File-4 いつか解ける魔法

 ピクニックを延期した日は、ジュリアンの言葉通り、そして前日から城門前広場に張り出されることになった聖騎士団の天気予報通り、快晴だった。この天気予報はピクニック日和を引き当てたフィラたちだけでなく、天候に左右される仕事に就いている人々皆に好評で、踊る小豚亭でもしばらくはその話題で持ち切りだろう。

 ソニアやレックスとのピクニックを大いに楽しんだフィラは、翌日の射撃練習後、もし偶然にでも会えたらジュリアンに礼を言おうと、団長執務室に近い方へ、少しだけ回り道をして帰った。昨日のピクニックの帰り、ソニアと一緒に覗いた露店で買った布靴は、固い石畳の廊下でも全然足音が立たないくらい柔らかくて履き心地が良い。そんなちょっとした気分の良さも、礼を言えるチャンスを増やすためだけにわざわざ遠回りしようなんて考えた原因の一つかもしれなかった。

 うららかな午後の日差しが、中庭から回廊へ差し込んでいる。吹き抜ける風は涼しくて気持ちが良い。最高の午後だと、フィラは上機嫌で思う。中庭の木立を風が渡っていく音がひどく美しかったので、フィラはわざと足音を忍ばせて、耳を澄ましながら歩いていた。

「……からってお前が行くこたねえだろ」

 執務室へ続く曲がり角へ近付いたフィラの耳に、ふいに苛立ったランティスの声が飛び込んでくる。声はまだ遠くて、少し聞き取りづらい。

「いくら大事なものの護衛っつったって……だいたい経路が気に入らねえ。罠なんじゃないのか?」

「罠にしては高い餌だと思うが」

 冷静に答えているのはジュリアンだ。平和で爽やかな夏の午後にはあまりにもそぐわないやりとりに、フィラは思わず足を止めた。

「でも場所が場所だ。危険すぎる」

「だからといって断るわけにもいくまい。今の聖騎士団の立場は最悪だ。中央からの指示に異議を唱えられるような権力も資格も、私にはない。ユリン配属を断り切れなかった時点で、それは予測できていたはずだ」

 不穏な会話を続けながら、二人分の足音が近付いてくる。

「だけどよ、それでもあのメンバー構成はあり得ねえだろ。何だよアレ。ピクニックに行くんじゃねえんだぞ。あんな……あんな実戦投入はこれが初めてですなんて連中十数人も引き連れて……天国みてえな場所に飛ばされんのと実際天国行っちまうのとは全然違うだろうが。今もしお前がいなくなっちまったら」

「ランティス。人だ」

 ジュリアンはため息混じりの、しかし有無を言わせぬ調子でランティスを黙らせた。言葉と同時に、二人が廊下の影から現れる。

「悪い……気付かなかった」

 ランティスは気まずそうに視線を逸らし、逆にジュリアンはフィラを真っ直ぐ見つめて弱々しい苦笑を浮かべた。

「お前には……忘れろとは言えないんだったな」

「どういう意味……ですか?」

 フィラはトートバッグの持ち手をきつく握りしめて、震える声で尋ねる。ランティスの話はただの例えだと、大げさに言っただけだと思うのに、自分でも信じられないくらい不安でたまらなかった。それなのにジュリアンは答えず、ただ黙って首を横に振っただけで、フィラの脇を通り過ぎて行こうとする。

「団長、待って下さい!」

 フィラは振り向きざまに呼びかけた。ジュリアンは一瞬迷うように歩調を緩め、それからようやく立ち止まる。

「……いつからかはまだ指示がないが、近いうちに私はしばらくユリンを離れることになる」

 ジュリアンはフィラとランティスに背中を向けたまま、低い声で言った。

「私が戻るか、領主の任を別の人間が引き継ぐまでは、礼拝堂の使用については他の団員の指示に従ってくれ」

 他人行儀な声と口調。戻らないかもしれない、という意味に聞こえる。

「さっきの、どういう意味なんですか? ランティスさんが」

「お前には関係ない!」

 遮る声の激しさに、フィラははっと息を呑んだ。

「お、おい。ジュリアン?」

 ランティスも困惑した声を上げる。

「……ユリンで暮らしていく者には……知らせられないことだ」

 呟いたジュリアンの拳は、あらゆる感情を押し殺そうとしているかのように、強く握りしめられていた。

「待てよ、おい」

 言い終えるなり早足で歩き出したジュリアンを、ランティスが慌てて追いかける。

 フィラはただ呆然と、その場に立ち尽くしていた。

 ――あんな風に声を荒らげるところ、初めて見た。

 強く握りしめたトートバッグの持ち手が、掌に食い込む。震えが止まらない。

 フィラは無理矢理息を吸い込むと、ジュリアンたちとは逆の方向に向かって走り出した。どこかで一人になって、頭を冷やして考えたかった。


 礼拝堂に向かいかけたが、帰りに聖騎士の誰かと会ってしまったらまた動揺するような気がして、結局フィラはそのまま踊る小豚亭まで駆け戻った。顔色が悪いと心配するエディスに、休めば大丈夫だからと告げて屋根裏へ上がる。申し訳ないとは思うけれど、鏡を見たらとても客商売ができるような顔ではなかったので、今日は夕方の手伝いも休ませてもらうことにした。室内着に着替えもせず、そのまま寝藁にもぐり込む。

「ごめんなさい……エディスさん」

 ホットミルクを持って上がってきたエディスに、フィラは寝藁から体を起こして小さく頭を下げた。

「気にすることないさ。体調が悪くなるなんて、誰にだってあることなんだからね」

「体調……っていうか……あの」

 小さく呟きながら、丈の低いテーブルにコップを置いてくれたエディスの方へ身を乗り出す。

「エディスさんは、ユリンの外に出たこと、ありますか? 私、不思議なんです。どうしてこんなに外の情報がないんだろうって」

「ユリンの外に、かい? あたしは出たことはないよ……この町に引っ越してきてからはね」

 エディスは軽く肩をすくめると、フィラの隣に腰掛けて肩を抱いてくれた。

「話してなかったけど、あたしもこの町に来る前の記憶はないんだ」

 思わずはっと体を引き、まじまじとエディスの顔を覗きこんでしまう。そんな話は聞いたことがなかった。エディスもエルマーも今までずっとユリンで暮らして来たのだと、そうだとばかり思っていたのに。

「……あたしだけじゃない。みんなそうなのさ」

 身を引いてしまったフィラに寂しげに笑いかけながら、エディスは続ける。

「誰がいつこの町に来たのかなんて覚えてない。誰も覚えちゃいないんだ。自分のことも、他人のことも。誰かが新しく入ってきても、みんなそいつが昨日もいたみたいに思ってしまう。そしてみんな、ここに来る前の記憶がないことだって当たり前だと思ってる……いや、忘れてるってことすら忘れちまってるのさ」

 エディスは苦しそうに顔を歪めながら、口を挟む隙を与えない調子で話し続けた。気が強いようでいつもしっかり相手を見ている彼女が、こんな風に一方的な話し方をするのは珍しい。エディスにこんな表情でこんな話し方をさせてしまったことが申し訳なくて、フィラは擦り寄るような動きでエディスの肩に頭を乗せた。

「だから、あんたは特別なんだよ、フィラ。あんたがこの町に現れた日のことを、みんなはっきり覚えてる」

 エディスは話しながら、さっきよりもしっかりとフィラの肩を抱いてくれる。

「不思議な話だけどね、あんたが過去の記憶がないって悩んでるのを見て初めて、あたしも自分がこの町に来る前のことを覚えてないって気付いたくらいなんだよ。黙っているつもりはなかった。ただ本当に……最近まで気付いてなかっただけなんだよ。すまなかったね」

 フィラはエディスのぬくもりに甘えるように、全身の力を抜いて瞳を閉じた。

「エディスさんは、思い出したいって思いませんか?」

「いいや」

「町の外に出たい、とは?」

「思わないよ。それが決まりだからね」

 エディスが笑った体の動きが、そのままフィラに伝わってきて、それが不思議なほど心地良く感じられる。

「その決まりを守ってさえいれば幸せに暮らせる。そんな言い伝えがあるし、実際みんなそう信じて生きてるんだよ」

「言い伝え、ですか?」

 瞳を閉じたまま、フィラは尋ねた。

 ――幸せ。今、ここにある幸福。ここにある居場所。

 それを守れと、ジュリアンも言っていた。

「……昔々、魔法使いが魔法をかけて、あたしたちをこの町に閉じこめた。その魔法を破って町を出ると、不幸になってしまう……」

 小さな子どもに絵本を読んでやるような、穏やかな調子でエディスは囁く。

「でもね、フィラ。あたしは……あたしたちが守られてるって思うんだよ。疑問を感じることは禁じられてるけど、あたしは不愉快には感じない。ユリンを出ていきたいとも思わない。なんとなくわかるんだよ。知ってしまったら、きっと不幸になるってね」

 フィラは黙ったまま、エディスの胸に顔を埋めた。エディスは両腕をフィラの背中に回して、子どもを寝かしつけるときのように軽く揺する。

「好奇心がないわけじゃないんだよ。でも、あたしは知るのが怖い。知らないでいることよりも、知ることでこの町の保護を失うことが怖いのさ」

 よくわかる、と、フィラは思った。

 たった一人魔法から取り残されてしまう恐怖。残酷かもしれない真実を知ってしまう恐怖。

 本当は何も思い出したくなんかない。目も耳もふさいでいたい。ユリンの町の人々と同じように、外のことなど何も知らず何も知ろうとせず、ずっとこの魔法に守られていたい。それなのに、心のどこかは真実を知ろうとしている。目を逸らすのは悪いことだと、知らずにいるのは罪だと、心のどこかが叫ぶから。

 ――外には何がある? ジュリアンはちゃんと帰ってくる? どうしてこの町は閉ざされている?

 すべてを知りたい。思い出したい。

 ジュリアンもティナも自分自身さえも、誰も望んでいないのに。誰のためにもならないとわかっているのに、それでも知ろうとしている。

 この罪悪感から、逃れるためだけに。

 ――それって、酷く馬鹿なことなんじゃないだろうか。

 不意にそう思ってしまって、フィラは縋りつくようにエディスの服の胸元を握りしめた。

 エディスは幼い子どもにそうするように、ずっとフィラを抱いていてくれたけれど、薄ら寒い気分はいつまでたっても消えなかった。

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