第三次世界大戦編
第121話 ベノナ・プロジェクト
1943年Ⅹ月Y日 合衆国陸軍フォートブラッグ基地
合衆国陸軍情報部、通称アーリントンホールと呼ばれるその組織は戦略及び戦術情報の収集と分析を任務としている。その組織の中でも、「
彼らの本拠地はアメリカ国内でも有数の規模を誇る陸軍基地、フォートブラッグの一角にあった。もっとも、彼らがこの基地に移転してきたのはわずか三ヶ月前。
各地から通信機器の取り扱いに長け、機密保持に問題のない将兵が各部隊からかき集められた。それはかねてから計画自体は存在していた英国の諜報機関、MI6との極秘作戦「ベノナ」が、本格的に動き出していたからだ。
作戦の目的はアメリカ国内に潜伏していると思われるソ連のスパイと、モスクワとの通信を傍受することが目的であった。
難航していたこの計画を一挙に前に進めたのは英国が入手した『レッドデータブック』の存在だった。
英国が入手したその奇妙な書類は、スェーデン大使館に届けられた奇妙な暗号で書かれた手紙から始まった。この暗号を解読してみろと言わんばかりの暗号文は、幸運なことにイタズラとして処理されることなく本国へと送信された。
その暗号文の解読中に判明したのは、その暗号文がドイツのエニグマ暗号機と同じ方式
で作成されているという事だった。
それが意味するところを察知したMI6の通称で知られる
事実、SISが把握している限り、ドイツ側で暗号が解読されている様子に気がついている形跡は一度も報告されていない。
その暗号が指し示していたのは、そしてストックホルム中央郵便局私書箱のナンバーであった。SIS局員が確認したその私書箱には鍵の収められた無地の封筒だけがあった。
その鍵は市内にあるスカンジナビア・エンスキルダ銀行の貸し金庫の鍵だった。
まるでお使いのような面倒な手順で手に入れた『
その文書は、ソビエト
これまで謎とされていたソ連の暗号方式は、ワンタイムパッド方式と呼ばれる方式の暗号であった。通信の文字数と同じ乱数を用いて暗号化し、基本的に乱数表は一回限りの使い捨てにする。こうすることで、強固な暗号強度を保つ方式であった。
そして、それだけではなく英国内に潜入しているソ連のスパイの個人名までもが記されていた。
半信半疑ながらも調査によってRDBの内容が紛れもない真実であることが判明するのに時間はかからなかった。
その情報のおかげで、SISは内部に潜入していたソ連のスパイ摘発に追われることになり、一年以上組織の混乱が続くことになる。
その渦中で、当然『RDB』を制作した組織がどこかということも可能な限り調査されたが、大した成果は上がらなかった。確たる証拠は掴めずに時間が過ぎ、犯人探しの優先度は日毎に下げられていくことになる。
ともあれ、ソ連スパイ網壊滅と引き換えに英国は貴重な時間と組織の安定性を失うこととなった。英国にとって、この選択は大きな転機となるのだが、それはまた別の物語である。
ソ連スパイ摘発の最中に、SISは同盟国である合衆国にも多くのソ連スパイが潜入していることを突き止めていた。
一応同じ
国内の情報を流されるばかりか、政策決定の場にまでスパイが紛れ込み国策を左右されるリスクを除去することを英国は選択したのである。
そして英国は米国内に潜入しているソ連スパイ炙り出しの作戦を、合衆国情報当局と共同で行うことを提案。
一方合衆国内でも、ソ連のスパイの暗躍を憂慮する者たちがいた。アメリカ陸軍「特別局」のカーター・クラーク大佐は、昨年に「ロシア外交問題」などという名前で呼ばれるプロジェクトを立ち上げる。
後にコード・ネーム「ヴェノナ」とされる暗号解読計画は、この英国との共同作戦へと連結することになる。
「この度はご協力に感謝する、英国サミュエル少将だ」
サミュエル・D・バーミンガム少将はいささか芝居がかった口調で握手を求める。
義手とアイパッチというアイコンのせいで、合衆国の軍人たちはこの連絡将校をどう評価すべきか戸惑うかに見えた。
「少将、我々合衆国も大英帝国との共同作戦を歓迎致します。ベイリー・バルドメロ大佐です」
にこやかに応じたのは、大佐の階級章をつけているにしてはだいぶ若く見える、軍服によくそのサイズがあったなと思うほど太った男だった。
サミュエル少将は、一見して一般人が想像する軍人らしさに欠けた、娑婆臭さが抜けない男を観察する。
事前情報によれば、この男は19世紀にアメリカに到着したバスク人移民の末裔のはずだ。スペインで1830年代に発生した
ブラウンの髪の毛は頭頂部が薄くなってはいるが、独特の愛嬌さがそれを補っている。
「では解読の成果を見せてもらおうか」
ベイリー大佐は少将に頷いてみせると、部下に暗号電文綴を持ってこさせる。
少将は分厚い紙の束を恭しく受け取ると、最高機密のスタンプがベタベタと押されている表紙を眺め、内容に目を通し始める。
張り詰めた空気が流れるなか、ただページをめくる音と左手の義手のたてるかすかな金属音だけが響く。
「質問をしてよろしいだろうか」
「ええ、どうぞ」
「では、この頻繁に出てくるキャプテンとはなんのコード・ネームかね」
「我が大統領のことかと」
「それで、このキャンプとかバルーンというのは?」
その質問をした途端、大佐のにこやかな仮面が剥がれて冷酷な顔をのぞかせる。
「その件については私がお答えしましょう」
そう言ったのは一人だけ私服姿のため違和感を感じる割には、自己主張を感じさせない男だった。
「自己紹介が遅れました。FBIのウィローです。この計画は我がFBIと陸軍の方々と連携して行っていましてね」
「よろしく、ウィロー。階級を聞いても?」
「いえ、私は軍人ではありませんのでただのウィローで結構です」
少将は一瞬鼻白むが、ウィローと名乗るFBIの男はそれ以上話す気はないと言わんばかりの態度だった。陸軍情報部とFBIの英国に対する温度差が透けて見えるのは、あながち錯覚ではないだろう。
英国内部も同様だが、合衆国内も決して一枚岩ではない。
各組織ごとに政治的な思惑は当然異なっている。
彼らは同盟国ではあるが、お友達ではない。利害の一致という点で、ようやく共同作戦を取れているに過ぎない。
未だ調査中とだけ申し上げておきます。暗号自体の解読は進んでいますが、膨大なコード・ネームが何を指しているのかまでは、まだ解析途上でして」
「それは残念」
サミュエルは内心、この腹の底の知れない男に「要注意」のタグをつける。
MI6の掴んでいる情報によれば、バルーンとは合衆国が使用したという新型爆弾の暗号名だった。
「我々もですよ。いずれ解析が進めば判明するでしょう」
しらじらしい笑顔を浮かべて見せるウィローだが、眼鏡の奥の目は冷たく光っていた。
「…いずれにせよ、准同盟国とはいえ、よろしからざる活動を貴国で行っている
少将はにこやかに微笑むと、合衆国人のような陽気さで肩をすくめて見せる。
様々な組織と国家の思惑が複雑に絡み合いながら、こうしてソ連スパイ暗号解読計画『ヴェノナ』はスタートしたのだった。
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