File-4 穏やかな水のように

 それからの毎日は、レイ家での生活に慣れようと必死になるうちにあっという間に過ぎた。

 ランベールに言われた通りのスケジュールをこなし、朝食や夕食の準備のときはセレスティーヌを手伝う。

 昼食はセレスティーヌと通いのお手伝いのニーナが作り、午前中にフィラの勉強を見てくれる家庭教師のリーゼルとエリックも含めた五人で食べることが多かった。

 ニーナは話し好きな五十代の女性で、その話題はもっぱら家事に関することが多かった。リーゼルは理知的な雰囲気の四十代の女性で、子どもも二人いるらしい。年上の女性三人が家事だの子育てだの光王庁の噂話だので盛り上がるのを眺めながら、のんびりと昼食を取るのがフィラの日課になっていた。

 エリックは一歩引いたようににこにことそれを眺めているのが常だった。その様子がエセルとモニカに対するときのフェイルに似ていて、見た目も中身もほぼフェイルだというリサの言葉は本当だったのだと実感できる。

 ティナは一緒にいてくれるかと思ったらふらっと散歩に出かけたり一人で前に住んでいた辺りを見に行ったりしていた(以前フィラとエステルが暮らしていたというトレーラーハウスは見当たらなかったらしい)。そして三日に一度は、ユリンへ行ってフィラの様子をジュリアンに報告する。そのついでにユリンのみんながどうしているかという情報も得てきてくれるので、フィラはティナが出かけた日の夜は帰ってくるまで眠ることが出来なかった。

 最初の報告の日には、ユリンの人々は皆普段の生活を取り戻していた。

「もう収穫祭の準備が始まってるよ。ダストが燃やした辺りも魔術使って元通りにしたみたいだし、結界の中はもうすっかり普段通り。聖騎士たちは結界外の天魔討伐で忙しいけど、あの様子なら心配いらないだろうね。天魔の動向、完全に把握した上で討伐計画立ててるから」

 ベッドの中でティナの話を聞きながら、離れたばかりなのにもう懐かしくてたまらないユリンのことを思い出す。ユリンの空は高く遠くなって、風も冷たくなっていることだろう。エルマーさんの古傷が痛まないと良いなとか、エディスさんはもう今年用のセーターを作り始めただろうかとか、今年も踊る小豚亭でバルトロの誕生会を開くのだろうかとか、毎年収穫祭で中心になって準備を進めるソニアのお父さんは今年も張り切っているのだろうとか、そんなことばかり考えてしまう。

 懐かしさに胸が苦しくなって黙ってしまったフィラに気付かないふりをして、ティナは話を続けてくれた。

 収穫祭の準備が着々と進んでいく様子を三日に一度ティナに聞きつつ過ごしているうちに、レイ家に来て十日目になっていた。三回目の報告から帰ってきたティナは、リーゼルに出された宿題をしていたフィラの膝に乗って話し始める。

「まず業務連絡を片付けちゃうけど」

 業務連絡、という言葉に、宿題をする手を一度止めた。

「あいつ、五日後から中央省庁区に来るんだって」

 ティナの言う『あいつ』がジュリアンを指していることは、もう問い返さなくてもわかっている。

「お仕事?」

「うん。引き継ぎだって。たぶんすぐ終わるだろうって言ってたけど、なんか他にも付き合いあるらしくて一週間くらいいるって言ってた」

 またお節介だと怒られるかな、と、少しだけ迷った。

「……ここには、来るって……?」

 ティナは予想通りに、明らかに呆れた表情を作る。

「来るよ。到着した翌日。引き継ぎするフランシスが実家の都合で昼過ぎまでしか相手できないって言ってるから、夕方ちょっと寄るって」

 それでも真面目に答えてくれたティナの頭を撫で、抱き上げながら立ち上がった。

「じゃあ、お母様に知らせてこなきゃ。まだ起きてるよね?」

 この十日間で、もうセレスティーヌを『お母様』と呼ぶのにためらいはなくなっていた。セレスティーヌの方も、いつの間にかフィラを呼び捨てにしてくれている。

「明日にも正式な知らせが届くと思うんだけど」

 半眼で呟くティナに、フィラは首を横に振った。

「でも、早く知りたいかなって、思うんだけど」

 ティナは呆れたようにため息をつく。

「部屋に一人でいるよ。今日はランベールまだ帰ってきてないみたいだね」

 邸内の魔力の気配を読んで、ティナはそう教えてくれた。


 それを聞いてからのセレスティーヌは、ものすごく落ち着きがなかった。フィラには何も言わなかったけれど、ものすごく真剣に書庫で料理本(最初見たときは気付かなかったけれど、奥の一角にはフランス料理の専門書が並んでいる一角があった)をめくっていたり、前日に届いた食材が一人分多かったりすれば、セレスティーヌが何を考えているかはだいたいわかる。

 当日の午後、魔力制御の訓練をしているときも、ものすごい精神力で集中しようとしているのがわかって、逆にいつもより緊張感があるくらいだった。それで何となく、初めてフィラがここに来た時、セレスティーヌがどんな精神状態でいたのかわかってしまう。

 訓練後、夕食の準備をすると言って厨房に引っ込んでしまったセレスティーヌを見送って、玄関ホールに近い応接間でティナと一緒にジュリアンを待った。

「また余計なこと考えてるでしょ」

「えーと……」

 膝の上からじっと見上げてくるティナから視線を逸らす。

「まあ、良いけどさ。なんか僕にもわかってきちゃったし」

 なんか痛々しいんだよね、セレスティーヌ、と呟くティナの耳の後ろを軽く撫でてやった。そうやってただ待っていると、自然とため息があふれてくる。

 皆が色々と気を配ってくれるおかげで、ここでの生活は本当に居心地が良かった。それでも時折見えてしまうのだ。セレスティーヌやランベールが、フィラの後ろにリタの影を見て、ふっとその瞳に悲しみを宿すのが。不自然なくらい話題に出ないのに、痛いほどジュリアンのことが気になって仕方ないという様子が。

 どうしてこうなってしまったのか、不思議で仕方がなかった。似たもの父子二人がやたらと不器用なのはまだわかるけれど、ランベールにあれだけ遠慮のないセレスティーヌが何故ジュリアンに対してはああなのだろう。

(普通に話せば良いのに)

 セレスティーヌの柔らかな人懐こさを思えば、そうすればすぐに打ち解けられるんじゃないかと思うのに。

「あ、来たよ」

 ティナがぴくりと片耳を動かして、フィラはそれにつられるように窓の外を見た。見覚えのあるブルーグレーの高級車が、玄関の前に止まる。車から降りたジュリアンが、出迎えたエリックに鍵を渡すところまで見てから、フィラは玄関ホールへ向かった。


 玄関ホールに入ると、すぐにフィラが出迎えに来た。セレスティーヌの趣味らしい白いシフォンのワンピースを着たフィラは、肩にティナを乗せたまま駆け寄ってくる。

「団長、お久しぶりです。お帰りなさい」

 にこやかにどう回答したものだか困る挨拶をされて、一瞬考え込んでしまった。

「……ああ。廊下は走るなよ」

「あっ、すみません」

 慌てて姿勢を正したフィラは、意味もなくスカートの裾を払う。ユリンで着ていた、野暮ったいと言っても差し支えないような服装から、洗練されたデザインのオートクチュールの衣服に着替えても、彼女の印象は変わらないまま、どちらにも同じくらい馴染んでいるようだった。

「えっと、とりあえず、応接間にどうぞ」

 先に立って案内を始める様子も、もうずっと以前からここに住んでいたかのようだ。何にでもすぐに馴染んでしまうのだなと、半ば感心しながらその背中を見つめる。

 考えてみれば、ユリンの城での生活にも、あっという間にフィラは溶け込んでいた。そこで暮らしていた期間などわずか十日ばかりに過ぎず、その半分くらいはカルマの襲撃とその対処でつぶれていたのに、フィラがいなくなった後、何だか妙に物足りないと零していた人間は一人だけではなかった。特段賑やかでも積極的なタイプでもないのに、彼女の存在は穏やかな水のようにいつの間にかその場に染み込んでしまうらしい。

 応接間に着くと、フィラはジュリアンをソファに座らせ、用意してあった紅茶を淹れてから自分もその前に座る。ティナはフィラが紅茶を淹れている間にソファの上で丸くなっていた。

 この二週間ばかりの報告は、エリックやティナを通して既に受けている。だから様子を見に来たと言っても特に聞くべきこともない。婚約者としての体面を保つという名目だけで言えば、この家に足を踏み入れた時点でもう用は済んでいた。あとは適当に時間を潰して光王庁に戻るだけだ。わざわざフィラを付き合わせる理由もない。もう行っても良いと言えば良いのに、ジュリアンは黙ったまま紅茶を口にした。

 明るい室内にダージリンの良い香りが漂う。中央省庁区の人工の明かりの下にも、こんな風に穏やかな時間があることが不思議だった。猫舌のフィラは、ミルクを入れたにもかかわらずまだ警戒するような視線で紅茶が冷めるのを待っている。

「ここでの生活にはもう慣れたのか?」

 あまり長く黙っているのも不自然かと思って、フィラが恐る恐る最初の一口を呑み込んだ辺りで尋ねかけた。

「はい。だいぶ慣れたと思います」

 ミルクを入れる前の紅茶のような色の瞳が、微笑を湛えながらこちらに向けられる。

「すごく良くしてもらって……何だか申し訳ないくらいです」

「邸から一歩も出られないのに?」

 閉じ込められているようなものなのに、なぜそう思えるのか、純粋に疑問に思って問いかけると、フィラは不思議そうに目を瞬かせた。

「だって、光の巫女ってその辺をほいほい歩いていて良い立場じゃないですよね? ずいぶん自由にさせてもらってると思うんですけど」

「まあ、不満がないなら良いんだが……」

 呟いて紅茶を飲み干すと、フィラが急にそわそわとし始める。

「あ、あの、もう一杯淹れますか?」

「いや、良い。もう行くからな」

「えっ」

 困惑と焦りがない交ぜになった表情で見上げてくるフィラの横で、ティナが深々とため息をついた。

「こ、この後何か用事があるんでしょうか?」

「いや、別に用があるわけではないが」

 だからと言って、あまりここに長居するわけにもいかない。ここの住民に歓迎される理由など、ジュリアンにはないはずだった。

「あの、もし時間があるなら夕食を食べていってほしいんです」

 そんな事情など知るはずもないフィラは、何故か必死な表情で誘いをかけてくる。今さら心細いというわけでもないだろうに、何故こんなに必死そうなのだろうか。疑問が顔に出ていたのか、フィラはまた慌てて口を開いた。

「む、無理にとは言いませんけど、お母様が……セレスティーヌさんが、団長に食べて欲しいって、作ってたので……その、帰られてしまうと、あの量を片付けるのはちょっと……無理があるというか……」

 しどろもどろに訴えるフィラが何を考えているかわからなくてティナに視線を向ける。

(寂しいんでしょ。良いから言うこと聞いたら?)

 ものすごく適当な精神感応テレパシーが返ってきた。それを信じる気にはなれなかったが、用はないと既に言ってしまった後だし、フィラに事情を説明する気にもなれない。

「……わかった」

 観念してため息混じりに頷くと、フィラは身体を小さく縮めて俯いた。

「すみません」

「何故謝る?」

「いえ、団長、忙しいのに、我が儘を……」

「気にするな」

 そもそもこれは我が儘なのだろうか。例え本当に寂しさを紛らわすためだったとしても、こんなのはものの数に入らないだろうし、他に理由があるとしたらそれはやっぱり彼女の我が儘ではなさそうな気がする。

「ちょっと待っててくれ。フェイルに連絡する」

 携帯端末を取り出してフェイルのアドレスを呼び出しながら、祈るような視線がじっとこちらを見つめているのを感じていた。落ち着かない気分で端末を耳に当てると、ワンコールも終わらない内にフェイルが電話に出る。

『何かございましたか?』

「フェイル。すまないが、実家で夕食を取ることになった。その後で光王庁に戻る」

『さようでございますか。せっかくですから、泊まっていらしても良いんですよ」

「いや、泊まるのはさすがに……」

 何がせっかくなのかさっぱり理解できずに、ジュリアンは眉根を寄せた。

『明日のスケジュールでしたら、そちらからでのご出勤でもまったく問題ございません』

「それはそうだが」

 そもそも、車で十分もかからない距離だ。緊急の呼び出しがあったとしても対応できるくらいの距離だが、問題はそこではない。

『ええ、ですからどうぞご遠慮なく』

 しかしフェイルは、恐らくは意図的に話題を逸らした。

「そんなに宿泊させたいのか?」

 やけに押しの強いフェイルに呆れて問いかける。

『そう解釈していただいても差し支えございません。居室の結界を確認しましたところ、多少綻びが見られましたので、メンテナンスしたいのですが、夜間しか結界師の都合が取れそうにないもので』

 とっさに嘘だと思ったが、そう言い切れるだけの根拠はなかった。

「……いや。だが、急に客間を用意できるわけないだろう。これ以上迷惑はかけられない」

「そんなことありません!」

 反論を遮ったのは、フェイルではなくフィラだった。口を挟まずにはいられなかった、という勢いで立ち上がったフィラは、そのままの勢いで言葉を続ける。

「だって、団長の部屋、いつでも使えるようにしてあるんですよ。いつ帰ってきても良いようにって。だから……」

『決まりですね、坊ちゃま』

 必死に訴えるフィラの声は、フェイルにも聞こえてしまったらしい。

『明日の資料は端末にお送りしておきます。寝る前にでも目を通していただければ結構です。では、ゆっくりおやすみくださいますよう』

「フェイル、待て……!」

 有無を言わさぬ調子に慌てて反論しようとするが、既に通話は終わっている。

「……切りやがった」

 呆然と端末を見下ろしているうちに、フィラはいつの間にか扉の前まで移動していた。

「じゃ、じゃあ私、お母様にお知らせしてきますね!」

 ドアを開きながら宣言したフィラは、ぱっと身を翻して走り出す。

「お前も待て!」

 慌てて追いかけようとしたら、何故か足下に走り込んできたティナに蹴躓きそうになった。

「おい」

 低い声で呼びかけると、ティナは「何も知りません」とでも言いたげな無邪気な子猫の表情を取り繕い、その一瞬後にはふっと実体化を解いて逃げてしまった。契約しているのだから無理矢理呼び出すことはできるけれど、そうするのも馬鹿馬鹿しくなって早足でフィラを追いかける。

 気配を追って厨房の近くまで行ったところで、フィラの声が聞こえた。

「お母様! 団長、今日泊まっていってくれるそうです!」

「まあ、本当に!?」

 答える声に喜色が滲んでいた気がして、思わず足を止めそうになる。

「本当です! やりましたね!」

「ええそうね!」

 次いで何やら楽しげな歓声とハイタッチの音。わけがわからない。半ば混乱しながら厨房を覗くと、目が合ったセレスティーヌの顔が強張った。背中を向けていたフィラがその表情の変化に気付いてこちらへ振り向き、さっとセレスティーヌの背後に隠れる。

「だ、だってフェイルさん良いって言ってたじゃないですか!」

 セレスティーヌを盾にしながら虚勢を張るフィラに言い返そうとして、固まっているセレスティーヌの視線に気付き、慌てて姿勢を正して頭を下げた。

「申し訳ありません。このように急な話ではご迷惑でしょう。すぐに」

「良いの! 良いのよ! ぜひ泊まっていってちょうだい」

 勢いよく遮られて、思わず顔を上げる。

「あなたはこの家の子どもなのよ。そんな風に遠慮をされては……悲しいわ」

 今のは本当にセレスティーヌの言葉だったのだろうか。にわかに信じられなくてまじまじと見つめていると、セレスティーヌは恥じ入るように視線を逸らした。

「そ、そうだわフィラ。部屋に案内してあげて。夕食までは時間があるし、長旅で疲れているでしょう。少し休んでもらうと良いわ」

「はい。わかりました」

 フィラはようやくセレスティーヌの背中に隠れるのをやめて、ジュリアンの前に歩いてくる。

「あの、ご案内します……って、団長の部屋なのに変な感じですけど」

「いや……場所、覚えてないからな」

 なんとなくいたたまれない気分で低く呟くと、フィラは呆れたように眉根を寄せた。

「団長。不義理を働き過ぎです。絶対もっと帰ってくるべきです」

「……考えておく」

 歓迎される理由があるとは未だに信じられなかったが、さっきのセレスティーヌの言葉が後を引いていて、それ以外の答えが思いつかなかった。フィラは半分不満そうな、半分納得したような表情で、先に立って歩き始める。厨房が背後に遠ざかり、セレスティーヌの気配が感じられなくなったところで、少しだけ肩の力が抜けた。

「母に……あんな風に言われるとは思っていなかった」

「あんな風……?」

 廊下を並んで歩きながらぽつりと呟くと、フィラはこちらを見上げながら小首を傾げる。

「俺がこの家の子どもだと」

 本当に、今さらそんな扱いをして貰えるなんて思っていなかったのだ。

 四歳で家を出てから、ここに来たのは今日で四回目だ。四歳から十五歳まではレイ家の人間との接触は禁じられていた。十六歳で聖騎士団副団長の職を引き継いで以降は、父親とは仕事で顔を合わせる機会も増えたが、母と親子らしい会話をした記憶などまったくない。顔を合わせたのもリタの葬儀のときを除けば社交の場で何度か見かけたことがある程度だ。そして団長に昇任してからは、本気でそれどころではなくなった。聖騎士団の組織の維持に奔走しながら、激減した戦力で何とか天魔の襲撃に立ち向かっているうちに、ユリンへの転任が決まっていた。

 リタが消滅ロストしたのは聖騎士団の責任だというのに、団長の地位を引き継いだジュリアンはその両親にほとんど贖罪らしい贖罪もできなかったのだ。

「お前の方が余程この家に馴染んでいるのにな」

 さっきの様子も、まるで仲の良い母子……というより、セレスティーヌの見た目が若いせいで姉妹のように見えた。

「何言ってるんですか。セレスティーヌさんが仲良くしてくれるのは、私が団長と結婚するからですよ」

 こちらを見上げるフィラの眉根が、不満そうに寄っていく。

「あんまり変なこと言わないでください。お母様に、失礼です」

 フィラの勘違い、では、ないのだろう。怒ったような真摯な視線が、じわりと実感を刻みつけていく。

 それでは、自分は母親に恨まれているわけではないのだ。

 ――リタを、守れなかったのに。

 苦い罪悪感と深い安堵が同時に襲いかかってきて、息苦しい気分になった。

 思わず立ち止まったジュリアンを、フィラが不安そうに見上げる。

「団長……?」

 礼を言わなければいけないような気分になって口を開きかけて、直前で急にどう言えば良いのかわからなくなってしまった。

「お前、廊下は走るなよ」

 とっさに口をついたのは、そんな間抜けな一言だ。

「えっ、今!?」

 ぎょっとして身を引く様がまるで小動物のようで、ふっと微笑が零れる。同時に重苦しい胸の内も、急に軽くなったような気がした。笑われたのが恥ずかしかったのか、フィラは赤くなって怒ったように目を逸らす。

 何かに許されたような感覚が、知らない感情を呼び覚ましていく。それが何を意味するのかわからないまま、気がつけば自分の名がプレートに刻まれた部屋の前に到着していた。

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