第七十六話:陽の暮れた屋上で、少年は答え合わせをする。

 雨がやむのをずっと待っていたかのように、蝉の一斉の鳴き声が遠くから聞こえてくる。

 風は湿りを帯びて生温く、残照と呼ぶにはまだ少しだけ早い日差しが、日没までの最後の輝きといった具合に眩く突き刺さった。


 学園の屋上は、雨で酷くぬかるんでいて、水溜まりに足がとられる。まるで無かったかのようでさえある、午前中までの大雨の存在を証明していた。


「綺麗でしょ? ここ、いい景色なんだよ」


 そんな空の下に、二つの人影が降り立った。

 それはどちらも、年若い少女であった。その内の一人、砕けた調子で話す彼女の名前は、千夜川桜季。

 彼女は、遊ぶように楽しむように殺し合い、己の頭と身体をこの馴染ませていた。


「私が見つけたんだ。一年生の時、初めて来た時におんなじ夕陽を見てね。綺麗だなあって」

「…………」


 そして、そんな桜季に連れられたもう一人の少女の名前は、立花暁と言った。

 彼女は、流されるがままに、未だ現状に頭が追い付いたとは言い難いなか、その身を捧げようとしている。


「でも……ここって、普段は閉鎖されてるんじゃ……?」


 まるで別の生き物のように、乾いた唇が動く。

 頭が鈍く、自分が何を言っているのかも分からない。

 ただただ、彼女の頭の中では、二人の少年のことがあった。二人を助けねばと、それだけが心の支えでもあった。

 自棄の気持ちもあった。自分のせいで傷付いて、苦痛にのたうつ『彼』の姿を見て、『それなら自分が死んだ方がマシだ』という強い罪悪感に駆られていた。


「……ま、ね。その時は、ここに通じる鍵を勝手にくすねちゃって」

「えっ、千夜川先輩がですか!?」


 素直に驚きの声をあげる暁を少し見て、ぷっと吹き出す桜季。


「あはは、そんなに驚くの? 今まさに、暁ちゃんを殺そうとしてるのに」

「あ、あ……そ、そうでした……」


 何を言っているのだ、自分は。

 今から殺されようとしているのに、何を当たり前のようにその相手といつものようにお喋りして。


 浮き足立っている。

 まさか自分が、と今でもどこかで思ってしまっている。

 病気をしたでもない、怪我をした訳でもない自分が、死という場所を理解しようとしても想像もつかない。


 この夕日が、生温く頬を撫でる風が、これで最後だということが信じられないでいた。


 何もかもが、自分とは無関係な場所で進んでいるような感覚さえあった。


「あ、ケータイはそこに置いておいて。遺書代わりにするから」

「あ……」

「何か言い残したいことがあったら聞くよ?」


 まるで死刑執行人のように、淡々と述べていく桜季に、ただただ戸惑う。

 それはそうだ。暁からしたら、他人事に限りなく近い事なのだから。


「ええと、その……わ、分かりません。私……」

「……そう。いいよ、適当に書いとくから」


 異様な光景であった。

 普通の女子高生二人が、その内一人の自殺について話し合っている。


 殺す方も勿論のこと――――殺される方もまた、感覚が狂ってきているとしか思えない。明らかに常軌を逸していているのだが、ただそれも、無理ない話だろう。

 人は、横から自分を見る目を持たない。

 彼女らにとって、これが自分の頭で考えた、最善の展開であるというだけのことだった。


 二人は、肩ほどの高さのあるフェンスの側まで歩み寄り、その手を掛けた。


「あ、あのっ! これで、ほんとに二人には……」

「分かってる。私からは、もう誰も傷つけたりしないよ」


 ほっ、と暁が胸を撫で下ろした。そんな話自体、そもそも確証もないということに彼女は気付かない。

 今の彼女は、体のいい人形だった。

 自分が犠牲になる、そこで思考を停止していたのだ。その事に、暁は気付かず一人で安堵していた。


 が、桜季は続けて、こうも話したのだった。


「ただ、さっきも言ったけど……積極的に私の邪魔をしに来る人がいるのなら、話は別だけどね?」

「え……?」


 その改まった言葉に、暁は引っ掛かりを覚え――――そして、ばっと振り返った。


「……ふふ。やっぱり、来たね。ずっとずうっと、待ってたんだよ」


 桜季は、既に話し相手を変えていた。

 そばの暁よりも離れたところにもう一人、いつの間にか居た『彼』に、話し掛けた。


「ねえ――――夕平くん」


 その声は、本当によく透き通る。

 夏の暑さにもうだることのない、透明な響きがあった。


「夕平……!? どうして……!」


 そこには、もう一つの人影――――集まった四人の三人目、夕平が佇んでいた。


 桜季、暁に続く形で、逃げ道を塞ぐように屋上と校内を繋ぐ階段を背にしていた。

 清上のロゴが入った体操服である短パンと、季節外れながら冬用の長袖の上着に袖を通していた。雨に打たれた服を着替え、学校に備えられていた予備を拝借したのだろう。


「どうしても何も。分かってないなあ、夕平くんなら来るに決まってるでしょ。それも、あんな庇われ方されちゃ。……ね、夕平くん?」

「…………」


 ――――彼は、これまで現状に流されてきた。

 訳も分からず、ただただ自己満足に空回りを続けてきた。


「……暁を放してくれ」


 これもまた、結局はその延長なのかもしれない。


 だが、それでいい。

 相手は、拓二や祈でさえ舌を巻き手も足も出ない桜季だ。これまでが、そしてこれからやることが絶対に正しいと、誰が証明してくれる?


 でしゃばってここまでやって来たのが、今ここに単身乗り込んだのが自己満足であるのなら、それでもいい。


 ――――自己満足のまま、俺は暁を助ける。


 彼の中に、先程のような怖じ気はもう無くなっていた。

 今の彼は、彼我の格の違いにも無頓着だった。


 ――――さあ、『答え合わせ』だ。


「……相川くんも来ると思うんだけど、見たところいないね。どっかに隠れてるのかな?」


 そんな夕平の唸るような低い声を、聞こえなかったかのように桜季は尋ねる。


「……あいつは、怪我が酷くてあれから寝てる。 手当てして、俺だけここに来た」

「嘘だね」


 桜季はきっぱりと即答してみせた。

 だが、夕平は動じた様子を見せない。むしろそう返すのは分かっていたとばかりに頷いてから、こう言った。


「……あいつの事は今はいいんだ。先輩は、俺に用があるんだろ? ……俺もなんだ。ちょっと、話をしようぜ」


 すると、夕平は首を鳴らし、足を肩幅に開いた。

 顎を引き、そしてゆっくりと、固めた両の拳を胸元まで持ち上げた。

 しっかりと、紅色の陽の下銀を放つ出刃包丁を包み込みながら。


 まっすぐ桜季を見据える彼の目には、確固たる意志が籠っていた。



◆◆◆



「千夜川先輩を、驚かせる……?」


 二時間前。

 端末からの籠った声に対し、夕平が上げた第一声が、それであった。


『有り体に言えば、そうなります』

「っていきなり言われても……」


 話の繋がらない言葉に、困惑気味の夕平が尋ねる。


「そもそも、そりゃ一体、何の意味があるんだ? いきなりそんな呑気な……子供をあやす訳じゃあるまいし」

『「Peek-a-boo」……ですか』

「へ? な、何て?」

『いえ、こちらの話です。……とりあえず、私の話を落ち着いて聞いてください』


 淡々と、講義をするかのような語調。

 こんな状況下でも、いつもの祈節は健在のようだった。


『確かに千夜川桜季はこちらの考えを全て見透かし、真っ向からの力比べでも勝ち目の無い、まさに無敵だと言えるように見えます。ですが、そこには敢えて目を向けずに別の視点から考えてみると、彼女にはある一つの傾向が見てとれます。その最たる例が、桧作先輩の介入の際の、千夜川桜季の反応にありました』

「お、俺の……?」


 姿なき声は、夕平に続けてこう説明する。


『思い出してください。最初、学校にやって来た桧作先輩を見付けたのは千夜川桜季でした。しかし彼女は、。違いますか?』

「あ、ああ……そう言えば」


 そう言えば、そうだった。彼には、思い当たることがあった。

 ほんの数秒だが、確かに――――まるで壊れたスピーカーのように『愛してる』だけを繰り返していた、桜季の呆然としていた姿を。


『そのまま桧作先輩を捕らえるなりなんなりすることも容易だったはずでしょう。ですが、そうしなかった……。さて、それは、一体何故か……』


 耳をそばたて、その次の言葉をぐっと夕平は待った。

 祈の推測には、説得力があった。聞き入ってしまうだけの注目点と、それに見合う根拠が語られていた。


「…………」


 拓二は、何も言わずに黙するのみだった。

 寝ているのか、それとも祈の話を遮らないようにしているのか、夕平には区別がつかない。


『……警戒していたのですよ、あの千夜川桜季が。桧作先輩の突然の乱入に、幾つも他の思惑を読み取ろうとして、ほんの数秒だけでも、あからさまな隙を作ったんです』

「それって……?」

『つまり、考える余地があればあるほど、千夜川桜季はより大きな隙を作る。特に、桧作先輩に関わることではその傾向は顕著のように見えます。そこに、私の考える「付け目」があります』


 祈の話は、決まった形の無い精神論的分析から導き出されたものだった。

 それは言外に、それ以外に付け入るべきポイントが無いと語るようなものであり、実のところでは、今が極めて逼迫した困難な状況であることを示しているようなものだった。


 だがそれでも、別の視点で捉えた上での勝負は、今までの過程を見るに合理的で効率的でもあった。


『千夜川桜季でも……深読みの思考に時間を掛ける時は確かにある。機械のように精密で深遠な吟味の時間が。そのことを意識すれば、かなり状況は変わってくるはずです。千夜川桜季は、人並みに驚き、戸惑う人間であるのだ……と』


 一つ一つ、確認するように祈はそう言葉を綴る。

 その卓越した能力に隠れた、桜季の弱点の存在を、そしてその答えを。

 その場にさえおらず、至極不利なこの状況で、それでも必死に光明を見出だそうとしていた。


『そして、その隙を作ることが出来るのは、今この場には桧作先輩だけしかいません』


 その結論は、順序を倒置されて夕平は聞かされていた。

 それは虚勢や強がりでは表現できない、確かな軸のある響きを持っていた。


 勝てる可能性――――それを信じさせるだけの言葉の重みがあった。


「……俺なら」


 と、その時。

 安静を自らの身体に課していた拓二が、おもむろに口を開いた。


「例えば、俺が夕平なら……千夜川にキスの一つでもして、驚かそうとするだろうな」

「うえっ!? お、お前、急に何を……」

「……何驚いてんだ、俺は本気だぞ」


 冗談のつもりはないと、続けざまにその真意をこう語る。


「お前と千夜川は男と女……それに、あいつはお前のことが好きと来た。だったらキスも、俺や他の誰でもない、お前だからこそ出来る手段だろう。効果は十分見込める」

「あ……ああ、そういう……」


 もちろんだが、拓二の言葉にそれ以上の意味は無いように聞こえる。

 こんな時に一人邪推がよぎり罪悪を浮かべる夕平に対し、拓二は首を傾げて追及した。


「……? 何か俺、変なこと言ったか?」

「いや、ちょっとびっくりしただけだぜ。てっきり拓二が――――その、先輩のこと好きなのかなーとか思っちまって」

「…………」

「ちょっと考えたら、そんなことあるわけないのにな。ははっ」


 自身の気後れを流そうと、冗談だと小さく笑うと、拓二は僅かに呆けたような表情を浮かべてから、 


「……ああ、そうか」


 ポツリ、とごちったその声は、言い知れない感情の翳りにあおられ、どこか物憂げに聞こえた。


「そういうことも……あったっけな。忘れてた」

「……?」

「とにかく、だ」


 訝しむ夕平に、露骨に話を打ち切る拓二。

 何かを隠しているようでもあったが、それ以上を話を広げる気はなさそうだった。


「恥を忍んで、お前に頼むと言ったんだ。やるもやらないも、何をするのもお前には自由がある。好きなように、暁を助けるために、お前の答えを見せてみろ」

「俺の……答え」

「そこから先は、俺に任せろ」


 夕平は、黙りこくった。

 目を伏せ、今までにない表情で、じっと思案を深めている。

 

「答え……か」

「夕平?」


 拓二が不審がって問う。

 返ってきた反応は鈍く、手で遮るようにしてあおぐと、


「……悪い。ちょっとだけ、一人にさせてくれ。頭ン中スッキリさせたいんだ」


 と、独り言のようにこう言った。


「俺……どうしても、二人に言わなきゃいけないことが出来た」



◆◆◆



「夕平くん……どういうことかな、それは」


 低気圧特有の風は失せ、空気は停滞する。

 赤みがかった、まどろむような世界だった。夢か現か、曖昧な境界線の上に彼らはいる。


「……俺は、先輩と喧嘩をしろって言われて来た」


 掲げられたナイフは、自衛にせよ脅迫にせよ、余りにも頼りなく、か細かった。

 拓二と比べ、握り慣れてないといった様子がありありと伝わってきたし、まるでそれがプラスチックの玩具であるかのように、桜季にとって何ら脅威ではなかった。

 あの刃先が、自分に突き立つ事は断じてない。それは間違いない。


 だが――――……


「……暁ちゃん、ほらちゃんと言った通り、仕切りをのぼって」

「でっ、でも……!」

「いいから。早く」


 銃を向けた。拓二から奪った、一発の弾丸が籠められた銃を。

 奇妙な光景であった。夕平がナイフを向けた桜季が、暁にその照準を合わせている。だがそれでも、一触即発という雰囲気でもない。

 まるで、この場の三人が繋がり合っているかのようだった。


 暁は、そんな夕平に何か言おうと、一瞬口を開きかけ――――しかし結局、その威圧に圧されるように顔を俯かせながら、言う通りに従っていく。


「やめろ暁! 言う通りにするな!!」


 叫ぶ夕平。だが、暁には無視されてしまう。

 もはや、諦めているようだった。絶望しているようだった。


「暁!!」


 返事はない。返事をしようとしない。

 呼び掛ける毎に、決意は凝り固まっていくようだった。


「無駄だよ。だって暁ちゃんは、自業自得だもの。自分が悪いんだって、分かってるもの」

「…………」


 何が自業自得なのか、何が悪いのか、夕平は尋ねなかった。


「これはね、罰なんだよ。暁ちゃんが、私に酷いことをした、その罰」

「…………」

「まあ、夕平くんには何のことか分からないだろうけど……」

「もしかして――――俺が事故に遭ったことか?」


 途端、暁の身体がビクリと跳ねた。


 それは、今日起きたこと全ての事の発端。

 今までの彼らの在り様を一変させ、捻じ曲がってしまった本当の始まりだった。


 へえ、と感心した声を桜季はあげる。


「相川くんに聞いたんだ? それとも……いのりちゃんかな?」

「……いのりちゃんに」

「……そっか。やっぱり、いのりちゃんも一枚噛んでたんだ」

 

 数歩だけ彼のもとに近付いた桜季は、そっと微笑む。

 近付いたというよりは、ぶらりと足を遊ばせ、たたらを踏んだだけに過ぎなかったが。それだけでも十分、威圧的だった。


「でもね、やっぱり夕平くんは――――皆は、何にも分かってないよ」


 彼女は語り掛けようとした。


「ねえ、私の言うことを信じて。あれはね、本当は――――」


 が、遮ったその夕平の声に、桜季の目が丸くなる。


「え……?」

「知ってるって言ったんだ。その、本当のことを」


 そして、今度こそ彼女は息を引き切り、その顔に驚きの色を浮かべた。



?」



 空気が止まる。

 一瞬、凍ったかのように場の気温が下がった感覚があった。


 そんな季節外れの極寒のなか、辛うじて桜季が尋ねる。


「どう、して……? どうして、分かったの?」

「……正直、なんとなくだな。証拠とかは無いよ」


 そして、今、この時。

 この凝固した空気のなかを普通に動いていられているのは――――何と、今まで場に流され続けてきた、まぎれもなく夕平であった。


「思い出せ、っていのりちゃんに言われて、一緒に思い出したんだ。あの時、俺達に向かってきたトラックの事……?」


 彼は、彼の出来る限りの言い回しで以て、述べていく。


「だってあれ、結構大きめのバン車だった。もし仮に、千夜川先輩が暁だけを殺そうとしてたんだったなら――――


 正鵠を射た発言であった。

 それも、あの夕平が――――と、ここに拓二がいたとすれば、そう言っていたかもしれない。

 現に、それを桜季よりも遠くで聞いていた暁も、話の内容よりもその夕平の様子に驚いているように見えた。


「でも暁は、それを勘違いした。遠くでライトを片手に持ってた千夜川先輩を見たせいで、先輩が自分を殺そうとしたと誤解して、でも、それが……」


 言葉尻を意図して飲み込んだ。

 そして、包丁の切っ先と一緒に僅かに辛そうに歪ませた顔を向け、彼は頼んだ。


「――――もう、暁を許してやってくれないか?」


 懇願する。

 それは、過去を悔いるように。懺悔するかのように。


 今更が過ぎる言葉であるのは、重々承知だ。実は、この場に臨むために考えてきた言葉に、このことは無かった。

 だがそれでも、気付けば言葉が口を衝いて頭よりも先回りをしていたのだ。


「もちろん、許せない気持ちもあるだろうし、それに――――結構、怖かったと思うんだよ。暁が自分を脅してきたんだ、って」


 夕平は、桜季の心境を自分のことのように鑑みて言った。

 故意でないとすれば、暁の認識が誤解であるのだとすれば、話は大きく変わってくる。


 暁からの提案は、優しくもあり――――そして、桜季からすれば酷でもあったはずだった。

 聞こえようによっては、事故の責任の所在を決めつけ、人殺しと告げた上で――――『自分は慈悲深い故に許してやろう』という優位に立とうとしているように聞こえるのだから。

 誤解であれ何であれ、その提案は本当に脅迫の暗喩と打って変わってしまっていたのだから。


 最後の最後、引き金を引いたのは、確かに暁だったのだ。


「…………」

「でも、それは暁が暁なりに、俺のことを案じてくれただけなんだ。だから――――」

「……すごい。すごいよ、夕平くん」


 桜季は、ぱあっと花開いていく花弁のような、弾みのある喜色の籠められた調子で夕平を迎えた。


「やっぱり夕平くんは、私のことを本当に理解してくれる。誰よりも君が、私を見てくれる。やっぱり好き。愛してる」

「…………」


 それは、優しい声音だった。

 この世にこれ以上のものがあるかと疑わんばかりの、耳当たりの良い響きが纏わる。


「だから――――『これ』も分かって欲しいな……こうすれば私達は、もっと幸せになれるの。誰にも邪魔されない、二人だけでずうっと仲良くすることが出来るの……ね?」


 だが、夕平の答えに対しては、冷酷なまでに否定を決め込んでいた。


「…………」


 対して夕平の顔は――――深く、濃い苦悩を刻まれていた。

 激痛を懸命に耐え忍ぶかのような、珍しい表情だった。


 会話の中での一呼吸にしては、重々しくも長い時間が流れた。


 そして、次いで口を開いたのは、夕平だった。


「……千夜川先輩と喧嘩をしろって、俺は言われた」


 それまでの内容と、何ら脈絡は無かった。


「頭を使えって、俺は言われた」


 それは、この場にいない拓二と祈から受けた助言。

 それは、桜季を討つための打開策。その弱点を抉るための策略。

 

「キスをしろって、俺は言われた」


 勝つためのそれらの言葉を――――彼は今、進んで曝す真似をしている。

 自分よりも優れた者から得た可能性を、自ら手放そうとしている。


「千夜川先輩を倒す? 暁を助ける? ――――


 そう、彼はここに闘いに来たのではなかった。


 彼は、話をしに来たのだ。そして、答えを見せに来たのだ。


「俺にはそのどちらも出来ないんだ。俺が出来るのは、答えを示すことだけだったんだ。それ以上でも、それ以下でもなく。こんなにも簡単なことを、俺は忘れてたんだな」


 独り言のようで、そうでないような、不思議な声であった。

 二人に話を聞かせているようでいて、自分に言い聞かせているようでもあった。


「……なあ、暁? 俺、お前に一つ、言ってないことがあるんだ。今まで……ずっと言えなかったことがあるんだ」


 そして出し抜けに、今までフェンスの向こうで口を閉ざして動かない暁に、話を振った。


「ちょっと前……お前さ、清上学園の入学試験に落ちたって話してたろ? 滅茶苦茶難しかったってやつ」

「……?」


 暁は言葉にこそ出さないが、話が掴めず、意図を図りかねていた。


「…………」


 夕平は次の言葉を言いあぐね、もがくように口を開いては閉じた。

 しかし、やがて、決心したかのように。


 ――――こう、言い放った。


「――――実は俺……俺も、ここの中学入試受けてたんだ。結果は……ギリギリ補欠合格だったんだけど」


 口から驚愕の息遣いが漏れ出るのを、暁は抑えることが出来なかった。


「え……?」

「あ、念の為言っとくけど、今はもうそんなの当然無理だぜ。当時の俺でさえ、あの合格は奇跡だったんだから。ま、おかげで今じゃご覧の有様だよ。千夜川先輩とかいのりちゃんとかいるような学校、もともと俺には向いてなかっただろうけどな」

「な、何で……?」


 暁は混乱し、訳が分からない様子であった。


「何で、教えてくれなかったの? そんなこと、一度も……!」

「…………」

「どうして、ずっと黙ってたの……!?」


 言葉がまとまってなくとも、言いたいことはよく分かる。


 そう、補欠とはいえ仮にも『合格』したのであれば、何故夕平は、清上学園のことを知らないと言っていたのか。

 そして――――何故夕平は、清上に入学しなかったのか。


 その答えは、夕平の口からゆっくりと語られた。


「……言ったら、絶対暁は気に病むと思ったんだ。だから言えなかった。言おう言おうとしてたんだけど……結局、ずっと嘘を吐き続けてた」


 清上学園を知らないと言ったのは、あれは彼の本当の言葉ではなかった。

 全国的にも有名な、この近隣一の進学校を知らないなどと口走ってしまった、過剰な嘘だったのだ。


「お前が清上に受験するって聞いた時、俺も必死こいて勉強した。お前が落ちたって聞いた時、俺もこっそり入学辞退した」


 彼は、言葉に詰まった様子で、一言一言をせっつきながらも続ける。


「……馬鹿だよな、本当。お前と離れたくなかったんだ。ずっと昔から居たお前と……また同じ学校で一緒に馬鹿やってさ。それだけで良かった。だから清上を目指したし、それを黙ってた理由も、お前に嫌われるのが怖くて……それで……」

「やめて!!」


 と、そこで突然、桜季が話に割り込むように叫んだ。

 どうやら、何かを――――正確には、夕平の言わんとしていることを先読みし、理解してしまったようであった。


「ゆ、夕平くんは、違う!! 違う違う! 夕平くんは、そんなこと言わない!! 私以外の女に、そんなこと!!」

「ああ、言わないさ」


 桜季の癇癪にも似た怒号を、夕平が遮った。


。――――だから今、こうしてる」


 初めから、彼のすべきことなど決まりきっていたのだ。


「そして……もうそれもおしまいだ」


 一人の少女が恋をして、告げられた愛に、その少年はどう答えるのか。


 学校の屋上、その夕暮れで。

 少年の前には、二人の少女がいて。そのどちらを選ぶのか。


 結局、突き詰めればたったそれだけの、簡単な物語なのだ。

 これは歪に入り組んだ、されどどこにでもありふれた、余りにも他愛のないお話なのだった。


「……ごめんな。俺がもっと早く言えば良かったんだ。もっと早く、言うべきだった。そうすれば――――……」


 その『ごめん』という言葉は、果たして彼女らのどちらに向けたものだったのか。

 それは、夕平のみぞ知ることなのだろう。


「お前は訊いたよな、俺達はただの幼馴染なのか……って」

「え……?」


 そして、彼は選択する。

 天秤を、傾ける。


 どちらを選ぶにせよ、その当てはまらなかった片方を彼は傷つける。片方を望み、片方を裏切らないといけない。

 彼は、片方の悪にならなければならない。

 どうあがいても許されはしない。しかし為さねばならぬこれからの行為に対して、責任とリスクを背負う義務が――――夕平にはある。


「その答えを、今……返すよ」


 例えその選択が、どれだけ誰かに罵倒されようとも、責められるに等しい行為であろうとも。 

 それらを知ったうえで、彼はそれでも決断する。


 彼の――――『答え』を。


 まっすぐ二人の少女を目で見据え、胸を張った。

 事の決着をつける自分が、うなだれていてどうするというのだ。

 

「ゆ、夕平……?」


 暁は、フェンス越しに夕平に視線を注いでいた。


「な、何してるの……ねえ……?」


 そのために、遠目からでも『それ』は分かったようだった。


 こちらに構えていたはずのその包丁が、いつの間にかこちらを向いていないことに。

 まるで、彼を指差し断罪するかのように――――



 ――――姿


「俺は、お前が……立花暁のことが好きだ。――――だから、お前は絶対死なせねえ」


 最後の告白は、くぐもった悲鳴によって上書きされ、掻き消された。

 まるで獣の呻き声のような、おおよそ人間の出すものとはかけ離れた声が響いた。


「――――あ」


 ――――この瞬間、桜季のその聡明な頭脳は完全にフリーズした。

 何が起こったのかを、ゆっくりと、その両目だけが全てを映していた。


 自分の目の前で、夕平がその腹に刃を埋め込んだ。

 しかしほんの僅かなその時間、夕平の動作を止めようとすることはなく、彼女の身体は完全に硬直していた。


 それこそが奇しくも――――祈が話した通りの、千夜川桜季特有の隙であった。


「い、いやああああああ!!」


 暁が叫ぶ。

 桜季はその絶叫を機に、弾かれたように動いた。


 駆け出し、すぐに夕平のそばに近寄った。

 その動きに、思考を挟む余地というものは見られない。


 それはそうだろう、今の今まで、その刃は自分に向かい、その上で自分突き刺さる可能性の無いことまで分析していたのだ。夕平自身に突き刺すことなど考えもしなかった。


「夕平くん!! ゆうへっ……!!」


 くずおれる夕平に、呼びかけながら手を差し出した――――その瞬間。


 


「えっ……?」


 夕平の腹を裂いた包丁は、既に抜き取られ、彼の血を帯びてその足元に転がっていた。腹部からはじわりと赤色が滲む。

 尋常でない鋭い痛みが、全身の筋肉を遺憾なく弛緩させ、その意識を奪わんと今も烈しく襲い掛かっている……そのはずだ。


 ――――?


「これ、は……っ……こんな、俺……自身への……罰、だ。せんぱ、ぃが……こんなになるまで……きづかなかった……ばつ……」


 桜季は、自傷した夕平に気を取られ、ついぞこの時まで気付けなかった。

 夕平が頭を使って導き出した、その『答え』の意味を。

 答えのない二者択一を選択した、彼の覚悟を。


 祈が語った、桜季の思考の隙。

 夕平は確かに、それを的確に突いていたからこそ、思考が及ばなかった。


「……ごめっ……んな、せんぱ、い……ごめ……ん、ほ、んと……」


 厚めの体操着の上からでも分かる、その下に『隠すように』重ね着されたその違和感。

 シャツや下着とも違う、


「――――


 声が、降りかかった。

 自分のものでも、暁のものでもなく、夕平のものでもない声が。


 そこには――――いつの間にか夕平の背後に立っていた拓二が、静かに見下ろしていた。


「まさか、こんな無茶苦茶するとは思わなかった。本当に……俺の想像以上の大馬鹿野郎だよ、お前は」


 ――――自傷したと見せかけ(もちろん、ベストに防がれたとはいえ十分深手ではあったのだが)、虚を突かれた桜季が逃げられないよう、夕平は最後の力を振り絞り、その腕を取っていた。

 夕平だからこそ、作れた最大の時間。


 それもこれも、全てはこの瞬間のために。

 全ては拓二に、絶好の機会を与えるために。


 まさに祈の話していたことの全てが、この瞬間に最高に噛み合っていた。


「ただ、さっき言った通りだ。――――『後は任せろ』」


 そう言い放ったと同時、未だ呆然と隙の残る桜季の顔面に、勢いの乗った膝が鈍い音を立てて打ち込まれた。


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