第四十二話:決着
『ねえ、ギル。お塩を持ってきてくれないかしら?』
あるうららかな昼下がりでのこと、穏やかな日差しの下で、一人の女性がグレイシーを呼んだ。
『は、塩……ですか?』
『そうなの。コーヒーに砂糖を入れすぎちゃって……』
『……それで、何故塩を?』
『? だって、甘すぎるから塩辛くすればちょうどよくなるでしょ?』
『……確かにコーヒーに塩は入れることもありますが、糖分を相殺するためのものではないかと』
『えー? そうなの? 甘いのとしょっからいのよー?』
『そうおっしゃられましても……』
どこか抜けたことを言いながらも、グレイシーとの会話を楽しそうに弾ませている。
その女性は白いワンピースを身にまとい、多種多様な花々に囲まれているこの庭の中で、紛れ込むことも無く存在感を放つ一輪の百合の花のような、楚々とした雰囲気を湛えていた。
『では、コーヒーのお替りを持ってきます。それでいいでしょう?』
グレイシーが小ぶりなテーブルに置かれているティーセットを片付けると、彼女は二コリと微笑みかけた
『ありがとう、ギル。まるでメイドみたいなことさせちゃってるわね』
『いえ……こちらこそ、奥方様のお世話など身に余る光栄です』
『……ぷっ、あははっ、そんな大げさなー!』
かと思うと、グレイシーの言葉に女性は突然声を立てて大笑いした。
しかし、それはげらげらと粗野な笑い声ではなく、庭中に澄み渡るような、品のある笑い声だった。
『決して、誇張表現では────!』
『大げさよ大げさ。身に余る光栄だって。ふふっ、私なんてごく普通のおばちゃんよ。今じゃすっかり二児の母。ママ友にネブリナのこと話したって、誰も信じちゃくれないし』
グレイシーは、何も言わず黙っていた。
それを見た女性は、またも唐突にこう話しかけた。
『ねえ、ギル。私は一体いつ死ぬと思う?』
『え……?』
グレイシーでさえ、いきなりの言葉に一瞬唖然とした。
ティーセットを落としかけ、金属音が鳴った。慌ててそれを持ち直す。
その様を見て、女性はまた明るく笑う。
『あらあら、貴方でも驚くことってあるのね』
『お、お戯れはやめてください。たとえジョークでも……』
『いやでもね、二人の子供と主人がいて、こうして貴方とお茶してのんびりしてると……ああ、幸せだなあ、そろそろお迎えかなあって思っちゃうのよね』
『な、何を……』
『エレンはさておき、メリーの「いい人」になる男の子がどんな子か、一度見てみたいかな。もし明日死ぬとしたら、そこだけが残念って思うだろうな』
まるで世間話でもするかのような気軽さで、自分の死を語る。
その表情には、わずかに寂しそうにしながらも、恐怖のような感情は無かった。
それが、グレイシーには分からない。
疑問だった。何故怖くないのか。彼女自身、子を残して死にたくはないと言っているようなものなのに。
グレイシーから見ても、彼女は自分の人生をとても満喫している。
まだとても天寿をまっとうしたとは言えない若さで、未練が無いわけがない。
『……貴方の御身は、必ず私が守ります。ですから、そう軽く死ぬなどとおっしゃらないでください』
『うん、そうね。こわがらせちゃったかしら、ごめんね』
いいこいいこ、と言いながら、女性は背を伸ばしてグレイシーの頭に手をやった。
グレイシーからしたら恐れ多いことだが、本人は至って気にしていないようだ。わしゃわしゃと親しげに撫で付けている。
『でも、やっぱり私はただの人間だから。突然死んじゃうのもよくある話なのよね。二人子供を持つと、ふとそんなこと考える時間が多くなっちゃって』
『……エイシア様は、怖れないのですか。死を』
『怖くは無いかな。だって、子供達には主人やジェウロ、それに貴方もいるじゃない? 死んでもいいってくらい、頼もしいって思えるからかな』
温かな風が凪ぐ。
さわさわと鳴っていた葉擦れの音が、とても静かに、消え入るように止んだ。
『だから、もし万が一そんなときが来ちゃったら』
そして彼女は、口元を柔らかく緩ませた。
『その時は────二人をどうかよろしくお願いね、ギル』
これが、グレイシー=オルコットが持つ、とある記憶。
一抹の儚さと寂寥を胸の内に秘め、片時も忘れなかった、彼女との最後の思い出だった。
◆◆◆
「はっ……はっ……はっ……」
沈黙が、降りていた。
耳が沁む静寂とは、このことか。さっきまでの争いが嘘のように辺りは静まり返っていた。
ステンドグラスから差し込む夜光が、細かな粒子となってさらさらと流れていく。
夏前とは思えないほど、ヒヤリと冷たい空気が漂い、時が止まったような粛々とした雰囲気があった。
「はあ……はあ……く、う……」
自分の真下に、グレイシーが倒れている。
が、動く気配は無い。少なくとも今は、完全に気絶(オチ)ているように見える。手足を放り投げるように大の字になって、ピクリともしていなかった。
その顔は尋常じゃない程の血の量で染まり、彼女の綺麗な肌が台無しだ。
まあ、俺がやったんだが。
────システマは、『Keep breathing (呼吸し続ける)・Stay relaxed (リラックスを保つ)・Keep straight posture (姿勢を真っ直ぐ保つ)•Keep moving (移動し続ける)』という四つの基本原則を有した格闘技だ。
呼吸と一体化した体捌きに何よりの重きを置き、余分な力を抜いた身体の動かし方で敵を圧倒する。
流れるような技から技への移行を本懐としている武術で、グレイシーに放ったとどめの一撃がシステマというわけではない。
それまでの殴りからグレイシーを引き倒し、その顔に全体重をのせた膝蹴りという一連の動作、それがシステマなのだ。
なぜその技をと問われれば、カポエィラの流動的な動きに通じるものがあり、派生技として相性がいいのではと考えていたから。
だが、カポエィラと違ってほとんど見よう見まね、というか今回がぶっつけ本番だったから、使うのはリスクが大きかった。
本当に追い込まれていた。完全にグレイシーのペースに呑まれていて、本来負けていた戦いだった。
今こうしてグレイシーを見下ろしていられるのは、正直奇跡に近い。
『や、やったの……?』
『うん……凄い……凄いよお兄様……本当に一人で、グレイシーを……』
メリーとエレンが、おそるおそると俺達二人に視線を向ける。
『っ……あ、アンタ怪我してない!? 大丈夫なの!?』
そして、俺を見たメリーがさっと目の色を変える。
『怪我……って、そりゃお前、さっきまでボコボコにされてたら……』
その時、ふっと力が抜け、地面に膝がついた。
「へっ……?」
腹に力が入らない。
つい、と自分の胴に目をやる。
見ると、俺の服のどてっ腹が血で真っ赤に染まっていた。
どくどくと、キリがないほどに溢れ出てくる。
とどめの一撃に交錯して、隠し持っていたデリンジャーで撃たれていたのか。
「……マ、ジか、よ……」
それを認めた瞬間、かあっ、と視界が赤くなり、何も出来ずに横に倒れた。
『タクジっ!?』
『お兄様!』
ガス欠だ。本当にもう動けない。
右足と腹に被弾して、殴られ蹴られでダメージが溜まりに溜まっていたらしい。ずっと気力だけで持ちこたえていたのか。
今は意識を保つので精一杯だ。
『っ……! エレ、ン……メ、リー……来るな……!』
だから、俺には掠れた声で二人にこう言ってやることしか出来ない。
――――目の前でグレイシーがピクリと指を動かしているのを見ても、彼女が立ち上がろうとしているのを、止められない。
『……ぅ、はぁ……っ、くっ……』
────化け物か、こいつは。
『わ、たし……私は、うふふ……アイカワさん、私はまだやれますよ、まだ、まだ……』
虚ろに落ち窪んだ目が、ふらふらと視線を揺らし、俺を捉えた。上体を起こし、這い寄ってくる。
ここまでやられて、まだ動けるその執念には驚きを通り越してほとほと呆れてしまうほどだ。
しかしそうも言ってられない。俺の身体はもう使い物にならないのに、これ以上は……。
『────させないわよ、ギル』
『……! め、メリー……?』
その時、何を思ったか、メリーが俺を庇うようにグレイシーの前に割り込んだ。
『お兄様、大丈夫……?』
『エレ、ン……』
そしてエレンは、俺の顔を覗き込んでいる。
いつにもなく心配そうだ。だが、本当に心配されるべきなのは俺ではない、この二人の方だ。
『お前、ら、なに、やって……逃げ…… 』
『逃げないわよ、あたし達』
しかし、メリーはきっぱりとこう告げた。
いつものような、あの意固地なまでの口調で。
『絶対に逃げてなんかやんない。例えそれがアンタの頼みでも』
『お前……』
『っていうか、外に逃げてもあのバケモンがいるじゃない。こんなんでどこに逃げろっての? どうせだったらあたしは、くたばりぞこないのアンタと心中してやるわよ』
そして、なんてことないと言わんばかりに、そんなことをのたまった。
『お姉様……何だか熱いね。意外と熱血系?』
『ああ……くく、あーくっさいくっさい』
思ってもない言葉で、そう茶化した。
そう威勢よく啖呵切るメリーが、メチャクチャ格好いいと思って。
『うっさいわねそこ二人! 特に怪我人は引っ込んでなさいよ!』
当然のごとく怒鳴られたが。
『そ・れ・に! アンタにも言ってんのよギル。怪我酷いんでしょ? もうやめましょ殺し合いとか、くだんない』
『下、らない……』
『そうよ。ギル、アンタどうしてこんなこと────』
『……貴方のためよ、メリー。下らなくなんてないわ』
その時、初めてグレイシーの口が開いた。
『私はね、メリー……初めて会った時からずっと、貴方達姉妹のことを不憫だと思っていたの』
『え……?』
唐突な彼女の言葉が綴られていく。
『エレンお嬢様は、ネブリナの生き方を学ばれているわ。まだ十にも満たないエレンお嬢様が、人の撃ち方を教わっているのよ。ネブリナ家ボスの娘であるという理由で、まだ十にも満たない女の子が』
メリーが知らない真実には、エレンのことも含まれている。妹の『真っ赤な自室』のこと、既に何人も人を殺していることを、メリーは知らない。
普段あれだけ妹を愛でていた彼女だ、今でこそ耐えられるだろうが、これが三日前、俺と出会ってない頃だったら卒倒していたんじゃないか。
『かたやメリーは、ネブリナ家のことを全て隠され続けて。病で母親を亡くして、どこにでもいる銀行員の父子家庭なんて浅い嘘で固められた世界で生きてきた。……だって、貴方のお母様のことだって、貴方はまだ聞かされてないでしょう?』
『か、母さん……? どうしてそこで、母さんが出てくるの?』
『お姉様、それは……!』
そこで、エレンが声をあげる。
この場の視線が、一斉に集まる。メリーの物言いたげな顔に、エレンははっと我に返り、俯いた。
『やはり、お嬢様は知っておられましたか。いえ、メリーにだけ聞かされなかった、と言うべきなのかしら……』
まさか、とその時点である事実に思い至る。
メリーもまた、グレイシーの言葉に漠然とした不穏当なものが胸のうちに燻っているのか、戸惑っているようだ。
『な、なによ……アンタ一体、なんの話を────!!』
『メリー、そしてエレンお嬢様のお母上、エイシア=ランスロット様は────病でなく、マフィア同士のある抗争に巻き込まれて殺されたのよ』
しん、と場が静まり返った。
後ろから見ても、愕然としているのは明白だった。
今まで隠されてきて、そして今初めて知った真実の大きさを、受け止め切れずに手に余っている様子だった。
『嘘……』
今までの平穏の代償は、あまりに大き過ぎたようだ。
圧倒的な力によ真実の封殺によって、ずっと裏社会から遠ざけられてきた少女。
なまじ、あまりにもよく出来た虚構だったからこそ、その全てが暴かれた時の衝撃は計り知れない。一人の少女の身には重すぎる。
果たして秘密は、彼女の救いとなったのか。
果たして、こうして今暴露されてよかったと言えるのか。
『……ショックでしょう? でもそれは、この世界じゃよくあること……いくら遠ざけても、隠されても、マフィア関係者という肩書きは消えやしない。断言させてもらうと、私がこうしなくても、いずれ貴方はこういう目に遭っていたわ。その時こそは私のようにはいかない、もっと容赦ないキチガイ共が貴方を蹂躙する可能性も十二分にある。呪われた今のままでは、ネブリナ家の呪縛から逃れられないわ……!』
痛む傷に呻きながら、彼女は彼女が危惧するところを告げる。
『だからいっそ、ネブリナを滅亡させようと思った! ネブリナ家の存在は、貴方達にとって害でしかないのよ……!』
もはや喋るのも辛いはずでも、彼女は言葉を紡ぐ。
激しく感情を吐き出した口調、肺の空気を絞り出すような弱々しい掠れた声。だが、訴えかけるものの強さがある、重みのある声だった。
『このままじゃ貴方も、エイシア様の二の舞になってしまう! きっといつか、ネブリナという存在に潰れてしまう日が来るわ! でも私が、貴方達の助けになってあげられる……』
『…………』
『さあ、メリー。優しいメリー。私と一緒に来て。エレンお嬢様と共に、世界を見て回りましょう? 何もかも忘れて、ずっと心穏やかに暮らしましょう? 私は貴方達に、何でもしてあげられる。キャンピングカーで色んなところを見て回って、しばらくしたら海の見える丘で家を構えて、そこにずっと三人仲良く暮らしましょう? マフィアの関係者でなく、ただの一人の女の子として……!!』
グレイシーが、包み込むように優しい声音でメリーに語りかけた。
詰まるところこれが、彼女の目的。語られた内容は、あまりに理想的な夢物語。夢のような夢だ。
一片の闇の無い、真っ白な美しい世界。世間を知らない生娘が描いたような、幸せな未来。
『……あたし……』
震える身体を抱きしめるメリー。
悩んで、一つ進んだと思ったらまた悩んで。
行きつく先がこれでは、もう何も分からない。何を信じればいいのか、分からない。
『あたしは────』
ただ、唯一分かるのは。
グレイシーの話が、今夜のこの血生臭ささえ洗い流せそうな、そんな甘いおとぎ話であるということ────。
『────……で? って感じね』
その美しい夢物語を────メリーはいともあっさり一蹴した。
グレイシーの表情が凍り付く。
『え……?』
『母さんが死んだ理由が病気じゃない? ネブリナがやった抗争のせい? だから? どっちにしろ死んじゃったのには変わらないじゃない』
まあそんな大事なこと隠されてきてたのには納得いかないけど、と言い繋いで、彼女は肩をすくめた。
『知ってたわよ、そんくらい……母さんが本当は病気で死んだんじゃないことくらい、知ってた』
『メ、リー……?』
『はぁ、まったく、何を言ってくるかと思ったらそんなこと? そんなの今更じゃん。持病とかなんとか言われてたけど、本当は違うってことくらい、あたし気付いてたし』
『お姉様……』
メリーを見るエレンの表情は複雑だ。
姉が母親の真実に気付いていたということに驚いているようにも見えるし、隠していたことへのばつの悪さを感じているようにも見えた。
『あのね、ギル。もう一度だけ言うわ。例え母さんが死んだのがネブリナってマフィアのせいでもあるって言われても、これから先マフィア絡みでこんな死ぬかもしれないことになるかもしれなくても、そんなのどうでもいい』
『どうでもいい!? どうでもいいはずが……!』
『だって、ネブリナ家のことは知らなかったけど、そうじゃなくてもバカ親父やエレン、ジェウロに「the workplace」の人達とは仲良くしてたし……ギルとだって、友達になれた。ああ、あとついでにそこのちんちくりんぼーやもね』
『おいこら』
ちらり、と俺とエレンの方を見やる。
そして、何かを確認したかのように、浅くうなずいた。
『アンタがネブリナ家のせいで何もかも失うって言うんなら、こう答えてやるわ。その「何もかも」だって、ネブリナ家がくれたものなんだって。あたしが今言った人達と出会えたのも、ネブリナ家ボスの娘として生まれたからだって』
その目は、真っ直ぐにグレイシーを見据えていた。
その声は、強く硬い芯を持っていた。
『────だから、あたしやエレンを勝手に不幸な女の子に仕立て上げんな。あたしがこれまで生きて得てきたもの、辿って来た「道」を、アンタが勝手に否定すんな』
ここまできた『自分』があるからこそ、彼女は決してぶれない。
『……メリー……』
『世界旅行したかったら、あたしが三人分の旅費くらいバイトして作ってあげる。海が見たかったら皆で、皆で海水浴でも、行けばいいだけじゃない。だから……!』
その最後の言葉尻は、感極まってわずかに震えていた。
『たった、それだけのことじゃない……! なのに、何で』
『…………』
『馬鹿……馬鹿よアンタ……』
しばらくの無言。
メリーとグレイシーは、お互いをじっと見据えている。
今の俺に、二人に何かしてやることはない。
今こうして二人を見て、ある程度のことを察することは出来ても、俺にはどうこう言えないし、言う気もない。
彼女達には彼女達の過ごした時間や感情があって、その折り合いは彼女達だけでつけるしかない。
ドラマじゃあるまいし、この二人の境遇を共感しようとするのは不可能だし、おこがましいことだろう。
しかし、それでも二人がお互いを思い合っていたことだけは分かる。
二人が二人なりに、お互いを守ろうとしていたのだろう。
────それは、結果的にすれ違ってしまったが。
『……これだったのですか? エイシア様。貴方が言いたかったのは……』
やがて、グレイシーはふっと力が抜けたかのように、祭壇に背中をもたれ掛かけさせた。ずるずると腰を落としてぺたんと座り込む。
『……メリー。少し見ない間に、大人になったのね』
そして、穏やかな表情のまま目をつむった。
安らかに、そっと微笑を浮かべ眠っているかのようだった。
『エイシア様に、貴方のお目付けを頼まれた時の貴方が、ずっと昔のよう……』
『な、なによ、急に……』
『メリーがここまで頑張ってこれたのは……愛するアイカワさんのおかげかしら?』
『んなっ、なななっ!?』
分かりやすく取り乱すメリーに、クスクスと笑うグレイシー。
『な、なに言って────』
『ふふふ、意図せず私の言った通りでしたね。お嬢様を誘拐犯から救い出すカギになる、と。……アイカワさん?』
『……何だ?』
突然、俺に話がふられた。
グレイシーは、静かに続ける。
『最後の……麻酔ガスから逃れるために自身の足を撃ち抜いたとっさの判断、お見事でした。貴方の生の執念に、私は打ち負けてしまったのですね』
『……たまたまだよ。時の運に見放されなかっただけで。普通なら負けてた』
それはもう、切実に。
『貴方には、並々ならぬ執着があるようですね。貴方の抱えるその「何か」……興味はあれど、ついぞ知ることは出来なかったですが』
「…………」
『決着は着きました。二人を解放します。アイカワさん、連れて行ってあげてください』
『グレイシーさん、アンタは────』
どうするんだ、と言い終わることは出来なかった。
『私は、いつもこう。動けば躓いて────重大事は、常に私の前を空回る』
一瞬、目を疑った。
彼女はいつの間にか、銃を片手に握っていたから。
本当にいつの間にか、手品のように。
それを視界に入れた瞬間、肩が強張り、汗が噴き出た。
撃たれる、と。最後の最後で隙を見せた自分を呪おうとさえした。
『アイカワさん────』
しかしその射線上に、〝メリーやエレンはもちろん、俺も入っていなかった〟。
────二人を、どうかよろしくお願いしますね。
それは本当に、この場にいる全員の意識の外でのことだった。
誰も止めることが出来ず、一発の乾いた銃声が響き────
鮮烈な赤が、宙を舞った。
◆◆◆
とある一枚の報告書。
六月十三日、午後九時三十三分。
グラストンベリー郊外、聖ママリー修道院にて、ネブリナ家構成員及び技能特殊班含め九十七名による交戦を展開し、決着したエレン=ランスロット誘拐未遂事件を報告。
障害は約四十数名の傭兵隊、主にシリア、キューバの私設傭兵団からの出自と推測。
目標はネブリナ家アンダーボスマクシミリアンの息女、エレン=ランスロットの奪還。
完全鎮静化には、作戦開始時刻から一時間六分を要した。
此方の重・軽傷者は計十二名。四名が死亡。
備考懸案として、背信者グレイシー=オルコットの地位の視点から、ネブリナ家の危機管理体制の弱体の露見及び内部の全体的動揺・混乱が挙げられる。
一方本件を通して得た成果としては、非常事態及び有事での教則『聖ユダの告発』における対応の見直しを図れたこと。
そして、『the billy』が持つ人格の一つ、『エトー』の有用性が一つ。しかし、現時点での『エトー』は精神的に未熟で不安定な面があり、今後、ネブリナ家全体で監視・保監体制を敷くこととする。
また、前衛指揮を担ったタクジ・アイカワというマクシミリアンの招いたゲストは、本件においてグレイシー=オルコットと死闘を果たし、目標の保護に尽力した。ネブリナ家が持つ一つの手段としての適性を発揮。
本件において、責任の所在を無関係の子供に預けた采配に疑問が残る点ではネブリナ家の風紀を乱しかねない不安要素であるが、今回の特殊な事例の立役者であることは明白であり、その功績は確かなものである。
生存した傭兵部隊十四名の身柄は拘束、目標の安否、加えて首謀者グレイシー=オルコットの死亡を確認し、聖ママリー修道院での交戦は幕引きとなった。
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