File-5 告解

「もうすぐ帰ってくるよ」

 久しぶりにのんびりとおしゃべりに付き合ってくれていたティナがそんなことを言い出したのは、午前一時を回ろうかという頃だった。

「ランティスから伝言。昼から飲まず食わずだから何か消化に良いもの食わせてやってくれって。あいつジュリアンのお母さんなの?」

「えーと」

 お母さんはセレスティーヌさんかなあ、ととりあえず頭の中だけで呟いて、フィラは立ち上がった。

「僕は出かけてくるよ。明日の朝には戻るから」

「今から?」

「うん。ランティスとしゃべってくる」

 いつの間に仲良くなったんだろう、というフィラの疑問を置き去りにして、ティナはさっさと姿を消してしまう。もしかして気を遣われたのかもしれない、というところは気にしないでおこうと決意してキッチンへ向かい、夜食用に作っておいた野菜スープを温めながらハーブティーを入れ始めた。

 ちょうど準備が終わったところで、タイミング良くジュリアンが帰ってくる。

「お帰りなさい」

 微かな音で帰宅を察知したフィラは、キッチンから顔を出して声をかけた。少し疲れた表情のジュリアンは、フィラを見た瞬間少しだけ表情を緩める。

「ああ、ただいま」

 しかしすぐにその表情は複雑そうなものに変わった。

「もしかして起こしたのか?」

 キッチンの入り口に立ったジュリアンは、何か探すように周囲を見回す。

「いえ、ずっとティナとしゃべってたんです」

「ティナは……ランティスのところか」

 その呟きでジュリアンが探していたものがティナだったのだと気付く。

「はい、何か……話すことがあるみたいで」

「そうか」

 話している間に盛りつけを終えたフィラは、夜食と二人分のハーブティーをトレイに載せて食卓へと運んだ。フィラと向かい合って席に着いたジュリアンは、やっぱり律儀に礼を言い、短く祈ってから食べ始める。

「眠かったら先に寝ても構わないぞ」

「大丈夫です。私が、こうしたいだけですし……」

 愚痴を聞いてやってくれというダストの言葉が頭になかったわけではないけれど、結局のところ、フィラ自身が少しでもジュリアンと話したかっただけだ。

「……そうか」

 一瞬、ジュリアンの視線が困惑したように泳いだ。それきり会話は途切れてしまったけれど、不思議と居心地が良くて、フィラはハーブティーを冷ましながらゆっくりとその時間を味わった。

 そろそろ食べ終わるかなと思い始めた頃、黙々と食べていたジュリアンがふと顔を上げる。

「そういえば、施設は使えたのか?」

「はい、あの後ダストさんがいらしてたので、いろいろと教えてもらって」

 魔術訓練に関係ない設備の使い方まで丁寧に説明してくれたダストのことを思い出して、フィラは思わず微笑んだ。そんなことはないように振る舞っているけれど、本当は面倒見の良い人なんだろうと思う。

「ああ……そういえば休暇の時はあそこに入り浸ってたな」

 最後の一口を食べ終えたジュリアンが、ティーカップに手を伸ばしながらため息をついた。

「お休みの日なのに、ですか?」

「他に趣味がないんだそうだ」

 微かに眉根を寄せながら、ジュリアンは答える。少しだけ不本意そうだ。

「そ、そうなんだ……」

 確かにダストらしいと言えばダストらしい。どこか生活感がなくて、任務のためだけに生きているような。実際、先ほどの話しぶりからするにダスト自身も自分のことをそんなふうに思っているのだろう。

「カイもそうなんだが、あいつは休日はリサの仕事をチェックしていることが多いからな。仕事をしている方が疲れない、らしい」

 何だかすごく遠い目をしたくなった。

「そうなんだろうなっていうのは、わかる気はしますけど……」

「まあ、俺も人のことは言えないか」

 そう言いながら優雅にハーブティーを飲むジュリアンを、フィラは思わずじっと見つめる。確かに以前はジュリアンにもそんなイメージがあったけれど、光王庁に来てからその印象は変わりつつあった。

 特に一緒に暮らし始めてからは、ちゃんと食事をしに帰ってくるし、早めに帰ってきた夜は読書や魔術の研究をしながらフィラに魔術や勉強を教えてくれている。生活感がないとは、最近は思わなくなっていた。その気になればもっと早く人間らしい生活を送れていたはずだ。つまり、もっと早くちゃんと家具を揃えれば良かったんじゃないだろうか。

「いろいろ片付いたら……」

 フィラがとりとめもなくそんなことを考えている間に、ジュリアンも何か別のことを考えていたようだった。

「たまには休みを取るか」

 ジュリアンがこんなことを言い出すのは、たぶん珍しい。そういえばフィラが知る限りジュリアンが丸一日休みを取ったのは一度だけで、それも四ヶ月くらい前の話だ。生活感がないことはなくても働き過ぎは間違いなかった。

「やらなきゃいけないこともあるしな」

「やらなきゃいけないこと……?」

 せっかく休日を取るのに休む気はないのだろうかと不安になるフィラに、ジュリアンはあっさりと頷く。

「外出できるようになったらお前を連れて遊びに来いと、父に頼まれた」

「お父様に……」

 思い返してみれば、もうずいぶんとランベールとは顔を合わせていない。セレスティーヌとはモニター越しに話すから、元気にやっているとか忙しくて料理している暇もないとか近況を聞いてはいたけれど、そうやって気にかけてくれていたのかと思うと何だか胸の内が暖かくなるような心地がする。

「……嬉しそうだな」

「嬉しいです」

 気にかけてもらえることも、ジュリアンとランベールがそんな話をしていることも。ジュリアンは微かに目を細めて、「それは良かった」と呟いて、けれどすぐに眉根を寄せた。

「すまない。いろいろ片付くまでに、たぶん一ヶ月くらいかかる」

「あ、それはもちろん、いつでも。でも、忙しいんですか……?」

 ティーカップに視線を落としたジュリアンの表情が、さらに険しく曇る。

「ああ。今日も、それで揉めていたんだが」

 ジュリアンはそこで急に言葉を切ってため息をついた。

「先に寝る支度をしよう」

「えっ、あっ、はい」

 確かにこのままでは二時を過ぎてしまう。フィラは慌てて立ち上がり、ジュリアンと一緒に食器を片付け始めた。


 結局シャワーを浴びたり飛び込みで来た連絡に対応しているうちに二時を過ぎてしまった。フィラに言わなければいけないことを先延ばしにしている自覚はあったが、そろそろ話して寝てしまわなければ明日に差し支える。

 ごく自然に寝室へ入ろうとしたところで、ジュリアンははたと足を止めた。そういえばフィラはもうだいぶ魔力を制御出来るようになっているから、一緒に寝る理由はないのだ。振り向くとフィラもどちらへ行くべきか迷うように視線を彷徨わせていた。

 今まで全く置かれたことのない状況にいることを急に意識してしまって、ジュリアンは言葉を失う。視線に気付いてこちらを見返すフィラの瞳の中にも、たぶん同じような困惑が浮かんでいる。見つめ合ったまま、どうしようかと考えた。昨夜の自分がいかに冷静ではなかったかを思い知らされるようだが、今もたぶん冷静ではないのだろう。ランティス辺りに見られたら大笑いされそうな気がする。

「ああ、その」

 前髪を掻き上げながら、僅かに視線を逸らした。頬に血が上っているのが自分でもわかる。

「……来るか?」

 なんて間の抜けた質問をするのかと、自分で自分にうんざりした。

「……はい」

 消え入りそうな声で答えたフィラも耳まで赤くなっていて、いたたまれない気分になる。慣れないその感覚は、けれどどこか甘い感触を伴っていて不快ではなかった。穏やかに満たされていくようなそれは、フィラと出会って初めて知った感覚だ。

 無言のまま寝室へ入り、ベッドに上がって身を寄せ合って、それからようやく覚悟を決める。フィラと過ごす時間の穏やかさはいつでも手放しがたいが、だからと言って話すべきことから目を逸らし続けているわけにもいかない。全てを受け止める覚悟を示してくれた彼女には、知らせておくべきことだった。

「ジェラルド・フォルシウス……フォルシウス家の家長が失脚した」

 端的に結論から話し始めた瞬間、フィラが微かに息を詰めたのがわかる。

「いや、させた、と言うべきだな」

「フランシスさんの、お父様、ですよね」

「ああ」

 フィラを犠牲にしてリラの力を奪おうとした張本人だ。思い出すだけで怒りがこみ上げてくるが、私情は排さなければならない。

「どうして、ですか……?」

 ためらいがちなフィラの声が耳に届いて、少しだけ呼吸が楽になる。大丈夫だ。今フィラはここにいる。今更怒りに支配されることなどない。確かめるようにフィラの髪を梳きながら、できる限り冷静に話を続ける。

「ジェラルド・フォルシウスはWRUとの休戦交渉に当たっていた」

 WRU――世界再生連合のことは、フィラも知っているはずだ。神々の殲滅を掲げ、魔導技術開発に国力を傾注している軍事国家。リラ教会とは思想的にも政治的にも経済的にも相容れないが、抗争による消耗を危惧する動きは両国家にある。

「停戦の方向には向かっていたが、WRUは俺の暗殺をその条件として提示していたらしい」

 フィラの体がぎくりと強張るのを感じた。当然だ。フィラにこんな単語が馴染みがあるはずがない。本当は彼女にこんな世界があることを知って欲しくはない。しかし、フィラが示してくれた覚悟に応える術をジュリアンは他に知らない。

「ジェラルドはそれを了承していた」

 たぶん自分には何か欠けた部分があるのだろう。フィラと暮らし始めて、忘れかけていたそれを以前よりも意識することが増えた。

「ジュリアンがサーズウィアを呼べるから、ですか?」

 フィラの手が、震えながら縋るように団服の胸元を握る。安心させるように背中を撫でると、その強ばりが微かに解けた。

「ああ。それもリタから聞いていたのか?」

「いえ、フランシスさんからです。WRUはサーズウィアが来て魔術がこの世界から消えてしまったら困るから、魔術を使える環境を維持したまま神々だけ滅ぼしたい、って」

 不安をにじませながらも、フィラの声は冷静だ。到底受け入れられないような状況でも、フィラはいつでもそうやって理解し、受け止めようとする。

「理由としてはその通りだ。フォルシウス系の企業が魔術依存率が高いのも、向こうとの利害の一致に繋がった可能性はある」

 一つ一つの言葉に、フィラが真摯に耳を傾けているのを感じた。話すと決めたはずなのにまだどこかにあった迷いが消えていく。

「ジェラルドはWRUから提供された天魔を操る技術を使って、何度か俺の暗殺を試みていた。ユリンにいた頃水の神器輸送任務に駆り出されたのも、カルマがユリン結界内に侵入したのも、ランティスが負傷したときの任務も……全てそうだった。その証拠を掴んだ」

「そんなに……」

 改めて口にすると、尻尾を掴むまでに払った犠牲の大きさに気が遠くなった。それでも微かに身震いしたフィラの背中を撫でていると、このこみ上げてくる感情は怒りではなく悲しみなのだと、不思議と平静に受け止められる。今ジェラルドを憎まずに済んでいるのは、たぶん側にフィラがいてくれるからだ。

「混乱を避け、WRUからの余計な干渉を防ぐためにも、光王庁のトップがWRUと通じ、天魔を使って神祇官を暗殺しようとしていたなどという事実は公表できない。表向きにはジェラルドは急病で入院することになるだろう。WRUとの折衝は父が引き継ぐことになる。WRUにはそれでだいたいの状況が伝わるはずだ」

 ジェラルドが失脚したということは、つまりジュリアン暗殺が失敗し、交換条件は達成される見込みがないということ。そしてサーズウィア推進派の筆頭であるランベール・レイが停戦交渉を引き継ぐということは、光王庁が妥協を許さない姿勢を明確にしたということだ。

「和平は白紙に戻るってことですか?」

「……ああ」

 光王庁が強気に出た背景には、行方不明になっていた光の巫女が戻ってきたという事情もあった。

「戦争に……なりますか?」

 恐る恐る問いかけるフィラに、そこまで説明する必要はさすがにないかと判断する。

「いや、すぐに交戦開始となることはないと思う。向こうにも余裕はないはずだ。WRU国内でレジスタンスの活動が活発化しているという報告は受けている」

「サーズウィアを、呼ぶことになっても?」

 フィラの問いは、どこまでも真摯だ。

「正直、やってみなければわからないところではあるな」

 少しだけ身体を離して、フィラの瞳を覗き込む。何か――何かはわからないが、答えが欲しいと、ふいにそう思った。

「……懺悔を聞いてもらっても?」

「懺悔……?」

 こちらを見つめ返すフィラの瞳に、自分がどう映っているのか、闇の中では確かめることが出来ない。

「ジェラルドを失脚させたのは……聖騎士団やレイ家の利益のためだ」

 ジュリアンの真意を探すように、フィラの瞳が瞬く。

「レイ家はWRU国内のレジスタンス活動を支援している。もしもWRUの政府が転覆すれば、サーズウィアを阻む政治的な動きは弱くなる。それでサーズウィアを呼ぶことが出来るようになれば、魔術に頼らない製品開発をしているレイ家の産業部門は投資した分を取り返せるからだ」

 そんな理由でもなければ、家長とは言え、ランベールがレイ家の資産を動かせるはずがない。レイ家の利権に絡む人々はサーズウィアを望むランベールの思いを利用し、ランベールはそのような人々の思惑を利用している。そしてランベールがそんなふうに動き出したのは、ジュリアンの意思を――役割を果たしたいと願う言葉を聞いた後だ。

 その意味を、それが何を意味するのかを、ジュリアンはわかっている。

「それでも俺は、サーズウィアを呼びたいと思っている」

 ランベールは犠牲を払ってでも、いざというときに汚名をかぶることになったとしても、ジュリアンが自らの役割を果たすことを支援すると決めた。ジュリアンはたとえ再び戦端が開かれることになろうとも、成功する可能性が高くなかったとしても、サーズウィアを諦めないと決めた。それは成功する可能性が未知数であるサーズウィアを諦め、WRUとの和平と魔術の発展に賭けようと決めたジェラルドと何も変わることのない利己的な道だ。

 誰もが皆、自分の守りたいものを守ることに必死だ。守るべきものと守りたいものを区別することは容易ではなく、自分の間違いや自分の力ではどうにもならないような、見たくないものを直視することも難しい。感情を押し殺して、自分だけは利己的ではないと己を偽ることは、もう出来ない。

 なぜなら、ジュリアンはもう見つけてしまった。生きていたいと願う理由を。

「私は、あなたと生きていたいです」

 真っ直ぐジュリアンの瞳を見つめたまま、フィラははっきりとそう口にする。否定でも肯定でもなく、余りにも個人的で、それ故に祈りのような、本心からの願いを。そんなふうに真っ直ぐ向けられる思いが、どれほどジュリアンを救ってくれるのか、フィラはきっとわかっていないだろう。

「……ありがとう」

「な、なんで」

 呼吸と一緒に零れた言葉に、フィラがうろたえるから、おかしくなって思わず笑ってしまった。

「なんとなく」

「なんとなくって……」

 不満そうなフィラの頭を、胸元に引き寄せる。

「もう寝よう。明日も早い」

 フィラは一瞬何か言いたげな素振りを見せたが、すぐに諦めて肩の力を抜いた。

「サーズウィアを呼びに行くときのことは、またちゃんと相談する。……おやすみ」

「おやすみなさい」

 囁くような優しい声を聞きながら、ジュリアンは目を閉じる。疲れ切った身体に、眠りはすぐに訪れた。

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