第65話 皇宮

       15時5分(現地時間) 満州国皇宮緝熙楼


 満州国皇帝の住居であり、また政務を行う場でもある皇宮は、古くは杏花村と呼ばれていた地域にある。正式には宮内府と呼ばれ、大別すると皇帝溥儀が政務を行う「外廷」と、日常生活を送る「内廷」とに分類される。


 皇帝溥儀はその時、緝熙楼と呼ばれる西洋風の建物の中にいた。正面から見るとバルコニーや円形の柱などが特徴的で、一見すれば元々は騎馬民族である満州国皇帝の居館とは思えないつくりである。


 今は新たに新宮殿の建設が進められており、将来的には新宮殿が新たな皇帝の住居となるはずだった。新宮殿が建設されるまでの仮宮殿も建設され、いつでも移り住めるようになっていたが、溥儀は日本側の盗聴を恐れて移り住むのを拒んでいた。


 皇帝溥儀は執務室の大きな窓ガラスから階下を見下ろしつつ、落ち着かない様子で歩き回っている。


 窓ガラスから見える風景とは、彼の日常からすれば異常なものだった。

 発砲こそ起こっていないものの、満州国皇宮の警護を預かる満州国軍の近衛兵と、関東軍の歩兵部隊が西洋式回遊庭園を挟んでにらみ合っている。


 関東軍はすぐに発砲などの乱暴狼藉に及んでは来ない様子だったが、それもいつまでこのままなのかは微妙な情勢だった。すでに皇宮は日本軍の兵士によって完全に包囲されていた。


 逃亡が不可能な時点で、皇帝の身柄を押さえているも同然と判断しているのかもしれない。

 関東軍の兵士の装備は歩兵銃に迫撃砲といった徒歩行軍で持ち運べる装備でしかなかった。基本的には警備部隊と称して差し支えない。


 とはいえ、見かけばかりは近衛兵の様式を保っている満州国軍の兵士がどこまで通用するのか。近衛兵は銃砲の訓練より、式典儀礼の訓練に重きを置いている飾りの軍隊でしかない。


 皇帝溥儀にとって、それはまさに蟷螂とうろうの斧にしか見えなかった。


「増援は来ないのか。日本軍に恐れをなして逃げたのではないだろうな。航空隊はどうした」


 溥儀の顔には苛立ちと恐怖が満ち溢れ、今にも決壊しそうに見えた。

 側近たちは主人の怒りを買わないようにという保身と、日本軍に敵う訳がないという諦観で、黙り込んだままだった。


 気まずい沈黙を破ったのは、遠雷のような音であった。すわ砲声かと思って窓際へ駆け寄ろうとする皇帝を慌てて側近が引き留める。

 階下の風景にさほどの変化はなかった。ただ、両軍の兵士たちが呆気に取られたかのように市街地の方を見つめている。


「何事が起きたのだ」


 皇帝のつぶやく声にこたえるように、-塀で遮られて直接は見えないが―市街地の方向の空に黒煙があがるのが見えた。

 遠雷のような音は連続して響き、その響きとともに黒煙が増えていく。


「私の国に何が起きようとしているのだ」


 皇帝のつぶやきに答えられるものは、その場にはいなかった。

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