第百七話:その夜を越えて
「ムゲンループの……王……そんなこと、本気で……?」
自分の真下に這いつくばっている琴羽を足蹴にしながら、拓二は笑う。
言っていることの内容こそ、子供の空想のように妄言も甚だしい。しかし笑んだ拓二の目は恐ろしく真剣で、その口振りも真理を得たとばかりに堂に入ったものだった。
「本気も本気さ、面白いだろ? ムゲンループの支配……それが俺が行き着いた『賢い』生き方だ」
頬の肉が削げたかのようにやつれ、すっかり血の気のない表情に相反して、瞳の奥の輝きは澄み切り、活き活きとして強まっている。
そのアンバランスさが、より一層の危うさを感じさせる。
それこそ、先ほどまでの錯乱状態の方がまだマシだったと思えるほどに。
「今の俺なら、それが出来る。ムゲンループの力で俺は────」
と、それ以上何かを言おうとした拓二の口は唐突に閉じられる。ピタリと動きを止め、ある方向に凝視の視線を注いだ。
それは、琴羽にも祈にも向けられていない。琴羽はまるで気付かなかったが、祈は釣られて同じ方向を見た。
「────ちょっといいかな、君達」
聴覚が視覚に従ったかのように、その方向から途端に聞こえてくる足音。森蔭から近づいて来る人の気配は第一声、場に浮いた声音でそう言った。
現れたのは、 ここにいる三人が誰とも知らない男が二人────しかし、その姿格好には誰もが心当たりのあるものだったろう。
「君達、ここで何をしているんだい、すまないけど少し……」
片方の若い男が、柔和な表情を浮かべ続けようとした。
が、もう一方の歳の行った壮年の男がくしゃくしゃに顰めた顔を突き出して、
「────警察だ、ここにいる全員に聞きたいことがある。全員動くな」
遅まきながらこう宣言する男は、その言葉を証明する警官の制服を身に纏っていた。
若い警官は、その行動を慌てて制する。
「えっ、ちょっ……ちょっといきなりそれは……」
「いいから応援呼べ馬鹿」
が、壮年の男警官の、皺の深く強張った表情に、部下らしき警官は二の句が継げなくなる。
ただならぬ様子に気圧されたか任せるべきと判断したのか、青年は数歩下がった。
そして拓二には彼が無線のようなもので、
「……尾崎琴羽を発見。至急、応援願います……」
と小さく話しているのだけ聞き取れた。
「……この方から、先ほど通報があった。高校生が少女に乱暴をしているとね」
その言葉と同時に、警官の片割れと入れ違いとなって実は陰に隠れていた三人目────細波が姿を現した。
彼は怒っているのやら哀しんでいるのやら、何とも言えない複雑で神妙な顔つきをして、そこに立ち尽くしていた。
「…………」
「細波さん……どうしてここに」
いるはずのない、この場にそぐわない存在の次々とした介入に、拓二は少なからず驚き、声を上げた。
が、すぐにこの事態に対し先ほど祈が口走った言葉を思い至る。
────もう彼女は逃げられません、あとは警察に任せて……!
「……ああ、『逃げられない』ってのは、そういう意味だったか」
祈は、琴羽の身柄を暁殺害の容疑を固めつつある警察に引き渡すつもりだったのだ。拓二が勘付く前に、全てを終わらせようとした。
しかしわざわざ細波に警察への通報を任せた辺り、こうした今の事態をまるで予想していなかったとは考えにくい。
「…………」
────俺が全てを知る可能性を考慮し、琴羽の自白を急いでいた、といったところか。
────面倒だな、忌々しい。
「君らには、話を聞かせてもらう。ちょっと込み入った話になるだろうが……ね」
チラリ、と老刑事が琴羽の痴態を見る。
犬のように伏せている普通じゃないその様子に、彼は目を留めた────と同時、拓二は動いた。
すっとごく自然な動作で、音も無く歩み寄る。刑事はギョッと身構えた。
「おいこら、動くなと……!」
「誰に向かって口を利いている」
しかし、それは彼の目にも留まらぬ一瞬だった。
「────俺の邪魔をするな」
ぐいと大股で数歩の距離まで近付いたかと思うと、その時には拓二の拳が、自身の鳩尾から引き抜かれた後だった。
苦悶の呼吸は、どさりという身を倒れ伏した音と共に秋夜の暗幕に溶けていった。
鳥一匹飛び立つことのないほどに、それは静かな交錯だった。
「なっ……!? お、お前何を────」
もう一人の警官が、その異常事態にいち早く気付き、無線機をよそに声を荒げた。
拓二は構わず、獲物に肉薄する。飛びつくように一直線に駆け、あわや体当たりというところで、はたと急停止する。
その次の瞬間、ぼんっと空気が鋭く破裂するような音が響いた。
「がッ……!」
身構えた青年警官は、呆気なくペアの老刑事と同じになる。
傍から見たら、それはまさに瞬殺であった。
しかしそれも止む無いことか。警官学校で身につけた対暴漢マニュアルに従い、顔と手の警戒を絶やさずにいたが故に、彼には捉えきれない。
その蹴打が、死角である斜め後ろから延髄を叩き込んだことなど、恐らくは理解すらしていないだろう。
真正面からの、真後ろに飛ぶ一撃。そのあまりに変則的な鎌のような動きで刈り取られた意識のまま、もんどり打って吹っ飛んだ。
「え……?」
「オイ……冗談だろ? 見えなかっ……」
ましてや素人の細波や祈など、拓二が何をしたのかその動きすら見えず、あっという間に二人が横倒しの目に遭ったことしか分からなかった。
気付けばそこに、拓二が立っていた。ただそれだけだった。
「いのり……柳月祈。俺と同じ、ムゲンループの住人……」
殺気立った冷たい瞳が、細波、加えて祈を順に睨める。
その視線に、ようやく身体が状況を呑み込めたと見え、理解と共に金縛りを受けた。
本能が告げている。
────拓二がその気なら、ここにいる全員を昏倒させるのも容易いことなのだと。
「邪魔だなあ邪魔だなあ、お前は……いや、前々から思ってたんだ。ムゲンループの住人って奴は得てして皆一様に、俺の思い通りにいかない……」
祈と、視線がかち合った。
「いっそ殺してやろうか────なあいのり?」
臓腑の奥から冷え冷えと凍りつくような、そんな眼差しで────
「拓二さん、私は……!!」
「来るな」
震えが止まない声を、はっきりした強い声で切り捨てる。
「もうここが、俺とお前の『線引き』だ。今すぐ死にたくなければ踏み越えるな」
「え、あ……」
「そうとも……前々から感じていたことだ……そしてそれは、どうやら正しかったらしい」
それらは全て、二人の間に決定的な確執が生まれてしまったのを、はっきりと冷酷なまでに告げていた。
「そしてお前のその類い稀な頭脳は、敬意を表すべきものであるとともに────このムゲンループの王直々に討つべき障害であると……たった今、確信した」
パトカー特有のサイレンの音が、遠くから高々と鳴り響いている。これは、拓二以外の全員が聞こえているものだと、徐々にこちらに近づいて来ていることも分かった。
「ただ今は、こちらにも準備が足りないらしい……が、俺はまたお前の前に必ず現れる。お前を殺すために、手筈を整えてな」
拓二は、じきここに駆けつけてくるであろう応援がいる町の方を見やると、
「────三月三十一日だ! 次の『四月一日』を迎えるその最後の日に、全ての宿縁因縁を断つ! 新たな俺の門出を邪魔立てするようなものは、何であろうと俺の『次』には一切持ち込ませはしない!」
それは拓二の予言であり、宣言だった。
思えば彼らは、この場この瞬間において初めて、互いを『見た』のかもしれない。
例え建前とは言え今まで同じ方向を向いていた二人がとうとう面と面を合わせて向き合い、対峙し────そこで生まれた敵対心からこそ来る本音を籠めた、訣別の瞬間であった。
「『勝負』だ、柳月祈。そこで、決着をつけよう。生きるか死ぬかの鉄火場で────お互いの力と知恵をぶつけ合おうじゃないか」
敵意と喜楽の色が入り混じり合った、火よりも苛烈で獣よりも獰猛な表情が、闇夜の中に浮かんだ。
凄絶な拓二の形相に祈は、たたらを踏んでいた足が自身を支えられずにその場にへたり込む。
「付いて来い琴羽」
「はい……先輩」
拓二は、カラカラと愉快そうな大笑いを響かせて去っていく。その後ろを、慌てて跳ね起きた琴羽が付いていってしまった。
それを止める術を、細波も祈も知らなかった。ああまでどす黒く明確な拒絶の威圧に、太刀打ち出来ずに無様に固まるしかなかった。
二人の後ろ姿が視界から消え、後に残された細波と祈。細波は拓二の消え去った方向を見たまま愕然と立ち尽くし、祈は地面にぺたんと腰をつけたまま、項垂れて動かない。
サイレンの音は近い。拓二達もまだそう遠くへは逃げられていないはずだが、果たして警官二人を流れるような動きで翻弄した拓二を、警察が捕らえられるのか。
「……っ、ぅくっ……」
細波が我に返ったのは、すんすんと不規則に鼻を鳴らす音が聞こえた時だった。
バッとその音のする方向に視線を向け、そしてその『異常』に気付いた。
「……いのりちゃん!? 大丈夫か、おいっ」
頭を地面に擦り付ける勢いでうずくまる、祈の姿がそこにはあり、近寄ったその時はっと息を呑んだ。
「……いのりちゃん」
あの祈が、泣いている。
一体何があったのかと問われれば、色々なことが起こりすぎたのだ。
理解が出来なくて。何も出来なくて。止められなくて。辛くて。怖くて。悲しくて。もう何もかもが嫌になって。
整理がつかないようなことが、己の胸の内で消化しきる前に立て続けにあった。暁の死に際も、葬式で近親者が流した涙の一粒一粒も、自分を殺すと誓った拓二の顔も────その際の一瞬一瞬の光景や感情を、祈は全て忘れない。忘れることが出来ない。
そのせいで、これまで気丈に振る舞い続けてきたと言える祈の心も、もう限界を迎えていたのだった。
「どうして……んっく、ナン、何で……何でなんですか……? ひっ……ひ……酷い、酷い……です。こ、こんな……どうして私達は、こんなこと、っに……」
祈の目から、涙がとめどなく溢れていった。ずっと懸命に我慢していたらしい嗚咽が止められないようで、顔を覆った両手の指の間から熱い涙が流れている。
発作でも起こしたかのような息継ぎばかりで言葉と言葉の繋ぎ目がボロボロと崩れ、会話の抑揚を成さずに掠れ、涙の入り混じった声を散らばらせていく。
「わたし、私は……ああ、あああ……う、あああああん! あああああああァ……!」
もはや我も忘れて、子供のように祈は泣きじゃくり続けた。
◆◆◆
拓二は、家路に就く過ぎた時間帯の割に気ぜわしい町中の喧騒を駆ける。フードを被って目元を隠し、琴羽を半分抱えるような格好で。
通りを走るサイレンの光が一二、横を通り過ぎていた。既に拓二の警官二人に対する暴行及び琴羽の逃亡に加担していることも伝わり、捜索の手が回り始めているらしいことが窺える。
目立つ出で立ちだ、町中の監視カメラは間違いなく自分達を捉えているだろう。このまま逃亡を続けていたのでは、二人共あえなく御用となるのものも時間の問題と言えた。
「チッ……!」
行き来含め六車線を陣取る大きな検問に出くわし、脇の小道に身体を滑らせた。琴羽も今は不気味なほど何も言わずに拓二に着いてくる。
どうにでもなれと自暴自棄になっているようでもあったが……。
「────っ!!」
コンビニ店舗と賃貸マンションの間の道をアミダのようにジグザグにくぐり抜け、あっちこっちとからだを引きずり回しようやく表通りに出たと同時────拓二が予期せぬ物が現れた。
最悪の光景は待ち構えるパトカーの群だったが、その想像とはまるで異なり、一台の黒塗りの車が拓二のすぐ目の前を狙ったかのように路肩に急停車してきたのだ。
まるで待ち構えていたか出迎えに来たかのようだと思うよりも先に、乗車を急かすようなクラクションが鳴った。
ドアが開かれる。
半開きの車内から、拓二を待ち受けていた者の姿がぬっと現れた。
『────久しいな、日本旅行は楽しめたかな?』
『……グーバ? どうして……』
『ククク、どうしても何もあるまいて』
皮肉げに唇をひん曲げるグーバにそう問いかけるのも至極当然で、その車というのが────小さなユニオンジャックをはためかせ、青のナンバープレートによって治外法権が約束された、大使外交官の公用車両《ごようたし》だったからだ。
『────さあ乗りたまえ、アイカワ・タクジ。「我々」は貴様を歓迎する』
────こうして、悪夢のように長い長い一夜が終わった。
そして、それから────
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