第二十六話:夜のカーチェイス

 季節にもよるが、イギリスの昼と夜の寒暖差は、日本の気候と似通ったものがある。


 六月だというのに、マンチェスターの冷ややかな夜風が、傷口に染みる。

 つい少しだけ姿勢を屈ませてしまいそうになるが、それだと具合が悪い。


 というのも、何故なら――――俺が今、カーチェイスの真っ最中だからだ。


 目標であるエレンを乗せた車は、大きな騒ぎを起こしたくないのか、今のペースを保っている。ご丁寧に交通法規までしっかり守って。

 それで今はなんとか、車に付かず離れず張り付いていられている。

 が、そう長くは持たないだろう。


「うっ……はぁ、はぁ……くそっ」


 じわり、とシャツに血の赤が広がる感覚。腹に力が入らない。

 身体は泥のように重く、いっそ眠たいくらいのコンディション。小回りの利くバイクでなければ、とっくに突き離されていたかもしれない。


 一体どうすればいい? この状態でエレンを助ける方法なんて、そうはない。というより、見当がつかないのだ。

 相手がプロである一方、こっちは丸腰だ。こんなことなら、ジェウロから銃を奪っておくべきだったのかもしれない。それだけでどうにかなるとは思えないが、迂闊だったのも事実だ。


 甘く見ていた。自分達のやることは、万事うまく行くと思っていた。

 今まで俺が、そうであったように。


 エレンが攫われていると言うことは、レッジの部下であるフリーク達はエレンを守れなかったということである。


 が、彼らのせいとは思いがたい。

 どうしようもなかったことなのだろう。仮に俺がレッジに付いて行かず、酒場に残っていたところで、何の力にもなれなかっただろうし、またエレンを俺達と一緒にビルに連れて行ったとしても、ジェウロ相手に守り切れたとは思えない。


 どうするのが正解だったんだ? どう転んでも、エレンは攫われるしかなかったように思えてしまう。

 

「くそっ……」


 まただ。また、感じる。


 レッジのように、この一連の出来事に、どうしようもない力が働いているような感覚がある。あたかも、こうなる運命であったかのような錯覚さえ覚えている。


 ……いや、馬鹿な。最初から決められていた事なんて、変えられない事なんて、あるわけがない。

 俺は、運命などという存在を信じていなかったはずだ。


 エレンは救う。必ずだ。


 そのために俺が出来る事。それはなんだ?


 いっそ、このまま敵の本拠まで、車を追い続けるか?

 だが、車の中にこのような尾行に目の利く者がいないはずがない。俺の存在がもうバレていても全く驚くことじゃない。


 と、まさにそのような事を考えていた矢先だった。

 まさに信号が赤になる瞬間、追っていた車が滑り込むようにして交差点を突っ切り、俺との距離を離そうとする。

 まさに、流れるような一瞬の動作だった。完全な尾行よけだ。


「くっ!」

 

 慌てて、俺も後を追う。

 だが、ワンテンポ遅い。完全な信号無視だ。

 すると横から、大型のトラックが迫って来た。


 スピードを上げ、ハンドルを無理矢理切った。これを間一髪でかわす。またしても、鼓膜に突き刺さるようなどでかいクラクションが響く。いい加減難聴になりそうだ。

 その大音量に隠れるように、おもちゃの爆竹のような軽い音が数発、確かに耳に届いた。


 発砲だ。もう何度も聞き慣れた銃声だが、今となってはそこまで耳触りの悪い、ヒヤリとした異質感のようなものは無くなりつつあった。


「!?」


 だが、異変はすぐに起きた。

 突然、タイヤが急激にしぼむような音を上げ、カチッカチッという金属の異音が恒例的に聞こえる。ハンドルがもたつくというか、微細な違和感を覚えた。


「しまった……!」


 パンクしているようだ。さっきのを被弾していたらしい。


 しかもその銃弾は、ただの銃弾じゃない。その事にすぐに気付いた。

 あれは、釘を打ち出すネイルガンだった。その数本の釘が、的確に俺の乗っているバイクのタイヤに突き刺さってしまったのだ。

 

 目標の車は既に、他の車と車の間を縫うようにして走っている。

 このままでは追いすがれもない。見失ってしまう。


「く、くっそおおおお……!!」


 このままでは終われない。

 俺はまだ全力じゃない。俺に出来ること、それを今、一つだけ見つけた。


 ――――まだ、まだやれることがある。



「こなくそおおおおお!」



 ハンドルを持ってかれる瞬間、最後の『あがき』を試みた。

 

 エンジンを思い切り吹かし、大きく進路を曲げた。

 タイヤが段差で跳ね上がり、向こうの対向車線と区切って設けられている中央のガードレールに、前輪を持ち上げたウィリーの状態で突っ込んだ。目を閉じず、前だけを見る。


 強い衝撃の後に、地に足着かない頼りなげな浮遊感に包まれる。

 その一瞬で、再びハンドルを切った。前輪を軸にし後輪を持っていくような形となる。


「――――ぃよいしょお!!」



 


 これなら、道路の他の車をよけなくていい。一直線に、『自分だけの道』であの車の元に向かえる。

 ……どうしてそんなこと出来るのかって? 昔、バイクを乗り回してた時期があっただけの話だ。夏休み中ずっと日本中を駆け巡ったこともある。その時に、『こんなこともあろうかと』訓練していたのだ。


「いっけええええええ!」


 まさに曲乗り師のような心地で、臆する気持ちも捨てて

 だが、これではすぐに落っこちてしまう。幅は明らかに車輪のそれと釣り合っていない。


 俺に出来ることは、そうなる前にスピードを加速させるだけだ。

 前だ。

 しっかり前だけを見ろ……!


 このとんでもないショートカットで、車間距離が縮まり、ついにすぐその斜め後方にまで迫った。

 ────追いついた。

 エレンはもう目前、この手に届く距離に詰め寄ろうとしている。


 あとは、もう、手を伸ばすだけ。

 

 その時、車の方から動きがあった。


 窓から、ぬっと真っ黒い腕が伸びた。片腕だけがこちらを覗き、手には銃を持っている。

 狙撃して俺をガードレールから撃ち落とそうということだろう。

 

「くっ」

 

 だが、そいつからすれば撃つ必要も無かった。こんな無茶な運転、いくら訓練してきたことがあるからといって、もはや俺の方が限界だった。

 滑り落ちるようにガードレールから車道に移り、そのすぐ後方に張り付く形となる。


 そして俺は、今度こそ手を伸ばした――――。


 だが、それが甘かった。

 

 突然、バンと音を立てて車のトランクが勢いよく開かれ、その中身が吹っ飛んできた。

 何を入れるためなのやら、大きな箱やボストンバッグ、チラシらしき紙切れなどがその後ろ――――つまり俺に向けてぶちまけられた。


 その中でも何より、一緒に飛んできたシートによってハンドルが覆われ、完全にハンドル操作を見失ってしまう。

 

「く、くそっ! 待て、待てよ……!!」


 そしてもうこれ以上は、バイクが限界だったようだ。タイヤが空回る。いくらアクセルを踏んでも速度が出ない。

 それでも、バイクを捨てて跳び移ろうと考えた。でも、一瞬の内にその距離は再び離され、もうどうにもならなくなってしまっていた。


 ろくに運転も出来ず、ふらふらと道路を横切るようにバイクを持ち直し、逆端に位置する歩道に辿り着くとほぼ同時にスリップして倒れこんだ。


「待てよ……」


 エレンを乗せた車は、どんどん遠ざかり――――

 やがて、夜の闇に溶け消えるようにして視界から姿を消してしまった。

 

 俺はその場で動けず、しばらく車が消えていった方向を黙って見ていた。



◆◆◆



 『the workplace』前は、騒然としていた。


 既に野次馬が一目見ようと集い、『keep out』の文字が入った黄色い規制テープの中の現場は、警官と救急隊員でしっちゃかめっちゃかだった。その境界の内と外、どちらもそれぞれの温度でこの光景に盛り上がっているようだった。


 現場は、荒れていた。酷い荒れ具合だった。

 まるで爆発でも起きたかのような、凄惨たる店の破壊っぷり。シャレていた店構えはまだ少し小火が残っているのか、焦げ臭い臭いが周囲にたちこめていた。

 もはやその建物は、以前と原型を留めておらず、少しでも見知った者がこの場にいるなら、その見る影もない姿に驚くことだろう。今ここで地震の一つでもあれば、簡単に崩れ落ちるに違いない。


 テレビのキャスターの声が響き、カメラのフラッシュが焚かれる光が眩い。

 

『――――だから、店の中に知り合いがいるんだ! 通してくれよ!』


 そんな中、俺はというと、少し離れた所で見張りをしているらしい若い警官を捕まえ、掴みかからんとする勢いでまくし立てていた。

 

 目的は、ずばり情報。フリークの行方、特にエレンの姉、メリーの行方である。

 エレンが攫われたのなら、同じくボスの娘であるメリーも狙われた可能性は十分にある。メリーを乗せたと思しき車は見かけなかったが、もしかしたら別のルートでもう一台の敵の車が攫って行ったのかもしれない。

 それを確かめようとしているのだが、まあ当然、一般人(笑)である俺に伝わるものは無い。


『ダメダメ、気持ちは分かるけど……』


 案の定、警官は横に首を振った。

 そう言う彼は、どこか疲れたような呆れたような表情を見せている。恐らく、こういう『店の知り合い』をあしらうことに、若干辟易しているのだろう。

 

『とにかく、今は捜査中。もうすぐしたら詳しい事も分かるから、それまで――――』

『そんな、頼むよ! せめて安否くらいいいだろ? それとも、そんなに捜査は進んでないのかよ?』

『あー、まあ、そうだな。それだけじゃないけど……』


 敢えて、その最後に言葉を濁した所には今は突っ込まず、さらに言い募って会話を続けていく。


『じゃあやっぱり爆弾? それともテロ?』

『はあ? ……おいおい、そりゃどっから聞いたんだ? どうしてそんな話になった』

『え? でもそこらで話してるの聞いたぜ? もっぱらの噂になってんだ、それ』


 もちろん嘘だがな。

 その言葉を聞いて、新人らしい警官は初めて相好を崩した。

 

『あはは、そんな物騒な事件なら、俺みたいな若造の出番は無いって。強盗だよ、強盗。集団での犯行らしい』


 はっ、強盗ね。

 


『ふうん……でも強盗一つでこんなに警官もいらないじゃんか』


 そう言って顎をしゃくり、現場付近をわざとらしく見やる。

 新たな被害者が見つかったとの怒号が聞こえた。


『な、本当のとこ教えてくれよ。やっぱテロなんだろ? なあ?』


 そして心持ち大きな声で尋ねかけてやる。

 その声に、慌てた様子で口元で指を立てる警官。


『しっ、しーっ! 止めてくれよ! そんな言葉一つで他の野次馬に騒がれても困るんだって!』

『んじゃあ教えてくれよ。――――でないと、あることないことそこら中に広めちまうぜ?』


 にやり、と笑みを浮かべ、取引を持ち出すような雰囲気で尋ねた。


『な、どうだ? 話す気になった?』

『…………』


 だが、その相手の反応は芳しいものではなかった。

 ため息を溢し、うっとしそうに俺を見た。


『……あのなあ、ドラマの見過ぎかなんか知らんが、そんなんで鬼の首取ったようなドヤ顔すんな。取引のつもりか? 大人をなめるんじゃない。どこのタレこみ屋か知らねえけど、別にそんなん弱みでもなんでもねえし、お前が言いたきゃ言えばいいさ』

『…………』

『ほら、もう遅い。ガキは帰って寝た寝た』


 そう言って、ひらひらと蠅を落とすような動作で俺を邪険にする。


『まあなんなら、お前が探してる人がいたら真っ先に教えてやるから、その名前を教えてくれ。だからそれまでは大人しく――――』 

『……俺の知り合いって人ってな、けっこう偉いとこの娘さんなんだ』


 ぽつり、と声のトーンを落とし、呟いた。


『は?』

『はねっかえりが強い上に思い込みが強いせいで、俺も一度マジで殺されかけたし。そう簡単には死なない、元気なじゃじゃ馬でな』


 その警官を真正面から見返した。

 未だ疑問符を頭の上に浮かべている彼に、俺はわざとらしい口振りで告げてやる。


『これは俺達ファミリーの大問題さ。別にウチの客が何人死のうと、ウェイトレスやスタッフがどれだけ押っ死んじまっても、。その娘に何かあるよりかはな』

『なっ、お前何言って……!』

『もうとっくにボスはお怒りよ。誰の仕業かは知らんが、戦争の引き金はもう引かれちまってる。。だから情報は正確にお願いしたいね、若い警官さん。……』


 そして、今まで着ていた上着をめくり上げた。


『なっ……!?』


 その瞬間、警官の顔が歪んだ。その見開かれた双眸は、応急の止血を施しているとはいえ、血みどろのままのシャツを映していることだろう。


『アンタも、ウチのボスに怒られたくは無いだろ? ん?』


 もちろん、ただの作り話だ。知っての通り、実際はジェウロに撃たれた傷だし。


 だが、その刑事は俺の言葉に呑まれたのか、見事に俺を『信用』したらしい。

 ようやく、良い言葉を口走ってくれた。


――――!? むぐうっ!?』


 一瞬の交錯。大騒ぎされる前に、右手でそのお巡りの口を押え、左手で腰にかけた手を掴む。大方無線機を取り出そうとしたのだろう。もちろん、そうはさせない。

 警官を完全に無力化し、人目に付かないように暗がりの路地に引き込む。そして流れるような所作で背後を取り、顔を壁に叩き付けた。血が抜かれたとはいえ、まだこれ程度は出来る。


 ――――ビンゴだ。どうやら、警察は『the workplace』の正体――――つまり、ネブリナの存在を知ってこの捜査に臨んでいるらしい。そのための捜査の遅れなのだろう。

 今回の件では完全にこちらが被害者なのだろうが、そんなことこいつらには関係ない。どうせ騒ぎに乗じて俺達マフィアをふんじばれたらそれでいいのだろう。マフィア同士の抗争とでも考えているのかもしれない。

 まあそれでいい。俺が知ってる事(みらい)を警察如きが知ったところで邪魔にしかならない。これはネブリナ家にしか解決できない事案だ。


『さて、もう一度言うぞ?』


 抵抗する警官の背後から、耳元で囁くように再度尋ねる。


『本当のとこを教えてくれよ。でないと――――?』


 さてさてお前のせいでイギリス人が何人死ぬことになるのやら、と最後に言い繋ぐと、男は抵抗を止め、込めていた力を抜いた。

 潰れた鼻から血を流し、こう答えた。


『う、ぶ……わば(か)った、び(言)う。び(言)うよ。……ぞ(そ)、ぞ(そ)れで、び(良)いんだろ?』


 今度こそ、本当のニヤけた笑みを浮かべた。



◆◆◆



 欲しい情報は、確かに手に入れた。

 だが、それで打開の方策は見つけられず、ほとんど悪い情報しか聞けなかった。


 まず、唯一の良い情報として、フリーク達は生きている可能性が高い。店内に、そのような人間は一人としていなかった

 死体は数人、運悪く争いでの流れ弾に被弾した者達だろう。それも警察の目的からしたら『外れ』の、ただの一般客であると言う。他人の事言えたものじゃないが、とんだ正義の組織だと思う。

 

 そして、メリーと思しき少女の姿も無かった。どうやらメリーは上手く逃げ出すことに成功したらしい。それだけは良かった。


 だが、良いニュースはここまで。駆けつけて数時間であるためか、情報もまだ少ない。若警官の言っていたことも、あながち間違いではなかったらしかった。もっと吐かせいためつけようとして、マジの男泣きをされてしまった以上、信じる他ない。


 その推定四十名近い襲撃者含め、当人達の行方は、今の所分からずじまいらしい。検問も掛けたが、既に逃げられている可能性が高い。

 襲撃者の詳しい数も行方も不明、そして逃げたフリーク達の安否も不明ときた。分からないという情報こそが、今この状況において悪い情報だった。もし彼らが逃げた先で追手により死んでいたら、俺達はもう詰んだも同然だ。


 ここに来て、俺は途方に暮れてしまった。これまではやることがあったり、しなければいけないことがあったが、今はもう手持無沙汰だ。

 指針が無ければ、何も出来ない。優柔不断な駄目男の言い分みたいだが、そもそも一人で行動したところで、何になるのか。

 

 日付は変わり、もう夜遅い。地下鉄も動いてはいないだろう。タクシー……を使えるほどの懐も無い。

 やることと言えば、俺の持つ情報を早く皆に伝えることだというのに、これでは……。


「くそ、どうすればいい……?」


 家々が並ぶ路地の壁に背を付き、ずるずると腰を下ろした。


「どう、すれば……」


 その時、ふと視線が上を向いた。

 気配を感じたのだ。

 そしてその勘は間違っていなかった。


「……あ?」


 建物の屋上らしき場所に、人がいる。その人影の部分だけ、月明かりで明るい夜空から切り取ったようだった。

 向こうも、俺を見ているのが分かる。こくり、と思わず喉を鳴らした。

 味方か――――それとも、敵か。

 

 じっと膠着状態のままでいると、人影がゆらりと動いた。俺は敢えてそのまま座り込みながら、何時でも動けるように身構えた。

 

 そして、影が口を開いた。 


 

『~~~、~~~~~~~~~~?』



 俺達の間に、一陣の風が吹いた。

 とても、心地よい風が。


 どこからか、虫の音が聞こえてくる。今日はいささか涼しい。

 俺は、秋のような涼しい気候が大好きだ。だから、虫からしたら鳴きたい気持ちも分からなくもない。


 ところで、一つツッコませてくれ。



 何語だ、今の。



『…………』


 俺から何の反応も無く焦れたのか、人影はそこから軽い拍子で飛び降りた。

 かなりの高さだったにも関わらず、何の躊躇も無く、すぐその真下で停めてあった外車に着地し――――っておい。


 べごん、とたわむ車の悲鳴は気にならないのかどうなのか。まるで跳び蹴りでもかますかのように着地に膝も曲げず、直立のまま落下してきた。屋根がクッションになったから、そんな無茶な着地でもあまり痛くはないのだろうか。

 その屋根から、俺を見下ろす。

 

 人影は、女だった。

 かなりの美人だ。抜けきった白――――いや、染め抜いた銀髪。小さく整った顔。その瞳は静かに、一ミリも動いていない人形の眼のように俺を見ていた。

 長身スリムで、知り合いだったら自慢げに他人に紹介できるくらいの容貌。どうでもいいが、エレンと並べば絵になるだろうななどとぼんやり思っていた。


 その容姿やらセーラーな星の人達を思わせる登場の仕方やらのせいで、まるで現実味が無く、何も言えない。


 すると、


『生憎と日本語は分かりませんが、どうやらお困りのようですね?』


 彼女は、再び声を上げた。英語だ。


『……まあ、そっすね。色々あって』


 何故彼女が俺に話し掛けてきたのか分からない以上、警戒は怠れない。

 呆気にとられつつも、慎重に言葉を返した。

 

『そうですか。私と貴方では国籍が違うようでしたので、先程は国際共通エスペラント語で同じ内容を喋りかけていたのですが……どうやら英語の方が都合が良さそうなので、このまま英語でお話します』

『んなもん分かるか』

 

 妙にとんちんかんなこの女に呆れていると、さらに言葉を紡いだ。


『先程の、若い警察官の方とのやり取り、実はこっそり聞いておりました』

『――――っ!』


 その刹那で、身を翻す。

 が、彼女は何も仕掛けてこない。特に不審な動きも無く、完全に突っ立っているだけのようだ。……まだ車からも降りやしないし。


『ネブリナ家のフリークチーム……貴方は理由あって、彼らとはぐれてしまった。そうですね?』

『お前……まさか同僚か?』

『フリークチームとは、部署が異なりますが』


 こくり、と頷いたのが分かる。


 すると、ようやくその車の屋根から身体を降ろした。少しほっとした。

 全く音も立てず着地し、俺を見る。



『私は、グレイシー=オルコット。貴方を、フリークチームの元へお連れしましょう。――――それが、ボルドマンさんからの命ですので』



 そう言って、若干ひしゃげたはずの車にキーを差し込み、ドアを開けた。


『さ、どうぞ』

『……それ、アンタのだったのかよ』

『ええ。それが?』

『…………』


 こうして結果的に、俺はこの車に乗り込んで、フリーク達の元へ戻ることとなったのだった。


 グレイシー=オルコット。


 俺が一生涯忘れないであろう人間の名前に、新たにこの女の名が刻まれるのは――――全てが終わった時のことだ。


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