act.2 『桜の島へ』

 京の名家、藤林院寺とうりんいんじ宗家本邸。その家紋を掲げた立派な門前から、並んだ大勢の使用人に見送られて滑らかに走り出す車。傷一つなく磨かれた運転手付きの高級車である。

 その運転席では、いつものように黒いスーツで身を包んだ小川菜摘おがわなつみが、白い手袋をはめた手でハンドルを握っている。

 そして隣には、やはりいつものように黒いスーツで身を固めた如月きさらぎはるかがすわる。

 すっきりしたミント系の香りが漂う車内は純白のカバーで統一され、小物一つとっても愛らしいデザインのものばかり。アパレル系で働く親族が選んだ可愛らしい服を着た朔也子さくやこは、いつものように1つに束ねて高く結い上げた髪を大きく巻いている。

 その隣には痩身の少年が、悠然と足を組んですわっている。

「サクヤ君、膝にすわらない?」

 車が走り出して程なく掛けられる少年の言葉に、朔也子はすぐにその意味が理解出来ず 「はい?」 と優美な笑みを浮かべて小首を傾げる。

「俺の膝にすわりませんか?」

 繰り返される言葉は少し解説がつき、ようやくのことで理解した朔也子の顔が見る見る赤く染まってゆく。

「す、すわりません!」

 動揺のあまり声が上擦ってしまい、手にした扇子まで落としてしまう始末。慌てて拾おうと手を伸ばしかけるが、その手首を少年が握る。

「ひ、ひいらぎっ?」

 驚きのあまり声を上げてしまうが、少年はそんな朔也子の反応さえ楽しんでいるかのよう。

 細身のどこにそんな力があるのか、不思議なくらい易々と朔也子を膝にすわらせると、そのまま抱きしめてしまう。一瞬、もう一方の手でその胸を押し返そうとした朔也子だったけれど、すぐに諦める。

「今日は暴れないんだ」

「勝てませんから、柊には」

「まぁね」

 余裕たっぷりに言った少年は軽く朔也子の顎に手を添えると、ゆっくりと唇を重ねる。

 私立松藤まつふじ学園高等学校新弐年生、天宮柊あまみやひいらぎ。身長148センチと、15歳にしては小柄で華奢な朔也子と比べ、その身長は180センチ以上。切れ長の目にすっきりと通った鼻筋。その整った顔立ちは、朔也子のとなりにすわっても引けをとらないほど。

「柊様、お戯れはそのへんで」

 不意に掛かる如月の声に、朔也子は恥ずかしさのあまり柊の胸に埋めるように顔を隠す。柊はその細い腰や背に腕を回しつつ、チラリと助手席にすわる如月の後頭部を見る。

「邪魔しないでよ、如月さん」

「お言葉ではございますが、これがわたくしの役目でございます」

 アクリル板の向こうで助手席にすわる如月は、振り返らず、でも少し語気を強めて返す。

「無粋って言葉、知ってる? 気が利かないんだけど」

「無粋で結構でございます。如何に許嫁いいなずけと申しましても、度の過ぎた振る舞いにございます。そのお手を即刻お放し下さいまし」

 即刻という言葉に、如月の怒りが感じられる。

「屋敷じゃこういうこと出来ないんだ。見逃してくれてもいいと思うんだけど?」

「柊様!」

 さらに語気を強める如月に、柊は肩をすくめてみせる。

「はいはい、わかりました」

 投げやりに言って朔也子の背に回した手を下ろすと、その小さな体を、まるで人形のように軽々と、それでいて丁寧にとなりにすわらせる。そして先程、朔也子の小さな手から滑り落ちた扇子を広上げながら口を開く。

「訊いてもいい?」

 差し出される扇子を受け取った朔也子は、まだ赤い顔を隠すように扇子を広げる。

「なんでしょう?」

 心なしか言葉も早くなる。

「本気で寮に入るつもり? 今の桜花の状況は知ってるよね?」

「もちろん存じておりますが……」

 多分柊は怒っていない。いつもより少し語気は強いけれど、怒ってはいないはず。だが朔也子は戸惑いを隠せない。

希帛邸きはくていにはぜんさんがいるからともかく、陽春邸ようしゅんていは今、誰も使ってないんだ。わざわざ不自由な寮に入る必要はないと思うけど?」

 希帛邸、陽春邸はともに藤林院寺宗家が、これから向かう桜花島に所有している別邸の名称である。

 そして善さんとは藤林院寺善三郎とうりんいんじぜんざぶろうのこと。藤林院寺宗家の前当主にして、朔也子の祖父である。中学時代からの友人である柊の祖父、天宮葵茜あまみやきせんが善三郎のことを 「善」 と呼んでいて、幼い頃からそれを聞いてきた孫の柊も同じように 「善さん」 と呼ぶ癖がついている。

「首席で合格出来たらサクヤ君の自由にしていいなんて、おじさんも困った約束をしてくれたもんだよ。偶然左右そうと同じ寮とはいえ、俺は反対です」

「それは今更というものです」

 すでに手続きを済ませ、あとは入寮するだけだという朔也子だが、あくまで柊は反対する。

「お父様やお母様から、ずっと桜花の話を聞いて楽しみにしていたのです。

 どうして柊は邪魔なさろうとするんですか?」

「邪魔をするつもりはないよ。

 サクヤ君こそ、俺を困らせて楽しんでるわけ?」

 思わぬ柊の反撃に、朔也子は口を尖らせる。

「少しも困っていないのは存じております!」

 図星だったらしく、柊は口元に小さく笑みを浮かべる」

「さすがサクヤ君。

 でも心配しているのは嘘じゃない。それはわかってるよね?」

「それは……」

 言いよどむ朔也子に柊はたたみかける。

「ことはサクヤ君1人の問題じゃない。

 これは知っておいた方がいいと思うけど、サクヤ君が入る予定になっている第6丹英たんえい女子寮には高子ばかの手下がいる。サクヤ君がどう回避してもトラブルは必至だ。何しろ向こうから吹っ掛けてくるんだからな。

 3月で全寮長が代わってるんだけど、第6丹英女子寮の新寮長は高子ばかの手下じゃない」

 正確には学園都市桜花付属第6丹英女子寮という。桜花付属寮は全て寮内自治が行われており、新寮長の選出はそれぞれの寮で行われるが、自治会執行部役員の柊には、新寮長が高子たかいこの配下かどうかぐらい調べることは容易い。

 だが朔也子が調査に使った奈月なつきは、性別の都合上女子寮内部までは調べられなかったらしい。報告書にはなかった話に、朔也子もやや閉口する。

「わかるよね? 寮長まで巻き込むことになるって」

 トラブル次第では他の寮生まで巻き込む可能性も多いにあると言われ、朔也子は困る。

 だが困ってばかりもいられない。

「もちろん寮の方々にはご迷惑が掛からぬよう、極力配慮いたします」

「例えば?」

「今日はこれから入寮の手続きに参りますが、状況次第では外泊という形をとって、当面は陽春邸で過ごすつもりです」

「さすがに子飼いを使って桜花の様子を探らせていただけのことはあるね。賢明だよ」

 十中八九、陽春邸に向かうことになるだろうとも柊は言う。

「どうしてわたくしが調べていたことをご存じなのですか?」

 不思議がる朔也子だが、柊はさも当然と言わんばかりの顔をしている。

「ついでに言えば、誰を使っていたかも知ってるよ」

 気づかないはずがないと言わんばかりに呆れる柊に、朔也子もすぐに 「そうですね」 と溜息交じりに納得する。

 今回、朔也子が桜花の様子を知るために使ったのは 「奈月」。確かに彼は小川の推薦どおり諜報に向いているが、柊と近い場所で生活している。もちろんそうと知らなければ気づかれることはないが、柊と彼は顔見知りである。

「慣れないことはするもんじゃないって教訓だ。サクヤ君はそういうことに向いてないんだから」

「向いていませんか?」

「向いてません」

「そうですか」

 無情な柊のオウム返しにしょぼくれる朔也子を見て、柊は小さく息を吐く。

「桜花で知りたいことがあるのなら俺に訊けばいい。

 わざわざ子飼いを使う必要はない」

「それはそうなのですが……」

「秋梅の変に1枚噛んでること、そんなに俺に知られたくなかった?」

「秋梅の変?」

 キョトンとした顔で尋ねる朔也子に、柊は 「去年の秋、高子ばかが起こした大騒ぎ」 と簡潔に説明し、朔也子のすぐ 「ああ」 と納得する。

「桜花ではそう呼ばれてる。

 あれにサクヤ君、1枚噛んでるんだよな?」

「噛んでるなんて、そんな……」

 そんな風に言われるのは心外だと言い返したかった朔也子だが、後ろめたさが言葉を淀ませる。

「どうして俺に隠すわけ?」

「別に隠しているつもりはありません」

「話す機会がなかった?」

「意地悪ですね」

「意地悪もしたくなるね。

 おまけにサクヤ君の頑張りも虚しく、結果はお粗末なものだし」

「そのようですね。

 てっきりあきらさんがうまく収めて下さったものと思っておりましたが」

 言って朔也子は、開いた扇子の蔭に小さく息を落とす。

高子ばかに邪魔されて、結局自治会としては紅梅女学院の脱退届を保留にするのが精一杯。

 おかげで今の桜花は、創設以来最悪の状態だ。ある意味、藤原さんと高子ばかの、質の悪い置き土産だよ」

 藤原明ふじわらあきらは朔也子と同じ藤林院一門の1人だが、ついこの間まで私立松藤学園高等学校に通っていたから柊も知っている。それもほぼ毎日、すぐ近くで顔を合わせていたから、数いる先輩の1人という以上によく知っている。そしてその松藤学園があるのが学園都市桜花、通称学都桜花である。

 学園都市桜花、それは2人が向かっている人工の島、桜花にある。いや、桜花島そのものと言ってもいいだろう。

 桜花島は藤林院寺宗家の現当主から数えて3代前の当主、藤林院寺太郎坊法康とうりんいんじたろうぼうのりやすが私財で造成した人工の島で、その巨大な島の造成は市を1つ増やすほどの大事業。それを為し得たのは藤林院寺宗家の並みならぬ財力と、政財界への影響力であることは言うまでもないだろう。

 この島には太郎坊法康の創始理念に賛同した、様々な立場の人たちによって、私立高校を中心におよそ80の学校が創立された。

 毎年春には日本全国津々浦々からこの島に集まってくる新入生の、90%以上が通学圏外出身者。その全員が島内で寮生活などを送っているため、一般市民を含めた島内人口の80%以上を15歳から18歳が占める。つまり島全体が巨大な学舎まなびや。故に桜花島を指して学都桜花と呼ぶ。

 学都桜花では生徒による自治が行われている。その自治を行っているのが学園都市桜花全82校から成る学園都市桜花生徒自治会、通称桜花自治会である。

 学園都市桜花の創始者たる太郎坊法康の創始理念を基に、当時松藤学園高等学校に在籍していた生徒が中心となって設立した、学都桜花三大組織の一つにして、最大の勢力を誇る組織である。

 生徒たちによって立案された自治会創設は、万事が一からの試み。次から次に、それこそ際限なく出てくる難問珍問奇問を、一つずつ協議して決まり事を決めてゆく。その過程と熱意を、同じ桜花三大組織の一つにして最高の権限を持つ桜花理事会が認めて正式に発足。以来、歴代総代に自治が委ねられてきた。

 その発案者にして初代総代を務めたのが藤林院寺宗家現当主、藤林院寺貴玲とうりんいんじたかあきら。創始者太郎坊法康の曾孫にして朔也子の父親である。その貴玲から数えて22代のちの総代が高子。朔也子の従姉妹にして、柊の言う 「ばか」 である。

「まだまだ騒動は収まりそうにありませんね」

 産みの苦しみを経て発足した学園都市桜花生徒自治会、通称桜花自治会だが、まだまだ問題は山積みである。

「でもサクヤ君、解決に手を貸してくれるんだろう?」

 2月の寒い日に行われた学園都市桜花自治会大評議会。その席での宣言を柊は朔也子に思い出させる。

「もちろんです。わたくしに出来ることでしたらなんなりと」

 もちろん朔也子も忘れてはいない。だがすぐさまその表情が曇る。

「ですが今の桜花では、何もせぬ方がいいように思えます」

 自分が何かをすることで、却って事を荒立ててしまうのではないかと案じる朔也子に、柊は悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 京の町を抜けた車は、さらに海を眺めがならどれくらい走っただろう。陽の光をキラキラと反射する海上に、朔也子は不意に薄紅色の巨大な雲を見つける。

「柊、あれはなんでしょう?」

 朔也子がその島を見るのは初めてではない。だがいつもと違う姿に驚きを隠せず、窓に手を付き物珍しげな顔を寄せながら尋ねる。

「春の桜花を見るのは初めてだっけ?」

「どうしてあのように見えるのですか?」

 不思議でならない朔也子のはしゃぎ振りに、柊は小さく笑みながら答える。

「桜だよ」

 海上近くを漂う薄紅色をした巨大な雲、それは島全体を覆うように咲き誇る無数の桜だという。

「今まで知らなかったなんて、もったいないくらいに綺麗です」

 海に浮かぶ薄紅色の巨大な雲は、吹く海風に時折波打ち、ゆらり……ゆらり……と幻想的にその形を変える。そんななんとも不思議な光景を創り出している桜花島。これからの3年間をそこで過ごすことになる朔也子は、始まる新しい生活に希望を膨らませつつ、その隅に一抹の不安を抱える。どうしても高子のことが頭から離れないのである。

「もっといい物をみせてあげるよ」

 そんな朔也子の不安を察したのか、柊が言う。

「いいもの?」

 キョトンとする朔也子に、柊は細い目をさらに細めて笑う。

「そうだな。明日あたり、時間が取れたら」

「今すぐでないのが残念ですが、楽しみにしております」

 言った朔也子だったが、すぐさま現実に戻ったように口調を変え 「ところで」 と言葉を継ぐ。

「これはどういうことでしょうか?」

 最初は気のせいかと思っていたが、どうやら違うと気づき柊に尋ねてみる。すると彼はずっとそれを待っていたらしく、苦笑いを浮かべる。それこそやっと気づいたかと呆れてみせる。

「この渋滞?」

「もう10分以上も進んでいないように感じられるのですが……」

 進まない車に困惑を隠せない朔也子の様子に、白い手袋をはめた手でハンドルを握る小川菜摘は苦笑を浮かべて言う。

「申し訳ございません媛様、気のせいではございません」

「そうですか」

 応えた朔也子は小さな手に持った扇子を開き、その蔭に溜息を落とす。それからゆっくりと車窓に視線を移す。

 なだらかに湾曲する湾岸線道路は、一方は市街地を臨み、もう一方に広大な海を臨む。キラキラと春の穏やかな日差しを反射する海の向こうに、薄紅色の雲のように見える島が浮かんでいる。

 しかし見えていると言っても桜花島まではまだ10キロ以上ある。海を渡るには船を使うか、島の南北に一本ずつある連絡橋を渡るしかなく、朔也子たちを乗せた大型リムジンはその連絡橋から続く渋滞の中にある。

「見えていますのに……」

 そう呟いてもう一つ、溜息を吐く。

「退屈でしょうが、いずれ橋を渡る順番も回って参りましょう。今しばらくのご辛抱を」

 助手席と後部座席にあいだにあるアクリル板越しに、如月が声を掛ける。

「ですが、これはどういうことでしょう? 以前にも何度か桜花には渡っておりますが、車はとても少なかったように思いましたが?」

 疲労と困惑を隠せない朔也子の問い掛けに、隣にすわる柊が 「説明しようか?」 と笑む。

「これから当分桜花で生活するわけだし、知っておいた方がいい」

 柊曰く 「学園都市桜花の基礎知識」 の講釈が始まる。

 そもそも桜花島は島内人口の80%以上を高校生が占め、バスや電車、モノレールなどの公共交通機関が整えられている。よって住民の自家用や保有率はきわめて低い。

 逆に朝の登校時間には通学自転車が公道を埋め尽くし、一昔前の中国の通勤風景さながら。もちろんバスや電車、モノレールのラッシュを作りだしているのも、様々な制服姿の高校生が中心である。

 そんな桜花島では年に3回、あらゆる交通機関に大渋滞が起こる。原因は島内人口の80%以上がほぼ同時に移動する、いわゆる帰省 & Uターンラッシュである。民族大移動とも言われる年末年始やお盆の帰省 & Uターンラッシュと似たようなもので、桜花島の場合、島内で生活する寮生がほぼ同時に帰省し、ほぼ同時に戻ってくるために起こる。

 離島である桜花島と本土をつなぐのは2本ある連絡橋と、島の東側に就航している連絡船だけ。もちろん橋には車道の他に線路もあり、電車も走っていれば歩道もあり車道並みの自転車専用道路もある。

 だが自転車で島に渡るのは連絡橋周辺に住む学生だけ。島に入る1つ前の駅で降り、歩いて橋を渡る遠隔地在住の寮生も少なくはないが、その距離は10キロ以上。それなりの準備と覚悟が必要である。

 よって必然的にバスか電車の利用になるわけだが、車道でも大渋滞が起こる。その主な原因は、車で寮生を送ってくる保護者がいることと、電車やバスのラッシュを見越した寮生が荷物を宅配便で送るため。いつにない大量の荷物に、宅配業者もトラックを増便して対応せざるを得ないのである。

 おまけに日頃交通量が少ないため、車線が多くないことも原因の1つだろう。

 それでも春夏冬の年3回起こるラッシュの中でも、春休みの帰省ラッシュが一番少ない。理由は、卒業生の退寮が在校生の終業式より早いためである。つまり3分の1が先に移動し、遅れて残る3分の2が移動するためである。

 逆に、この春休みのUターンラッシュが最大の渋滞となる。理由は新入生や新教職員の新生活用品が運び込まれるためで、その量は半端ではない。さらには新入生や新教職員を迎える入都式にゅうとしきに合わせ、保護者が自家用車で新入生を送ってくる。

 心配する保護者の気持ちもわからなくもないが、それがこの状況を引き起こすとあっては在校生たちにはいい迷惑。だが自分たちにも新入生の時があり、同じことをしてしまったため文句の一つも言えず。

 新入生の入都案内パンフレットにはこの交通渋滞のことも書いてあるのだが、よもやここまでの渋滞になるとは思っていないのだろう。すぐとなりに停まる車では、新入生を送ってきたらしい保護者が、イライラした様子でしきりに煙草を吹かしている。

「車を出すのは遠慮すべきでしたね」

 渋滞の理由を知った朔也子は、溜息とともに呟く。その言葉に柊は苦笑を浮かべる。

「車でなくて、なんで来るつもり?」

「バスや電車もあるのでしょう?」

 丁度2台ほど後ろに、停まってる路線バスが見える。

「サクヤ君には悪いけど、無理だから」

「ご心配にはおよびません。わたくしだって、電車はバスくらい乗ったことがありますから」

 少し自慢げに笑ってみせる朔也子に、柊はどう説明したものか、思案げに苦笑を浮かべる。

「そういうことじゃなくてね」

 例えば後ろに見える路線バス。一見ただの満員バスだが、実は乗車率150%を超えているという。その状態を例えるなら、すし詰めを通り越した真空パック。狭い車内では少ない空間と空気を奪い合い、貧血や酸欠で倒れる敗者も珍しくないほど。

 さらには、どんなに混んでいても数分程度の遅れで動く電車と違い、バスは一度渋滞に捕まればいつ抜け出せるともしれず、停留所以外で降りることも許されないため乗客は半ば命懸けとなる。

「まさか死者が出ることは……」

「出ないのが不思議なくらいだよ」

 信じられないと顔を引きつらせる朔也子だが、柊はそれほど過酷だと過去の経験を思い出してしみじみと言う。

「俺も乗ったことあるけど、凄いよ。ほんと、シャレにならないから」

 幸いにして柊の身長は180センチ以上と長身である。頭上に残る空気で辛うじて助かったという。そうでなければ彼でさえ危うかったと聞き、朔也子は 「ご無事でなによりです」 と安堵する。

 と、その時なんの前触れもなく軽い電子音が鳴り始める。携帯電話の着信音である。

 メロディーを聴いてすぐ柊が 「俺の」 と言いながら、ジャケットの内ポケットに入れてあったスマートフォンを取り出す。そして画面に 「貴勇」 の文字を見て軽く舌打ちをする。

「ちょっとごめん」

 そう断りを入れて受信して耳に当てると、名乗りもせず 「何?」 と少しぶっきらぼうに切り出す。よほど親しい間柄なのか、相手もそのまま会話に応じたらしい。

「ああ、やられたか。……心当たり? あるある、大あり」

 柊は楽しそうに話しているが、隣で黙って聞いている朔也子は嫌な予感を覚える。

「わかりきったことを訊くな。お前、馬鹿? 相変わらず性格悪いな。……帰ったら片付けるから、じゃあな」

 ほんの2、3分程度の会話である。通話を終えた柊は、すぐにスマートフォンをジャケットの内ポケットに突っ込む。

「あの、柊? 今の電話、貴勇たかいさおからですよね?」

 朔也子の質問に柊は小さく笑みを返すだけ。

 藤真貴勇ふじまたかいさおは寮で生活する柊の同居人というだけでなく、同じ学校に通う同級生でもある。そして朔也子の従兄弟、つまり藤林院一門の人間でもある。

「何かあったのですか? チラと声が聞こえましたが、貴勇、ずいぶんと怒っていたようです」

「あいつが怒っているのはいつものことです」

「何か怒らせるようなことをしたのですか?」

 柊と貴勇の仲があまり良くないことを知っている朔也子は心配するが、すっかり慣れきった様子の柊は平然としたものである。

「今回は俺も被害者です」

「それは柊が何かしたからでしょう?」

「サクヤ君、人聞きが悪いよ」

 朔也子の追及を笑ってかわす柊は、あくまで自分のせいじゃないと主張する。追及を諦めた朔也子が小さく息を吐いた刹那、頭上から鈍い音が響き、車窓を何かが横切る。何事かと振り返ってみれば、数台の自転車が、渋滞に往生している車と車の間を縫うように逆走していた。

 乗っているのは私服だが高校生風の少年数人で、中には危険な2人乗りもある。自転車の後ろ、泥よけには通学用自転車登録シールも見えるが、さすがに校名までは読むことが出来ない。

「なんて危ない」

 驚き半分、呆れ半分に朔也子が声を上げた刹那、1台の自転車が転倒。すぐさまクラクションが鳴り響く騒ぎとなる。

 どうやら車に当たったとか当たらないとか、サイドミラーを壊したとか不可抗力とか、そんなことで揉め始めたらしい。ドライバーや同乗者が車を降り、徒党を組んで逆走をしていた少年たちと口論を始める。

「馬鹿どもが、こんなところまで来てチンピラみたいな真似しやがって」

「柊、あれは何事ですか?」

 不安げに尋ねる朔也子に、柊は 「んー」 と唸りながら思案する。

「接触事故かな?」

「それはわかりますが、あれは桜花の生徒ではありませんか?」

 眉をひそめる朔也子に、柊は 「そうかもしれないな」 と、まるで他人事のように素っ気ない。

「そのうち警察が来る。放っておきなさい」

「警察って……」

「ここは桜花じゃないから警察のお仕事です」

 言った柊は笑顔で 「そうだろ?」 と同意を求めてくる。

「それはそうですが、何を考えてあのような行動を……?」

 その行動が理解出来ないと朔也子は呆気にとられるが、柊は、今の桜花ではあのような奇行が日常茶飯事と化しているのか、何でもないことのように応える。

「あいつら札持ちだから、何にも考えてない」

「札持ち? それはなんでしょう?」

 尋ねる朔也子に柊は、桜花自治会の免責札制度で発行される免責札を持つ生徒のことだと説明する。だがもちろん、まだ自治会会員ですらない朔也子には、その免責札制度自体がわからない。

高子ばかが作ったアホ制度」

「柊、それでは全くわかりませぬ」

 真面目に説明するのが面倒臭いというより、説明するのも腹立たしいというのが柊の本音だろう。それもそのはず。その制度は、桜花自治会前総代だった高子の独断によって作られたのだから。

 前総代・高子の独断によって作られた免責札制度とは、一部の生徒に与えられた免責制度のこと。免責札を持つ生徒はどんな違反をしても、問題を起こしても処罰されないというもので、高子が一部の生徒に与えた特権である。

 そしてこの札が赤いことから 「赤札」 と呼ばれ、その札を持つ生徒のことを 「札付きの悪」 なんて言葉と掛けて 「札持ち」 と呼ぶ。

 だが桜花自治会の自治権が及ぶのは自治を委ねられた桜花島内のみ。島外で騒ぎを起こしても免責札の効果はなく、警察の出番ともなれば無罪放免とはいかないだろう。

 案の定、そうこうしているうちに遥か後方からパトカーのサイレンが聞こえてくる。

「あんな奴ら、どうなろうと知ったことじゃない」

 旧年度桜花自治会執行部役員の1人として名を連ねる柊だが、島外では一高校生である。外聞を憚ることなく言い放つ。

「一度、痛い目に遭えばいいんだよ。それで懲りりゃ、安い授業料だ」

「そのようなこと……」

 言い掛けた朔也子は、溜息を一つ吐いてからゆっくりと言葉を継ぐ。

「制度を廃止するなど出来ぬのですか?」

 それこそ制度を作った高子はもういないのだ。そんな意味のない制度を維持し続ける必要はないはずと言う朔也子だが、柊は 「残念でした」 と手振り付きで答える。

 学園都市桜花生徒自治会執行部は、学都最高の頭脳集団シンクタンクと称される非凡な生徒たちの集まりである。

 こう言ってはなんだが、あの金村伸晃かなむらのぶあきもその1人。在籍する私立松前まつまえ学院高等学校では十分優秀な生徒であり、アイドル並みという非凡な容姿も持っている。そんな彼の不幸は、他のメンバーが非凡すぎることと、性格に癖がありすぎること。

 そんな彼らでも手出し出来ないのがいくつかある。同じ桜花三大組織の残る2つ、桜花理事会と桜花組合もその1つだが、他に自治会規約という難物がある。桜花自治会の全権者は桜花総代であり、その代行者は制度を改変してはならないという規約である。

 この規約を変更するには桜花総代はもちろん、代表議会の承認も必要となる。年度の変わり目である3月末。各校生徒会を含め、現在の桜花自治会は旧年度役員によって運営されており、多くの学校で長たる生徒会長は不在。代執行となっている。

 それは総代であった高子が卒業した自治会執行部も同じで、現在は旧年度役員から副総代代行を任命して運営しており、総代は代行すら不在となっている。そもそも総代代理を務めるために副総代がいるわけで、総代代行は必要ないのである。よって総代代行の任命自体、規約によって禁じられている。

 つまり現状では、規約の変更は一切まかりならないのである。任期を卒業するまでとする総代は、年度末に不在となることが恒例で、その空白期間を悪用し、在籍する役員たちが勝手をしないよう作られた規約といわれる。

 自治会創設当時、その設立に関わった生徒たちは、高子のような総代が就任することなど予想もしなかったに違いないが、現状では完全に徒となっている。

 しかし自ら規約を破ることが出来ないとはいえ、自治会執行部は学都桜花が誇る頭脳集団シンクタンク。先人たちが作り上げた規約によって縛られ、年度末の総代不在時は自由が利かなくなるけれど、この憂慮すべき事態を、黙って指をくわえて見ているわけではない。

 現状で出来る対処として、免責札制度に対しては、紛失などによる札の再発行を、総代不在を理由に保留する措置をとっている。もちろん気休め程度でしかなく執行部にとっても不本意だが、なにもしないよりはいいだろう。免責を必要とする場合、札の提示を義務づけられているため、少なからず有効な手段ではある。

「なんてまどろっこしい」

 憤懣やるかたない朔也子のぼやきに、隣にすわる柊は小さく笑ってみせる。

「なんでも自由に出来てちゃ、自由の有り難みがわからなくなるからね」

「それはそうかもしれませぬが……」

「執行部も総意をまとめるのに色々協議はするけど、表に出すのは総意だけ。どうしても密室の相談は色々物議を醸すから」

「新たな総代の就任が急がれますね」

 呟いた朔也子は、半分ほど開いた扇の蔭に小さく息を落とす。

「確かにそうなんだけど、それもなかなかすんなりとはいかなくて」

 桜花自治会総代選挙の日程は、桜花自治会だけでなく桜花理事会や桜花組合とも調整しなければならない。もっとも例年ならば前年度と同じような日程が組まれるため、調整など事務的な手続きだけ。

 だが今年はこの事態を憂慮する旧年度執行部が少し早めの日程を組んで申請したものの、理事会と組合から 「例年どおりの日程で」 とのつれない返事であえなく却下。そのため新総代の選出は例年通り四月末の予定となってしまった。

「悠長なことを仰せられる」

「再度お伺いを立ててみるつもりではあるけれど」

 苦笑を浮かべる柊は、暗に 「無理だろう」 と肩をすくめてみせる。

 学都桜花生徒自治会総代選挙は、桜花自治会で行われる選挙の中でもっとも過酷といわれる。理由は、同じ自治会選挙でも、地区ごとに予備選を行う執行部役員選挙と違い、総代選挙は新入生を含む学都桜花自治会全会員による直接一斉投票。桜花全島を巻き込む一大騒動となる。その混乱を思えば各組織もそれなりの準備が必要で、日程の変更は認めがたいのである。

 まして高子のこと。自らが桜花の支配者で在り続けるため、自分の支持者である後継者を当選させようとありとあらゆる妨害工作を講じるだろう。ひょっとするとこの1ヶ月は、秋梅の変以上に桜花島は混乱するかもしれない。自治会からの申し出のあった選挙日程に、安易に他の組織が応じないのも無理はないだろう。

「今の桜花の状況は、理事会も組合も理解している。執行部俺たちが選挙を急ぐ理由もわかってるけど、騒ぎに巻き込まれて授業が遅れたなんて言い訳にもならない。理事会はともかく、組合は特に準備が必要なわけ」

 授業の遅れに対し自治会から意見をすることはほとんどないが、雇用関係にある理事会が苦言を呈することは間違いないだろう。

「どこまで忌々しいのでしょう、高子たかいこは」

 開いた扇を、高い音を立てて閉じた朔也子は、何気なく視線を車窓に移すが、次の瞬間、驚きのあまり扇子を落としてしまう。彼女が見たもの、それは窓を覆い隠すようにへばりつく不気味な生物であった。

 突然のことに驚きを隠せない朔也子は、その目を謎の物体から離すことが出来ず、隣にすわる柊の腕を手探りで探し当てると、その袖を忙しく引っ張る。

「あ、あのひ、柊……」

 驚きのあまり顔が強ばり、言葉もうまく出てこない。

 だがすでに気づいていたらしい柊は平然としたもの。謎の物体には一瞥もくれず 「放っておきなさい」 と素っ気ない。

 2人が乗る車はスモークグラスで、車内からは普通に外を見ることが出来るが、外から車内を見ることは出来ない。もっともこの不気味な物体のように、車体に貼り付けば別だろう。

「放っておきなさいって、あの、柊、何を平然としているのです? この方、どなたです? お知り合いですか?」

 ピタリと窓に貼り付いた不気味な物体は生きているらしく、動いている部分がある。それがまた酷く不気味なのだが、柊は 「知りません」 とか 「相手をすると馬鹿が伝染しますうつります」 などと素っ気ない。

「何か言っておられるような気がしますが……」

「あれでも一応は人間だから、言葉くらいは知ってるだろ」

 その言葉ではっきりしているにもかかわらず、朔也子の 「やはり柊のお知り合いですか?」 という問いかけには 「違います」 と素っ気ない。

「こんな人間もどきに知り合いはいません」

 優しく笑って返す柊だが、朔也子もその笑顔に騙されまいと食らいつく。

「人間もどきではなく、人間だと思います」

「サクヤ君の気のせいです」

 淡々と続く不毛な遣り取りの中に 「恐れ入ります」 と、運転席にすわる小川菜摘おがわなつみが割って入る。

「柊様のご友人でいらっしゃいますか?」

 朔也子に対するものとは明らかに違う、いつもの上辺を飾るだけの笑みを浮かべた柊は、遠慮がちな小川青年の問い掛けに、まるで友達を断崖絶壁から突き落とすように冷たく答える。

「違います」

「大変申し訳ございませんが、このままでは非常に危険です。ご不快とは存じますが、ご友人に車体から離れるよう仰っていただけませんか?」

 ハンドルを握る小川青年は困惑を隠せず、それでいて常識的な対応を試みるが、柊は非常識な態度で返す。

「かまいません。轢き殺すなり、跳ね飛ばすなり、好きにして下さい」

「お言葉ではございますが、車に傷を付けては大旦那様に叱られてしまいます」

 平然と恐ろしいことを言ってのける柊にも動じることなく、小川青年は淡々と大人の対応で返す。実に冷静で穏やかである。

「小川さんが怒られても俺は全然構いません」

 小川は藤林院寺宗家の使用人であり、天宮家の使用人ではない。知ったことではないと言い切る柊に、たまりかねた朔也子が口を挟む。

「少しは構って下さい! 菜摘なつみを殺人犯になさるおつもりですかっ?」

 柊は謎の生物を友人であることだけでなく、人間であることすら認めたくないらしく 「人身事故じゃなくて物損だから」 と、平然と言ってのける。

「あまり仲のよろしくないお友達なのですか?」

「嫌いです」

 遠慮がちに尋ねる朔也子だが、柊は無情なほどはっきりと嫌悪を顕す。朔也子は諦めたように小さく息を吐くと、意を決したように顔を上げ 「菜摘」 とアクリル板越しに呼びかける。すると小川青年は 「はい」 と応えて、運転席のドアにあるパワーウインドのスイッチを操作する。

 ほどなく開くのは柊のすぐ横にある窓である。すぐさまそのことに気づいた謎の物体は、窓ガラスが1センチも下がらないうちに、なにがなんでもと言わんばかりの勢いで隙間に入り込もうとし始める。

 手の指から始まって、次は頭を。頭蓋骨が変形しているのではないかと思えるほどの有様に、朔也子も、柊が彼を友人と認めたがらなかった理由がわかったような気がしてくる。

 引き攣った顔でその様子を見ている朔也子に、彼なりに愛想笑いを浮かべているらしいが、どう見てもホラー映画に登場する化け物そのもの。朔也子でなくても恐れをなすだろう。

「やっぱあっちゃんと藤家とうけのおひぃさんや」

 だがその有様とは裏腹に、聞こえてきた声は普通の男子高校生のそれである。

「失せろ。海に放り込まれたいか?」

 開口一番、友情の欠片も感じさせない柊の言葉に謎の物体は慌てて返す。

「ちょっと待ってぇな。いくら晴天ピーカンいうたかて、泳ぐにはまだ早いて。風邪ひくがな」

「馬鹿が風邪なんてひくか」

 柊の切れ長の目は冷たく、謎の物体を射るように見る。

「またまたぁ、俺とあっちゃんの仲やん。そない冷たぁせんといてや」

「殺されたいか、梶」

 同類にされるのはまっぴら御免とばかりに、柊はぴしゃりと言い返す。

 桜花島に3校だけある公立高校の1つ、府立松林しょうりん高等学校新2年生の梶紀夫かじのりおは、今は屈んで車内をのぞき込んでいるが、その身長は170センチくらいとあまり高くはない。柊とは幼稚園、小学校と一緒に通った仲だという。

「おひぃさん、初めましてぇ~」

 あちらこちらに変な跡が付き、色も斑になった不気味な顔で精一杯の愛想笑いをする梶に、朔也子は引き攣る口元を開いた扇子で隠し、わずかに会釈で挨拶を返すのが精一杯。

「なにが初めましてだ」

 言葉厳しく割り込む柊は、朔也子に、梶を見たらすぐ風紀委員会に通報するよう言い聞かせる。それこそよく交番に貼られているポスターのキャッチコピー 「この顔を見たら110番」 さながらに。

 さらには 「絶対に近づかないように」 「口も利いちゃいけません」 と続き、まさに梶を犯罪者扱い。友人であることが嘘のような毛嫌いぶりである。

 一見、日本全国どこにでもいる男子高校生に見える梶だが、実はとんでもなく非常識で迷惑な趣味を持っていた。それこそ柊に毛嫌いされるほどのその趣味とは……。

「あっちゃん、またえらい言われようやん。ひどいなぁ」

「自分の日頃の行いを考えてから物を言え」

「ただの趣味やん。遊びやねんから、そない怒らんといてぇや。

 だいたい日頃の行い言うたら、あれはなんやねん?」

 言って梶が指さすのは、後方で起こっている騒ぎである。

「お前が言える立場か?」

 柊に言わせれば、梶も札持ちも同類。すなわち自治会執行部の敵である。

「用件を簡潔に言え」

「桜花に渡るんやろ? 乗せてってぇな」

 すると柊は、車の所有者である朔也子が何か言うよりも早く 「断る」 と冷たい。

 だが梶も、柊とは幼稚園からの付き合いである。その冷たい仕打ちも慣れてしまえばどうってことないのか、あるいはこれを柊の歪んだ友情表現とでも勘違いしているのか、少しも堪える様子を見せない。

「こっからあっこまでの距離やん。金持ちのくせに、ケチケチしぃな」

「どういう基準で物を考えればそうなる? この阿呆」

 ここから連絡橋を渡り終えるだけでも10㎞以上はある。さらにそこから梶が生活している学生寮は数㎞あり、決して 「ちょっと」 の距離ではない。

「心配せんでえぇて、なんもせぇへんさかい。今日は手持ちがあらへんさかい、したくてもでけへんねん」

 そう言って両手を広げてみせる梶に、柊越しにそれを見る朔也子は怪訝そうに眉を寄せる。

「盗聴器だよ」

 柊が忌々しげな口調で教えてくれる。梶は盗聴マニアで、美味しそうなネタを持っていそうな人物に近づいては盗聴器を仕掛けて聞き耳を立てるプライバシーの侵害者。桜花自治会風紀委員会要注意人物名簿ビンゴブックでも最上級トップクラスの危険人物である。

 それほどの問題児である梶紀夫かじのりおは、桜花島内に3校ある府立高校の1つ、松林しょうりん高等学校の新2年生だが、家庭の事情で桜花付属学生寮に入寮。そのため盗聴で自治会風紀委員に何度となく捕まり、機材を没収されても懲りないしぶとさで、風紀委員会と根気比べは現在も継続中。当然自治会執行部役員の柊もその渦中に在る。

「せやけどあっちゃんと会えるやったら、1個くらい持っとけばよかったわ」

 本当に懲りない梶は 「失敗、失敗」 と笑いながら、ゆっくり進む車に合わせて歩く。

「梶さん、危険ですから車から離れて下さいませんか?

 柊とお話されたいのであれば、桜花に着いてからごゆっくりなさればよろしいかと」

「心配無用。こいつは殺しても死にません」

 殺せるものなら、それこそ今すぐにでも瞬殺してしまいたいと言わんばかりの柊だが、その殺意が梶には全く届いていないから不思議である。

「なぁ、ちょっとくらいえぇやん。頼むて。あんなバス、乗ったら死んでまうて」

 両手を合わせて懇願してみせる梶だが、柊は 「死ね」 と一蹴する。それこそ葬儀では、風紀委員会が全員出席の上、盛大な万歳三唱で見送ってくれるだろうと言い放ってのける。

「嫌やて。圧死とか、窒息とか、めっちゃ苦しそうやん」

「お前には似合いの死に様だ」

「ほんまあっちゃん、冷たいわぁ」

「それが嫌なら、そこの海に投げ飛ばしてやる。石抱いて、海底に沈んでろ」

 そのうち寒さも冷たさも感じなくだろうと言い放つ。

「それも窒息やん」

 苦しいことに変わりないと返す梶だが、柊は 「阿呆、溺死だ」 と冷たい。

「ちょっと詰めてくれたらえぇだけやん」

「定員オーバー」

「どこがやねん? 車ん中、めっちゃ広いやん。俺、こんなデカい車、初めて見るわ。隠れるところとかあるんちゃうん?」

 言いながらも車内をのぞき込む梶に、朔也子は呆れる。

「健全な一般家庭で、そのようなものを作ってどうするのでしょう?」

「またまたぁ。おひぃさんも可愛い顔して。えらいボケかますやん。どこの世界に、リムジンなんて買える一般家庭があんねん? 言うてみぃ。これ1台で、新築一戸建てとか買えるんちゃうん?」

「さぁ? この車はお祖父様が下さったので、お値段のことまでは存じませぬが……」

 首を傾げる朔也子に、あいだにすわる柊が 「サクヤ君」 と呼びかける。

「俺がさっき言ったこと、もう忘れた?」

 梶とは口を利いてはいけない、そう注意されたことを思い出した朔也子は、ばつが悪そうに慌てて開いた扇子で口を隠す。

「だいたい隠れるところなんて、お前みたいな後ろめたいところがある奴の考えることだ」

「あっちゃん、痛いところ直撃せんといて!」

 一応後ろめたいところがある自覚はしているのか、その突っ込みは止めてくれと嘆いてみせる梶だが柊は容赦しない。

「用は済んだ。3秒で閉める。車から離れろ」

 窓の縁に手を掛けて阻止しようとする梶だが、パワーウインドにかなうはずもない。柊は懇願する梶には一瞥もくれず、早口にカウントするとスイッチの 「閉」 を押す。

「柊、いけません!」

 慌てて止めようと身を乗り出す朔也子だが、耳を貸す柊ではない。

 このあと梶がどうなったかといえば、引き摺られたりはしたかもしれないが、少なくとも跳ね飛ばされたり、轢き殺されたりはしていないらしい。翌日行われた入都式予行演習リハーサルで、両手の指や顔、腕などにたくさんの絆創膏を貼った湿布臭い梶の姿が、多くの生徒に目撃されている。

 もちろんその通報を受け、風紀委員会が会場内を大捜索したことは言うまでもないだろう。


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