千夜川編
第四十六話:取り戻した平穏で。
────その高校生は、一人だった。
一人で、帰り道を歩いていた。
道行く人は、彼の姿を見てぎょっとし遠目で眺め、ある者はすぐに見て見ぬ振りをした。
それは、間違いなくただ事ではない格好をしていたから。その風貌には、苛烈な『跡』がありありと残っていたから。
────その制服は、酷い臭いの墨汁が色濃くこびり付き、
────その手に持っている鞄は、ビリビリに裂かれた教科書だった紙の束が、グシャグシャに詰め込まれていた。
「…………」
しかし、彼はその奇異な物を見るような視線も、他人事ながらも心配の色が窺えるその声にも、まるで気に掛けない。反応もしない。
ただ足取り重く、ゆらゆらと歩いていた。
手には、つい数日前に買い、そして先程壊された携帯ゲーム機を握らされていた。
ぶつぶつと、彼は歩きながら、言葉にならない声を呟く。
「くそっ……! くそどもが! くそくそくそくそくそくそ……」
絶望していた。
この世のすべてに。自分の無力さに。情けなさに。
苛立ち、怒り、憎しみが行き場なく渦巻く。
こんな世界、隕石でも疫病でも何でもいいから滅んでしまえと強く呪った。
確信してしまった。
何をやっても上手くいかない。変われない、と。
苛めを受けていた。自分から話しかけても、誰も応えないどころか、ウザがられ、疎まれた。
キモいと蔑まれ、
死ねと罵られ、
嘲られ、
笑われ、
見下された。
「くそ……くそっ……」
彼は、特殊な人間だった。
世界をやり直せる能力。一年を繰り返すことが出来るという信じ難い力。
これで、自分を変えようと思った。過去の暗い自分をと訣別し、明るく快活な好青年を演じようとした。
良好な人間関係を作り、賢く、上手に生きようとした。
……はずだったのに。
その一種の『装い』は、他の人間には、鬱陶しいものだった。周りの同級生は、そのような無理して気取っている雰囲気を敏感に察する。
少年は、人当たりよく接しようとするにはあまりにも孤独を拗らせすぎた。
目障りだったのだ。他人からすれば、そのような努力や、目立とうとするアピールは、所詮は痛々しい『出る杭』に違いない。
彼のやったことはことごとく空回り、失敗した。
むしろ、初めからこんなことしなければよかった。
何がいけなかったのか。どうすればよかったのか。
もう辛いのは嫌だ。苦しいのは、嫌だ。
そんな不毛な自問が、アテの無い答えを求めてぐるぐる彷徨っていた。
「ねえ」
その時だった。
一つの声が、自分を追いかけてきていると気付いたのは。
それも、女の声。当然聞き覚えなどはない。
「…………」
「あの、聞こえてないのかな? ねえってば」
聞こえている。が、少年は無視した。
どうせ興味本位で話しかけてきただけなのだ。聞きたくもない。
どうせ反応したら反応したで、下卑た笑みを見せられるだけなのだ。見たくもない。
もう全てがどうでもいい。結局、自分は一人でしかないのだから。
人形だ。なにも感じない、なにも聞こえない、なにも話さない冷たい人形になりたい。
そうすれば、ここまで辛くなることなんかないだろう?
俺が悪かったのなら、それでももういい。
だから、もう、放っておいてくれ。
「待ってよ、相川……
────名前を、呼ばれた。
たったそれだけのことに酷く驚き、少年はばっと後ろを振り向いた。
その視線の先には、目を見張るような美人がいた。
ゆったりと長い、濡れ羽色の髪。怖いほどに整った顔立ちは、もはや作り物であるかのようだった。
彼女の周りの空間でさえ、きらびやかに見えた。
綺麗だった。これほど綺麗なものを、見たことがなかった。
一目見て、思わず、少年は────
「あの、これ、落としたよ?」
声をかけられ、元の世界に引き戻されたかのような感覚を覚える。
「え、あっ、え……」
「落としてたよ。大事なものでしょ?」
差し出されたのは、一つの手帳。
『友達の作り方』と書かれた、自作のノートだった。
「────っ!!」
それを見た途端、心の臓が鷲掴みにされたような心地になった。
どうして『それ』をと、一瞬で動転してしまった。
引ったくるようにして、差し出されたそれを手に取った。
「…………」
きっと睨み付ける。意味もなく手帳を見えないように隠し抱えて。
しかし、その女は佇むだけだった。
少年を見て、蔑むことも嘲笑うこともしない。透明な視線を向けたまま、口を開く。
「少しだけ、見えちゃった。ごめんね」
「…………」
「でも、それ面白いね。興味深かったよ」
人差し指を口元に当て、そしておもむろにこう続けた。
「……ねえ。よければそれに書いてあること、手伝ってあげようか?」
「は……?」
「君に、友達を作ってあげよう。私に任せて」
意味が分からなかった。
言葉の意味が、ではなく、どうしてそんなことを言うのかが。その意味が、分からなかったのだ。
「わ、笑うんだろ!?」
「え?」
裏返った声で、少年は叫んだ。
女を振り払うかのような調子で。
「そ、そう、そう言って! また僕を笑うんだ!! そうだ、そうに決まってる! みんな隠れて見てるんだろ!? 僕のこと、また笑ってるんだ!」
「…………」
「だ、だから、もう僕のことなんて────!」
「放っておかないよ」
断固とした張りのある語気で、そう言い放った。
「放っておかない」
「っ……!」
「だから……ね?」
突き放し難い、強い誘惑的な言葉が少年を絡めとる。
まるで、自分の意識の隙を突くかのように。
誰かに側にいてほしい。もう一人は嫌だ。
突き詰めたら残るその願いを、少年自身よりも知っていると言わんばかりに。
「し、信じられないよ。大体、僕とあなたは、し、知り合いでもなんでもないじゃないか」
「……それもそうだね。どうしよっか」
そう言って少しだけ悩む素振りを見せ、視線を宙に泳がせる。
その数十秒程の間、立ち去ろうとは不思議にも思わなかった。
「……うん、じゃあこうしよう」
そして、合点がいったというように一つ頷き、
「────私の名前は、
不意に、彼女は自分の名を名乗った。
「えっ?」
少年は、戸惑う。
そんな彼に、千夜川と名乗った少女はびしっと指を指す。
「そして、君の名前は相川拓二くん。……ね? これで、知らない人じゃなくなった。私と君は、友達だよ」
────にこりと優しく笑いかけながら、
「友達を助けるのに、理由なんていらないんでしょ?」
受け止めるかのような声音で、そう言った。
言って、くれた。
「……っあ、え?」
────これが、二人の出会いだった。
相川拓二という個人の人生をねじ曲げた、全ての始まり。
「……えっと、どうしたの? お腹でも痛い?」
「な、なんでも……ない……!」
永劫廻り続ける残酷な運命を決定付けた事の発端だった。
「でも、泣いて……」
「なんでも……ないんだ……っ!!」
「……そっか」
千夜川桜季。
そして、相川拓二。
彼らの物語は、ここから動き出した。
────残酷な、一つの
◆◆◆
「ふあぁぁぁ~~~っ」
そこは、学校の柔道場。
今日は一年と二年合同の体育の授業。柔道着を着た男子生徒達が励んでいる。今は前回り受け身の練習のようだ。
この蒸し暑い時期に、蒸し暑い密室。そんなところで、めんどくさそうにしながらも汗を流して取り組んでいる彼らは、実に真面目なもんだ。
「あー、ひっっっっっまだなー……」
そんな中、隅っこの方で一人座り込んでいるのは、俺こと相川拓二。
一年間のあらゆる事象が繰り返される世界、ムゲンループの住人だ。
といっても、今に限ってはなんてことない。普通の高校一年生だ。
ついこないだまで、一週間くらい無断で学校をパチった不真面目な学生。それが俺。
「くあっ……ぁぁ~~」
暇すぎてデカイあくびが出た。
ぼけーっと、授業の様子を眺めていた。が、退屈すぎて死にそうだ。
「っ……! ヤバいヤバい、開いちまう」
伸ばしかけた身体が、チクリと痛んだ。慌てて伸びを止める。
仮病で休んでおいてよかった。こんなことで傷口が開いても仕方ない。
「っはあ、やれやれ……」
「おっす、顔が悪いぜ仮病人!」
静かにしていたら、声を掛けられた。
まったく、こんなとこで人聞きの悪い。重傷なのには違いないってのに。
「……それを言うなら顔色が悪い、だろ」
「え? それどう違うんだ?」
いつも通りの、能天気な声。
「頭が悪いと頭の色が悪いじゃ全然違うだろ。それと一緒」
「ああ、なるほど!」
何がどう一緒なのか俺でもよく分からんが、投げやりにテキトーなことを言うと、こいつはすぐに何か納得したような調子になった。
「……単純バカめ」
「んあ? 何か言ったか?」
「いんや何も……」
「でもさー、顔が悪いってのもあながち間違いじゃねえよ? その傷だらけの顔は……」
「これは気にすんな転んだんだ」
「お、おう……」
さて、今俺の隣に腰かけたこいつは、
俺の今一番の親友をやっている奴だ。
「……ん? なんだよ、俺の顔じっと見てよ」
「いや、なんか久しぶりにお前の顔を見たような気がしてな」
「はあ?」
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
変な気分だな。たった一週間だけなのに、懐かしさすら感じる。
俺も年かな。
「……はあん。さては、学校サボって恋しくなっちまったんだな、俺のか・お。 ん?」
「お前みたいなぶっさいくなツラに用はねえ」
「思った以上に手厳しいっ!?」
「てか授業は? いいのか?」
「俺は今お腹がとても痛いのだ!」
「だったらトイレか保健室だろうが普通……」
小学生でもしないようなベタな嘘吐きやがって。
まあ、こいつが怒られようが知ったこっちゃないけども。
「でもさー、突然だったから驚いたぜ?〝外国にいる親戚の見舞いなんてよ〟」
ふと夕平は、俺にそう話し掛ける。
「……ああ、まあな」
「大丈夫だったのか? 具合とか」
「……ああ、持ち直したよ。山は越えたってさ」
あれから────日本に帰ってきてからもう三日が経った。俺に待っていたのは、あの一週間のことの後処理だった。
その嘘も、色々な後始末のうちの一つ。学校にもそう通している。『外国の親戚が病で倒れた。突然の報せだったため、連絡が遅れた』……幸いなことに、音信が途絶えがちな俺の両親のことを知っていた担任が、深くは訊かずに便宜を図ってくれた。
……関わると面倒だとでも思ったのかもしれないが。
「そっか、そりゃなにより」
そう言って、夕平は笑った。
俺も、あまり人のことは言えたもんじゃない。ベタな嘘だ。
でも、病気というこということ以外は、あながち間違いでもないか。
「わざわざ来てくれたお前に感激して、病気も治ったんじゃねーか?」
「そんなもんかね……」
「そんなもんだって。病は気からっつうだろ。俺だって外国から来たって言われちゃ、頑張って治したくなるしよ。なっ?」
「そうか……そうだな」
こう話す夕平に、疑いの念というものは一切無いようだった。
単純というか、お人好しというか。
……やれやれ、だ。
「────はい、じゃあね、みんな一度集合してね、うん」
体育の先生が、声をあげた。
今年定年で退職間近の、とても体育の先生とは思えないおじいちゃん先生。
年老いてボケてきているのか、授業の内容を忘れたりすることもしょっちゅう。しかし、必修内容から大きく外れさえしなければ、割りと自由にさせてもらえるため、生徒からすれば人気はある。
こうしてあからさまにサボっても怒られないから、俺にとっても都合のいい教師だ。
「ええとね、じゃあこれから、組み手の練習、しますから。はい、おしゃべりはやめてね。静かにね……」
組み手と聞いて、ようやく地味な受け身の練習から解放された生徒達は喜んでいる。
「お前は行かねえの?」
その様を眺めながら、夕平に尋ねた。
「いんや、俺こういうの苦手でさ。球使う方が好き」
「俺は逆だな。格闘技系の方が好きだ」
「ああー、そういや、あの蹴り技練習してたもんな。どうよ、成果でた?」
「…………」
「ちょっ、いやいやそこで黙んなし! こええだろが────」
「おい、そこの一年!!」
その時、野太い声が、こちらに飛んできた。
激しい調子の、怒鳴り声。矛先は間違いなく俺達────いや、俺に向けられていた。
声の主は、大柄な男子生徒だった。口元を歪ませながら、ガンを飛ばしてくる。にやけた笑みを浮かべるお友達数人が、その周りに群がっていた。
グラスメイトではないようだ。今日合同で授業を受けていた二年生か。
実に分かりやすいDQN面。あれは、厄介事を持ち込んでくる奴の顔だ。
「あっ、あいつら……!」
「……誰?」
「ってお前覚えてねぇのかよお……!?」
「おい来いよ、そこのヒョロヒョロくん! 仮病まで使ってビビんなって、なあ!?」
ドッと嘲るような笑いが噴き出す。
そのグループ以外の一年、二年は肩身狭そうに視線を反らしている。
「ヒョロヒョロって……まあ俺のことだよなあ」
「おい相川! あれバスケ部の奴らだ!」
「バスケ部、って……?」
その時、ピンと閃いた。
思い出した。どこかで見た気がすると思っていたが、こないだバスケ部の勧誘に来て追い払ってやった副部長だ。
確か無免で捕まったとか何とか聞いた気がするが、停学も既に解けていたのか。
とするとあの顔は、俺への復讐でもやるつもりなのか。
……下らないというか、暇な奴というか。昭和の不良みたいな連中だ。まだああいうツッパリの手合いを見ると、絶滅危惧種でもみてるかのような気分になる。
彼らがみなリーゼントではなく坊主なのは、時代の流れかねえ。
「……はあ、めんどくせー」
「相川、俺も……!」
「はいはい、夕平はいいから座ってろって」
いきり立つ夕平を抑え、彼らのもとへ歩み寄る。
復讐にしたって、こんな授業中に何をしてくるのか、少し興味もあったりした。
「何かご用で、先輩方?」
流石バスケ部と言ったところか、背の高く筋肉質な彼を見上げるようして対峙する。
かと思うと、副部長はそのヨボヨボ先生に話を振った。
「なあセンセ、やっぱこいつ仮病してたんだぜ。ちょっと俺とこいつが組み手の見本になって、根性鍛え直してやらぁ」
滅茶苦茶分かりやすい。もはや取り繕う気も無いのか。
大方、人目の多いところで恥をかかせようといった魂胆だろう。
身体から溢れる雰囲気が、明らかにそんな感じじゃない。
「え、あー、しかしね……」
「なあおい。これだけでもいいからよ。相川もやりたいってよ。なあ?」
「そんなこと全く言ってないけど……」
「なあ?」
「…………」
これは何を言っても無駄だな。
諦めの意を込めて、大きく息を吐いた。
「……じゃあ、ね、うん、やってもらおうかな、うん。相川くんはね、無理、しないようにね、うん」
先生も、そんな剣呑な副部長さんの様子に気付いてるのかどうなのか、特に異を返すことなくそう言った。
ヨボヨボのじいさんであることが裏目に出たと言ったところだろう。使えない爺さんだ。
「えー、じゃあ、組み手だけど、お互いに襟を持って、こうして……うん、それじゃ二人とも、お手本を」
至近距離で、俺達は向かい合う。先輩は、今か今かと、場に出る前の闘牛のように息を溢している。
こうして見ると、随分ガタイがいい。俺と十数センチは差がある他に、筋肉もよく付いている。
なるほど、これを倒そうとするのはかなり大変だろう。バスケよりも柔道の方が向いてるんじゃないか。
「安心しな、俺は中学まで柔道やってたしよ、手加減してやっから」
と、手加減する気の無い語調で脅しかけてくる。
誰にも聞こえないようにして囁いてくるのがいかにもみみっちい。
「意外と多才だなおい……」
「テメエのせいで俺ぁ無免で捕まっちまったんだ、覚悟しろや……!」
「それを俺のせいにするのは無理が────」
「っるせえ!!」
途端に強い力で引っ張られ、右足が引っかけられた。
大外刈りという代表的な技だ。
自分の左足を左前方に踏み込みながら、引き手(袖を持っている左手)を高く引き、釣り手(襟を持っている右手)で相手を引き寄せ胸を合わせるようにし、相手を真後ろまたは右後ろに崩す。その後、右足を振り上げふくらはぎやアキレス腱の辺りで、相手右足を刈り、相手の真後ろまたは右後ろに投げる技である。
以上、ウィキペディアより。
要は足を引っ掻けさせ、相手を前からずっこけさせると思えば分かりやすいかもしれない。
さて、こんな余裕なこと言ってる場合じゃない。
一応、しっかり受け身を取らなければ後頭部強打だ。下手すりゃ失神。
まったく、素人相手に酷い奴だな。
やられるわけにもいかない。ただでさえ怪我をしているのに、余計な怪我を負ってたまるか。
こいつにやられるのも癪だし。
俺は、取られてしまった右足を思い切り後ろに引いてやった。
「うおっ!?」
こうして、足を逆に引っかけ返してやる。
すると、大きく足を開かせた先輩が、姿勢を崩し、重心が仰け反った。
「…………」
このまま蹴るように足を取ってしまえば、大外刈りからの
これで終わらせてもいいのだが、それはそれでムキになると思うとな……。
「くっ……! おらぁっ!!」
その時、頭に思いがけない衝撃が走った。
何が起こったか、一瞬呆気に取られた。ふっ、と相手の身体が離れてしまった。
「ってぇ……」
「おっと、すまんすまん。手が滑っちまったぁ」
少し、先輩のその声が籠って聞こえた気がした。
どうやら目の上辺りを殴られたらしい。
腫れたのかなんなのか、妙にそこだけが熱いような────?
「相川っ! 血! 血ぃ!」
「え……うわっ」
夕平の声が聞こえてきて、その部分に触れると確かに、ぬめりとした感触が伝わった。
血だ。絵の具のように鮮やかに赤い。少し、切ったのかもしれないな。
「おいテメエらァ! 今わざと殴っただろ!!」
「はあぁ? なんのことだよバーカ、人聞きワリイこと抜かすなや! これは授業だよ、じゅ・ぎょ・う」
「~~~~っ! とにかくもうやめろっつてんだろ!!」
場内がざわめく中、夕平が激しい口調で詰め寄ろうとする。
「うっせえな。第一、悔しいならこいつが殴り返してみろってんだよ! その方が強くなれんぜ?」
が、もちろん本人にはシラを切られ、そして取り巻きによって取り囲まれているのが見えた。
「や、やめなさい君、ストップ、ストップです!」
「ああ? 引っ込んでろジジイ!! ────オイ、テメエらもいいかぁ!! 『俺達は熱心に授業に取り組んでた。でも相川はのろまだったから事故で怪我した』。俺達全員がそう言えば、丸く収まる。簡単だろ?」
その怒号が響いたと同時に、辺りはしんと静まり返る。
夕平は羽交い締めに遭って動けず、他の誰も、どうすればいいのかと竦んで動けない。
「少しでも余計なことすれば……分かってるよなあ? つっても、お前らも同罪だかんな。逃げんなよ」
逃げようにも逃げられない。
ご丁寧にも取り巻き連中が、柔道場の出口を固め、暗に誰も通さないようにしていた。
しかしそれにしても、もっと他にやりようがあったろうに。なんて手のかかる真似を……。
ご苦労なこった。よっぽど人生暇なんだろうな。
「────さてさて、こないだはよくも恥をかかせてくれやがったよな? 俺ぁ金以外の借りは返す男だぜ……」
「……金も返してやれよ。本当に色々小せえ奴」
ゆらり、とその巨体が揺れた。
口の端を持ち上げさせながらも、目からは強い眼光を飛ばしている。
恨まれていたのだとよく分かる表情だった。
「────死ねや!!」
霞む視界と、強い鉄臭さの中。掴みかからんと突進してくる巨体が見えた。
迫り来る、大きな影。
しかし、俺は。
もっと別の、小柄な人影が浮き出てくるのが見えた。
それは、輝くような銀髪の女性のイメージ。
そう、イメージだ。走馬灯でも、突然目覚めた超能力なんかでもない。
俺の頭は、回想していた。
あの時の、俺に肉薄する鋭い影。あの時の、血の臭い。
────蘇る、月明かりの教会の中でのこと。
俺が作ったイメージは、もうとっくに俺の首を取っていた。
しかしあれと比べたら、まだまだ眼前にいるこいつは全然のろまだ。
「────っお、らァっ!!」
猛烈なその勢いを、押し返すのでなく、引き込む。
相手を前へ引きずり込んでいく。
突き出してきた手を絡めとり、自分の身体は床に背が着くように真後ろに捨てる。そして、片足を腿の付け根に当てて、押し上げる。
巴投げ。
相手の勢いを利用して、その大きな身体をふわりと持ち上げた。
「ぐああああっ……!!」
床が激しく揺れ、重々しい轟音が鼓膜を震えさせた。
「が……はっ……」
「……あ」
我に返ったの時には、既に身体が動いていた。
がばっと起き上がる。
柔道場は、静まり返っていた。
倒れる副部長さんと、俺。彼に限っては、勢いの加減が出来ず、体育の授業じゃまずしないような白目をむいてぶっ倒れている。
死んだのかと疑いたくなるくらいにピクリともしない。
そして俺には、突き刺さるほどの視線が多重に注がれていた。
「あ、あー……」
気まずいような沈黙を破るように、口を開く。
「えーと。……保健室、行ってきていいすか?」
◆◆◆
「ねえ、この感じ、前にも見た気がするんだけど……」
やや切り揃えがちの黒いショートカットが、初夏の温風にたなびく。
呆れたようなため息交じりにそう言ったのは、夕平の幼馴染みで、俺の友達。
くりくりした大きな瞳とあどけなさが残る童顔が特徴的なその少女の名前は、
現在、興奮気味の夕平が繰り返している話に俺ともども付き合わされている状態だ。
「いや、すまん……またやっちまった」
「そんな、相川くんは悪くないよ! こちらこそ、ウチの夕平がごめんね、本当に……」
出来の悪い息子を謝る母親のような言葉回しが、少しだけ可笑しい。
「────んで! んでな!? ここからがすげえんだぜ! 相川がよ、またガツンとやりやがって、一体何したと────おい暁、聞いてっか!?」
一々大きい夕平の身振り手振りと声に、道行く人達が皆クスクスと笑って通り過ぎていく。
確かに、見覚えのある光景だ。前にもこんなことがあった。
「はいはい……聞いてるよ。相川くんがその嫌な先輩を投げ飛ばしたところも」
隣の暁は、人目を引いていることへの羞恥で真っ赤になって俯いている。
今は、放課後の夕方。俺達は夕飯の買い物目当てで増え始める主婦達がひしめく商店街に繰り出していた。
何でも夕平が、好きなものをおごってくれるのだとか。本当に、一か月前の再現のように。
「そうそう! いやあ、お前にも見せたかったぜ!? あの時のスカッとした気分ったらねえよ!! 俺はさ、二限目の柔道でうわ面倒だなーとか思ってたんだけどよ────」
そう言って、また一から話を戻し喋り倒し始める夕平。
俺と暁は、疲れたようにもう一度大きくため息を吐いた。そしてかれこれ八回繰り返ている話を聞き流す。
あれから、と言ってもたいして話すようなこともないが。
副部長さん及びその他数名は、再び停学ということになったらしい。そりゃ、あれだけ人目につけばそうなる。
俺は話を長々と訊かれ、面倒ながらも一応俺に非は無いと、懇切丁寧に説き伏せた。
それで、無罪放免。他のことは知らない。というかどうでもいい。
「あはは……相変わらずだね」
「本当にな」
「なに他人事みたいに言ってるの、相川くんもだよ」
その時、ふと暁が俺の方を向いた。
「あまり無理しちゃ駄目じゃない。相川くん、病み上がりなんでしょ?」
「いや、無理なんて……」
「してるよ絶対。だってほら」
そういうと、俺の脇腹を暁がそっと軽く指先で触れた。
そのつついたところから、ピリッとした痛みがほんの少しだけ走る。
「男の子ってみんなそう。すぐ見栄張って無理したがるんだから」
「む……」
くすり、と小さく笑いかける暁は、まるで俺の傷のことを何か勘付いているかのようだった。
体育の一件のせいで、少し開きかけた傷口がずっと痛み、それを堪えているのを察知したのだろう。
もちろん、その理由が銃創だとは思ってもいないと思う。病気という嘘には気付いてはいないはず。
雰囲気から、苦しそうにしていることに勘付いたのか。
「…………」
「あ、ごめんなさい。触らない方がよかったかな? でも歩くの、辛そうだよ。……平気?」
「……もちろん。どうってことないって」
本当、気取られないようにしていたつもりだったのだが。暁にだけは あっさり見抜かれてしまう。
前から思っていたが、驚くほど勘のいい少女だ。
「暁は、よく人を見てるんだな」
「まあ、うん。目の前の子が全く空気を読まないからね、私が読んでやらないとやってられないんだよ……」
「……心中お察しするよ」
色々気苦労が絶えないだろうな、そう思うと。よく暁が保護者的な発言をするのも、そこから来ているということか。
伊達に夕平の幼馴染をやってるわけではないわけだ。
「でも、ありがとうな。心配してくれて」
「いやいや、お礼されるようなことなんてしてないって」
変な相川くん、と言って暁が、またくすくすと笑う。
その笑顔がむずがゆくて、指の腹で頬を掻いた。
「おい二人とも、聞いてんのかー?」
「「聞いてる聞いてる」」
……こうしていると、あのイギリスでの出来事が遠く感じられてしまう。まだあれから数日と経っていないのに。
呆れるほどに、帰ってきた日常は平穏だった。
踏み外せば即命がない綱渡りのようだったあの数日間が嘘のようだ。
下手を打てば、俺はここにはいなかった。
この二人は俺が死んだことも知らずに、この先訪れる末路に取り残されてしまうことになるのだ。
そう考えると、当たり前のようにこうしていることが、実は得難いものだと気付かされる。
「…………」
手は自然と、自身の胸元に伸びていた。
片身離さず潜ませている十字架のアクセサリーに、服の上からそっと触れた。
もう、俺はここを離れてはいけない。
二人を救い、この日常を守るための布石はもう打った。
「────あっ、ねえ二人とも、あれじゃない?」
「おっ? ああほんとじゃねえか! おおい二人ともー!」
二人が、何かに────いや、『誰かに』気付き、声をあげる。
『彼女達』も俺達に気付いて、駆け寄った。
「────こんにちは、皆さん」
「ふふっ、夕平くんは今日も元気だね」
さあ、もうここからは、俺は離れてはいけない。二人のそばにいてやることこそが、これからの最重要事項だ。
これから訪れる災厄の中心地から、逃げてはいけない。
俺のかねての悲願。
ずっと忘れられないでいた記憶を清算し。ずっと苛んできた過去に決着する時が。
「……それに、久しぶりだね。相川くん」
────今、ここに。
「────どうも、『千夜川さん』」
そんな俺の心の内を読んだかのように、
千夜川桜季は、静かに微笑んだ。
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