第百十四話:追憶
『……ここじゃ見ねえツラしてんなァ? 何モンだ、俺のファンかテメー?』
『俺は、狩犬。貴様に恨みなどはないが、俺の爪牙が貴様に矛先を向けた。恨むなら、己の安い命を恨め』
『フゥン、雇われモンか。でもよぉ~、ワザワザ宣戦布告して来るなんてェのは初めてだ。……いいぜ、ヘイ! 生マジメちゃん! 俺がオメーに、英国風の遊びってモンを教え込んだらぁ!!』
────遡ること、三十年程前。
当時はまだイギリスの統治下にありながら、中華人民共和国の改革開放政策の進出により、製造業の他に金融や貿易で飛躍を始めた香港。
躍進的な経済成長と、その反面先行きの不明瞭な一九九七年の香港返還を目の前にし、資本主義植民地香港と共産主義中華人民共和国が向き合うまさに混迷期。
表向ききらびやかなビル群。しかし一歩裏通りへ踏み入れば、生ゴミでは済まない臭気と不吉な気配が待っている。
そんな暗雲低迷な空気が蔓延るかの場所で、二人の男は出逢った。
まるで一本の糸を互いに手繰り寄せたかのように。
『────……ハハハ! こんな死に損ない一人殺せないよーじゃ、てめえの牙も大したことはないねェ~!』
『ぐ……殺せ。殺せよ……! 同情はいらん、殺さないなら自分で死ぬまでだ……!!』
『アッハ、元気だねぇ若い奴は。なかなかケツ締まってんじゃねえの、ええっ?』
男は、自身をよく死に損ないと口にする奔放闊達の強者であり、青臭い『犬』の方は戦闘から僅か数秒も経たずになす術なく地を這った。
誰よりも懸命に、己の全てを賭して研いだ牙は、この男の親指一本を切り落とす程度にしか通用しなかった。
切断面から流れるものを見て、男はニンマリと笑い、その『犬』の前でしゃがみこむ。
どくどくと溢れるその血潮を、シャワーのように頭から降り注いでやる。
そして、こう言った。
『────俺の名前はマクシミリアン。テメエのその安い命、俺に預けてみる気はねえか、犬っころ』
『犬』の名前はジェウロ=ルッチアと言い、その日から、マクシミリアンと名乗った男と彼を頂点としたネブリナファミリーに、絶対の忠義を立てた。
ジェウロは研いだ牙を、組織に尽くすために活用した。
何年も何年も、自分を己の手元に配する主のために。
自分のために流したその親指の血の意味するところのために。
『……またウチの支店一個ぶんどってきたんだって、ジェウロ? 最近景気良いじゃねえか、お前とエリーは、コンビ組むと手がつけられんな!』
『……頭目、ご隠居なさるというお噂を耳に挟みました。その、真偽の程は……』
『ああ、聞いたのか。まあねえ……あのじゃじゃ馬も一応女だ。いい加減身を固めて落ち着かにゃいかん、そう言ったらアイツ、俺が
『お嬢と、そんなことを……』
『────お前、あいつのこと貰ってみるか?』
『なっ……!? 頭目、それはっ……お、お戯れが過ぎます!! 私は……!』
『ハッハッハ! ムキになるなムキになるな。ま、気ィ向いたら考えてみてくれや』
それから、年月は過ぎる。
次期のマクシミリアンが継承された。有力候補と組織内で囁かれていたジェウロは、この時、選ばれることはなかった。
エリー────主の令嬢であるエイシア=ランスロットは、次代のマクシミリアンと結婚し、玉のような女児を二人産んだ。
主は宣言通り、それまでの地位を辞任。ネブリナ全体から祝福され、生ける伝説マクシミリアンとして栄えある幕引きを飾った。
長い年月だった。男達は互いに歳を重ねた。
ジェウロが四十の年を刻んだ時、主は還暦をとうに過ぎていた。
主がボルドマン=ニコラスと名を変えても。
その次女の子守り役と陰で謗られようとも。
しかしジェウロは、ネブリナへの献身を止めなかった。
『……頭目、お話が』
『ああ、聞いたよ……マクシミリアンがアイカワくんと血の掟を結ぶことだろう?』
『…………』
『お前は絶対反発すると思っとったよ。ほっほっほ、出会ってからずっと、馬鹿正直な男だからねえ』
『私は……反対です。血の掟は、我らにとって命と変わりない、最上のもの。子供に与えるキャンディなどでは断じてない! 何を血迷ったことを……!』
『ジェウロや』
『……失礼を。どうか忘れてください頭目、私は……』
『いいから聞きなさい、ジェウロ。……私と彼では考え方が違うのさ。君が不審がるのも分かる。だが彼もまた、ネブリナの安寧を志とする
『…………』
『私の代わりだと思って、どうか信じてあげなさい』
『……仰せのままに、頭目』
ジェウロは、信じた。
現マクシミリアンを、ではない。あの日確かに、自分の上位として君臨したこの男のことを。
誇り高き血の掟を交わしたという自負を。
そんな彼に、主を失った今の彼に、残されたものは。
────何も、何も無かったのである。
◆◆◆
赤い手袋。
その、赤い手袋だ。
神速の如き速度でマクシミリアンに接近する僅かな時間、ジェウロは瞬時に思考を巡らせた。
彼我の実際の実力においては、軍配が上がるのは間違いなく自分だろう。マクシミリアンの格闘技術は、素人に毛が生えたもの、ジェウロでは赤子の手を捻るようなものだ。
しかしマクシミリアンは、そこらの有象無象とは違い、何を考えているかその胸中を読めた試しのない男。プロのチェスプレイヤーのように、数手先を先見して行動する。
つまりは、この自分の謀反をも予知している可能性がある。そう考えた方がいい。
故に、彼の前にしてはどんな些細なことさえ見逃してはならない。
だから、その赤い手袋だ。普段なら見落としそうなその手袋が、目に留まった。
そうして、思い出す。
マクシミリアンは、ここ最近までそのような手袋を身に付けてはいなかった。
以前、数ヶ月前────千夜川桜季の騒動で、マクシミリアンが清道と会った時。〝その時、手袋はしていなかった〟。
犬アレルギーなどと誤魔化してはいたが、この日のためにわざわざ準備してきたようにしか思えない。
首を庇った左腕に、手の五指を伸ばした程もある刃渡りのナイフが埋め込まれた。
しかし、これでいい。狙いはそこにある。
拓二の包帯よろしく、グレイシー同様、手袋に何か暗器を仕込んでいるに違いない。まずはそれを封じた。
『……っ!』
『もらったッッ!!』
ジェウロは、信じるもののためにその銃(えもの)を噴かせ、刃を薙ぐ。
そして、信じるものを見失った今の彼に、もはや歯止めは利かなかった。
アイカワ・タクジは、ボルドマンを殺害した背信者。
グーバ=ウェルシュは、ネブリナに反旗を翻した。
グレイシー=オルコットは、組織を売った裏切り者。
────では、彼らをネブリナに手招いた一番の原因は誰だ?
────彼ら全員と血の掟を結んだ元凶は、誰だ?
そうだ、こいつは寄生虫。ネブリナを、そして我が主を蝕み殺した寄生虫だ。
こいつさえいなければ。こいつがマクシミリアンでなければ────!!
『まずは貴様だ! 我らネブリナファミリーに巣くう一等最悪の
その時、一発の銃声が轟いた。
『……な、っ……』
振りかぶり、今まさに仕留めようとしたところで挙動が止まる。
目標の額に向けて構えていた銃を手の中から滑らせ、地面に落とす。そして緩慢な所作で、糸が切れたようにその身をくずおれさせた。
立っていたのは────マクシミリアン。
ナイフが刺さった左腕の痛みに苦しむ様子を一切見せず、無感情な仮面の表情で、ジェウロを見下ろし佇んでいた。空いた手に持つその拳銃が、発破した火薬の残骸を一筋、ゆらゆらと宙に吐き出している。
『……こんなことになるなんて思わなかった。まさか自分で用意した「これ」がこんなことに役に立つとは思わなかったよ』
そう言うと彼は熱くなった銃身を一度しまい込み、おもむろに自分の服の中に手を差し込んで肩に触れる。
パチンと、何かが外れるような音がした。かと思うと、その場にいた誰もが信じがたい光景を目にする。
〝ゴトリと鈍い音を立て、あっけなくその左腕が地面に落下したのだ〟。
彼の服の片袖には、何も通る物が無い。胴にくっつく腕は、間違いなく右側だけにしかなかった。
『な……』
『君程の人間が、気付かなかったかい? ────これは義手さ。この日の為に……もしもの為に、腕を一本切ってきた』
ジェウロにも隠していたのだろう、地を横にしながら驚愕に目を瞠る彼に、静かに告げる。
マクシミリアンが隠そうとしていたのは、暗器ではない。この左腕そのものだ。
敢えて目立つ色合いの手袋をしてきたのも、全て。全ては相手の意識を赤手袋に誘導し、術中に嵌める
今日が三月三十一日であり、『四月一日』の明日にさえなれば腕も元通りになると分かっているからこそ出来る、まさに『何でも出来る』ムゲンループの住人ならではの突飛な発想。
しかし、ジェウロはあくまで常人である。彼はムゲンループの存在を知らない。
そんな彼に、自分で自分の腕を捨てるという暴挙、正気を疑うその発想には至らなかった。いや、そんな可能性まで考えるべきだったと言うのも、酷というものだろう。
詰まる所それこそが、今の彼らにある決定的な違いであった。
『…………』
パクパクと、一言二言何かを言うように、精一杯の力でジェウロの口が開く。
一連のくだりを見ていた拓二、そして拓二に制されているニーナには、何を言っているのか聞き取れなかった。
それを聞き遂げたマクシミリアンは静かに細く嘆息し、
『君はまるで、夢追い人だね。僕には────いや、この世界では眩しすぎたよ』
再度銃を引き抜き、右手一つで器用に弾を込め、構えた。
目の前で倒れているジェウロに向けて。
『……すまない、ジェウロ。思えば長く、そして尊い
引き金を引いた。空高く反響するその一発は、いやに大きく鼓膜を打った。
たったそれだけだった。ジェウロは動かない。
ぐったりと糸の切れた人形のように、ピクリともしなかった。
『……殺った、のか……?』
一部始終を見ていた拓二が呟いた。
マクシミリアンは、ムゲンループの住人。彼が殺した人間は、もう次のループでも生き返らない。
そのことをマクシミリアンが気付いていないはずがないが……。
言うのとほぼ同時────背後から一台の車が走ってきた。拓二達の間を突っ切り、ドリフトを切るようにして黒塗りのワンボックスカーが飛び込んだ。
車はマクシミリアン達の目の前を滑るように停まった。
『っ、────よけろ!!』
拓二が叫び、咄嗟にニーナを抱えて飛び退いた。
直後、ニーナがいたアスファルトの地面が、連続する激しい発砲音と共に弾を喰ってうち割れた。
『あ、ありがとうご主人────恩に着るッ!』
拓二より一歩反応が遅れたニーナが体勢を崩したまま、しかし流石の手際で銃を二丁引き抜き、悪態を吐いて発砲する。
的確にその前部座席の新手共に向けた狙撃は、防弾ガラスの窓にひびが入るだけに留まり、撃ち抜くに至らなかった。
『────くっ!』
拓二は、自前の仕込み針を放つために、腕を振るう。
だが、ニーナを下敷きにして出来るような芸当では無かったのか、車の陰に隠れたマクシミリアンに矛先は行かず、明後日の方向へ抜けてしまった。
『すまないタクジ、今は引き揚げさせてもらうよ』
車はマクシミリアンを乗せるや否や、エンジンを吹かし、あっという間に走り去ってしまう。
戦闘の緊張と熱を一気に持って行ってしまったかのように、その場には拓二とニーナが取り残された。
『……ご主人! ご無事で!? どこか怪我はしてないかい!?』
ハッと我に返り、今までにない慌て振りで尋ねる。
姿勢を起こし、落ち着いた彼らであるが、ニーナは拓二が呆然としているのをふと見つけた。
「……今の、は」
『ご主人……?』
「あ? ああいや……何でも……」
と言ってから思い出したかのように、ニーナの通じる英語で答えた。
『────いや、何でもない』
『? 少し、気が遠のいたのかな。深呼吸するといい』
『平気だ。それより……』
拓二が視線を向けた先、マクシミリアン達がいた場所には、忽然とその姿が消えていた。
それもマクシミリアンだけでなく、〝ジェウロもいない〟。わざわざマクシミリアンが連れて行ったということは、つまり。
『────逃げられた、か』
『……私が、ご主人の足を引っ張っちゃったみたいだね』
ニーナもその状況を把握したのか、押し徹った眉の筋に己の不甲斐なさを描きながら呟く。
『どうぞ、何なりと罰を。ご主人の言うことなら甘んじて受けるよ』
『……いや、構わない。お前は実に良くやってくれてるさ、ニーナ』
『でも……』
『〝それに、しっぺ返されたのは向こうだ〟、逃げられやしないさ」
『……?』
拓二はそれから、じっと慎重な黙考を続けていた。
先へ先へ……思考だけを今の時間軸から押し進め、測り、読み解いていく。これから起こるであろう事態を幾つものパターンに区分けたものが、瞳の奥に過ぎっては消えていった。
『それより……俺に、あいつらを追い詰める考えがある。それでお前にはやってもらいたいことがあるんだが……頼めるな?』
『はい。何をしたらいい?』
やがて、考えのまとまったらしい頭を持ち上げた。
『服を────その服を脱ぎなさい。今、ここで』
その言葉を聞いたニーナは、あまりに突拍子も無いことに目をぱちくりとさせ、愕然と拓二を見やる。
『え?』と思わず声をあげてまじまじ見返そうが、目を瞬かせようが────拓二の顔は言葉の嘘や冗談では無いことを雄弁に物語っていた。
────『やれ』と。
『時間も無い、早くしろニーナ』
『……はい』
しかし一体何の意図あってのことか。それともやはり、これは先程の罰なのか。
どちらにせよニーナに、主人の命令を断る道理は無かった。武装を外し、服に手をかけ、ニーナは身に付けているものを自ら剥いていく。
下着は脱がなくていい、とブラジャーのホックに指を引っ掛けたところで拓二が言う。
危険を察知してか、人気が散ったとは言え往来の場。薄い身の着一枚になったニーナも、流石に恥ずかしいらしい。
『こ、これでいい? ご主人……』
『ああ、いい子だ』
着ていた服を放り捨て、あられも無い、誰が見ても艶の有るニーナの健康的な褐色肌の裸体に、拓二はまるで石膏の裸婦像か何かを見たかのように、全く欲するところを浮かべず真っ向から向かい合う。
その視線は一度、横に放った女物の服に。
そして長く束ねたニーナの黒髪に、伸ばした手が撫でるように触れ、はだけた小さな肩がピクリと揺れた。
『それから────……』
拓二の双眸には一つの機智が宿り、その口元はある確信を得た笑みを湛えていた。
◆◆◆
『やあご苦労様。話してある通り、目的地に向かってくれ』
運転手に向けて、マクシミリアンが話しかける。
その傍らには意識を無くし座席に沈み込むジェウロの姿がある。
その肩は、車の振動とは別に、自らの呼吸の動きに従いしっかりと上下していた。手枷足枷が施され武器も取り上げられて荷物さながらに寝転がっている。
『我らがボスは慈悲深いことこの上ないですね。ジェウロも起きたらさぞ喜ぶことでしょうよ』
マクシミリアンが肩を竦めて鼻を鳴らす。
ジェウロなら────おそらく目が覚めた開口一番、早く自分を殺せと喚くことだろう。それが分かるからこそからこその、甘い処理に対する強い皮肉なのだろう。
『……悪いけど、くだらないジョークに付き合ってる暇は無いんだ、ケインズ汚職警部補殿』
『あーあー、私が悪かったですって。だからその呼び方やめてくださいよ』
『それに言っておくと、ジェウロのためなんかじゃないよ、
余計に恨みの詰まった毒に、諦めたように運転手の男は閉口する。
けたたましいサイレンの音が、何処か遠くから折り重なって鳴り響いている。
片腕の替えを確かめるように装着しながら、マクシミリアンは話した。
『もし、ここでジェウロを殺したら────エレンの世話をしてくれる人がいなくなるからね』
『ハア……色んな人が黙って無いと思いますがねぇ……』
『じゃあ君、代わりにあの子の子守りやってくれるかい? 前役を殺すべきだって真っ先に僕に進言してくれたってこと、彼女にチクっちゃうけど』
『っ……!』
『うん、分かればよろしい』
『……い、胃に悪い脅しですね。あんなんと一緒にいるくらいなら、百回死ねって言われた方がマシだ』
ゾッとしない風を察したか、満足そうに頷くマクシミリアン。
やはり手間のかかる義手の接続を一つ一つ丁寧に行いながら、視線は今も横たわるジェウロへと落とした。
『「D・22」……忘れてない。忘れてなどいないさ、ジェウロ』
その単語によって、無意識の内に瞼が震えていたのに気付き、抑え込むために目を伏せてから誰ともなしに呟いた。
『エイシア……愛する妻の命日を忘れる夫が、この世のどこにいるんだい』
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