File-3 同化

 核の中へ、弾丸が吸い込まれていくような手応えだった。それと同時に核の中心から虹色の回路と光が広がり、周囲に浮かぶ緑色の燐光に伝播していく。虹色の光が走り抜けたところから、ゆっくりと緑色の光は消えていく。それが神域との交錯が終わる合図だと、以前の交錯でフィラも知っていた。

 光が消える。その瞬間、クロウの背後で魔力が膨れ上がった。言葉をなしていない、傷ついた獣の断末魔のような叫びが上がる。とっさにそちらを見て、初めてフィラは叫んでいるのがリサだと気付いた。その瞳にも声にも、理性の光は残っていない。魔術式の体をなしていないめちゃくちゃな術式の固まりが、歪な水の槍を無理矢理構築してクロウに迫る。呆然と立ち尽くすフィラを、いつの間にか立ち上がったジュリアンが後ろから引き寄せて、水の槍から庇った。一瞬の後に、水の槍はクロウへ情け容赦なく襲いかかる。

 避ける間は、もしかしたらあったのかもしれない。振り向いたクロウは両腕を広げて、その槍を受けた。クロウの胸部に直撃した水流は勢いを止めることなく、そのまま彼の体を吹き飛ばす。その先に、足場はなかった。低い柵はクロウの体と水の勢いを受け止められず、そのまま彼は大空洞の、底の見えない深淵へ投げ出される。

 水の槍が消えて落下していく直前の一瞬、ジュリアンの肩越しにクロウと視線が交わった気がした。その瞳はやはり穏やかな諦念を浮かべて、微笑んだままだった。

「……っ」

 こみ上げる嗚咽に息を呑んだフィラに、ぐらりと傾いだジュリアンの体重が少しだけかかる。触れたところからさっきよりもずっとはっきりした治癒魔術の気配を感じて、フィラははっと我に返った。知らないうちにあふれていた涙を拭い、急いでジュリアンの傷を癒すための魔術を組み立てようとする。

「……フィラ」

 目の前のことしか考えれないフィラの手を、ジュリアンは握って止めた。

「リサが先だ。動けるくらいには治した」

 ふらつきながら歩き出すジュリアンに慌てて肩を貸し、リサの方へと二人で歩く。

 胎児のように身体を丸めたリサは、小さく何かを呟き続けていた。近づくにつれて、その言葉が聞き取れるようになってくる。

「嫌だ、こんなところで死にたくない……死にたくない、やだ、嫌だ……」

 とても聞いていられないような、泣き疲れた子どものようにつたなくて、弱々しい独り言。側に辿り着いてすぐ、泣きながら治癒魔術をかけ始めたフィラの魔術を、隣に片膝をついてしゃがみ込んだジュリアンが、自身も治癒魔術を使いながら無言で制御してくれる。フィアから渡された治癒魔術向きの魔力はまだフィラには扱いきれないけれど、ジュリアンの力を借りればフィアに迫るほど効果の高い魔術を構築できるはずだ。そのはずなのに、送り込む生命力が、傷を癒す力が、ほとんど効果を上げることなく吸い込まれていくのを感じる。消えていく。零れ落ちていく――

 遅々として進まない魔術に気付く様子もないリサは、嫌だ、死にたくないと、何度も何度も何度も何度も繰り返した。耳をふさぎたくなるけれど、治癒魔術を止めることは出来ない。

「やだ……いやだ……」

 すすり泣くような声が、途切れがちに、どんどん弱々しくなっていく。ジュリアンが歯を食いしばる気配がした。

「治癒の魔術では間に合わないでしょう」

 冷静な声に、フィラとジュリアンは同時に顔を上げる。フィーネだ。リサの傍らに降り立つように姿を現した水の乙女は、フィラの方へ顔を向けた。透明な彼女の視線は読み取れないけれど、じっと何かを見透かそうとしているようだった。

「我が主を助けたいのなら、一つだけ方法があります。光の力を持つ者よ」

「方法……?」

 訝しげな声を上げたのはジュリアンだ。

「ええ。ここには運命に逆らうための手段が揃っている。人の意のままに動く古い神の力」

 指差されたフィラは、緊張に身体を強ばらせる。

「そして自ら手段となることを望めるほどヒューマナイズされた神」

 次いで自らの胸に手を当てたフィーネは、静かにジュリアンに向き直った。

「滅多にない条件が揃っているのです。問題はありません」

「どうしたら、良いんですか?」

 治癒魔術ではリサを助けられない。それがわかってしまったフィラは、縋るような気持ちでフィーネを見上げる。フィーネは迷うように顔を伏せ、けれどすぐにそれを振り切るように決然と顔を上げた。

「私と彼女を同化させてください」

 治癒というよりはリサの生命をつなぎ止めるための魔術を維持したままのジュリアンが、ほとんど睨み付けるように強い視線でフィーネを見つめる。

「お前はそれを望んでいるのか」

「望んでいるから提案しているのです。サーズウィアを呼ぶために力を振るうことが、彼女と私の願いであり、契約」

 ふわりと身をかがめて、フィーネはリサの頬に触れた。そこにはもう、ほとんど血の気はない。

「彼女の死は契約の不履行を意味します。それは双方にとって不本意なことです」

「同化したら、リサはどうなる」

 感情の読み取れない透明な横顔に、ジュリアンは低く尋ねる。

「出来るだけ人間としての機能を維持したいとは考えていますが、彼女の場合は竜化症がだいぶ進行していますから、今の形と精神活動を維持するのがせいぜいです」

 息を呑むフィラにもますます険しい表情になるジュリアンにも反応せず、フィーネは淡々と話し続けた。

「つまり、不老不死の人ならざるものとなる、ということです。彼女との相性にも依りますが、私の力ではそれを維持できるのは三百年から五百年程度ですから、寿命がないわけではありませんが」

「それをリサが……望むのか……?」

 フィーネに、というよりは、自分自身に尋ねかけているような調子だった。リサを見下ろしたジュリアンは、彼女がまだ弱々しく「死にたくない」と声にならない声で繰り返しているのを見て、唇を引き結ぶ。

「光の力を持つ者よ、手を貸してもらえますか?」

 ジュリアンの心情を正確に読み取ったフィーネが、顔を上げてフィラに呼びかけた。

「……はい」

 他に方法がないことはわかっている。だからフィラは頷くしかなかった。

「貴方もです。宿命さだめの子」

 言葉を向けられたジュリアンは迷っている。それを感じたフィラは、思わずその手を握った。迷っている時間がないことは、生命維持の魔術を使っているジュリアンが一番わかっているはずだ。

「……頼む」

 苦しそうに、声を絞り出すように、ジュリアンはフィーネに頭を下げた。

「わかりました。そのための魔術式をお渡しします」

 フィーネが言って、ジュリアンに手を伸ばす。まだ複雑な魔術式はフィラには扱えない。術式を受け取ったジュリアンは、フィラの手を取ったまま、意識を失ってしまったらしいリサに向き直る。フィラも繋いでいない方の手を伸ばして、弱々しく鼓動しているリサの胸の辺りに手を当てた。それから、自分の中にある――フィアから受け取った魔力とはまた違う、リラの魔力を引き出していく。フィラの中に流れ込んだジュリアンの魔力がそれを絡め取り、制御しながら魔術式に流していくのを感じた。

 思ったより複雑なものではない。リサとフィーネの魔力を結びつけ、混ぜ合わせるイメージを伝えてくる魔術式。ただ、その魔力への干渉はリラの魔力でなければ難しいことも、相手の同意がなければどうにもならないこともなんとなく感覚でわかる。

 フィーネがフィラの背後から屈み込む。フィラの身体を借りるように、そのまま何の抵抗もなく入り込んで重なり合う感覚が、まるで水の中にいるようだった。リサが苦しそうに瞳を開けて、フィラを――フィーネを見る。それが、同意の合図だった。フィーネを構成する世界律が透明な泡のように溶けて、フィラの中に流れ込む。清澄な流れは、そのままリサの胸に当てた掌から、リサの中へ流れ込んでいく。冷たい水の、けれど生命を感じさせる力が、治癒の力を吸い取るばかりだったリサの中へ染み込んで全身に広がっていくのを感じる。

 ジュリアンに導かれるままに、フィラは二人の魔力を結びつけていった。治癒魔術を使う感覚と、似ているようで少し違う。共鳴する二つの音を重ね合わせ、一つにしていく。響き合っていた二つの音は収斂し、やがて一つの音になった。

 フィラはふっと目を開けて、幾度か瞬きする。ジュリアンから流れ込んでいた魔力が途切れ、展開されていた魔術式が終端処理に従って消滅していく。

「終わった……?」

「ああ」

 ジュリアンは小さく息をついて、リサの顔を覗き込んだ。

「リサ」

 感情が抜け落ちたような――あるいはどう表したら良いのかわからないような声で、ジュリアンは呼びかける。閉じられていたリサの睫が震えて、薄く開かれた。

「……あ……?」

 不思議そうに何度か瞬いて、動きを確かめるように投げ出されていた左手を握ってまた開いて、それからリサはごく普通に起き上がる。

「……どうなってんの? 私、死ななかったっけ?」

 不安げに覗き込む二人に、リサは様子がおかしいと察したのか、訝しげに眉根を寄せた。

「つーか、死んだよね、確実に」

 握ったままだったジュリアンの手に、微かに力が入る。

「……ああ。お前はフィーネと同化したんだ」

「え〜、あー。そうなの?」

 リサは少し考え込んでから、凝りをほぐすように肩と首を回した。

「あの、調子はどうですか? 変わったところとか……」

 フィラがおずおずと問いかけると、リサはやはり全身をほぐすようにあちこち動かしながら小首を傾げた。

「う〜ん、変わったところ……あ、もしかして魔術式なしで魔術使えるんじゃないこれ!?」

 いきなり表情を輝かせたリサの目の前に、身長十五センチほどの水の乙女の姿が現れる。

「できますが、やめてください。あまり人間離れしたことはしない方が良いと思います。あなたのこれからの人生のために」

 突然目の前に現れたフィーネの姿に、リサはへらりと笑ってみせた。

「あっれ、同化しても身体は別なんだ?」

「同じです。話しやすいように幻を見せているだけです」

 真面目な話を誤魔化すようなリサの返答に、フィーネは妙に人間らしいため息をつく。

「話の続きをしても?」

「あー、うんうん、ごめんごめん」

 厳しい表情で話の成り行きを見守っているジュリアンに気付いているのか気付いていて無視しているのか(恐らく後者だろうが)、リサはやはりへらへら笑いながら頷いた。フィーネはもう一度呆れ返ったため息をついて、また話し始める。

「現在、貴方の身体の竜化症だった部分も人間の機能を取り戻してはいますが、それは常に、本能的にそういう魔術を行使しているのと同じことですから、それだけでも徐々に人の枠から外れていく要因になり得ます」

「ありゃ〜、竜化症の軛からは逃れられないのか〜」

 リサの満面の笑みから真意を知ることはできない。ちらりと横目で伺うと、ジュリアンの表情も相変わらず厳しいままだった。

「当然です。今だって竜化症が治ったように感じているのは、竜素を神々と同じように自分の意思で操ることが可能になったというだけの話ですから」

「あ〜、あー、ダストと似たような感じか」

「あれよりさらに意識的に操れるでしょうね」

 リサが立ち上がったので、ジュリアンとフィラも握っていた手を放し、立ち上がって様子を見る。さらに調子を確かめるように準備運動のような動作を繰り返すリサには、先ほどの怪我の影響すら見られないようだった。

「ほほう。じゃあもしかして顔とか変えられる?」

 腕のストレッチをしながら軽い調子で尋ねるリサに、フィーネは無表情で頷いている。

「ええ。竜化症がそこまで進めば」

「……それはさすがに遠慮したいね」

 リサは肩をすくめると、足下に落ちていた剣を拾い上げ、感覚を確かめるように何度か振ってから鞘に戻した。

「ん〜、これつまり竜化症進んでももしかして問題ないってこと?」

「……機能的には」

 ややためらってから、フィーネは低く答える。

「ふーん。ずいぶん便利じゃん。これで竜化症治療の代わりにならない?」

「まず不可能です。人間との同一化を望む神はいません。私の知る限りでも、前例は一件だけです」

「マジで!? すごいじゃん!」

「そろそろ先に進むぞ」

 はしゃぐリサを注意深く観察していたジュリアンが、おもむろに口を開いた。

「メンテナンスはやり直しになっているだろうが、そろそろ再開するはずだ」

「あーそうね。交錯中は記録も出来てないはずだから誤魔化しようもあるけど、これ以上長居はしない方が良いか」

 リサの態度はもうすっかりいつも通りなのに、フィラは自分の身体がまだ冷たく強張っていることに気づく。

「私はちょっとこの辺掃除してから行くわ。今ならさっきのクロウにも勝てそうだし」

「……リサ」

 たしなめるように呼びかけるジュリアンに、リサは振り向いて妙に晴れやかに笑った。

「やー、なんつーかさ、魔力がどうとかより、人間の身体が脆弱過ぎるんだよね。ダストが守護神を失っても『アズラエル』で居続けられたのも、その辺が理由だったじゃん?」

 ジュリアンは眉根を寄せて逡巡し、それから諦めたように首を横に振る。

「無茶はするなよ」

「しないしない、さっきだって別に優先順位は間違えてなかったっしょ?」

 笑いながらひらひらと手を振るリサに、ジュリアンは返事の代わりに深い深いため息をついた。

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