第176話 本当の家族

「あら、ゆり様。どうなさいましたか?」


 おみつの声に、礼次郎も振り向いた。

 ゆりは思わず出た欠伸を手で隠しながら言った。


「目が覚めちゃって……水を飲みに行ったら、礼次郎がまだ起きてるって聞いたから何しているのかなって気になって」


 おみつは笑った。


「若殿なら、これからまだ飲むみたいですよ」

「まだ? もう寝たらいいのに」


 ゆりが呆れたように言うと、礼次郎はささやかに反論した。


「俺はさっきそんなに飲んでないんだよ。だからこれから一人でゆっくり飲み直そうと思ってさ」

「ふうん」


 ゆりは寝ぼけ眼のまま礼次郎を見ると、


「じゃあ邪魔する」


 と、意地悪い笑みを見せて、礼次郎の隣に座った。その時、ゆりの腹が鳴った。


「あ、やだ……」


 ゆりは寝起きの顔を赤らめた。


「はは、腹減ってるのか」

「うん。あまり食べなかったから……」


 おみつが笑いながらゆりに言った。


「湯漬けか何かお持ちしましょうか?」

「え? ええっと……」


 恥ずかしそうにもじもじするゆりに、礼次郎は苦笑しながら言った。


「素直にもらっておきなよ」

「う、うん。じゃあ、おみつちゃん、いい?」

「ええ。ではすぐにお持ちしますね」


 おみつはパタパタと廊下を奥へ戻って行くと、やがてすぐに戻って来たのだが、運んで来た盆の上にある物は湯漬けではなかった。


「申し訳ござりませぬ。飯はもうすでに無くなってました。ですが、昼に食べた蕎麦掻きの残りがあったので、代わりにお持ちしました。蕎麦掻きでもよろしいですか?」


 おみつは申し訳なさそうに言ったが、ゆりは慌てて手を振った。


「もちろんよ。十分。ありがとう」

「よかった。ではどうぞお召し上がりくださいませ」


 おみつは、盆をゆりの隣に置いた。

 その皿の上にある蕎麦掻きを見て、礼次郎が涎を垂らしそうな顔をした。

 蕎麦は礼次郎の大好物である。そして、彼もまた今腹が減っている。


「くれ」


 たまらず、礼次郎は箸を手に取った。


「あ、ちょっと待ってよ。私がもらったのよ」


 ゆりは箸を奪い返そうとしたが、礼次郎は手を上に上げて届かないようにした。


「ずるい。返してよ」

「少しだけだ。いいだろ?」


 その二人のやり取りを、おみつは複雑そうに見ていた。

 だが、ふっと笑みを漏らすと、屈託無く言った。


「若殿、蕎麦掻きならまだ一人分ぐらいは残っておりますよ。すぐにお持ちしますから」


 礼次郎は振り返り、なんだ、と言う顔をした。


「そうか? なら早く言ってくれればいいのに。頼む」


 障子の間から見える中庭の篝火が、辺りを赤く照らしながら火の粉を舞い上げ、ぱちぱちと音を立てている。

 背後では、眠り込んでいる家臣らのいびきが聞こえる。


 蕎麦掻きを食べ終えた礼次郎とゆりは、廊下の上でとりとめもなく話をしていた。


「ねえ、この辺りはいつ桜が咲くの?」

「いつって、春に決まってるだろう」


 何言ってるんだ? みたいな顔で礼次郎は盃を口に運んだ。

 ゆりはあきれ顔で、


「そんなの当たり前でしょう。ほら、地域によって微妙に時期が違うじゃない。城戸は大体いつぐらいかなあ、って」

「う~ん。まあ、この辺りは上州の他の地域より遅めだって聞くよ」

「そう。ねえ、この辺はどこに桜があるの?」

「東の増田川に沿って上流へ行くと、桜の木が固まっている場所があるよ。毎年そこで花見をするんだ」

「へえ。城戸家もお花見の習慣あるんだ?」


 ゆりが意外そうな顔で言うと、礼次郎は眉をしかめた。


「あるよ。田舎だからって馬鹿にしてるだろ。これでも毎年結構派手にやるんだぜ。館の人間みんなで行くんだ」

「みんなで? 凄い」

「だろう?」

「ねえ、今年は? どうするの?」

「ああ、そうか……戦とかにぶつからないならやりたいけど」

「うん、やろう。みんなで楽しく。でもその前に……二人だけで桜を見に行きたいなあ」


 ゆりは、はにかみながら目を伏せて言った。


「二人で?」

「うん」


 ゆりは下を向いたま頷きながら、


「今年最初の桜は、あなたと二人だけで見たい」

「…………」


 礼次郎は前を向いたまま、その頬を少し赤くした。酔いのせいではない。

 照れ隠しなのか、ぽつりと言った。


「いいけど……寒いよ」


 ゆりは呆れた声を上げた。


「そんなの当たり前じゃない。寒くてもいいの。二人で馬に乗って出かけて、ちょっと見られたらそれで満足」

「そうか。じゃあ行こうか」


 礼次郎は前を向いたまま言った。顔には照れくさそうな微笑がある。


「うん。早く桜の季節にならないかな」

「気が早いよ。まだ元旦だぞ」

「うわ。まさか関東一の短気者のあなたに気が早いって言われるとは思わなかったわ」


 ゆりはおかしそうに笑った。


「はは。いつも言われているからな。言ってやった」


 ふふふ、と、ゆりは笑いながら、空になった礼次郎の盃に酒を注いだ。

 酌を受けながら、礼次郎はゆりの胸元をちらっと見て、


「そう言えば、最近あの観音菩薩の木像を首からかけてないな」

「そうね」

「いいのか?」

「うん、別に……そもそも、いいも悪いもないんだけど……もう、あれをかけなくても寂しくないし」

「寂しくない?」


「うん、私はね。父上や母上たちは本当に私を可愛がってくれてたの。兄妹たちも皆、本当の家族のようにしてた。だけど、それでもやっぱり……心のどこかでは本当の家族が気になってたの。私の本当の親はどこの誰で、今も何をしているのかって……多分どこかの国の百姓なんだろうけど……」

「…………」


「武田家が滅亡して、真田家に匿われた後、私がしょっちゅう出かけてたのは、ただ遊びに行っていたわけじゃないのよ? もちろん色々と外の世界を見て回りたかったのもあるんだけど、もう一つの理由には、私の本当の家族を探したかったってのがあったの」

「そうだったのか……」


「でもそう簡単に見つかるわけないよね。手がかりはたった一つ、私が捨てられていた時に一緒にあったあの観音菩薩の木像だけだから……結局今もわからない」

「…………」

「でも、もういいの……私は本当の家族よりも大切に想える人ができたから」


 ゆりはそう言うと、礼次郎の肩に頭をもたれさせた。その目が少し虚ろになっていた。


「そしてね……もう探すんじゃなくて……いつか私自身で本当の家族を作るの……」


 ゆりは楽しそうに言う。だが、その声が段々と小さくなって行った。


 本当の家族――その意味は礼次郎にもわかる。だが、ゆりと礼次郎ではその言葉の意味が微妙に違っていた。

 礼次郎は十代の男である。真面目な彼と言えど、その言葉を聞いて反応しないわけがない。

 少しそわそわとし始めた。


 ――今は大変な時期だし、落ち着いていつか祝言を挙げるまでは……と思って来たけど……。


 礼次郎はちらっとゆりを見た。

 だが、


「あ?」


 静かな寝息が聞こえる。

 ゆりは眠ってしまっていた。

 礼次郎は小さく笑って溜息をついた。だが、どこか安堵したような溜息でもあった。

 それから少しして、礼次郎は眠り込んだゆりを抱きかかえ、そっとゆりの部屋まで運んだ。



 一月十日。

 城戸に、いくつかの知らせがもたらされた。

 まずは、先月末の 羽沢城、砥沢城に続いて、北条方の甘楽郡のいくつかの城が幻狼衆の支配下となったことである。

 そして次に、城戸の隣の一ノ倉城が、幻狼衆によって陥落したと言う知らせである。


「龍之丞の予想通りだな」


 順五郎が言うと、龍之丞は頷いた。


「時期もほぼ私が予想した通りです。千蔵殿、喜多殿、諜者を放ってより詳しく一之倉を探っていただけまするか? すぐに一ノ倉城を攻めますゆえ」

「承知仕った」


 千蔵と喜多は頭を下げた。


 そして最後の知らせは、礼次郎の顔色を変えさせた。

 駿府の徳川家康に、上州方面への不審な動きが見られると言うのである。

 当面の敵は風魔玄介と幻狼衆であり、しばらくその名を聞いていなかったが、徳川家康こそがあくまで仇敵である。天哮丸を外界に流出させた元凶であり、父城戸宗龍、幼馴染で初恋の人、藤の命を奪い、この城戸を壊滅させた、不倶戴天の宿敵なのである。

 千蔵は報告を続けた。


「北条が幻狼衆討伐に手こずるならば、同盟関係にある自分たちが加勢する、と言うつもりのようです」


 礼次郎は鼻で笑った。


「体の良い口実だな。それを理由にして自ら七天山に攻め込み、力づくで天哮丸を奪う気なのだろう」


 龍之丞は同意して頷いた。


「その通りですな。そして幻狼衆討伐のどさくさに紛れて、南上野の一帯をも手中に収めるつもりでしょう。徳川家康らしい狡猾なやり方です」


 壮之介が言う。


「しかし徳川家康が出てくると問題だ。もし徳川と北条が組んで攻め寄せて行ったならば、流石の幻狼衆もかなわぬであろう。龍之丞殿、徳川と北条を離間させるような策はござらんか?」


 龍之丞は苦笑いした。


「いやあ、流石にそれは……同盟関係にある二国の仲を裂けるような神算鬼謀があれば、簡単に天下を取れます。古の張良、陳平でもそのようなことはできぬでしょう。それに私は、直江の旦那と違い、どちらかと言うと戦争屋であって、謀略家ではないのです。」

「さようか……」


「ですがご安心を。徳川が出て来ても、恐らく北条と共に七天山を攻めるようなことはないでしょう。北条の加勢を名目にしても、堂々と天哮丸を自分の物にし、ついでにあの辺り一帯を収めたい徳川家康としては、自分たちの力だけで七天山を攻め落とそうとするはずです。そこに北条の力が加われば、元々は北条領であったあの一帯ですから、色々とこじれることになるでしょうから」


「なるほど」

「それよりも問題なのは、徳川が足をのばしてこの城戸に攻めて来ることです」

「やっぱり来るか」


 礼次郎が龍之丞を見る。


「ええ。七天山まで行けば、この城戸まではもうすぐです。徳川家康にとっては、礼次郎殿が生きているのはどうにも落ち着かぬはず。しかもここで着々と力を蓄えていると聞けば尚更です。甘楽郡にまで来たならば、七天山攻略の前か後かはわかりませぬが、必ずここまで足をのばして来るはずです」


「いい機会だ、その時には俺が家康の首を取ってやる……と言いたいところだが、今の俺達ではまだ無理だな」

「その通りです。まあ、いずれにせよ徳川が出て来るのはまだ当分先でしょう。それまで我々は少しでも力をつけることです。まずは一之倉城の攻略です」



 そして一月十五日早朝、城戸礼次郎は留守を葛西清雲斎に頼み、一ノ倉城を攻めるべく、騎兵百、歩兵二百の総勢約三百人で城戸から出陣した。

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