たった今から俺とは別の使命があるからだ。
「なんだかんだ、お前のおかげで上手く行きそうだ。ありがとな」
『いえ、お役に立てたのなら』
これ以上英語である必要もないし、日本語でそう訊いた。
いのりも不自然な英語を止め、すぐに日本語に戻す。
「んで、助けてもらったところすまんが、そろそろ電話切るぞ。夕平達には心配すんなって伝えといてくれ。いいな」
『はい、分かりました。ですが、残念です……もっと拓二さんとお話ししていたかったのですが』
またこいつは、こういうことを言う。
遠距離恋愛中の恋人か。
「はははおれもだよー」
『……何だか棒読みっぽくないですか?』
お前に言われたくはねえ。
「それと……」
『はい』
「…………」
その時少し、言葉に詰まった。
どうしようか、言うべきなんだろうか。
助けてもらっといて、さらに押し付けるような真似して。いいんだろうか。
『……?』
……何を気にしてるんだか。今更、いのりを利用することを躊躇うなんて。
無意味な良心は捨てろ。遠慮してたらこっちが食われる。
そう、あのボルドマンだって、こいつの事を高く認めていた。
ひっくり返せば、敵に回せばこれほど厄介なヤツもいないということだ。
以前言った通り、俺といのりには、ムゲンループの考え方にはっきりとした相違がある。いのりがムゲンループからの脱出しようとしているのとは真逆に、俺がムゲンループに生き続けようとしているという点。こいつの事だ、その事に何時かは必ず気付く。
それを巡って、桜季とは別に俺といのりが敵対する日が来るのかもしれない。
いつか、こうして助けてもらう事や、話せなくなる時が来るのかもしれない。
なら、だったら、構うな。味方のうちに、こいつは使えるうちに利用しきっておかないと。
「それと────千夜川桜季には、気を付けろ」
俺は所詮、俺のためにしか動けない。自分勝手な人間だ。
気の利いた前置きだとか、気を遣うようなそんな余裕は俺には無かった。
『え……』
「お前なら、俺の言ってる意味がすぐに分かるはずだ。金はいくらでも出せるから、細波さんを使ってもいい。ただ千夜川は、俺達の共謀を見通してる。何とか気取られることなく、あいつを監視してくれ。……俺の代わりに」
『千夜川先輩を……』
「俺は、俺のやるべきことをやる。しばらく帰れない」
『信頼できるパートナー』、か。
ああそうだ。間違いない。俺達は最高だ。最高のコンビだ。今日のやり取りで確信した。
それもそうだ。いのりは、考え方は違えど信頼できる俺の『手足』なのだから。
いのりなら、俺の代わりに、『三週目の時の俺』を正確にこなしてくれる。間違いなく俺そのものを務めてくれる。
夕平達へも、何とか上手くフォローしてくれるだろう。
今までいのりを夕平達と仲良くさせたのも、こうなった時のためにある。
俺の代替となるために。彼らの様子を見守る役割を担わせるために。
安心して、夕平達あとを任せられる。
そして俺は、こうしてイギリスここにいることが出来る。
あのバッドエンドを捻じ曲げるために。
俺達はお互いに、ここで違う道を行く。
「後は任せた────相棒」
万感の思いを込めて、通話を断ち切った。じっと既に通話画面から切り替わったスマホを見る。
言いたいことは全て言った。好き勝手言いすぎたくらいだ。
やれることもやった。もう後はこっち次第だ。
だから、大丈夫だ。
ぐっとスマホを握りしめる。
次にいのりと会う時は、次にいのりと会話する時は。
────おそらく最終決戦の目前その時だ。
しばらく、その場に佇んでいた。何も考えず、何も動かなかった。
やがて思い出したかのようにスマホの電源を切り、メモリを抜き取った後近くにあったゴミ箱にあっさりと投げ捨てた。
◆◆◆
だが、この時。
この時にはもう。
既に、始まっていた。終わりの幕カタストロフは、とっくに上がっていた。
誰もその事に、その時が来るまで気付けなかった。
第二次世界恐慌の前触れが。
数十年と世界を繰り返してきた俺に幻とまで言わしめる、欧州破滅への第一歩が。
再び、牙を剥こうとしていた。
このままでは、もう桜季どころの話じゃない。もう力を借りるどころじゃない。
俺の計画が、三週目を変えるために動いてきた意味が、全て、全て無くなる。
紛れもない世界の危機であり────ひいては、俺達の危機だ。
伝染恐慌。
そのウイルスは、既にばらまかれてようとしていた。イギリスは既に、病に侵されつつあったのだ。
俺達は、甘かった。誰一人として、事が起こるまで感知できなかったのだから。
のんびりお喋りをして、無益な諍いをして余裕ぶっていたのだから。一度経験のある俺でさえ、その脅威を忘れていた。
もっと早く、話しておけばよかった。無理やりにでも、話をすればよかった――――というのは後の祭りだ。もう遅い。
いや、しかし一人。
一人だけ、その事に気付けた者がいた。ボルドマンの言う第二次世界恐慌に『心当たり』がある人間が、一人だけいた。
そう、『いた』のだ。
その時までは、確かに。
俺に同調する――――『彼』が。
『────マクシミリアンが……私の息子が乗っていた車が、突如重装備の集団に襲撃されたらしい。詳細はまだ不明だが……息子も命にかかわる重体だそうだ』
────今となってはもう、その真意は測りようが無い。
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