第百二十二話:交差する運命の上で。

 これは本来、起こり得ない世界の出来事だった。

 

 例えば、相川拓二がイギリスに行かなければ。

 例えば、千夜川桜季が死ななければ。

 例えば、尾崎琴羽が立花暁を殺さなければ。


 こんな日が訪れることはなかった。


 あたかも最初から示し合わせていたかのような運命の分岐を経て、『今』がある。

 彼ら主要人物達は、複雑に絡みついた糸と糸だ。糸同士は交差しながら、その毛先はみっともなくとっ散らかっている。


 この場にはほくそ笑む者もいれば、慌てる者もいる。踊る者と、踊らされる者もいる。

 むしろ、それ以外にいない。

 グーバも、マクシミリアンも、拓二も、祈も、ビリーも、夕平も。

 ここに演者はいても、脚本家はいない。世に言う正義と悪の相関、主人公(ヒーロー)とその黒幕なんて存在しない。


 ここにいるのは、裏で引っ込んで、何もかも分かった気になってニタニタ笑う者ばかりだ。どいつもこいつも『それでも僕は違う』とのたまうばかりの、救えない者同士の茶番アドリブ劇。


 真の意味で、誰もこの日を手引きする者などいないのだ。

 真の意味で、この三月三十一日の全てを知る者など、この世に存在しないのだ。


 船頭多くして船山に登る、という言葉がある。

 その言葉はまさにその通りで、だからこそ、こんな歪な物語が臆面もなく綴られる。



 正午をとうに過ぎ、日本は昼の目を見る時間となった。

 三月三十一日は、まだ終わらない。



◆◆◆



「Rock-a-bye baby, on the treetop,When the wind blows, the cradle will rock……♪」


 少女は、異国の地に荷物を引っ提げ、歌っていた。

 まるで歳幼い乙女のように、不思議そうに見てくる通行人にも構わず。


 それは昔、よく友人と歌っていた謡曲で、一緒に歌うようせびっては困らせた記憶がある。


 今はもう失われてしまった、楽しかった幼い頃の記憶。

 自分をここに立たせてくれる、歩みを促してくれる魔法の歌に縋らなくてはやってられなかった。


 それに揺り動かされたのか、まるで酔ってるかのような挙動で、リズミカルにその身体が拍子を取っていた。


「あ……っ!」


 歩きながらで、それがいけなかったのだろう。

 通り過ぎるカップルの女の方に、カバンが強めにぶつかった。少女は上の空で、それに気付かない。


「いったーい! ねえタッくん今ぶつかられた〜!」

「あん? んだよガイジンじゃん。ンどくせぇ……」


 男も女も見るからにガラが悪く、直線的な思考だけで生きていそうな出で立ちであった。


「オイ、ぶつかっといて誤りも無しかよ外国人!」

「きゃー、タッくんかっこい〜!」


 もっとも、非が少女の不注意にあるのは間違いのない事なので、相手が外国人とは言え正当性を得たと、強気に怒鳴り散らした。

 そしてその威勢を喜ぶ女。正当性こそ向こうにあるが、あまり好ましくない雰囲気だった。


「……taku……?」


 少女は、ピタリと立ち止まった。

 男の発する日本語の意味は、ほとんど分からなかった。

 しかし────今の彼女の耳に留まる響きがあって、振り返った。


『…………』


 カップルらと目が合い、そして深々と嘆息する。


 その表に出た態度は、男の怒気に油を注いだ。

 女がいる手前、半分惰性で脅かしてやるだけのつもりが、感情がその制御域からブレた。

 言ってしまえば、ムカついたのだ。


「んだよぉガンくれやがって、おい聞いてんのかよ!」


 ズンズンと大股で歩み寄り、荒々しくその肩を掴んだ。

 しかしそれは次の瞬間、後悔することとなる。


 ────


「ぎゃっ!?」


 ジャストヒットした一撃に、男は悶絶した。

 襲い来る衝撃は、膝を付かせるほどのえげつないものだった。


 連れの女が悲鳴をあげる。少女は唾を吐き捨て、身を翻した。

 その甲高いヒス声が追い縋るようにして背中にぶつかってくるが、もはや少女は聞く耳を持たず今度こそ歩き去ってしまった。


 面倒から逃げようと足早だったのは、その場から遠ざかると、やがて速度を落とした。

 足を止める。追いかけて来るようなこともないらしい。別にどうでもよかったが。


 改めて、内に篭った熱を散らすように、息を吐いた。


『スゥ、ハアー……大丈夫、大丈夫……あたしの頭はまだお釈迦になってないわ。あたしは冷静。冷静よ、だってあたし怒ってないもの、そうでしょギル?』


 そう言って、異国の少女────メリー=ランスロットは、己の唯一の心の拠り所に向けて言い聞かせるように自問した。


 そんなメリーの風貌と言ったら、彼女を知る者からしたら痛々しく見るに堪えないもので、そのブロンドの髪は乱れ、隈ができ、目が落ち窪んでいる。

 普段は気を配る化粧も忘れ、元来の吹き出物はほったらかしてしまっていた。


 その普段との差異は、一つ一つこそ注視しなければ微々たるものかもしれない。

 しかしそれらは全て、メリー自身が錯綜し、心の擦り切れている様をありありと物語っていた。


 彼女が信じていた、一人の少年の裏切り。

 彼女に与えられた絶望の値がどれだけのものか、それをありありと物語っていた。


『……ん、なんだか賑やかね……パレードかなんかやってんのかしら』


 自失を極めたメリーが、吸い込まれるようにして『それ』に気付いたのは、ある意味自明の理と言えたのかもしれない。


 視界の奥、離れた交差点の信号手前が、物々しい音楽とクラクションの大混雑を催していた。

 少なくともパレード、という感じではない。

 或いはストかもしれない。イギリスなら稀にあることだと、メリーは妙に得心した。


 そこで起こっていることが────パレードやストなどよりも深刻な事態であることを知らずに。


『チケットくれた奴も、あれから連絡まったく寄越さないし……アテもないし行ってみようかしら』


 もはや投げやりとも思える様子で、一歩、ブラリと危険に赴こうとするメリーに────



「へ、ヘイ! ストップ!」



 背後から、メリーのその手ががしっと取られ、


「え、えー……ど、ドント、ゴーゼア!」

「……huh?」


 青ひげのやや広く、気っ風の良さげな日本人の男────細波享介が、下手くそな英語でメリーを引き止めた。



◆◆◆



 そんなメリー達から遠巻きに見える、件の交差点手前に視点は移る。

 我が物顔に闊歩する街宣車と、その迷惑を訴える車が小競り合うその中心に、彼らはいた。


『おい!! どういうつもりだ! なんだこれは!』

『おっと、余計なことはしない方がいいぜ。この車を蜂の巣にされたくなきゃな』


 そんな中、清道、祈、モニカおよびその部下を乗せた車内で、悶着は続いていた。

 街宣車から降りた男数人がこの車外を取り囲んでいて、憔悴の浮かぶ声でモニカが叫び散らす。が、対して清道はもはや自分の優位を確信してか、余裕たっぷりだ。

 彼には、余裕に振る舞うだけの理由があるからだ。


『お前らに求めることは二つ。一つはこのまま無事に俺たちを解放すること』


 前座席のモニカに見せつけるように、清道はずいと指を突っ立てる。


 その仕草、そして態度。既に今の清道は、今の彼の肩書きを一代で築き上げたその技量を発揮していた。

 相手を圧し、高みに立ち、主導権を握る。

 これが、その道のプロの本気。祈が持っていない、祈には足りないと言われてきたものの真髄は、例え商取引でなくとも通用するのだ。


『もう一つは、テメエらの大将の居場所を吐くことだ。そいつに俺は借りがある』


 最初から清道は、これが目的だったのだ。

 彼が大宮清道かれじしんを賭け、この状況とりひき────自分の土俵に持ち込むことこそが。

 度胸と自信の足る清道ならではの手段であった。


『天下の大宮舐め腐ったこと、死ぬ程後悔させてやんよ。オラとっとと動けや三下共ォ』

『くっ……!!』


 窓ガラスに、ヒビが入った。

 取り巻きの一人が、持ち合わせた鈍器で叩いたようだ。


 囲まれたモニカ達は、もう逃げられない。増え続けた応援は、前後左右、果ては交差点向こうの対向車線にも逃げ道を塞いだからだ。

 清道達を人質に取っても、車の内外を挟む程度のこの距離では、悪あがきにもならない

 つまりこうなった時点で、既に詰んでいるのだ。


 それが分かっているから、清道も答えを急かす。

 今の彼の目的は、助かることではない。情報を得ることなのだ。


『一分一秒の交通がどんだけ経済を左右するか知らねえのか? 何時までもこんな大通り通せんぼしてちゃ悪いだろーが。ホレ動けよ、でないと────』


 そうして彼にとって有利な展開が続いていた────が、それは全て次の瞬間に無為に帰した。



 それは、突発的な事故。

 タイヤが滑る、激しいブレーキ音。

 つんざく衝突音。



 ────突如として交差点に突っ込んでいった一台の鉄塊が、この場の全てを掻っ攫った。



◆◆◆



『な、何だ……!? 事故……!?』


 空々しく音響が続く中、そこでは群衆・野次馬のどよめきが伝播していた。

 その中に潜伏をしていたマクシミリアンは、その時、事の一部始終を目撃していた。


 街宣車によって止められた交通────


 とんでもないスピードだった。

 視界を滑る鉄の塊、その猛烈さは、如何にマフィアのボスと言えど経験したことのない衝撃、光景であった。

 

『このタイミング……これが、僕に見せたかったもの……?』


 清掃車は対向車の数台を巻き込むと、覆い被さるように横転し、燻した劇物の昇華のような煙を立ち込めさせていた。

 この凄惨な大事故を前に、あちこちで救急車を呼ぶかどうかを興奮めいた調子で騒ぎが起きていた。


 マクシミリアンは、そんな雑踏に紛れて確かに見た。


「いや、あれは────!』


────



◆◆◆



 某局のテレビの生映像が、その瞬間を捉えていた。

 と言っても、本来の内容としては、右翼団体の暴動として現場レポーターが取り上げテロップが流れた地方局の放送であり、その事故の一瞬を捉えたのは完全に偶然の一致の放送であった。


 予想だにしない事態に騒然とする現場を映したカメラの映像はもちろん、中継をスタジオのキャスターや芸能人達も、その動揺を露わにしていた。


「おっせーよ、大遅刻じゃねえか────拓二」


 夕平は、パソコンでそれを確認し、奥歯を噛み締めて口元を歪ませる。

 それは獲物を見た獣の舌なめずりのような、しかし作り物の能面のような、獰猛でいて凍り付くような冷笑だった。


「まあでもこれで、お前らっていう存在が世間にぶち撒けられる……日本中の人間が、お茶の間でお前らを見てるぜ」


 この時を夕平は待ち望んでいたのだから。

 この大事故が放送され、拓二達が拡散されるこの決定的な瞬間を。

 

 これまで起こったことが、そしてこれから起きることが表沙汰になる、この放送を。


「さあこっからだ……こっから周りの人間全てが、お前らの敵だぜ極悪人。お前らのやること全部メチャメチャにして……そしたら俺は、クソざまあって笑ってやるよ」

 

 ここまで、思い描いてきた筋書きに狂いは無い。

 だから、後は────



◆◆◆



『…………』

「はあ、ごめんなさいお待たせして……って、あっと……」


 警察本部。

 待合室の一室に、新米らしい婦警が入ってきた。新しい紙コップのお代わりを持っている。

 テレビを見ていたニーナに気付くと、そそくさとテレビの電源を切った。

 あまり刺激しないようにという配慮のためであったが、甲斐甲斐しい対応と言えた。


「たはは、ごめんね。こっちもちょっとゴタゴタしててね……」


 部屋の外は、立ち代わり起こる事件の山によって事務の者でさえバタバタと走り回っており、この婦警もしばらくの間ニーナのことを構っていられなかった様子だった。


 警官殺害、駐車場での惨殺事件の捜査に右翼街宣車の騒動。そして、新たに起きた『事故』。


 偶然かそれともテロか。今はその定義付けで階級の上下を問わず混乱している。

 一体この街で、何が起こっているのか。常識外の悪夢めいた一日だ。

 その規模は、彼らの一ヶ月分の業務がこの一日に詰め込まれたかのようだった。


 その彼女も実際、次々と度重なる仕事に追われてか、疲れが見える。


『……ごしゅ、じん』


 しかし、テレビを切ったのは『遅かった』と言わざるを得ないだろう。お約束のような警察の後手対応を暗示したかの如く。

 彼女は、その電源の落ちたテレビを、暫しじっと眺めていた。


 じっと、見ていた。

 


「え? えっと、どうしたの? ニーナ、ちゃ」


 その彼女の言葉尻は、咽喉で音となる前に不意に途切れた。

 

「────ゔっ……!?」


 それは唐突で、一瞬の肉薄だった。

 立ち上がり、それは恐ろしいまでな手並みで、婦警のみぞおちを当て身し昏倒させたのだ。

 新米といえど、若く、警察学校を修了したであろうその道のプロがいとも容易く。

 ニーナは意識を手放した彼女を抱き抱え、手慣れた動作で、『ある物』を抜き取った。

 

 そう、警察は知らなかった。


 ニーナの持ついびつを。

 ご主人と慕う彼のためなら────


『────私はいつも、貴方のお側に』


 その手に馴染む拳銃。

 さらに流れるような体捌きで、婦警を肉盾ひとじちにし、ニーナは部屋を飛び出た。



 そして────現日本国家の絶対な法治組織法組織、その内部にあるまじき、凶弾の迸りが轟いた。



 三月三十一日という、一連の悪夢。

 ここに新たな狂乱の狼煙があがる────



◆◆◆



 そして、そんな彼らの騒動・視点が集う中心────大交差点中央にて。


 相川拓二は、満身創痍でそこに現れた。


「ぐっ……つぅ……」


 拓二は、地面を転がった身体を無理やり起こす。

 あちこち擦り傷を作り、捥げた腕の傷口が疼きと痺れのような激痛に苛まれた。

 頭が割れるように痛む。眩暈がする。吐き気がする。

 

「はあ、ふう……っ、でも、辛うじて生きてるな……」


 言霊となった生の実感が、薫風のように胸中を抜けた。


 乗ってきた清掃車は、ずっと前で別の車と激突し、横転していた。色々と無惨な有様が広がっている。

 ビリーへの反撃のために、暴走させた車から咄嗟に運転席から飛び降り、追突させたのだ。あのまま乗っていたら命は無かっただろう。

 もっともそのつもりで、スピードを出したわけだが……フロントガラスに乗ったビリーは、あのまま潰された、はずだ。


 そう、普通なら────いや、これはいい加減もうよそう。

 もう、ここはまともな感性で繰り広げられた領域じゃない。


 ビリーは、間違いなくまだ生きている。

 そう確信したから、拓二は喘ぎ喘ぎ立ち上がる。彼もよっぽど、くたばっていてもいい程度の状態であるのに。


「ここは……これは……」


 逃げるか迎え討つか、その状況分析をするために辺りを見渡す。

 聴覚には、耳に残る大音響の軍国歌と、甲高いクラクション。視覚には丸く取り囲むようにして、車線をびっしり埋めてこの中央を見る車の数々。


 見ている。

 歩道や車という観客席たかみから、確かにこちらを眺めている。

 これからここで何が起ころうとしているのかを、彼らは皆固唾を呑んで見守っている。


 その時ここがまるで────即席で作られたコロシアムのような錯覚を、拓二は得た。


 ふっと、突然脳裏に何かが呼び起こされる。

 記憶が、揺り動かされる。


 そう、前にも、この状況と似て非なることがあったような────



「────ふう、流石に死ぬかと思った!」



 そのある種のデジャビュは正しかったことを、次の瞬間に思い知らされることになる。


「わ、何これ、血? きったないなぁもう……」


 耳障りな騒音を縫うようにして、その声は聞こえた。

 その、聞き知った声を。


 


「……は、ははは」


 訳が分からず、笑った。

 笑うしかなかった。


「そうか……それが『お前』の末路ってやつか」


 目を疑った。瞼を擦った。

 姿


 拓二の目の前にいるのは、ビリーであってビリーでない。

 殺した者を取り込むビリーの特性が作り出した、新たな人格が、表出したのだ。

 

「これも私の幻……というわけじゃ、ないんだな? お前がここにいるのは本物で、本当なんだな?」

 

 数奇に入り組んだ運命に導かれ、彼らは再び邂逅する。



「出来れば二度と会いたくなかったよ────

「……お久しぶりだね、相川くん。ちょっとイメチェンした?」



 三月三十一日は、まだ終わらない。


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