第八十三話:次のプロローグへ
「――――.――――」
「――,――――!」
拓二が、医者の不養生をそのまま体現したかのような男と、何か外国語で話しているのを、琴羽は何も言えずに押し黙って見つめていた。
病院の外で男に出会ったのは、幸運だった。
拓二を知るだけでなく、祈達も知らないその病室まで連れて行ってもらえた事だけではない。
何故ならその男と少女は、拓二や祈以外に会った、『機械ではない人間』だった。
確かに男は不気味で、普通なら話す気すら起こらなかったかもしれない。
だが、その横に可愛らしい少女を娘として連れていること、そして表情も仕草も見えない機械を見続けた彼女には、新たな人間らしい人間に出会えたことの嬉しさが勝っていた。
しかも彼は拓二を知るだけでなく、祈達も知らないその病室まで連れて行ってくれた。
そのおかげで、拓二にも会えた。
拓二に会えて、嬉しかった。
そう単純に、思っていた。
「――――,――――……」
耳から耳へ流し聞いている限りでは、まるで母国語を話すかのように、拓二の話し振りは淀みないようだった。
拓二がこんなにも巧みに外国語を操れるということを、琴羽は知らなかった。
もっと言えば、拓二が入院する程の怪我をしたということも、祈に聞くまで知らなかった。
――――複雑だった。
知らない。知らない。
こんなにも自分は、彼のことを知らない。
知らない側面を見るたびに、不安に駆られるのだ。
自分のこの目との上手な付き合い方を、親身になって考えてくれた彼や、こんな引きこもりでどうしようもない自分に、何の同情も憐れみもなく接してくれた彼。
そして……溢した身の上話に何も言わず優しいキスをしてくれた彼が、どこか遠くに行ってしまいそうで――――
「……琴羽」
その時、拓二が名前を呼んだ。こっちを見て、いつも通りの柔らかな声音で。
途端の様子の変化に、思わず戸惑ってしまう。男を見る拓二の目や語気は、今まで見たこともなく険しく尖って映ったから。
「は、はい……!」
「あの二人、お前にはどう見える?」
「え、どうって……ふ、普通だよ。ああええと、普通というか、ちゃんと人の姿してるけど……ていうか、相川先輩が私にこの人達を連れてきたんじゃ……?」
「そう、か……」
尋ねても答えは返ってこず、考え込むように数秒黙りこくった。
そして、
「……琴羽、俺の言いつけは守ってるな?」
「え……?」
「俺が以前お前に言ったことだ、『その目のことは家族にも誰にも言わない』……守ってくれてるよな?」
「あ、はい……でもっ」
だが、その琴羽の続けようとした言葉を、軽々と遮った。
「もう一つだ……その対人恐怖症を治せ。人も機械も関係ない、ちゃんと外に出て、普通に学校に行って……今まで通りに喋れとは言わない、せめて受け答えは出来るようになれ」
「せ、先輩……?」
「それが出来るようになるまで、俺はお前と会わない」
「えっ……!?」
そして拓二は、泣く子をあやすかのように頭に手を置き、しかしどこか寂しげにはにかんでみせた。
「――――さよならだ、琴羽」
◆◆◆
「アンタら……一体、何なんだ」
忽然と姿を現した『彼ら』と対峙した夕平が、乾いた唇を動かす。
舌の根まで重々しく、発したその声はどこか自分の脳にも張り付かないほど軽かった。
「…………」
「ジェウロ、君はいいよ。僕が話そう」
夕平が、怪我さえなければ思うことなく詰め寄っていたと言わんばかりに睨んでいる先にいた男――――ジェウロは、何も言わない。
自分の主人よりも一歩前へ出ず、ただただ粛然と佇んでいた。
「……僕達は、何者でもないよ。ただの傍観者さ」
答えたのは、もう一人の金髪の男だ。
人ごみの中に入ってしまえば、あっさりどこにでも紛れ込んでしまいそうな、一見威圧も雰囲気もない男。それこそジェウロの方がよっぽどそれらしく見えるだろう。
実際、こうも柔和に笑う彼を見ていると、張り詰めた警戒がほぐれてしまいそうに感じていた。
「ただの傍観者……? ふざけんなっ、アンタら何か知ってるんだろ!? 何ぬけぬけと……!」
「そうだね……君が聞きたいこと、知りたいこと、僕達は全て知っている。……霧は全てを知ってるのさ」
「き、霧……?」
男はわずかにジェウロに目配せを送り、ゆったりとその足を進めた。夕平と細波に近寄るように、ゆったりと。
それに続き、少女が乗っている車椅子を押すジェウロ。
「────僕らは
柔らかな笑みを湛え、軽やかな語調で話し掛ける男に、夕平と細波が心中で狼狽する。
まるで本当に霞か霜であるかのように、自分達の前に降り立つ彼に警戒さえままならない。それが、何よりも恐ろしい。
「でも気を付けて、まっすぐな目をした少年。そればかりに気を取られていたら、うっかり足でも踏み外しちゃうかもしれない」
立ちすくむ二人に、男達三人は悠然と通り過ぎようとしていく。
それを止めようとさえ、何故か思えない。
その通り過ぎようとする最中、男は僅かに夕平の耳元にかがみ、そして息を吹きかけるように小さな囁きを言い置いた。
「――――……いいのかい? 君達を救った『彼』は、もうすぐどこかへ行っちゃうかもしれないよ?」
「っ!? 待っ……!」
言葉の意味を問い詰めようと彼に向き直ろうとした矢先、知った声が飛んできた。
「――――夕平っ!!」
何やら切羽詰っているような様子の暁の姿を認めた時、視界に釘を刺したかのように注意を引かれた。
「あ、暁!? 何だよ一体……」
「いいからすぐ来て! 」
「で、でも……!」
夕平が、ちらりと振り向き、そして――――すぐ近くをすり抜けた男達の姿が既にいなくなっていることに気付いた。
「いない……!?」
少しの時間気を逸らした隙に、まさしく霧のように忽然と。
必ず何かを知っているであろう存在に、まんまと逃げられてしまった――――と思う間もなく、少女ら三人は夕平達のそばにまで駆けつけていた。その中に暁と祈の他に、夕平が知らない少女もいた。
というのも一度彼女を命からがら助けた時は必死で顔を覚えるどころではなく、少し前に彼女が見舞いに来ていた時には夕平は眠っていたからだ。
とにかく、彼女らは三人とも病院の中で走るなと軽口をたたけるような様子ではない。息も絶え絶えの祈が、声を紡ぐ。
「小森先輩が先ほど私達のところにいらして、それで……」
が、祈のそこから先の言葉を引き継ぐように、少女――――琴羽がこう告げた。
「――――先輩、相川先輩が……! い、いなくなっちゃったの……!」
◆◆◆
駆け付けた時には、既に遅かったことがはっきりと分かってしまった。
琴羽の案内のもと、夕平がいた病室と階が違うだけのそう遠くもないその部屋に突入した時、彼らはみな一斉にそう感じた。
掛け布団は雑に剥ぎ散らかされ、病室はもぬけの殻。そう、ついさっきまでそこにいたであろう人物の姿は――――もう無かった。
誰かが先ほどまでいたかのような形跡は、確かにある。
そして同時に、部屋の主の不在を言葉無く告げるような寒々しさが、そこにはあった。
間違いなく、ここに拓二はいたのだ。
「……確かにありゃあ、病院に駆け込むくらい見てて酷ぇ傷だったが……こんな近くにいたのか?」
細波がぽつりと呟く。
「クソッ……遅かったってのか!」
「そんな……」
夕平はこぶしを握りしめ、強く悔やむ。
こんなに近くにいて、気付けなかったこと。一人にしたまま、あの日から一度も会うことなく自分達の前から姿を消したこと。
色々言いたいことも聞きたいこともあったのに、それも叶わない。まだ拓二自身の何も聞いてない。
そのことに対する様々でやり場のない感情が、身体中に押し寄せた。
「……とりあえず、看護師さんに聞いてくる! 待ってろ!」
真っ先に動いた細波が、そう言って病室を後にした。
部屋に残された少年少女四人は、何も言葉にできなかった。
頼るあてを失い、さめざめと涙を流す琴羽に、それを不安げながらもあやす暁。
祈は、一人静かにじっと考えに耽っていた。
「……ん?」
そして夕平は――――『あるもの』を見つけていた。
たなびくカーテンの隙間から陽光に照らされ、銀色に光りながら、ベッドの頭部分の背もたれ――――ベッドボードに突き刺さっている『それ』を。
「何だ……あれ?」
「え? あ……」
夕平の言葉に反応した暁、そして祈が、次いでその存在に気付いた。
それは、銀の趣向が凝らしてある小型ナイフだった。柄にぶら下がって付属している鞘にその短い刃を収めれば、ただの十字架のアクセサリーのようにも見えるだろう。
そして、残されたものはそれだけではなかった。
「……紙が挟まってる……?」
夕平の代わりというように近寄った暁が軽く引き抜くと、一緒に突き刺さっていた一枚のメモ書きのような紙片を手に取った。
「っ、これ……!」
暁は声を上げた。
そこに、簡潔な言葉が残されていることに気付いたのだ。
『すぐ戻ってくる。それまで預かっててくれ。――――相川』
その文字をこの場にいる全員で回し見て――――そして皆揃って同じ結論に辿り着いた。
「この字……もしかしなくても」
「……間違いありません、拓二さんの筆跡です」
持ち前の瞬間記憶能力に裏付けられたその言葉には、強い確信が込められていた。
「相川くんが書き置いたもの……ってこと? でも……」
暁の言いたいことはよく分かる。
拓二は一体どこへ行ったのか、いつ戻るのか、そしてそもそも、この言葉が本当かさえ分からない。
果たしてたったこれだけの文字に意味はあるのか、どう受け取ればいいのか、それが言いたいのだろう。
「拓二さんは、これを私達にあてたのでしょう。小森先輩が私達の所に来ることを見越して、私達に伝えたいことがあるはずです」
まだ他に手がかりは無いかと、祈はその紙片を穴が空くまでじっと見つめていた。
「伝えたい、こと……」
祈の言葉を、習うように反芻した、その刹那――――
それは、本当に不意に。
夕平の脳内に、ふと蘇る言葉があった。
――――えっとね、これまで彼が休んでいた時って、君達にはちゃんと事情を伝えてたんじゃないかって。それが嘘であれ本当であれ。
まるでそれは、夕平に何かを教えようとするかのようで。
「あ……」
思わず、間抜けな声が出た。
――――……相川くんは夕平くんと立花ちゃんをいつも気にかけてるからね。二人には何かしら伝えるんじゃないかな。
いつの日か、拓二が風邪を引いて学校を休んだ時のことを、思い出していた。
拓二の、自分達に伝えたいこと。
それはいつも、何かしらで自分達に伝えている。
あの時のように考えれば、きっと────……
「……拓二は、絶対戻ってくる。絶対だ」
独り言のように溢れた夕平の言葉に、他の三人が視線を集めた。
「だからまあ……信じて待とうぜ。言いたいことは、その時言えばいい」
「夕平、なにか分かったの……?」
夕平は、小さく笑う。
分かったのかと問われれば、分かったような気がするし、そうでない気もする。
深読みのし過ぎかもしれないし、ただの勘違いかもしれなかった。
しかし夕平は、一つの答えに導かれていた。
それが正しければそれでいいし、そうでなくてもそれはそれでよかった。そんな感じがした。
「あいつは……ひょっとしたらさ、本当の意味で俺達を『いつもの日常』に帰したかったんじゃないかな」
この紙で分かったことには、拓二は、生きていたということ。
拓二という『あの一日』そのものの過去と記憶は、生きていたということだ。
『あの一日』が夢だったのかと思いながら曖昧に日を跨ぐと言うことは、今この瞬間をも連綿と続く夢と思うことと同じだ。
目を背けて、夢だと忘れようとして、どこかで後ろめたく生きることと同じなのだ。もしこの置き手紙もなく、桜季も拓二も消えたままとなれば、そういう風にぎこちなくなってしまっていたことだろう。
これは、拓二なりの誠意なのかもしれない。
まだ分からないことが多い中で、それでも忘れてはいけないことは間違いなくある。
自分の中で息づいているものが、確かにある。
それを伝えるために、置き手紙だけでなく身に付けていた十字架を預けると言い含めたのかもしれない。
全ては推測で、もしかしたら自身の願望でしかないだろうか。
でも何となく、そんな気がしたのだ。
そして、そのことを夕平に気付かせてくれたのは――――……
「……ありがとう」
誰にあてたものと決まっていない呟きは、何故か言いたくなって口から出ていた。
◆◆◆
「…………」
背にした病院に、何の気なしに振り向く人影が一つあった。
彼は、名残惜しげに、じっと視線を自分が元いた病室を見上げている。
そこにいるであろう少年少女達の姿が、その目に見えているかのように。
『良かったの、タクジお兄ちゃん? せっかく……』
そんな彼の様子を見ていた少女が、尋ねかける。
少女は知っている。イギリスで、そしてここ日本での彼のやってきたことを近くで見てきた。
だからこそ、それだけ苦労して会わなくていいのかと問うと、彼は浅く頷き、
『……ま、あいつらにはまた会いたくなるかもしれないな……』
患者服を隠すためのローブを翻し、病院を背にした。
『お前らがムゲンループの住人としての俺を利用する気なのも、それはそれで構わない。だがな────』
そして一歩、その足を進める。
辿り着いた一つの結末も彼にとっては通過点、ただの途上でしかない。
彼は静かに、胸を躍らせていた。
千夜川桜季は死んだ。世界が何巡しても彼を縛っていたものは、これで全て無くなった。
無くなったもの、そして得たものを忘れないまま、彼はこの世界を『カシコク』生き続ける。
『俺は最初から最後まで、自分自身のためだけだ』
────……君も、いつかきっと分かるはず。
ふと蘇る声に、何のことだと呟きを一つ落とし、
相川拓二は、彼らとは別の『道』を歩き出す。
◆◆◆
『調整はほぼ万全。テスト中も仮統合した人格に破綻は見られなかった……流石、ムゲンループで培ってきた私の手際だ』
そして────『それ』は、最初からこうなることを待ち望んでいた。
『あのイギリス事件の時に、最後の人格であるエトーを呼び起こした日から約数か月……マクシミリアンは私を警戒していたようだったが、彼奴の思惑よりも早く、お前は「完成」した』
長い時を待ち、影に潜み、静かに澱み畝っていた。
『そして、アイカワ・タクジも我が手中、「最高傑作」のデータも手に入れた。死体を売ってくれと言われた時には、どうしたものかと思ったがな……しかし、これでお前は、この世で最も優れた生物兵器となれる! ククッ……このグーバ=ウェルシュが保証しよう……!』
絶対法則の狂ったこの世界で、己を研ぎ澄ませ、影は嗤う。
『嬉しかろう? 私はとても嬉しいぞ。ならお前も一緒に決まっているな?』
一際の喜色を隠すこともなく、喜ばしそうに声をあげた。
『なあ「エトー」……私の愛しい実験作むすめよ』
────一つの『物語ショー』が終わり、新たな『序章プロローグ』が、既にうごめき始めていた。
やがて訪れる、狂宴に向けて。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます