第六十話:清上祭・告白

 私には、生まれる前からの記憶がある……って言ったら、君は信じてくれる?


 ああ、うん。まあ突然こう切り出されたら、そういう顔するよね。

 分かってたけど、ちょっと傷つくなあ……なんて、冗談だよ冗談。


 別にそう大層なことじゃないよ。

 ただ、湖底だか海底だかで、じっと息をひそめているだけのぼんやりした記憶。

 溺れたり、苦しくなったりはしなくて。むしろ心地いいくらいで、ずっとここにいたいよー、って思ってた。

 その記憶がお母さんのお腹の中だったんじゃないかって思うようになったのは、それからずうっと後のことだけど。『胎内記憶』って言って、そういう胎児のころの記憶が残るって事例は、実際あるらしいよ。


 あそこは確かに気持ち良いところだったけど、暇だったかなあ。あんまり覚えてないけど。

 ああそうだ。私、そこでお願い事をしてたんだ。

 神社参りするみたいに、お腹の中でずっと。


 


 そんな幼稚で、無邪気な子供みたいなこと。


 なんでって言われると……これは、生物の本能みたいなものなんじゃないかな。

 楽して生きたい、苦労せず優秀でありたい、かっこよく美しくありたいっていうのは動物の一番の欲求だろうから。

 あはは、私だって楽したい時くらいあるよー。失礼しちゃうなあ。


 ……でも、思えば、そこからだったのかな。


 ────世界が、私のために都合よく出来てるって感じるようになったのは。



◆◆◆



「……『恵まれすぎ』。それが、自分を表すのに一番しっくり来る言葉かな」


 たき火の火種は既に燃え尽き、その周りの空気が夏の夜の帳に溶け込むように蒸し垂れ込める。

 夕平と並んで隣に腰掛けている桜季の言葉が、闇夜の静寂に灯を落としていた。


「私は、だって……『私にも出来ないことの一つはあるはずだ』って、そう思いながら、『自分の不可能性』を確かめるために生きてきたから。世界が私のためにあるなんて錯覚から目を覚まして、人並みの挫折を、困難を、私は味わいたかったの」

「……何て言うか。凄いこと言ってる気がすんのに、望むことはそんな凄くないんだな、千夜川先輩って」


 それまで、桜季の話をじっと聞いていた夕平が口を挟んだ。

 その言葉に、軽い笑みで応えた。


「あはは、そうだね。自分で言ってて変な話だと思うんだけどね」

「……いのりちゃんとか相川もそうだけど、頭いい奴の考えることって、ほんとよく分かんねえなあ」


 肩を竦めて、息を吐き出すように返した。


 今だってそうだ。


 祭りの前日に、突然電話を受けたことから話は始まる。

 この場所にこの時間で呼び出され、先の見えない話をじっと聞くこと十分。

 結果、その意図が読めないまま、今日は悶々と祭りを過ごすこととなってしまった。


 それも、『たった一人で来て欲しい』という条件付きで呼び出されて、こうして自分達二人だけになっているという今の状況。


 まさか……とついつい自意識過剰な邪推が飛ぶのを、祭りの最中には何度も追い払って、夕平はここに来た。その時そばにいた暁には、心配され、気を遣わせてしまったようだが。


 すると桜季が、何かを思い出したようにこう口を開いた。


「……あ。そういえば似たようなことを、相川くんに一度話したっけ」

「相川に? なんでまた……」

「相川くんならこの感覚が分かるのかなって、ちょっと期待してたんだけど……まあ残念ながら、フられちゃったけど。あはは」

「共感? ……あいつが、恵まれてるって?」


 少し驚きながら、夕平は拓二をイメージする。


 確かに、同じ年頃とは思えないところや、話してみると掴み所が無かったり、謎めいた重みのある発言をしたりと 、ちょっと変わったところはある。まるで自分や暁に何かを隠しているかのように。


 が、それでも桜季程の桁外れの人間にここまで見初められるというのは、凄いと思うと同時に少しだけ違和感が残った。


 続く言葉は、まるでそんな彼の思考を読んだかのような、桜季が考える拓二の分析だった。


「何て言うかな……私と相川くんって、おんなじ考え方をしてるんだと思う。潔癖で、欲張り。欲しいものを欲しいって思って動くタイプ……かな」

「欲しいものを欲しいと思うって、そりゃ誰でもそうじゃ……?」

「そう思うだけなのと、実際に動くのはちょっと違うよ」


 言って、くすりと笑いかける桜季。


「やっぱり私と彼はよく似てると思うんだ。表面じゃなくて、性格よりももっと根本のところが。……もしかしたら、友達になれたのかもしれないのにね」

「おいおい、まるで今が友達じゃないみたいじゃんか。……仲良く、出来てないのか?」

「……どうかな」


 一旦言葉が途切れ、凪のような沈黙が訪れた。

 見ると、桜季は空を見上げていた。つられて、夕平も顔を持ち上げる。

 星一つない夜空だった。そこには何かがあるとも思えない。

 しかし桜季には、その先が見えているのかのように。じっとそのまま動かなかった。


「……なあ。どうして俺だけここに呼んで、こんな話したんだ?」


 尋ねる。 

 これがとりとめもない世間話であれば、夕平も尋ねることはなかったのだが、どうもそうでもない雰囲気を醸していたから。


 桜季は、申し訳なさそうにして身体を小さく丸めた。


「あ、ごめん……色々、おかしなこと話しちゃって。夕平くんには面白くはなかったよね」

「いや……それはいいんだけどよ」


 続ける。


「相談に乗るの、嫌いじゃないし構わねえんだけどさ。でも俺、頭よくないしな。さっきの話の半分も分かってない……」

「……ううん。いいんだよ、それで。聞いてくれるだけで」

「そうか?」

「うん」


 そして唐突に話を切り替え、こう尋ねた。


「……おかしなことついでに、もう一つだけ。夕平くんは、『胡蝶之夢こちょうのゆめ』って知ってる? 有名な荘子の説話なんだけど」

「こ、こちょー? そうし……?」


 突然の話に、頭が理解に追いつかない夕平。


「まあ簡単に言うと、今こうしていることが夢か現実か分からないことの例えなんだけど」


 苦笑して、桜季は言葉を紡ぐ。

 その瞳が夕平を真正面に捉え、慎重に重々しく口を開く。

 

「思ったことはない? ……例えば誰かと話してる自分が、突然誰なのか分からなくなったりとか……そう、話してる相手が、自分の意思とは関係なく口を開いて話したり動いたりするのが、不思議に思ったり」

「……?」

「うーん……ごめん、上手く言えなくて」


 桜季も、上手く言えないもどかしさを感じているのか、言葉を選んでは捨てを繰り返しているように見えた。


「運がいいと、『信じられない』って人は言うでしょ? 嘘みたいなことが起きると、まるで夢のようって人は言うでしょ? ……私はまさにそれなの。

「…………」

「この世界が私に上手く出来すぎてて、それを享受し続ける自分がいて。……これは夢なんじゃないかって、ずっと思って生きてきた。今いるここが、現実なのか無幻なのか……その判別が、つかないでいる」

「むげん……」


 ユメマボロシで、無幻。

 ここにいる自分や暁や拓二、祈といった多くがみな自分が生み出した幻で、自分の前だけに映る錯覚なのだと、彼女は言う。


 彼女にとってはこの世界のありとあらゆる人間が、夢うつつというある種のシミュレーションでしかないのだと。


「ひょっとしたら君も……私が望んで生み出した都合のいい虚像なのかもしれないよ……?」

「…………」


 しかし、それはどうだろうか。

 誰もがみな、地に足を着けて生きている。一人一人の意思があって、一瞬一瞬を過ごしている。


 人は独りだ。どれだけ周りに人がいようが、甘く深く触れ合おうが、自分と他人を同一には出来ない。

 自分の物差しで、自分の世界で万物を収着させて分かった気になっても仕方のないことだ。


 いや────


 結局は、自分と誰かの視点を重ねることなんて、この世の誰にでも────それこそ桜季でさえ出来るわけがないのだから。相手の触れたことのない手触りを、そのまま相手に伝えることは出来ないように。相手の世界を分かることは難しい。

 それゆえに、人は人と寄り添い生きることが出来るのだから。


「……ふ、ふふ。くっくっく」

「ん? どうしたの、夕平くん……」


 だから。



「くくくっ────あっはっはー!!」



 ────


「え? ど、どうしたの夕平くん?」


 夕平のばか笑いが、誰もいない学園内に大きく響く。

 突拍子もなく朗らかに。どこまでも楽しげな高笑いが轟いた。


「…………」


 あまりに突然の奇行に、桜季が呆気にとられていると、その笑い声も徐々に収まってきた。


「はあ、はあー……あー笑った笑った」

「え、ええ……と?」


 すると、困惑げに夕平を見やる桜季に向けて、


「なあ、知ってるか? どうしたら良いか分からない時には、やっぱ笑うのが一番なんだぜ。こう、元気よくってのがコツだ」


 まあ人の受け売りだけどなこれ、と言ってまた、にんまりと満面の笑みを浮かべた。


「────んで、どうだ? ?」

「えっ……あ」


 桜季の目がはっと大きく見開かれる。

 桜季と親交を持って数か月ほどだが、新鮮な表情だと、夕平は思った。


「何でも当たり前に出来るって、現実味なくてよく分かんねえ感覚だけどさ。でもそれは、なんていうか……危ないことなんじゃねえかな。なんつーか、あまり賢くない生き方なんじゃねえかなって、そう思う」

「…………」


 さわさわ、と遠くで風が雑木の木葉を撫でる音が聞こえる。

 バイクのエンジンを吹かす音さえ木霊しない、この世のものとは思えないような静寂がそこにはあった。



「────大丈夫。俺は、誰でもない俺は、ちゃんとここにいるよ」

「っ……!!」



 そして今度こそ、雷でも打たれたような顔で、桜季が愕然とした。


 彼にとってはなんてことない一言であったのかもしれないが、彼女には衝撃であった。

 それが、桧作夕平の答えであり、そして彼そのものであった。


「……君は、本当に私の想像の上を行くんだね」

「お前はやることなすこと斜め上だって、よく言われるぜ」

「……ううん。夕平くん、それは誇っていいことだと思う。とても、凄いことだと思うから」


 桜季は心の底からそう思っている様子で、そっと微笑んだ。

 

「君といる時だけ、私の怖い気持ちも安らぐのよ。こうやって顔を合わせるだけで、お話をするだけで……

「そんな、大げさな……」


 照れたように、頭を掻く夕平。


 一方嬉しさを抑えるかのような、熱い息遣いを溢しているかのような、そんな囁き声で桜季は話を続ける。


「『胡蝶之夢』って話、さっきしたでしょ?」

「ああ」


 夕平が頷く。

 一体胡蝶とは何なのか、分からず仕舞いだが。


「……良いも悪い夢も、夢は夢。何時かは覚めてしまうもの。それを望んでながら、いざそうなってしまうのが怖い。私は……」


 そこで口をつぐみ、ほんの一時だけ間を置いてから、夕平と顔を合わせて向き直った。


「もしそうなったら……もしそうなったとしても、私は……夕平くんとはお別れしたくない」

「……それって────?」


 尋ねようと口を開いた、が────


 ────気づけば。

 桜季の長い睫毛と濡れそぼった瞳が、近く、本当にすぐ近くに迫っていて。


「……え?」


 そして、その時。

 ちょんと唇同士が触れ合うだけの、子供の戯れのように柔らかいキスをした。



「────大好きよ、夕平くん」



 何が起こったのかと固まる夕平。

 それに対し桜季は、この夜の暗がりからでも分かる上気した頬を見せつつ、淡く微笑んだ。



◆◆◆



 もう十年より前……小学生になる前のことでした。


 小森の方のお父さんが、尾崎の……今のお母さんと昔からの知り合いで、小森の両親が亡くなった時、院に引き取られそうだったあたしを尾崎の家の子供として置いてくれたの。


 お父さん……あ、尾崎の方ね。と、お兄ちゃんは何も分からないあたしを喜んで迎えてくれて。生まれの違う双子の妹として、ちゃんと育ててくれた。

 それが、凄く嬉しかった。


 ……小森の両親?

 交通事故だったらしいけど、よく知らないの。

 もう、ほとんど覚えてないし……思い出そうとすると、なんか、泣きそうになるから。


 尾崎の家は、居心地良かったんだよ。それだけは本当。

 こんなあたしに良くしてくれて、ずっと、本当の妹みたいに扱ってくれて。


 でも……この目のせいで全部変わっちゃいました。

 あたしの目を、お父さんやお母さんはまるで信じてくれませんでした。

 それどころか、よくあると言えばよくある話で、引きこもるあたしを見て、心が弱いせいだって言い切りました。

 ……嘘じゃ、ないのに。


 あたしのことで、お父さんは人が変わったみたいに何度も怒鳴るんです。

 本当の親がいないからこうなるんだって。こんなことなら拾わなければよかったって。


 あたしのことで、お母さんは何度も泣いてばかりいるんです。

 血が繋がってないからいけないんだって。ちゃんと産んだ子だったらよかったのにって。


 親がいないこととか、血が繋がってないことは関係ないって、今だったら言えたんですけど。

 その時は、あたしが悪いんだって。本当に参っちゃってた。


 分かったのは、あたしは、本当は最初から独りだったってこと。

 頑張ったんですよ、あたし。ちょっとバカだけど、明るくて人付き合いのいい子で通してきたんですよ。

 それでも、いくら表面上は歓迎してくれてても、同情してくれてても。本当は、最初からあたしのことなんか邪魔者で……気持ち悪かったんですよね。


 それを知ったら、なんかもう絶望しちゃったんです。自分の目のことだけじゃなくて……もっと、人の生き方みたいな根本的なものに。

 だから、あたしは『尾崎』じゃなくて『小森』なんです。〝そうなっちゃったんです〟。


 あたしは『要らない子』だから。

 だから、天涯孤独の、小森の子供。


 ────でも、そんな時。先輩が私の前に現れて。

 何度か話して、仲良くなって……今日こうして、お祭りに連れていってもらって。


 嬉しかったんです。本当に。

 嬉しかったのに……あたしは。


 こんなあたしは、先輩も何時かあたしのことを見捨てるんじゃないかって。

 今はよくても、何時かはみんなあたしを見限るんじゃないかって。

 ……そうとしか、思えなくて。


 だから、訊きたいの。


 ねえ、先輩。


 先輩は、あたしのことどう思ってるの……?



◆◆◆



「…………」


 一通り話を聞き終えるまで、俺は黙りこくっていた。

 多分、琴羽が起きてから時間にして十分も経ってないだろう。こいつの家までは、まだ距離がある。 しかし、それにしては長い時間が流れたような気がした。


「あたしは、先輩と会えてよかったって思ってるよ。でも、先輩は……先輩も、あたしのこと要らない子だって、そう思ってるんでしょ?」

「……そんなこと、俺が言ったか?」

「分かるよ。それくらい」


 耳元で、秘密の呪文を唱えるかのようにそっと囁く。


?」

「…………」


 俺はその言葉に、沈黙を返した。

 嘘を吐きたくないがための沈黙。どうせ誤魔化したところで、看破されるだろう。まさか、琴羽が俺の思惑に気付いているとは思わなかった。


 案の定と言わんばかりに、ほうと熱い息が耳の横を流れた。


「……でもね、いいの。例え利用されたって」

「あ……?」


 しかし、次に聞こえたのは、俺には思いがけない言葉だった。


「先輩は、あたしの言葉を信じてくれた。人が機械になるなんて言葉、ちゃんと聞いてくれた。家族よりも……あたしを必要としてくれた。だから……先輩のためになんでも頑張ろうって、そう、思って……」


 顔の見えない声が、堰を切ったように震え出す。

 泣くのを堪えようとしゃっくり上げ始めた。


「あ、あたしはっ、それ、でも……! 馬鹿だからっ……結局、先輩の役になんて立てなくて……んくっ、ひぐ……」

「…………」

「ごめんなさい、ごめんなさい……お願い先輩、あたしを、見捨てないで……!」


 ああ、やはり。

 俺は、やはり勘違いしていたようだった。

 俺が琴羽を見る目と、琴羽が俺を見る目は掛け違っていたのだ。

 それを今、確実に思い知った。


 こいつは、ぼくだ。

 ぼくがかつて望んで、手に入れたくても手に入らなかったものは、今琴羽が求めているものだ。


 ────……僕と、付っ、き合って、ください……!

 ────ごめんね。君とは……そういう関係にはなれないよ。弟みたいだと思ってたし、それに……。


 同じ助けを求めている。ずっと昔に、桜季に告白した過去の自分のように。

 どん底に打ちのめされた存在価値を、誰かに掬い上げて欲しかったのだ。


 そして、今。

 今ここにいる俺が、こいつに何をすればいいのか、分かったような気がする。


 ────だから俺が、こいつを掬い上げてやる。


「……琴羽、降りろ」

「え……?」


 泣きじゃくって声が上ずっている琴羽に、そう言う。


「いいから。もう立てるだろ?」


 ゆっくり腰を落とし、足を着かせてやる。

 足を持っていた手を離し、身体を降ろした。


 琴羽は、目の縁を赤く腫らして、その顔を歪めていた。

 すんと鼻をすすりながら、俺を見上げる。


「えと……もう家に着いたの?」

「ちげえよ」

「じゃあ……?」


 疑問符を浮かべて戸惑う琴羽の肩に、手を回した。


「おぶったままだと、出来ないだろ」


 そして。

 恋情も情欲もなく、奪うように────はたまた差し出すように。


 その華奢な身体を抱き寄せ、そのまま唇を重ねた。


「っ!? むぐっ……」


 唇が、甘い痺れに包まれる。

 反射的になのかどうなのか、彼女の手が弱い力で押し返そうとしてくる。しかし負けじと腕に手を回し、逃げられないように強く抱き締める。


「ふ……んぅっ……」


 漏れ出る息遣いが揺れるにつれ、拒絶の力は弱まり、なすがままに琴羽の全身から力が抜けていった。

 

 そのまま、長い時間が流れた。

 流れる汗にむせかえりそうになる。

 何時しかそうしているのが当たり前であるかのようになった頃に、啄むようにくっついていた唇をそっと離した。


「あ……」


 艶な含みがある、惜しむような声が零れた。

 琴羽の瞳は、熱に浮かされたように蕩けきっていた。

 ぱくぱくと何か言おうと口を開いたり閉じたりまごつかせ、首筋まで真っ赤になっていた。


「……利用されるだけでもいいって言ったな」


 そんな琴羽に、静かに告げる。


「だったらお前は、ここにいろ。俺のそばにいろ。────俺が、お前を必要だと思ってやる。嫌でもお前をこき使ってやる」

「……はい」

「だから……もう自分が要らない子だって泣くな」

「……は、い」


 その揺れる瞳から、大粒の涙が溢れ流れた。

 拭っても拭っても、止まらない。

 琴羽はますます、喉から絞り出したような泣き声をあげて泣いた。

 それを俺はもう一度抱きしめる。簡単に折れてしまいそうなほど、柔い身体だった。



「────大丈夫だ。俺はちゃんと、ここにいてやるから」

「は、いっ……!」


 

 背中に手を伸ばし、胸に顔を埋めさせて、琴羽はさめざめと泣きだした。

 子供のような無防備さを以て、安心しきったかのように泣いた。


 過去の自分が、琴羽の姿とダブって見える。

 だとするとさながら今の俺は、桜季自身ってか。


 ────生きよう。

 死ぬかもしれない。また失敗を犯すかもしれない。

 もう一度同じ道を歩むことになるかもしれない。

 だが、それでも生きよう。死にたくない。死ぬわけにはいかない。


 何としてでも生きるべき理由が、また一つ出来た。


 熱帯夜と呼ばれて然るべき真夏の晩。

 月も星もない夜空のもと、俺達はもう一度キスをした────。



◆◆◆



 ────ここまでに、多くのことがあった。

 ────様々な分岐があり、枝分かれを辿り、現在に至る。

 ────積み上げてきたものは、薄氷を踏むかのような危うさで、何時崩れるかも知れぬ砂上の楼閣のような綱渡りによって成り立ってきた。

 ────しかし彼らは、その末にこうしてここにいる。確かな足取りで、それぞれ歩いているのだ。



「…………」

『にしても、アンタが前に送ってくれた写真……あんた、本当にタクジの知り合いだったのね。父さんのこと知ってるから何かと思えば……今まで嘘だと思ってたわ』

『……そんなことより。「これ」の使い方は、本当にさっきの通りで大丈夫なのですね?』

『ええ、まあね……市販のやつなら大体五秒、首筋に当て続ければ、少なくとも動けなくなるはずだけど』

『分かりますた。ありがとうごぜえます────メリーさん』

『……まあアイツに向けて振り回した私が言うのもなんだけど、さ。 。くれぐれも気を付けて使いなさいよ……イノリ』



 ────彼らの日常もまた、いつもの繰り返しのようでいて、そうではない。

 ────水面下で何かが進展し、終局に向けて昇華されようとしている。



『さて、と。……なあアンタ、さっきから陰でずっと見てるだろ? 礼の無い奴だな』

『…………』

『そんな警戒すんなよ。知っての通り、あいつはもう家に送り返した。ここには俺以外誰もいないんだからさ』

『……タクジ・アイカワだな? 我々に付いてきてもらいたい』

『一つだけ訊かせろ。何者だ?』



 ────夢はいつか覚めるもの。 

 ────終わりの来ないものなどはない。



「…………」

「夕平と……千夜川先輩……さっき、キス、してたよね……?」

「やっぱり、二人は……私、私は……どうしたら……」

「あっ、メール……?」



 ────世界は慢性的に繰り返しているようで、その実、全ての終着点を目指している。



「……?」



 ────喚起せよ。想起せよ。

 ────創造と崩壊とでは、崩壊の方こそが圧倒的に迅速であるということを。



『さあタクジ……我が弟くん。間もなくだ。君が求めた舞台の幕が、ようやく上がるみたいだね』



『────?』



 ────清上祭は幕を閉じ、少年少女はそれぞれの思惑を孕み、やがて一つに集結していく。


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