第211話 中央突破

「血迷ったか礼次郎」


 礼次郎が、本隊の五百の騎馬武者のみを率いて、真正面から徳川軍中央に突撃して来る。

 その光景を見ていた徳川家康は、驚くと言うよりも、不審がるような気持ちであった。


 徳川軍中央は、左右両翼に兵を割いたとは言え、まだ二千人はいる。加えて、第一陣前線の鉄砲隊には、まだ弾薬が残っているのである。

 五百の騎馬隊のみで真正面から突撃して来れば、鉄砲の恰好の餌食である。


「何と愚かなことを……」


 家康は、敵とは言え、そのあまりにも愚かしい行動に唖然とした。だが、すぐに思い直してにやりと笑った。


「まあよいわ。奴の方から自滅してくれるのであれば、またとないことよ」


 しかし――



 ――徳川家康、これで勝ったと思っているであろうな。


 礼次郎の後を五百の歩兵を引き連れて追いかける龍之丞は、走りながら不敵に笑っていた。


「だが、全てはこの時の為だ。右翼と左翼が貴様らの背後に回り込もうと動いたのは、貴様らの兵をそちらに引き付けて拘束しておき、中央を手薄にさせておく為だ。我らの真の狙いは両翼包囲ではない、中央突破だ!」


 龍之丞は、馬上から兵士らの頭上を越えて前方を見はるかした。

 徳川軍の中央前線が、鉄砲を構えているのが見えた。


「中央が少々手薄になったと言っても、それでも我らの倍はある。心配はないと思っているであろう。しかしこれで終わりではないぞ」


 龍之丞は不敵な表情で呟き、乾いた唇を舐めた。


 この作戦に自信はあった。しかし、流石に緊張していた。万が一、失敗すれば全軍が壊滅してしまうのだ。

 だが、成功した時には、多大な戦果を挙げられる。家康の首を取ることも不可能ではない。

 その事への興奮と高揚もあった。


 ――そうだ、俺はこういう戦をしたかったのだ。


 龍之丞は天を見上げた。


 ――不識庵様、見ておられますか? 不識庵様より授かった兵法で今、天下一の戦を制してみせますぞ。


「運は天にあり」


 龍之丞は呟いていた。


「鎧は胸にあり、手柄は足にあり、何時も敵を我が掌中に入れて合戦すべし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり」


 龍之丞は太刀たちを引き抜いて天に掲げ、大きく吼えた。



 城戸家の家紋、三つ葉竜胆紋りんどうもんを染め抜いた軍旗をたなびかせ、礼次郎以下五百騎の猛者達が、一直線に徳川軍中央を目掛けて疾走する。


 その徳川軍中央の第一陣は、倉本虎之進が率いていた。

 虎之進は、最前線の鉄砲兵らに射撃準備をさせ、迫り来る礼次郎の騎馬隊に狙いを定めていた。


 だが、慎重に距離と時機を見極め、いざ発砲命令をくだそうかと言う時、虎之進はもちろんのこと、鉄砲を構えていた兵士らも仰天した。

 礼次郎隊の先頭を駆けて来る騎馬武者達が、馬上で鉄砲を構えているのが見えて来たからだ。


 それはもちろん、あの伊達政宗から贈られた馬上筒ばじょうづつであった。

 この時代、騎馬鉄砲戦術はその発想こそあったものの、未だ現実に登場していない。

 当然、徳川兵らは、鉄砲を撃ちながら突撃して来る騎馬武者など見たことがなく、この恐ろしい姿に狼狽ろうばいした。


 そして――


「放てっ!」


 虎之進の発砲命令より早く、礼次郎の命令が響き渡った。

 騎馬武者たちが、走りながら馬上から一斉に射撃した。


 雷鳴の如き銃声が空気を斬り裂き、徳川軍第一陣最前線の鉄砲兵ら十数人がまとめて倒れた。

 馬上からの射撃であるので、訓練を積んでいると言っても、命中精度はさほど高くはない。また、走りながらの射撃は、せいぜい一回が限度である。


 だが、現段階での騎馬鉄砲の真価は射撃ではなかった。騎馬武者が殺到して来ながら馬上から鉄砲を撃って来ると言う、心理的恐怖を与えることにあった。


 その効果は絶大であった。

 この前代未聞の攻撃に、徳川軍中央最前線の兵士らは恐れおののき、浮足立った。

 倉本虎之進も呆気に取られ、判断と命令が止まってしまった。


 そこへ――


「突撃!」


 礼次郎の命令が響き渡った。


 騎馬鉄砲兵らはそれぞれ馬上筒ばじょうづつをしまい、太刀を引き抜いた。背後に続く通常の騎馬武者らも手槍や太刀を構え、一斉に猛り吠えた。

 そして五百騎全員、一丸の炎と化し、硝煙しょうえんのもやを突き破って徳川中央最前線に突撃したのである。


 これで第一陣は崩れた。

 兵士らは悲鳴を上げながら逃げ惑い、その背を城戸軍の騎馬武者たちが踏み潰し、馬上から槍を突きかける。


「おのれ、城戸礼次郎! 何ということだ、何たるざまだ!」


 率いていた倉本虎之進は顔を真っ赤にして悔しがり、自ら槍を振るいながら、「戻れ、戻れっ! 踏みとどまれ!」と、怒声を上げて兵士らを叱咤鼓舞したが、すでに統制が効かなくなっていた。


 更に、礼次郎隊の後から、宇佐美龍之丞の歩兵五百人が殺到して来て追い討ちをかけた。兵士らは完全に恐怖に取りつかれ、槍を捨てて逃げて行くだけであった。


「むう、致し方なし。しかしまだ二陣がおるわ」


 虎之進は、馬首を返して二陣に加わりに行った。


「二陣だ、二陣にかかれっ!」


 一陣を追い散らして突破した礼次郎は、その勢いのままに二陣に躍り込んだ。


 二陣では、城戸軍が騎馬鉄砲戦術を使ったと言うことがすでに伝えられており、一陣を破られたこともあって動揺はしていたものの、ある程度の心の準備を持って城戸礼次郎隊の攻撃を迎え撃った。


 だが――


「かかれっ!」


 礼次郎は全兵で二陣の正面に突撃し、ある程度搔き回すと、すぐに「退け!」と、兵を左右に分けて素早く退いて行った。


 そして、礼次郎隊が退いて行った後から、龍之丞の五百の歩兵がすぐに殺到して来た。しかし、それはただ単純な突撃ではなかった。

 宇佐美隊は、五百の歩兵を五隊に分け、第一隊を突撃させた後、左右両脇から素早く退かせ、その間に第二隊が突撃した。そして第二隊はまた素早く退くと、次に第三隊が突撃、と言った具合に、次々と突撃を繰り返したのであった。


 上杉謙信が川中島の戦で使ったと言う伝説の陣法、車懸りの陣であった。


 しかも、これには宇佐美隊だけではなく、礼次郎の五百の騎馬隊も加わった。

 礼次郎隊と宇佐美隊により、間断の無い激しい突撃が繰り返された。その結果、二陣もすぐに戦意を失って崩れ立った。


 礼次郎の目が見開いた。散り散りに逃げて行く徳川兵らの向こうに、旗本らで固める徳川家康本隊が映ったのだ。


「徳川家康の本隊だ! かかれ、かかれっ!」


 礼次郎は目を血走らせて絶叫し、縦横に斬り回りながら二陣を突破するや、家康本隊に斬り込んだ。

 彼自身もたけりにたけった闘志に全身が炎の如くになっていたが、その熱が移ったかの如く、旗下の騎馬武者らも激しい闘気に狂っていた。獣のように咆えながら次々に家康本隊に突撃して行く。


 たちまちに、巻き起こる砂塵の中におびただしい流血が舞った。


 一陣と二陣を破られたことによる動揺に加え、城戸軍の鬼気迫る勢いに、徳川家康本隊は、早くもすでに混乱し始めていた。

 そこへ、追い討ちをかけるように、あちこちから悲鳴のような叫び声が上がった。


「風魔軍が裏切った!」

「城戸軍に寝返り、我らを襲って来ているぞ!」


 これは、あらかじめ喜多が徳川軍中に潜ませていた忍びの者たちの仕業であった。

 頃合いを見計らって、このように流言を飛ばすように命じておいたのである。


 通常であれば、この程度の流言、ありえぬと一笑に付して終わりであろう。だが、一陣と二陣を破られ、本隊にまで襲いかかられていると言う非常事態のもとでは、絶大な効果があった。


 家康本隊の兵士達は激しく動揺し、まるで幻術にでもかかったかのように、あっと言う間に陣形が崩れ始めた。

 そして、それは徳川風魔連合軍の左右両翼にも波及した。徳川軍の本隊が襲われたと言う知らせとも合わせてたちまちに動揺が広がり、優勢に戦いを進めていた左右両翼が、一気に勢いを失い始めたのだった。


 しかもこれだけではなかった。

 井伊直政隊と交戦していた美濃島騎馬隊が、天地をも揺るがすような激戦の末についに井伊隊を追い散らし、その勢いのままに大きく迂回して来て、家康本隊の側面に突っ込んで来たのである。


「あれが徳川家康だ! 皆の者、かかれっ、かかれっ!」


 率いる美濃島咲は、かぶとの前立てが折れ、自慢の美しい顔は血塗れ、肩と背には数本の矢が刺さり、胴は傷だらけと言った凄惨な姿であったが、それでも美濃島の鬼女と呼ばれた本領を発揮し、返り血塗れの夜叉のような姿のまま、太刀を閃かせて徳川家康本隊に突撃した。


 これがとどめとなった。

 家康本隊は瓦解がかいした。流石に精強無比で鳴る三河武士だけあって、見苦しく逃げ惑うようなことはなかったが、動揺と狼狽は槍先にまで伝わり、まともに戦うことができず、次々と城戸軍の刀槍の餌食となって野栗原の大地に鮮血を散らして行った。


 その時、徳川家康本人は、一陣と二陣が破られたと言う知らせを受けて、「誠か? 信じられぬ」と、大きな目を更に丸くしていたのだが、眼前で本隊の陣形が崩れて行く状況を見て、否応なしに状況を悟った。


「殿、すでに危険です、お退きくだされ!」


 周囲の旗本らが、青ざめた顔で家康に迫った。


「む……信じられぬ……我が軍がこうまでやられるとは……」


 家康は真っ青な顔で呆然としていたが、


「ここは我々で引き止めます故、殿は先にお退きを!」


 との言葉で、一刻の猶予ゆうよもならない状況であることを悟るや、すぐに逃走にかかった。

 十数騎の供回りの者らと共に、戦陣から離脱して後方へと走った。


 その様子を、双方の兵士たちがもつれ合う隙間からとらえていた礼次郎、目をカッと見開き、大声で叫んだ。


「あれが徳川家康だ! 逃げるぞ、追えっ!」


 礼次郎は、眼前に立ち塞がって来た敵兵を馬上から斬り捨てると、馬を駆って敵陣を突っ切ろうとした。

 だが、すでに崩壊していたとは言え、家康本隊の旗本らも家康を守ろうと必死であった。更にそれが敵の総大将城戸礼次郎であると知ると、


「城戸礼次郎がここにいるぞ!」


 と、わめきながら、群れを成して礼次郎に襲いかかる。驚嘆すべき三河武士の魂であった。


 礼次郎は舌打ちし、太刀を縦横に振り回して次々と殺到して来る敵の攻撃をさばく。だが、応戦に手一杯で進むことができない。


 ――家康が逃げてしまう。


 礼次郎に焦慮しょうりょと苛立ちが募って行く。

 しかも更に悪いことに、敵が礼次郎の馬を狙い始め、ついに馬がどっと横転した。地面に投げ出された礼次郎、素早く立ち上がったが、そこへまた敵兵が群がって来る。

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