第七十四話:夕暮れは迫る。
グーバ=ウェルシュという男は、とても医者とは思いがたい、いっそ死神と言っても差し支えない容姿こそしてはいるものの、しかし事実、様々な医学分野において世界有数の権威として名を馳せていた。
内科や外科の心得は勿論、脳の末端から足の爪先まで、人間の身体で切っていないところはなく、また現代心理学にも有用な論文を様々に残しているマルチな才能を持つ鬼才。
また、南米や中東などへの渡航経験は数知れず、渡航先での紛争地帯において器材・人材面で困難な地のもと、百は下らない多くの患者を、たった一人、ものの一晩で治療してきたとされる、まさに生ける伝説。
学会で公表すれば人類史に残る程の名誉でさえ腐るような、薬草・薬品を幾つも個人で取り扱っているという噂さえあり、まさに現代医学の先を行く存在であった。
『日本というのは、奇妙な臭いがするな。海辺でもないのにどこもかしこも磯のようだ。おそらくは一生慣れないだろうな』
だが――――と、ジェウロは男の外面を改める。
直接顔を合わせたことこそほぼ皆無に等しかったが、その
そんな輝かしい経歴の背景に、このグーバという存在は、まるで腐乱した骸骨がそのまま人の皮を被ったかのようである、と。
その手段は治療と称した拷問、生体実験など。成果こそ合理的で上向きであるものの、それは明らかに自己の体裁を鑑みての『やむを得ず作った』成果であり、彼を知る者からは人道的疑問が残る人物だと。
そして、自分の望む結果のためなら、自分以外の他者を嘲り、卑下し、人の愚昧を引きずり出すことも厭わない悪魔だと。
『……どうして此方に? 今は「アレ」の教育の最中では』
ジェウロの恭しい問い掛けに、グーバはまるで応えず、ぼやくように続けた。
『貴様の顔には見覚えがある……そう、数えて二年前のことだったな? 違うか?』
『は。ジェウロ=ルッチアと申します』
『ふむ。ジェウロ=ルッチア、ジェウロ=ルッチア……』
かと思うと、かなり大袈裟な身振りで相槌を打ち、
『ああ、思い出したぞ! 今代「マクシミリアン」候補の「失敗作」か! いやはや、最近とんと物覚えが悪くなってしまったものだ……』
『…………』
礼儀の欠片も無い、明らかな挑発。
ジェウロはそれに、何も口を入れなかった。むしろ、看過するには容易な部類だ。
こうしてこちらの神経を逆撫でし、主導権を握ろうと仕向ける粗野な輩は数多く見てきた。今更、この程度で感情を荒げるような彼では無かった。
『私はマクシミリアンに二、三簡単な頼まれ事を受けていてね。奴の役に立てて、本当に何よりだよ』
脈絡無く会話が飛んだかと思いきや、先程のジェウロの質問に答えている。
まるで、弄んで遊んでいるかのように。
そう話しつつ、クククと枯れた笑い声を漏らすグーバ。
その態度からは、あけすけなまでの白々しさが感じ取れた。
『ビリー、来い! こいつらを掃除しろ』
それと同時、二人の元にフードを目が隠れる程に深く被った人影が一人現れた。
『それ』は無言のまま、横たわる男達を一人、二人と担いでいく。ガタイの良い男の身体を運ぶのに、何ら苦心している様子はない。
『……その頼まれ事の内には、君への手助けも含まれていてね。なあに、礼などいらない、同じファミリーの者同士、助け合わないとな……?』
……どうしたことだろうか。
目の前の男が喋る一言一言が、回りを飛ぶ蝿のようにうっとうしく、知己の訃報のであるかのように気が滅入る。
対面してはっきり分かる。このグーバという男は、人を不快に嘲笑いながら会話することに関しては、どこまでも一級品だ。
『それにしても……まだあのびっ〇を世話しているのか? 医者の端くれとして改めて告げておくがな、それなら無駄だ。あの足は、もう年を経ても動く事はあるまい。……フン、かつて惚れた女の娘のためとはいえ、どこまでも甲斐甲斐しいことだなぁ、ジェウロ君』
しかし、その狙いが分かっているからこそ、ここで憤るわけには――――
『――――しかし、あれならいっそ、腐り落ちる前に切り落としてしまって、義足でも取り付けた方が幾らかマシだろうて』
『……失礼ながら、グーバ博士』
途端、ジェウロの身体がぶれた。
その次の瞬間、鈍い音が木霊する。
『…………』
音を置き去りにする勢いで放った拳は、グーバまで届いてはいなかった。
ビリーと呼ばれたフードの人物が、瞬きさえ遅い程の刹那に両者の間に入り込み、ジェウロの攻撃を受け止めていた。
ビリビリとその衝突点が震えている。とんでもない力の拘留が、そこにあった。
『……私を笑いたければ、お好きになさって構いません。私の劣等を責めるのも結構』
丁寧過ぎる物腰と、剥き出しに唸る犬歯。
『しかし、エレンお嬢様への侮辱は、ネブリナ家そのものへの侮辱。口が回るなら回るなりに、一度その頭も回して言葉を再考してから話すことをお奨めします』
その隠しきれない怒気は、今にも天を衝き、周囲をぐにゃりと澱ませていく。
『――――言葉に気を付けろ、ドブネズミが……!!』
そして、空気がひび割れたかと思わんばかりの殺気の迸りに、フードの人物が構え直す。
『よせ、ビリー』
が、そんな一触即発な二人を制したのは、事の根源であるグーバであった。
『……今のは、聞かなかったことにしてやろう。せめてもの慈悲というものだな』
作業に戻れ、とグーバが端的に命令すると、ビリーは黙したまま構えを解き、何食わぬ顔で作業を再開した。
一方今の相対で、ジェウロのプロの目は、一つの事実を見抜いていた。
――――あのフード服の者……女……?
――――それに、『ビリー』という名……どこかで……。
『……さて、と。世間話が少し長くなってしまった。急ぎ本題に入らなくては』
『本題……?』
『それが、私がここにいる理由の二つ目だ――――そして、まず一つ問いたい』
グーバがチラリと視線移した先にあるもの。
その方向と意味にジェウロが気付いたとほぼ同時死神のような男は口先をひん曲げさせた。
『――――アイカワ・タクジだが……彼奴はまだ生きているのか?』
◆◆◆
時刻は、午後の一時を回っていた。
雨は既に小雨に弱まり、夏の暑さが顔を覗かせ始めていた。
冷房もついておらず、学校内はより湿気が高くなってきた時間帯であった。
「……本当だ。理科準備室、空いてるな」
血でまみれた拓二の身体を、雨で滑りやすくなりながらも背負った夕平が、呟いた。
理科準備室は暑苦しい空気が籠り、拓二を休ませるのに、とても適している環境とは言えなかった。
しかし、そうも言っていられない。拓二が瀕死の今、その選択肢は当然であるが故に、桜季にも考え付くことだからだ。
もし今、桜季と鉢合わせすれば、今度は助からないだろう――――
『やはり、拓二さん達はここを隠れ場所にしていたのですね……』
――――という、耳の端末から聞こえる祈の進言により、ここに来ることとなったのだ。
服の襟に取り付けた簡易マイクに向けて、唯一の外との通信を繋いでいく。
「何で、そんなん分かったんだ?」
『私が拓二さんなら、私も理科準備室を選択していたでしょうから。C館……真ん中の校舎の二階であるために窓から逃げられる上にそこからの行き場も多く、棚の薬品で足止めが出来る。それに――――』
一瞬の間を置いてから、どこか陰りのある声で続けた。
『……学校では保険室の次に理科室が、救急の用意は充実してますから』
「…………」
それはつまり、拓二が『そうなる覚悟』をしていた、ということで。
この結果を予期していた、ともとれる。自分と桜季との差を、彼は最初から理解していたのだ。
「……なんつーか、そこまで考えてるのかって思うと、いっそ不気味だな」
と、つい思わぬ捻ねくれた口が出る。
が、それはとても本心からの言葉などではなかった。
自分のせいで――――……と喉元まで出かかった言葉を、夕平は一人静かに押し殺していたのだ。
そう口にしたかった。
口にすれば、どんなに楽だったろう。気持ちの置き場を確保して、一人だけで嘆くことも出来ただろう。
が、今はそんな自分本位の泣き言なんて後だと思い直したのだ。
『よく言われます』
「あ、いや、そんなつもりじゃなくて……ご、ごめんな」
『いえ、慣れてますから』
彼女は本当に気を遣ったようでもなく、何てことないと言った感じで答えた。
その事が少しだけ、夕平の気休めになった。
『ではまず、急いで拓二さんの出血を抑えましょう。火傷用ですが奥の戸棚にあるガーゼと包帯、後はバケツに水をありったけ汲んでください』
「分かった」
夕平は祈の声だけの指示を左耳に受け、操り人形のように動いていた。
情けない話、もし祈の声に気付かないままだったなら、あのまま一人動けないままだった。
あの人間離れした光景と、自分との差にうちひしがれていただろう。
その事を、先程詫びるように祈に話すと、彼女はしれっとした声音で、
――――謝る必要はありません。私も、桧作先輩にそこまでの働きを期待してはいませんでしたから。
現状への余裕の無さからなのかどうなのか、バッサリとしたその不遜な物言いに、思わず面食らってしまった。
――――ですが、任せてください。打つ手はあります。これからは、私が指揮を取りますから。桧作先輩は、指示に従ってください。
それでも、続くその言葉には強い頼もしさを感じ、自然と頷き返していた。
「……そういや、いのりちゃんは今どこにいるんだ? 声が相川のコレから聞こえるのは何でなんだ?」
『詳しい説明は難しいのですが……そうですね、簡単に言えば――――私のお友達のお友達が拓二さんのお知り合いだった、と言った感じです』
「何だそりゃ……相川と言いいのりちゃんと言い、色々謎だよなあ……」
『私が今いるのは学園の外ですが、先輩達の様子は拝見しておりますのでご安心を』
「様子? どうやって?」
尋ねると、通信の向こうの祈が冷静に答えた。
『学校内部をカメラが中継しているのですよ』
「学校を……?」
『はい。防犯カメラを特別に』
そこに夕平は感じ入るところがあったのか、しばらく考え込み、声をあげた。
「あっ、そ、そんなら! 今千夜川先輩がどこにいるか分かるんじゃないか!? そしたら……」
『それは……』
その提案に、通話の向こうにいる祈はばつが悪そうに言葉を濁した。
そして、返ってきた答えはどこか気落ちしたように聞こえた。
『……すみません、無理そうです。この現時点の私の介入も、実はかなりスレスレみたいです。これ以上の介入は、〝最悪全てが崩壊してしまう可能性があって〟』
「え、そ、それって……」
『……「それでは面白くない」……ということですよ』
「っ……!」
その意味を、夕平は理解することが出来た。
いや、知っていた。
先程、祈と話した『もっと上』……この件を包括するその存在のこと。
自分達を――――それも、こんな狂気の沙汰をまるで暇をもて余した遊びのように、 不躾に、無遠慮に高みから眺めて笑う。
その理由が、『面白いから』など、どこまでもふざけてきっている。
『どうか、堪えてください……ですがもし本当に万が一の事があれば、そんなこと構わずお伝えします』
「でも、それじゃいのりちゃんが……」
『私の事はお気遣いなく。大変なのは桧作先輩達なのですから、そちらの事に専念してください』
「くそっ……!」
『……取り敢えず、今はやれることをやりましょう。そうしたら、お話しします』
手当ての準備のために手を進めている最中、祈は冷静に続ける。
それが夕平の頭に冷や水を浴びせる形となり、やり場のない感情を落ち着かせられていられた。
「話すって、何を?」
『決まっています』
しかし次の彼女の一言は、事務的ながら夕平のその手を止める程の衝撃があった。
『千夜川先輩――――いえ、千夜川桜季の、弱点について』
「じゃ……弱点……!?」
考えもしないことだった。
夕平は、自分がそれまで見た光景を思い返す。 あの拓二が簡単に引き回され、素人目の自分から見ても圧倒的に叩きのめされていた様子を。
暖簾に腕押し。赤子の手を捻る。
そんな形容が相応しい闘いを前に、太刀打ちしようと言う気すら失せかけていた。見せつけられた訳が分からない次元に、途方に暮れていた。
「それっ、そんなのがあるのか!? それ、どういう事だよ!」
だが、弱点。弱点だ。
ゲームでもアクションの世界でも、弱点と言えば一発逆転の画期的な攻略法。
弱者が強者を打倒する可能性を示唆する、分かりやすい希望の響きを持つ言葉。
だが現実に、そんな分かりきったものは存在しないというのに。この世に確実と言う言葉が薄っぺらいように、この世に必勝法などあり得ないというのに。
藁にも縋る気持ちだったのかもしれない。
力の無い夕平にとって、その単語は酷く甘美に聞こえた。
夕平が、より詳細を聞こうとした。
まさに、その時だった。
「……何が……弱点だって?」
夕平のものでも、祈のものでもない声が、閑静なこの部屋の空気を震わせた。
もっとも、夕平を除けば、この場にはもう一人しかいないのだが。
「夕平、と……今話してんのは……そうか、いのりか……そうか、ベッキーの通信を使って……」
浅く繰り返す呼吸で掠れ、今にも途絶えてしまいそうな程にか細い呻き。
輪郭が胡乱げで、今にも消えてしまいそうな存在感の声が宙に溶けいった。
「一体どういうつもりだ……お前ら」
――――手負いの獣が、目を覚ました。
◆◆◆
「……雨、止んできたね」
桜季は、窓の外を見て呟いた。
彼女は器用に窓枠に身体を乗せ、くるくると手のなかで銃を弄んでいる。拓二の懐から、去りげに取っていた物だった。
命を奪うための重たいそれを、軽々と扱っている。
見慣れない玩具を眺める子供のように。
「これなら、夕方にはよく晴れそう……よかった」
桜季は、笑みを浮かべる。
今からなら、三時間経たず夕方が拝めるだろう。
やがて、この薄暗い曇天を切り開くであろう光を待ち望んでいるかのように。
「ねぇ、暁ちゃん?」
暁は、そんな桜季のそばでうずくまっていた。
拘束というより、放置だろうか。特に手枷足枷のような何かしらの処置は施されておらず、逃げ出そうとすることは出来るだろう。
だが、桜季がいる。
たったそれだけで、抵抗も無意味だと理解するのはそう難しいことではなかった。
「……千夜川先輩、もうやめてください……こんなことして、何になるんですか……?」
暁が、今にも泣きだしそうな、喉の震える声で話した。
恐怖ではない、もっと別の――――『取り返しのつかない』ことに対する自責の念のようなものが、そうさせていた。
「…………」
「私を殺したいのは……分かってるつもりです。私は、先輩に余計なことをした。だから疎ましい、って言うのは理解出来ます」
でも、と言い置き、続けた。
「相川くんは、そうじゃない。あんなっ……になって……!」
思い出すと、言葉が詰まった。
辛かった。それが、直接的でないにしろ、自分もまた、間接的な原因となっていると分かっているから。
本当は、こんなことと関係無かったはずなのに。
「やめる、か……」
素振りだけは、説得に耳を傾け、思案しているように見える。
だが、違うのだろう。答えを聞く前から、分かりきっているような感覚さえあった。
「……んーん。やっぱりダメ。それは私のなかの何かが許さない。貴女と……それと、特に相川くんは放っておけない。私の邪魔になるものは、取っ払っておかないと」
笑顔は絶やさず、ふりふりと空いている方の手を扇ぐ。
その手の甲からは、今も血が垂れていた。
拓二が残した、浅いとは言えない爪痕。おそらくは、完治したとしてもこれから先、一生残る傷だろう。
痛々しいそれを見て、まるで桜季の代わりと言うように、辛そうに顔を俯かせる暁。
「……私ね、綺麗になりたいの」
すると突然、桜季が口を開いた。
それは頬を赤らめ、夢心地であるかのような表情で、一見普通の恋する乙女のようであった。
「もっともっと綺麗になって、夕平くんをお迎えするの。夕平くんに、私を見て欲しい。……でも、私自身に出来ることは全部やったから。後は、その周りだけ。私達は、二人だけになるの。そうすれば綺麗でしょ?」
「……私達は、汚れですか」
「そういうことね。夕平くんとの逢瀬を邪魔する、汚れ。それなら一度、リセットすればいい。簡単な話よね」
朗々と、桜季は語り続ける。
「でもね。これでも大分、チャンスはあげてるんだ。さっきだって、暁ちゃんの言う通り、殺さないであげたでしょ?」
「…………」
「ほんとは分かってたよ? もしあの時私が相川くんを殺しても、暁ちゃんは夕平くんを殺さなかったってこと」
くすりとたおやかな笑みを浮かべ、
「臆病だものね、暁ちゃんは。自分の手を汚くはしたくないものね」
「私は……!」
「私もね、同じ。別に殺したくて殺そうとしてるんじゃないの。夕平くんに会うまで、あんまり手を汚したくないから」
「な、何言って……」
「でも、それが自分のところに向かってくるなら、それは別だよね? 夕平くんだって、許してくれるよね? ……まあ、知らないけど」
そのくすくすと押し殺した忍び笑いがまた、透けた頭蓋が笑んでいるかのように空目して、暁は何も言えなくなってしまった。
「夕焼け、綺麗だろうなあ。待ち遠しいなあ……」
どこか上機嫌な、口笛でも口ずさむかのような調子の声音が、濁った色合いの曇り空に染み入った。
◆◆◆
「あ……相川、大丈夫なのか……!?」
目覚めた拓二に、夕平が声をかけ、慌てて近寄る。
壁に寄りかかった拓二は、糸の切れた人形の如く顔を伏せ、力なくうなだれているのは変わらないものの、どうやら起きているようだった。
それまで聞こえていなかった微かな物音と、増していく苦しげな息遣いが、それを示している。
「おい、どこだ夕平……その端末寄越せ……」
「あ、いかわ……?」
しかしそれよりも……拓二の状態だ。
「どこだ、ゆうへ……ぐっ」
言いながら、さ迷わせているその手は――――目の前の夕平を捉えている様子ではない。
――――まさか……俺が見えてない……?
そう、桜季から受けたダメージは決して浅くなど無かった。肩口の深い刺傷は、血を抜いたショックと余りの痛みに、彼の視力を著しく奪っていたようだった。
『……桧作先輩。お願いします、少し代わってもらえますか。先輩は、そのまま手当ての方を』
「あ、ああ」
『すみません』
耳からイヤホンを外し、手で差し出した。
拓二はそれを、引ったくるように取っていった。
夕平が言われた通りのことに従い、バケツに水を注ぎ、保冷剤にドライアイスをビニール袋に詰めてから、包帯を手に取る。
そんな折、
「――――お前、自分が一体何をしてるか分かって言ってんだろうな……!」
ドスの利いた囁き声が、離れて聞こえた。
「――――その賢いおつむで、上手い言い訳は思いついたか? おい……もしこれであいつらに何かあってみろ――――その時は、千夜川もお前もぶっ殺してやるぞ……!!」
拓二が、祈に向けて怒っている。
夕平にとっていつでも物静かで、年不相応なまでに冷静沈着な拓二が、聞いたことのない激しい語調で、祈をなじっていた。
「――――相川……頼むよ。そこまでにしてやってくれ」
夕平は、それを聞いて居てもたってもいられなくなった。
それが火に油を注ぐことになるかもしれないとしても、口出しせざるを得ない――――いや、しなくてはいけなかった。
「相川、いのりちゃんは悪くないんだ。俺が、無理言って……」
「…………」
「だから、いのりちゃんを怒らないでやってくれ。怒られるなら、俺だ」
じろり、とその落ち窪んだ目が夕平を射抜く。
久しぶりに会ったような気さえする友人には、威圧感があった。強い執念が形となって渦巻いているかのような、言い知れぬ重圧が、この部屋全体に拓二を中心として沈殿しているのが分かった。
そんな今まで見てきた友人の、見たことのない空気に半歩分、無意識にも夕平が仰け反ったと同時、舌打ちが飛んだ。
「……お前は、そうだろうよ。そう言うだろうと分かってたさ、俺は。だからこそ、お前らは蚊帳の外に追いやっていたのに」
「…………」
「先に言っておくが、これから何があろうとお前だけは死なない。夕平があいつに殺されるようなことは無い。それは絶対だ」
血を撒き散らすかのような咳を交え、それでも静かに、苦々しげに言葉を吐き出す拓二。
「……だが、お前が来たせいで、暁が死ぬ確率も上がるかもしれない。現に今、暁は桜季の手元だ。だからこそ訊いている……一体ここに何をしにきた。お前らは一体何のつもりだ。俺を――――邪魔しにきたのか」
しん、と場が静まり返った。
拓二の自分達を責める口振りが、重傷を引きずった身体だとは思えない程至極真っ当で、何も言えなかった。
きっと、今も頭も虚ろで、視界もまだはっきりと治っていないはずなのに。
『…………』
端末の向こうで、気配があった。
丁寧に慎重に、口にしようとする言葉を選んでいるような、そんな気配が。
夕平も拓二も、気付けば端末を囲うようにして次の言葉を待った。
今のこの沈黙を破る者は、この場にいる彼らではなく、今ここに姿の無い祈だった。
『……「後悔はやり直して変えろ。そしてどうしてもって時は、それまでの自分のやり方を疑え」』
「え……?」
やがて告げられたのは、そんな突然の一言だった。
当惑する夕平をよそに、祈はこう続けた。
『覚えておいででしょうか? 拓二さん……貴方からもらった言葉です。私は……今まで忘れたことなんて、一度もありません』
その言葉に、夕平は首を傾げた。
いや、彼には、知る由もないことだろう。
そう――――ムゲンループの住人でない彼には、知らない世界の話だった。
一人の少女が打ちひしがれ、そんな中で偶然にして同じ境遇の少年が出会ったことなど、彼には。
『思い出してください。この数か月、私が拓二さんに話したことを』
「思い……出す……?」
『そうです。千夜川桜季について、私の目線で伝えたことを……』
頭が急速に回転する音が聞こえた。
もちろん、傍から見ているだけの夕平には、そう錯覚しただけに過ぎないのだが。
しかしそれでも、目の焦点すらまともに合っていなかった拓二が、祈の言葉を少し聞いただけで息を吹き返し、その血流をどんどん巡らせ始めているように見えたのだ。
彼はぶつぶつと何事か呟き、
「……思い当たることは、無くもない」
返した言葉は、やはり小さいながらも、どこか芯の張った、寝起きから覚醒した直後のような声色をしていた。
「俺とお前の仲だ、おおよそ言いたいことの見当はつく……だが――――正気か? 俺には、お前の頭がとち狂ったようにしか見えんぞ」
『だからこそですよ。他の真っ当な選択肢は、今しがた潰えたばかりでしょう?』
「…………」
拓二は、思考する。
とても正常とは言えない、その痺れきった頭で、懸命に頭を回していた。
これから、どうすればいいのか。
これから、どうなるのか。
自分の事、祈の事、夕平や暁の事。
そして、桜季の事。
その全てを包括し、考え続ける。
これら全ての最善を。
「な、なあ……話が見えないんだけどさ。俺もどんな作戦なのか、一応聞いていいか?」
そして、話に入れない夕平は、おずおずと尋ねる。
拓二が驚くからには、何か問題でもあるのだろうか。
そんな不安混じりの問いに対する答えは、祈の口から告げられた。
『……桧作先輩には――――』
そして、その瞬間。
目の前で腰かける拓二と、確かに目が合った――――。
『――――千夜川桜季と直々に、「喧嘩」をしていただきたい……そう、考えています』
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