第四十一話:最終戦闘

『────人間は脆い生き物だって、よく言われてるけど。僕はそうは思わないかなあ』


 幼げで、鈴を転がしたような声が聞こえる。


『刃こぼれしないし、意外とすぐ壊れないし。使い勝手は悪いけど、まあそこは慣れればね』


 どこまでも無邪気な、明るい調子の声が続く。


『知ってる? 人間の身体って、ジャパニーズ・カタナでも一刀両断は出来ないんだって。骨がどうしても断ち切れないからかな。凄いよね。人間の神秘だ』


 心底楽しげな、喜色を湛えた笑い声が響く。


『古来、能力が遥かに劣る人間が獣に対抗出来たのは、脳のおかげだって言われてる。火を使い、道具を使う理性があったからだって。でも、それにしたって、随分と頑丈だと思わない?』


 朗々とした語り口で、独り言のように言葉を紡ぐ。


『現代人でさえカタナを通さないんだから、多分もっと昔の狩猟民はもっと筋肉が発達して骨太だったんじゃないかな。その素晴らしいお脳があるにしては、硬く出来てるんだよね。人間が弱いっていうのは、ただ他の生き物と比べた物差しでしかないと思うんだ』


 歌うような気軽さで、コロコロと表情を変えながら、彼は喋る。


『〝だからね、武器としてなら、なかなか有用かなって〟。頭蓋骨とかならかなり固いから、ハンマーみたいに振り回せばそこそこ……って思ったんだけど────どう思う? カマタリ』



 そう尋ねかける彼は、まるで本当の子供のようで。

 赤い髪の女────多重人格の元締めであるエトーは、目の前で膝をつくカマタリをゆったりと見下ろしていた。


『はあ、はあ、はあ……』


 その手には、それまで『使いすぎたせいで』骨組みを無くした人形のようにぐちゃぐちゃに変形し、原型を留めておらず血で塗れた死体の片足を掴んでいた。

 死後硬直が始まったそれはもはや、人間の死体ではなく、ただの真っ赤な鈍器であった。


『はあ、はあ、はあ……悪趣味よ、エトーちゃん。死んだ人をそんなおもちゃみたいにして』


 カマタリはとっくに限界だった。全身は既に汗ばんでいて、痛々しい生傷が所々に作られている。

 苦しげに息を荒げ、肩で呼吸をしている。右足は夥しい量の血を流し、靴を濡らしていた。


『あたしをイジメるのに、その人達を使うのは……やめなさい。そんなの絶対に────』

『こんな死骸に、何を怒ってんの? 死者への敬意とか冒涜とか、そういう話? 死んだ赤の他人まで気を使うのって、疲れない?』


 本気で言っているのか、肩を竦め、カマタリに対し呆れたようにしてみせる。

 何時でも殺せるという余裕からか、エトーは止めを刺さず、話を止めない。


『そういう言葉ってさ、結局は人間の思い上がりだよ。豚が死ぬのとどう違うってのさ。人間は喋られる、豚は喋られない。人間は命乞い出来る、豚は出来ない……そんだけじゃん』

『そんな……なんてことを言うの。エトーちゃん、貴方は間違ってるわ』

『へえ、どう間違ってるって────おっと』


 その時、がしっ、とカマタリがエトーの足を掴んだ。


『人間ってのはね……誰かと手を繋げるの。手を取り合って、お互いの為になることが出来るのよん』

『…………』


 エトーは、じっとカマタリの様子を見ていた。

 だが、特別興味があるような感じではない。カマタリの言うことに聞き入っているというより、ぽかんとしていると言った方がより正確な様子だった。


『それは例え、生きてても死んでても変わらない。手を取って、自分の心と他人の心が合わさるように出来てるのよ』

『ふーん……』

『だからあたしは……あの二人のために貴方を止めるわ。絶対にね』


 エトーの足を掴む力が強まり、その太い指が深く食い込む。


 カマタリの脳裏に浮かんでいたのは、拓二とメリーだった。

 彼は、祈っていた。エトーと戦っている最中も、頭の片隅ではずっと願っていた。

 エレンを連れて帰ってくること。そして、二人が無事で戻ってくることを。


 フリークチームだけじゃない。今やネブリナ家全員が、エレン救出という目的に心が寄り添い共にある。

 カマタリはそれを固く信じている。

 だからこそ、今自分はここにいるのだと。

 

『……ああ、そうそう。あの優男……レスターも似たようなこと言ってたんだよねえ、そういえば』


 その時エトーが、今思い出したかのようにぽつりと呟いた。 


『レッジちゃんを知ってるの!?』

『まあ一度、ちょっとあってね。……ああでも、もう死んじゃったんだっけ? あんな人間でも、死ぬ時は死ぬもんだよねえ』

『……レッジちゃんは、死んでもここにいるわ。ここで、みんなと一緒に戦ってくれてる』

『アンタの死生観はどうでもいいよ。ただまあ、カマタリがあの時のレスターとおんなじこと言うから、何となく今思い出したんだけど』


 エトーは大きく肩をすくめる。

 その時彼が浮かべた表情は、どこか寂しそうな笑顔だった。


『でもやっぱり────僕には何も分からないな』


 そして突然、エトーはぐんと身体を捻った。

 それまで手に持っていた死体が、ふわりと持ち上げられる。信じられないほどに軽々と。


 例えるならそれは、テニスのバックハンドストローク。

 エトーはその大人の男の死体を、テニスラケットのようにその腕力でもって自身の背後へ思い切り振り抜いた。


『がふぁッ……!!』


 エトーのすぐ後ろに迫っていた人影が、勢いよく吹っ飛んだ。

 何かが折れるような、嫌な音が響く。

 鈍い音とともに、男は地面を転がるように倒れた。


『ジャッカル!!』


 カマタリが叫ぶが、その人影────ジャッカルは起き上がらない。

 かなり激しくぶつかったようで、苦痛を示すうめき声が返ってくる。


『しぶといなあ。人間が頑丈って言ったけど、これはちょっと人間の域を超えてるんじゃない? いち、にい……もう十五回は叩いてるのに。そんなにあがいて何になるのさ』


 カマタリの大きな手をあっさり振りほどき、興味を移した子供の様にジャッカルに近寄る。ずるずると引きずった死体が、床に血の線を描いていく。


 足元で動かずに転がっているジャッカルを見下ろす。

 

 これでエトーは、何時でもジャッカルを殺すことが出来る。


『ねえ、どうすれば死ぬの? 正直、らちが明かないというか、そろそろ飽きちゃったんだけど』


 


 エトーの頭の内にあるのは、ちらりと見かけたアジア系の少年の姿。

 メリーを連れて、この奥の部屋に入ったのは見えていた。今彼らは、ネブリナ家の多くの人間を代表し、多くの者を背負ってグレイシーとの因縁に決着をつけようとしているのだが、そんなことはエトーには知ったことではない。誰の味方でもないし、全てがどうでもいい。

 

 なんなら、マクシミリアンの娘であるエレンかメリーを直々に殺したら面白そうだとも考えていた。


 一つ、神の視点なる高次メタ的な見解を述べさせてもらおう。

 もし、全ての決着がつく前にエトーがここを突破しまえば。


 エトー一人で、この抗争の意味も意義も、何もかもが破壊しつくされてしまうだろう。


『────よし、じゃあ最後に今から殴る回数を数えて殺そう! 果たしてジャッカルは今から何回殴れば死ぬか。ゾンビ人間の限界に挑戦だ♪』

『……ゾンビ、じゃあねえよ』


 その時、ジャッカルが唸るように呟いた。


『俺は……俺様は、誰もが認める 「不死鳥フェニックス」様だ、このクソガキがっ!』


 

 そう言い捨てた直後――――恐ろしく機敏な動きで頭を持ち上げたかと思うと、歯をむき、エトーの細足に噛みついた。

 


『……なんでこんな無駄に足掻くのかな、人間って』


 ジャッカルが食いちぎらんとする足首からは、ゆるゆると血が流れていた。

 が、血の量に反してあまり深くは無い。エトーも歯牙にもかけない様子だった。


『どう足掻いたってもう死ぬのに。……いいの? その歯全部吹っ飛ばしちゃうよ?』

『やっへひおほ(やってみろよ)、ほのふほいはへほんひが(このクソイカレポンチが)』

『あ、いいんだ……ふうん』

 

 まるで、ガラス玉のような無機質な瞳で、じっとその様を眺めていた。


 這いつくばって足に噛みつくその様は、はっきり言えばあまりに醜い。口から覗く並びの悪い歯はヤニやらなんやらで黄ばんでいて、噛まれるどころか触れるのも拒みたくなるほどに汚らしい。

 彼の行動は、死ぬ寸前で屁をひり出したのと同様、不恰好で無様だった。

 それこそエトーの言うように、創作に出てくるゾンビの様でもあったし、はたまた死に際の狂犬を思わせた。


 そんなジャッカルに、エトーは────


 上記のように不潔だとも、惨めだとも哀れだとも感じなかった。

 ────これはもういらない。ただ、それだけだった。

 

『……もういいや。二人とも殺そうっと』


 無慈悲なまでに感情の失せた声が、ジャッカルに降りかかった。

 

 その時。


 エトーが、ジャッカルから視線を外した。

 何かが砕けたような鈍い音がした気がしたのだ。その音につられ、『ある方向』に向き直る。


 その方向は、つまり、カマタリがいる方向で────



「────ゴウッッッッ!!!」


 

 獣が吠えたかのような、あたりの空気を震わせる絶叫が響いた。

 そして、それとほぼ同時、


『────ッ!!』

 

 やばい、とエトーの中での本能が叫んだ。

 咄嗟に、顔を傾けた。


 するとそのすぐ真横を、大きな陰影が掠めた。

 次いで通り過ぎる風が貼りつくように顔を打つ。


 危うくぶつかりそうになったそれは、エトーの顔くらいの大きさの何かのようにエトーには見えた。


『…………』

「はっ……はっ……はっ」


 ぺたん、とエトーは無意識的に尻もちをついた。

 そのまま息を荒げるカマタリを見て、呆然としていた。

 瞬時に何が起こったのか、分からなかったからだ。


 だが、目の前の光景を見て、全てを理解した。

 

 カマタリは、いつの間にかかがむような姿勢まで身体を持ち上げている。

 その右腕は、何かを投擲した直後のように伸びきっており、手は真っ赤に滲んでいた。


 そして、エトーはカマタリのその足元に目をやった。

 教会の廊下の床タイルが、大きくひび割れ、一枚分剥がれている。すぐ下に剥きだしの地面が覗いていた。

 

『……あは』


 その時遅れて、側頭部が痺れた熱さを持っていることに気付いた。

 その部分にそっと触れる。ねとり、とした温かな感触が、手にまとわりついた。


『あはっ、あははは』

 

 今のをよけられたのは、たまたまだった。


 反応がもう一瞬でも遅かったら。

 投げてきた石畳の大きさ、そしてカマタリの膂力から繰り出されたその勢い。


 それらを鑑みてエトーが出した結論は、今のは、喰らいどころが悪ければ自分がどうなるかを考慮しない攻撃だった。

 ジャッカルに足を噛まれていて、動けなかった。そして、こうした隙を作る程に、ジャッカルに気を取られていた。

 今のは、この二人が間違いなく自分を殺しにかかった攻撃だった。


 ────ぞくり。


 背筋が震える。

 それは、エトーには初めての経験だった。


 死という計り知れない大きな暗がりが、先の一瞬に迫っていた。


 そのことで、エトーは生まれて初めて、畏怖と恐怖の中間のような怖気を抱いた。

 今更になって、畏怖的象徴である死をリアルに感じた。

 それも仕方ない。〝エトーは、死というものを意識するには、あまりに人として秀で過ぎていた〟。

 死というものは、自分が自分以外の他者に与えるもので、自分には預かり知らぬものと思っていた。


 だからこそエトーは、たった今死にかけたからこそここで理解した。

 自分と比べて圧倒的弱者であるカマタリ、そしてジャッカルを見て腑に落ちるものがあった。

 はっと目から鱗が落ちる心地だった。


 現在進行形で、二人に感じるもの。

 邪魔だから殺す自分とは違うもの。


 自分が死なないために、生きるために他者を蹴落とし殺すという、鈍い光を放つ生への欲望、意志、活力。


 ────そして、殺意。


 誰かを殺すということは、そのまま殺したいから殺すものなのだと思っていた。

 邪魔だから、なんとなく不機嫌だから、そこにいたから殺していいのだと思っていた。

 でも違う。違うこともあると今分かった。


 誰かを殺そうとすることは、自分が生きているから出来ること。

 誰かを殺そうとすることは、敗北の可能性という死を直面しているからこそ出来ること。


 例え泥水を啜っても、血を吐いてでも。


 死という途方もない概念に逃げず抗い、恐怖の中から生きる活路を見出そうとする彼らへの感じ方が。

 自分という脅威を前にもがく姿勢への感じ方が、エトーの中で百八十度変わった。


 死を覚悟して生きようとするとは、こういうことか。

 


『あはっはははははははははっははははっはははははははははははははははは』



 晴れやかな、透き通った笑い声が響く。

 エトーは大笑いしながら、手のひらに付着した血を舐めとる。

 むしゃぶりつくように血をなめまわし、舐め終わったらまたこめかみから血を掬い、舐め終わったら血を掬いまた舐める。


『いいねえいいねえ! これが殺し合いかあ!! 初めて知ったよ、殺し合いってぞくぞくする! ワクワクする!! 面白くなっちゃった、盛り上がってきちゃったよ! たーのしーなー、なんつって。あは、あははははははははははははは!!』

 

 嬉しそうに高笑いを続けるエトー。


 その笑い声は、遠く遠く、月が昇るイギリスの夜空に溶け入った。



◆◆◆



 祭壇を仕切る木柵が、音を立てて崩れ壊れた。

 倒れたその上に、俺は叩きつけられるように倒れ伏した。

 折れた木の柵が鋭くささくれだっていたのか、背中に刺されたような痛みがいくつか走った。


 だが、悶えている場合ではなかった。

 仰向けで倒れた俺の視界の端に、黒々とした影が差し込んだ。


『死んでください』


 手の中にすっぽり収まりながらも、重みを感じさせるフォルム。

 直接見たことがある人間もそうでない人間も、人はその銃の造形に、死そのものを投影する。


「くっ────おおッ!」


 足を畳み、バネのように伸縮させてから地面を全力で蹴った。そして、腹筋を使って倒立の姿勢に移行させる。

 下半身が綺麗な弧を描いて、伸ばした足の先が宙を舞う。固いものの感触があって、銃は軽々と────違和感を覚えるほどに簡単に────吹っ飛んだようだ。

 

「ふっ────」


 そしてしっかり逆立ちした格好で、開いた足を回転させる。

 が、空を切ったようで手応えがない。すぐに距離を空けてかわしたようだ。


「チッ────……」

『カポエィラですか……変わった技の心得があるんですね』


 身体を持ち直し、態勢を整えたところで、グレイシーがわざとらしく話し掛けてきた。

 俺を煽るように、わざわざ俺の出した技を口に出して確認していく。


「……はあ……はあ……はぁ」


 切った口から流れる血を雑に拭う。何度か殴られた顔が赤く腫れあがっているのが分かる。

 対し、グレイシーはほぼ無傷。昨日と今日で撃たれた部分を除けば、受けたダメージはたかが知れているし、一体どうなってるのか、俺と比べ汗もかいてなければ息一つ乱れていない。


 正直、舌打ちでもしたい気分だ。


『た、タクジ……』


 今の状況は、完全に俺の劣勢だった。やや俺達から離れたところでエレンの介抱をしているメリーが、不安そうに俺を見ている。

 素人でもそう見えるのだ。それも当然だろう。


「くっ……!!」


 こうして、距離を詰めて拳を突き出しても、


『…………』

 

 いともあっさりその腕を掴み、蛇のように腕を固め、そのまま捻りあげられた。

 これには耐えられず、ぐるんと身体が引き倒される。

 頭から地面に突っ込みそうになるのを、とっさにもう片方の手を床に付けて支えた。そして、グレイシーの顎目掛けて足を伸ばす。


 が、これも彼女の読み通りだった。

 俺の動きよりも早く、俺の顔に向けて置きにいくように膝を突き出していた。


「────ぶぐッ!」


 もろに喰らった鼻の頭から頭へ響くような鈍い衝撃が襲い、またしても身体ごと吹っ飛ばされた。

 今度はすぐに受け身を取って立て直したが、かなり手痛い反撃を受けてしまった。


「っぐ……はあっ、はあっ、はあ……」


 鼻からは血が垂れ、二日酔いのような脳が揺さぶられている感覚がする。

 今のように、俺が一発浴びせようとすれば、それをカウンターで数発にして返されているのを繰り返しているのだから、実際、俺とグレイシーでは差が開きすぎている。それは恐らく、俺の想像以上に。


 それに、単純な実力で押されているだけでなく、駆け引き的要素での差が大きい。


 まずそもそも、。明らかに、俺は今生かされている。

 それはここまでほとんど俺の不得手である銃を使っていないことから分かる。両者の銃の腕の差を知っていれば、銃でごり押しても勝てるはずなのに。

 敢えて俺の土俵である格闘術をメインに戦ってこようとする。

 ただ、決して油断でもお遊びでもない。既にそんなことをする理由は無い。


 なら何故、一気に俺を殺しにかからないのか。

 その理由こそが、グレイシーの駆け引きだ。


 要するに、グレイシーは俺を『観察』しているのだと思う。

 つかず離れずの姿勢を保ち、確実にしとめられるタイミングを探っているのだ。


 例えば今、俺はカポエィラの蹴り技を出した。

 他のほとんどの格闘術はせいぜいかじった程度である中で、これだけは俺のとっておき、ループを繰り返して手に入れた切り札の一つだ。


 しかし俺は、これを積極的に出すようなことはしない。

 何故か。その答えはグレイシーが言ったことにあって、敵に俺が切り札カポエィラを使えると教えたくないからだ。

 ここぞという時に使え、相手の意表を突くためのカポエィラは、一度警戒されてしまえば他のどの格闘術よりも大きくグレードが下がってしまう。仕留められる可能性が高い時か、膠着状態に不意を突く時にこそその真価が発揮される。

 

 だが、もう今のでそれさえ見せてしまった。

 こちらの手数を、じっくりと潰しに来ている。しかもここまでで、他の近接技もかなり晒してしまっているのだ。


 一方、グレイシーは本来暗器の扱いに長けたスペシャリストだ。それはジェウロとの戦いでもいくつか見せていたのを覚えている。恐らく、今も懐に隠し持っているのだろう。

 だが、ここまで一度もそのような物を見せていない。それが怖い。

 何時出すか分からないという警戒が、身体を固くする。


 さっきまでの激昂はどこへやら、いざ始まれば、流れ作業でもするかのような無心さで、俺の行動一つ一つを潰してこようとしてくる。


 俺がカポエィラでしているような『出し惜しみ』を、今度は俺がやられているとは、なんという皮肉か。

 次々に俺のカードが切られていく中、グレイシーはほとんど自分のそれを明かさないでいる。

 俺が何か仕掛けても、グレイシーは最小限の動きでそれをいなす。

 こんな戦い方が出来るのも、単純にそれだけの地力の差があることは明白だった。確実に俺を仕留めることが出来る余裕がある。


「はあ、はあ……はあ……」


 無言の膠着が生まれた。お互い、目の前の人間をじっと見据える。

 先程まで激しく争っていたために、俺の荒い息遣いくらいしか聞こえない今の状態が異様に感じる。本当に、口から息をしているのは俺だけだ。

 

『……アイカワさん。一つ、言っておきます』


 今までほとんど喋らなかったグレイシーが、口を開いた。

 じりっ、とわずかに片足を擦らせて、少しだけ間合いを取った。

 受けたダメージの蓄積からか、肩で息をしながら、それでも目の前の女を見た。


『ほんの少し同伴した縁でしたが、私は楽しかったですよ。貴方のことは、きっと忘れないでしょう』

「……? なにを────」

『……これで終わりです』


 ────そして俺は、ここでミスを犯した。


『ふっ────』


 この瞬間、グレイシーが僅かに身体を傾けさせたかと思うと、突発的に俺に肉薄した。

 これまでかたくなに自分から攻撃してこなかった彼女が、ついに動いた。


 駆けるというよりは跳ぶように地面を蹴って、たった一瞬で俺のそばまで静かに迫る。

 それでも普段なら、決して対処できない速さではなかった。

 

 しかしその動きに────俺は凍り付いたかのように反応できなかった。


「ッ、しまっ────!」

 

 俺のミスとは、すなわち呼吸だ。


 ────例えば、剣道において『呼気の時に打つ』という鉄則がある。

 吐く息を「呼気」、吸う息を「吸気」と言うのだが、人間の最大の隙は、呼吸を出し切り吸いに入った一瞬。そこを突かれると身体が思う様に動かず防御する事が出来ないのだ。

 呼吸は人間の精神状態や健康度を見測る指標であり、その重要性は剣道だけでなく、その他多様なスポーツでも通ずる基本中の基本でもある。

  

 そして、相手がプロである程、その意味は大きくなる。

 俺は、そのことを失念していた。

 

 自分の呼吸を晒すということは、そのまま自分の隙を見せているのと変わらない。

 俺はまんまと動かされ、空回りしている内に、呼吸を荒げてしてしまった。

 俺自身が気付いていない自分の隙を、グレイシーの思惑通りにさらけ出してしまっていた。


 気付いた時にはもう何もかもが遅く、手で身を庇う前にグレイシーの繰り出した手に差し込まれていた。

 また殴られるか、と身構えていたが、結果として来るべき衝撃は訪れなかった。


『それでは、良い夢を────』


 そして最後に、眼前にまで届いたその手の中に、何かを握っているのが目に映った。

 それは銃でもなければ、ナイフでもなく、


 例えるなら、スプレー缶のような────。



『────そしてさようなら。永遠に』



 空気が噴き出したような音がした。

 白い靄が、顔を打ち付ける。目から、鼻から、口から、その煙は侵入していく。


 がくん、と力が抜けた。

 鼻腔を通り、咽頭から身体の奥の奥まで、甘い痺れが伝わっていく。


 意識が朦朧としてきた。視界がぐにゃりと大きく歪んでいく。

 自分が今立っていられているのかどうかさえ、もう分からない。ひょっとしたら、もう倒れているのかも。


 遠くから、叫び声が聞こえた気がした。でも、何を言っているのか聞き取れない。

 俺はさっきまで、何をしていた? 何か、大切な何かを……。


 温かい。全身が、毛布に包まれているようだ。身体の強張りが、緊張がほぐれていく。


 ぶ厚い暗幕が降りてきている。

 ゆっくり、ゆっくりと。


 そして、俺は────深い暗がりに身を委ね、意識を手放した。



◆◆◆



 暗い部屋だ。


 一切の音という音は絶え、薄明かりの一筋も無い。

 何一つ見ることも聞くことも出来ない、陰気な部屋。


 とはいえ、特別な何かがある訳でもない。

 ベッドがあり、本棚があり、テレビがあって勉強机なんかもある、ごく普通の個室だ。


 そう、俺はこの場所を知っている。


 俺は、この時ベッドの上で布団にくるまっていた。

 外からの光はカーテンで遮断され、外に繋がる扉はアリ一匹入れないよう固く閉ざされていた。


 ずっと、この閉じ切った世界に引きこもって、この世の何もかもを断絶した。

 何もかも見えなくなってしまえと、聞こえなくなってしまえとただずっと祈っていた。


 ここは、俺の部屋だ。

 いつもは物が少なく整えられたこの部屋は、今は見る影もない。

 本棚の中身はメチャクチャにぶちまけられ、部屋の壁紙は無残に引きはがされ、勉強机は小物が散乱したあげくに数週間前の吐瀉物がそのままこびりついて、ハエがたかっている始末だった。


 酷い有様だった。

 部屋だけでなく俺自身も、もう何週間も部屋から出ず風呂にも入ってないせいで、汗と垢の臭いが鼻を突く。髭は生えっぱなし、爪は歯で噛みきって不細工な出来で妥協して放置している。

 頭が重く、縫い付けられたかのようにベッドの上から動けなかった。


 ああ、思い出した。この光景を、俺は知っている。

 遠い遠い昔のこと、


 ────俺の『三週目の世界』での記憶だ。


 これは、夢なのだろうか。

 いや、夢に違いない。もうあれは、終わったことだ。


 その時だった。突然、テレビの電源がひとりでに点いた。


 思わず身体をびくつかせる俺。

 そして、割れた液晶から明るい光が溢れて放たれる。


 明るすぎて、目を背けても眩しい。部屋全体が照らされる。



『────速報です。たった今入って来た情報によりますと、〇〇県の公立高校で屋上から飛び降り自殺を図った女子生徒、立花暁さんですが、搬送された病院で先程死亡が確認されたとのことです────』



 ニュースキャスターの声が、淡々と部屋の中で響く。


 無意識のうちに歯ががちがちと鳴る。身体が震えた。

 そのキャスターの数字を数えるような冷やかさに、俺の周囲の人間の死を語気をまるで変えず語るその厚顔さにぞっとしたから。


「う、ぐうっ……」


 また、胃の中のものをぶちまけてしまいそうだ。

 もう耐え切れず、目を耳を塞ぎ、首を振った。頭が痛い。近くの毛布をしっかりと抱きしめた。

 聞きたくない。例え夢の中だとしても、『あの時』のことを思い出したくない。


「やめろ、もう……俺は、俺のせいじゃ……」

「────?」


 テレビのものとはまた別の声。

 聞き覚えのある声。とある少女の声がどこかから、聞こえた。


「相川くんが言ったんだよ? 言ってくれたんだよ? ────例え世界が変わっても忘れないって。その約束は、もう覚えてないの?」

「あああ、ああ……」


 ────

 死んだはずの暁の声がする。俺以外に、この部屋には誰もいないはずなのに。

 ……いや違う。違う違う違う、そうじゃない。暁は生きてる。またやり直したから生きてるんだ。

 死んでなんかない。だから間に合う。助けられる


 だから、俺が、俺こそがあの二人を助けること出来る────。


「私を助ける? 馬鹿言わないで。世界を何度も繰り返して、何時か助ける、何時か助けるって自分の中で言い訳して、見ないふりして。助けるために必要だから、なんて言って本当は逃げるための口実だったんだよね?」

「ど、どこだ? 一体どこに────」


 そして気付く。

 引き寄せた布団の中がもぞもぞと動いた。

 俺ではない『何か』が、ここにいる。


「本当はさ、私の事なんか忘れてしまいたかったんだよね、相川くんは」

 

 布団からみせたその姿は、まぎれもなく暁だった。

 俺に掛けられたその声は、間違いなく暁のものだった。

 そっとこちらに伸ばしてくる腕はあらぬ方向へひしゃげていて、全身が血にまみれている。顔は頭から噴き出る血で汚れ、服はもはや赤い液を吸った薄い布きれでしかなかった。


「でも、私痛いの……ずっと死にっぱなし。何度も何度も死にまくってさあ。ねえ、何時私を助けてくれるの? 何時になったら私はこの痛みを、苦しみを、恐怖を我慢しなくて済むの?」


 にやにやと、口元を歪ませ薄ら笑いを浮かべる暁。

 その潰れた眼から流れるのは、濃い色の赤い涙だ。

 血、血、血────。どこをとっても血。どこを見ても血しかない。あまりにもおぞましい姿だった。

 いくら見かけがそれっぽくても、もはやこれは暁の姿をした肉袋でしかなかった。

 逃げようにも、金縛りを受けたように動けない。この『暁のような何か』のなすがままだ。



『────なお、────』 



「お前はいいよな、長いこと楽しそうにしてさ」


 今度は暁とは別の、男の声が聞こえた。

 これにも、聞き覚えしかなかった。


 暁が覆い被さるような形で迫ってくるなか、何とか視線だけ声の主へと移した。


「なんなら俺とお前、入れ替わりたいくらいだぜ。学校に飽きたら日本のあちこち回って、それも飽きたら今みたく海外行ってさ。全部お前のせいなのに、なんでお前は遊んでんだっつーの、ああ?」


 やはりと言うべきなのか、その声は夕平だった。

 何時の間にそこにいたのかと、思わず声をあげそうになった。

 のだが、その姿はあまりに衝撃的だった。


 ────手足を床に着けて四つん這いになり、裸の姿で犬のようにだらしなく舌を垂らしている夕平の姿が、そこにあった。


「ゆ、うへい……」


 その顎の下にちらついているのは首輪だ。そこから、リードのような紐が見えない闇の中に向けて伸びている。

 まるで、奴隷のように、夕平の姿をした何かはそこにいた。

 『待て』の姿勢のまま、それは鋭い目つきで俺を睨みつけていた。


「お前が、お前さえ逃げなければ……暁は死ななかった。俺はこうして、

「俺は、違う。俺は、逃げてなんか────」

「何が違うってんだ。暁の言った通りだよ。お前が何十年と俺達を見殺しにし続けてるせいで、俺達は何十年もこうしてるんだ。そう────?」


 途端に、夕平の口調が変わった。それだけじゃない、声音が女のそれになっている。

 夕平の顔がぐにゃりと歪み、現れたのは別の女の顔。

 また、俺の見知った顔だ。息を呑み、目を見開いた。


「キミがやってきたことは、全部自己満足さ。独りよがりのオ〇ニーは気持ちよかったかい? キミはずっと、使命を得たような気分で自分を正当化してきた、憐れな道化(みせもの)だよ」


 嘘のように整った顔立ちと、涼しげな美貌。

 千夜川桜季だ。その声音、その顔は間違いない。

 俺が憎むべき女が、最後の最後に目の前に現れたではないか。


 相変わらずはっとするような美人だが、床を這うゆうへいの身体つきとのアンバランスさが、あまりにも強烈な違和感を放っていた。


「ヒーローごっこは楽しかったでちゅかあー相川くん? お友達を何十回も見捨てて過ごした時間は、さぞ楽しかったろうねえ」

「……るさい」


 夕平の身体をした桜季の口が動く。 

 その声で、その顔で、俺を嘲り詰る。

 言葉一つ一つが、表情の機微が息苦しい。


 もう訳が分からない。もう勘弁してくれと言いたいくらいだった。


「でもその時間だって、ループでやり直される。キミが過ごした時間は、まるで最初からなかったように無に帰す。そして残ったのは、『また見捨てた』という罪悪のみ。ねえ、虚しくならないの? 自分のやって来たことが、無意味だと本当は────」

「うるさい黙れッッッ!! 黙れ黙れ黙れ黙れッ!! テメエに何が分かる! テメエら全員、何も知らずに、暢気に生きてただけだろうが!!」


 身体が勢いよく動いた。被っていた布団が跳ねあがる。

 そして、桜季に向けて片腕を突き出した。

 手の中には、まるで最初からあったかのように銃が握られている。

 その銃口が向く先は、夕平のような姿の桜季の顔面だ。


「俺はっ……俺はあああああああ!!」


 銃を構え、引き金を引く寸前、くすくすという笑い声が耳に届いた。

 

「違う、違うよ相川くん……そこじゃない」


 立ち上がった俺の足元に縋り付くような姿勢でいた暁が、そっと俺の手を握った。

 そして、囁く。


。……本当に、キミが私達を助けたいって思うなら、ほら、こっち……」


 銃が、ゆったりとその矛先を変える。

 照準は、夕平の格好をした桜季にではなく、


「ほら────こ・こ♪」


 ────?


「それじゃ、またね」


 血まみれの暁の姿は、何時しかそこにはなくて。

 代わりというように、夕平と同様、彼女の姿をした桜季の顔が、にっこりと俺に笑い掛けた。



◆◆◆



 激痛が迸る。

 どこか遠くで、苦痛を示す断末魔の悲鳴が聞こえる。

 うるさい、一体誰が、と思ったところで、はっと我に返った。


 その耳障りな絶叫が自分のものと分かるのには、数瞬のラグがあった。


 尋常じゃない吐き気とともに、意識が痛いほどに覚醒した。

 頭がズキズキと鈍く響く。身体が燃えるように熱く、逃げ場を失った激しい痛みに脳が焼けこげそうだった。

 だが、その全てを、俺は歯を食いしばって耐えた。


 視界はクリアだ。せいぜい、目に涙がにじむせいでぼやけて見えるくらいで問題は無い。


 右手から、あるものが地面へ滑り落ちる。手は少し痙攣して、痺れていた。

 グレイシーの隠し持っていた麻酔ガスを吸った影響か。

 どうやら、俺の意識も一瞬飛んでいたようだ。だが、なんとか、甘く深い眠りの底から復活できたらしい。

 それは、無意識だったし、偶然だったし、たまたまだったし、まぐれだった。


 ────


『────なっ……!?』


 すぐ近くに、グレイシーがいる。

 やや離れて、メリーとエレンもいる。エレンは目を覚ましたらしく、目を見開いている。


 俺は、戻ってきたのだ。

 ここが、俺の現実。俺が今いる現状だ。

 まるで、何か夢を見ていたような気分だ。何かあったように感じるのに、もうその内容は思い出せない。

 

 ただ夢の中で、背中を押されたかのような、はたまたケツを叩かれたような。そんな小さな芽のようなしこりが、確実に胸の内に残っていた。


『くっ……!!』


 俺の予想外の行動にグレイシーは固まっていたが、虚を突かれていたのも一瞬のこと。すぐに、俺と距離を置こうとする。

 だが、俺にはもう今しかない。恐らく、最初で最後、彼女が見せる明確な隙が今生まれている。


 痛みに悶えている場合ではない。 

 歯を今以上に噛みしめ、撃った右足で思い切りグレイシーの足を踏み抜いた。目の前の彼女は痛そうに眉を歪ませる。

 銃創から血がさらに噴き出る。痛みがぶり返した。

 

 が、気にしていられない。

 痛みは叫び声に変換して身体から外へ吐き出す。


「っ……おっらあああああああああッッ!」

 

 コンパクトに振りぬいた拳が、初めて完璧にグレイシーの顎を捉えた。


『がっ……!』


 顎の先を打ちぬいて、脳を揺らす。完全に気絶させたわけではないが、ダメージはしっかりと入ったようで、わずかによろめいた。


 当然そこで終わらせはしない。

 矢継ぎ早に、流れるような動きで体重を落とし、大きく屈みこむ。くん、と折りたたませた右膝を、グレイシーの足と足の間に差し込んだ。

 グレイシーの腹に顔を埋もれさせるような、一見したらシュールな格好のまま、持ってきた右膝を、相手の膝裏に引っかける。

 

 そして、引っかけた膝でもって、思いきりグレイシーの身体を引き倒した。


『っ!? しまっ────』


 完全に体勢を立て直せていなかった彼女の身体は、構えが崩れ、あえなく倒れた。


 これで、これで最後だ。

 今しか、もうこいつを倒す術は無い。


 はやる気持ちを必死に抑えて、地に伏したグレイシーの位置を確かめる。

 そして頭の中は、摩擦で焼き切れるかと思うくらいの速さで回転していた。


 ────カポエィラは先程見せた。 

 ────一度見せた技は確実に跳ね返される。

 ────他の格闘技はかじった程度。寝技も通用はしない。

 ────なおかつ、一撃で仕留められるもの。


 

 グレイシーにも、俺以外の誰にもまだ見せてない、本当に最後の必殺技。


 リャブコ家の伝統武術を源流とした、ロシア系軍隊式格闘術。



「────|Система(システマ)」



 最後に、重い物が落ちた時のような鈍い轟音が、今までより一際、この礼拝堂の中に響き渡った。


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