第八十四話:数ヶ月後
今日は、先日行った中間テストの返却日だった。
教室は色めき立ち、授業が終わってもその点数に三者三様の反応を見せている。
点数の優劣を競い合う者達や、一人悲しみを背負った者、開き直って笑う者など、どちらかと言うと悲嘆に暮れてばかりな気もするが……高校生活ならではの、騒がしくも屈託の無い一日が過ぎていた。
その中で『彼』は、その喧騒の輪に入ってこず、落ち着いた様子で佇んでいた。
普段なら、この教室で一際賑やかにこの『お祭り騒ぎ』に飛び込むというのに、今ばかりは大人しく、窓際の席に着いていた。
「…………」
それは、見る者によってはそんな教室の様子を俯瞰しているようにも、何か憂鬱な不都合に頭を抱えているようだった。
あるいは、今日この日という一日の天気を、気温を、静かに浸り味わっているように見えたかもしれない。
今日は気持ちの良い快晴で、爽やかな風が開いた窓から運ばれてくる。
「ああ……」
ふ、と口元にそっと微笑みを浮かべてから、少年は、そんな窓の外の風景に視線を滑らせた。
「……良い、天気だな」
「『良い天気だな』────じゃなーい!!」
────目の前の
「お、大声出すことないだろー暁……」
「大声出すことなの! 分かってるのこのおバカ夕平!」
怒鳴られ、夕平と呼ばれた少年は耳を塞いで縮こまる。
そんな弱っている彼に対し、勢いづいたように声をぶつける少女、暁。
「自分のテスト用紙ちゃんと見た? 酷い点数じゃない!」
「うるせえなあ……母ちゃんみたいなこと言うなよう」
「夕平が心配だからこんなこと言うんだよ!」
「じゃあ心配しなくていーよ別に。俺はやる時はやる男だから」
「それはやらない! それは絶対やらないフラグって私でも分かるよ夕平!?」
このように、喧嘩し慣れてると言った感じで喧しいやり取りを交わす彼らの名前は、少年の方が
彼らは十年来の付き合いがある幼なじみ同士で、お互いにとって、特別気心の知れた仲であることは紛れもない。
今回のテストのことも、試験期間の一週間前まで勉強してこなかった夕平を思い一緒に勉強会までしていたというのに、結果はお察しの通り、赤点スレスレである。
それは怒って当然────であるが、暁にはそんな無駄になった自分の労力などほとんどどうでもよく、既に怒りの色を消した声でこう訊く。
「補習とかになっちゃったらどうするの。お休みとか、一緒に遊べなくなっちゃうんだよ……?」
「む……」
「それでもいいの?」
「むむむ……」
夕平は、暁の目や眉が、本気で心配している時の表情を浮かべていることに、気付いていた。
この顔にはほとほと弱い。気付けば、そんな顔をさせたくなくて、口が滑るように動いていた。
「……分かった、分かったよ。俺が悪かったって。次は本気で頑張るから、そんな顔すんなよ」
「ほんと?」
「おうよ、次は暁の点数越えてやんよ」
「私、今回のテストほとんど夕平のダブルスコアだったんだけど……」
「……お、オウヨ、イケルイケル。マカセトケッテ」
「夕平~?」
普段通りの、相変わらずの彼らの光景。
明け透けない二人の関係が、途切れることなく今に至る理由は、あるようでない。
「んなことよりな、帰りにクレーブ屋寄ろうぜ。あそこの公園の近くな」
馬鹿なお気楽者の夕平と、
「もー、またそうやって誤魔化すー。そんなのに釣られないよ!?」
内気なしっかり者の暁という両極端な二人の仲には、明確な答えが無い。
「ままま、お前、あそこのチョコバナナ味好きだろ? おごってやるじゃんか、な?」
「う……うん」
「よおし決まり! 頼むぜアカちゃーん」
「こら、それ言うなっ!」
付かず離れず……もっとも最近、少なからず進展もあったようだったが。
高校生になった彼らが、何も変わっていないようで、何かが変わったような、そんな些細な転機となったのは……。
「やあやあお二人さん、あたしが来ましたよ〜」
そんな時、二人に声を掛ける人物がいた。
夕平が声の主に気付き、振り返ると笑いかける。
「おっ、
「うぃっすー! 夕平先輩、テストどうでした?」
琴羽と呼ばれた少女が、元気良く返した。
一度は済んだ話を何も知らない彼女に蒸し返され、たじろぐ夕平。
そして、チョコバナナのクレープで釣れかけていた暁が、ハッと思い出したような表情で話しかける。
「あ、聞いてよ琴羽ちゃん、夕平がね────」
小森……もとい、
縁あって、最近夕平と暁が仲良くなった友人であったが、ひょっとしたら、兄よりも親交があるかもしれない。
それには、夕平と暁の二人の関係とはまた違い、とある理由がある。
「あはは、ダメですよ夕平先輩。せっかくの暁先輩の厚意を無駄にしちゃー」
「ぐぬぬ……こ、琴羽ちゃんだって、人のこと言えないだろ?」
「まあ私も六十点代ですから、確かにあまり人のこと笑える点数じゃありませんけどね。……ま、赤点スレスレ程じゃないにしろ?」
「くっそうお前ら嫌いだー!」
────そう、あの蒸し暑かった夏の季節は移り変わり、『あの日』から数ヶ月が経っていた。
◆◆◆
「……寝てないのか? 目の隈やべーぞ?」
ちょうど同じ頃。
昼の掻き入れ時から時計の長針がふた回りほど過ぎた喫茶店、その店の一席に、かれこれ朝の開店時間からコーヒーだけで粘っている少女がいた。
とっくに冷めたコーヒーをよそに、開いたノートに鉛筆を走らせ続け、音さえ聞こえないと言った風に集中していた。
髪を二つの束に括り、無表情ながら整った目鼻立ちの彼女は、そのか細げで小柄な体躯からは幼さを感じさせた。
普通、この時間帯なら学校で授業を受けているはずの中高生……いや、見た目だけなら小学生とも見紛うかもしれない彼女は、そんな自分の体裁も気にも留めないようだった。
そんな色々な意味で声も掛けづらい様子に、一人、声を掛ける若い男がいた。
社会にくたびれた社会人、といった風体で、まだ相当若いだろうに実際の歳より一見して老いて見える。伸び始めた無精髭とくたくたのスーツ、雑駁に整えられた髪が、それを助長していた。
少女は彼に目もくれず、しかし声は確かに届いたようで、問いかけにこう答えた。
「……もう、時間がありませんから。次のループ……『四月一日』まで、もう残り五ヶ月程。あまりにも、一秒一秒が惜しすぎます」
「そりゃ、そうだけどよ」
青年は慣れた様子で、少女の対面に腰掛ける。
テーブルに無造作に置かれたティーカップを見た。冷めきったそれをぐいと飲み干すと、ウェイトレスを呼び、新たなコーヒーを〝三〟杯、追加で少女のための軽めのサンドイッチを注文した。
「ムゲンループについて、私なりに纏めて来ました。分かる範囲ですが、説明に関しては問題ありません」
「こっちも、頼まれてたことはなんとか、な」
と、そう言うと表情を崩し、だらっと姿勢を弛緩させた。大変だった、と身体中で表現しているようだ。
「もうすぐ来るはずだけど……ほんと、すっげー『お願い』したんだぜ。あの人、気性荒いってもんじゃねえし……頼むからあんま刺激すんなよ」
「分かってます。ですのでもし万が一、私の態度が不躾だと思われれば仲裁お願いします」
「ああ、それはまあいいけどさ……」
確かに、この無愛想の極みを体現したような少女と、これから会う『ある人物』との衝突は少なからず考えていたし、そうなると両者を取りなすのは自分だろうと思っていた。
が、青年には、それとは別の気がかりがあった。
彼は知っている────『あの日』から数か月、少女はあれからずっとこんな調子だということに。
前々からあまり強くない身体を追い込み、何かに責め立てられるかのように考え込み続けることが多くなっていった。
桧作夕平や立花暁などとも、ここ最近は会っていないらしい。それも、彼女自身からその友人達と会うことをやんわりと拒否しているとも聞く。
常に感情を表に出さない彼女が、珍しくもあからさまに焦っているのだ。
「……なあ、あんま無理すんなよ?」
「…………」
「『あいつ』がいなくなって……その、なんだ。色々キツいのは知ってるけど、でも」
「……ええ、もちろん。大丈夫です」
あまり意味の無い言葉であることは分かっていた。
所詮彼とこの目の前の少女は違う。やや大げさな言い方をしてしまえば、彼女は別の世界にいる人間だ。自分の知らないこの世界の真実を掴んでいる一端ということを、青年は今更疑っていない。
しかし、そんな事情を知った程度の自分が何か労ったところで、彼女の心境を推し量れるわけでもなし、あまりの自分の言葉の薄っぺらさに呆れが礼にくる。
「
そんな胸中を察したかのように、少女は相も変わらず浮き沈みの感じ取れない棒の声でこう告げた。
「あまりお気になさらず。私は、これでも元気ですので」
「……そっか」
彼女は、賢い。自分よりも、数倍は頭の回転が早く、様々な物事に考えを巡らせることが出来る。
「……ああ、そうだったな。謎を解いてる最中のいのりちゃんは、楽しそうだ」
細波と呼ばれた男は、それ以上は何も言わなかった。
そんな賢い彼女が、大丈夫と言うのだから、これ以上の心配は余計だろう。
最初は得体の知れない、怪しげな印象しか無かったが、何時しかこうして彼女に対し大きな信頼を置いている。逆もまた同じであるなら喜ばしいと思うくらいには。
そう青年────
「────おい、ここに細波とか言うしみったれ探偵はいるかあっ!?」
店の向こうから、それまで流れていたBGMを掻き消す男の大きな声が響き渡った。
決して狭くはない店内の音を、一瞬でも断ち切った張りのあるその声は、怒号とも喚き声とも形容しきれない、荒々しい威厳さえ感じられた。
「……酷い言われようですね」
「探偵って、そんなもんだぜ」
「というか、何やったんですか」
「……ツテというツテを使って拝み倒し……いや、企業秘密で」
二人には、その声の主に心当たりがあった。
今日のこの時間、ここで待ち合わせるという約束をこぎつけるに至った人物。
本来、少女の個人的な都合だけでは、到底こうして会うことも叶わなかったであろう重鎮であった。
そしてそれに応対しなければいけない不幸なウェイトレスに対し、何かを話したかと思えば、すぐにずかずかと大股でこちらに近づいてくる。
少女は立ち上がり、そちらに向き直った。
その客というのは大柄の男で、まさに気丈夫という言葉をそのまま体現したかのような図体と覇気を持っていた。
背丈も、少なくとも実年齢が中学二年生相当の少女とは比べ物にならない。
段差も何も無いにも関わらず上から見下ろされて対峙する少女の姿は、あまりにも小さかった。
────だが、そんなことお構いなしに、少女は真っ向から視線をぶつけさせ、こう返した。
「本日は、こちらの都合でお呼び立ていたしまして、恐縮の至りです。お初にお目にかかります、
まさに不遜、怖じ気という単語を知らないその口ぶりは、一触即発とばかりに張り詰めた店内に、不思議と良く通った。
それに対し大宮と呼ばれた男は、躊躇いをおくびにも出さず名乗った『相手』に向けて、わずかに目を細めた。
「────以後、どうかお見知り置きを」
そう、例え相手がどんな立場の人間であっても、引けを取らない────いや、『取れない』理由が、彼女────祈にはある。
◆◆◆
「……こうして日本に帰ってくるのも、何ヶ月ぶりか」
『彼』は、その呟きが周囲の誰の耳にも届かないということを確かめるかのように、一人潜めた声を口内に溜めた。
その声音には、どこか懐かしさがあり、そして何か、それまで忘れようとしていた『しこり』に触れたかのような微かな苦々しさがあった。
「とりあえず、これからどう……いや────」
まるで白い蛇がとぐろを作って絡みついたかのように、その左腕全体に巻かれた白布の端切れが、木枯らし寸前の小風に揺れる。
「まずは、あいつらへの七面倒な言い訳でも考えておくかな────」
その笑みの形に持ち上げた口角は、誰にも知られることなく、人の流れの中に消え去った。
────そう、あの蒸し暑かった夏の季節は移り変わり、『あの日』から数ヶ月が経っていた────
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