第175話 城戸家の正月

 そして年が明けて、正月を迎えた。


 城戸家の正月は、二日には家老を始めとする家臣らが年頭の挨拶の為に館に出仕し、三日には歌会を行い、夜には酒宴を開く、などの決まった習慣があったが、今年はこう言う事情なのでそう言ったものは一切やらず、元旦の朝に簡単に正月の挨拶をしたのみで、その夜には早速正月を祝う宴が開かれることとなった。


 午前、礼次郎は、壮之介ら龍之丞ら、家臣たちの挨拶、そして城戸の住民たちの挨拶を受け、正月だと言うのに慌ただしく過ごした。


 正午過ぎ、やっとそれも終わり、自室で一人ようやくゆっくりとした時間を得た。

 おみつが持って来てくれた茶を啜りながら、干し柿などをつまむ。

 腹が落ち着くと、ごろりと横になった。

 障子を通して、淡い冬の陽光が部屋に満ちている。その暖かな光の中に、礼次郎はまどろんだ。

 だが、彼の気性と言うものは、こう言う穏やかな時間でも、ぼーっとするのはほんのわずかな一時で、すぐにあれこれと考え事を始めてしまう。


(正月が終わったら、また早速動き始めないとな。龍之丞と相談しないと。北条はどう出るかな? 幻狼衆は……? いや、あいつらのことだから、もしかしたら正月などと言ってのんびりせずに、今頃どこかの城を攻めようとしているかも知れないな)


 礼次郎は、七天山を進発する幻狼衆を想像した。

 すると、途端にそわそわし始め、急に居ても立ってもいられなくなった。起き上がると、そのまま立ち上がろうとした。

 だがその時、瞼裏に「また始まった。お正月ぐらい落ち着いてよ」と呆れるゆりの顔がちらつき、立ち上がるのをやめた。

 障子に向かって座り込み、腕を組んだ。


 ――しかし、この先俺達が順調に勝ち進み、七天山に攻め寄せたとしたら……また俺は風魔玄介と直接剣を交えることになるかも知れない。いや、なるだろう。


(その時、俺は奴に勝てるか? 武想郷では、左肩を負傷していたとは言え、仁井田統十郎と共闘し、しかも最後は菜々殿とゆりの助けで勝ったようなもんだ。次、一対一で戦う時には、俺は勝てるだろうか?)


 礼次郎は険しい顔で考え込んだ後、呟いた。


「勝てないな」


 その時だった。

 襖の外から声がした。


「礼次、いるか?」


 聞くと同時に襖が開いた。問いかけがまるで意味をなしていない。

 襖の外に、黒く染めた革袴に黒い小袖を着た茶筅髷の男が、木刀を持って立っていた。礼次郎の武芸の師匠、葛西清雲斎である。


「お師匠様」


 礼次郎は慌てて向き直り、背筋を伸ばした。


「どうだ、左肩は?」


 清雲斎は尊大に上から見下ろすように聞いた。


「はい。ゆりの治療と、先日奥州で手に入れた薬により、もうかなり良くなりましてございます。わずかに痛みはありますが、動かすのには何ら支障はございません」

「そうか。じゃあ早速来い。稽古だ」

「え? 今からですか?」

「当たり前だ。疲れも溜まってるいるだろうと思い、奥州から戻って来て以来、放っておいたが、もうそろそろいいだろう。元旦だし、稽古を再開するにはちょうどいい。来い」


 そう言うと、清雲斎は一人で廊下を進んで行った。

 従わねば何をされるかわからない。礼次郎は慌てて立ち上がり、清雲斎を追いかけた。


 礼次郎は、清雲斎が真っ直ぐに稽古場へ向かうのかと思っていたが、違っていた。

 黒い上下に熊の毛皮の羽織を羽織った茶筅髷の師匠は、館を出ると、そのまま裏手の山へ向かった。しばらく山道を上って行き、やがて生い茂る樹木の中を掻き分けて入って行くと、冷気の強まりと共に水のせせらぎが聞こえて来た。更に進んで行くと、視界が陽光と共に明るく開け、流れの速い渓流が現われた。

 ごつごつとした岩の川岸に着くと、清雲斎は礼次郎を振り返り、言った。


「このまま行けば、てめえはいずれ再びその風魔玄介とやり合うことになるだろう。だが、話を聞いている限りでは、てめえは恐らく一人では風魔玄介には勝てねえ」


 清雲斎は、淡々と厳しい言葉を言う。


 ――やはり、お師匠様も同じようにお考えか。しかし流石だ。風魔玄介には会ったこともないのに。


 礼次郎は心中で密かに驚嘆した。

 清雲斎は言葉を続ける。


「何度も言っているが、てめえの基礎的身体能力は全てが並だ。剣才はまあまあいい方だが、体力や腕力などは、全て並より少し上と言う程度だ。それなのにてめえがここまで強敵に勝って来られたのは、人並み外れたカンと目の良さによるところ、そしてそれを活かした真円流の技によるところが大きい」


「はい」


「この前は、俺はてめえの基礎的な身体能力と基礎的な技術の底上げをしようとして稽古をつけてやったが、元々が並なのでは、それにも限界がある。だから、今度はてめえの並外れたカンと目の良さと言う長所を更に伸ばし、それを活かせる技を授けてやる。それは真円流の奥義と言えるものであり、そして恐らくそれがてめえが風魔玄介に勝てる唯一の道だろう。だが、それには生半可な努力では追いつかねえ。これからは時間がある限り稽古をする、いいな?」


「はい、この礼次郎、如何なる厳しい修行にも耐えます。お願いいたします」


 礼次郎は本心からそう言い、改めて修行し直す決心を胸のうちに燃やした。


「よし、では早速始めよう」


 清雲斎は大きく頷くと、


「ではここで流れを見てろ」

「え?」


 礼次郎は耳を疑った。問い返した。


「今、何と? 見てろ?」


 清雲斎は真面目な顔で頷いた。


「そうだ。この流れを見てろ」

「この流れを……」


 礼次郎は、怪訝そうに、音を立てて白い飛沫を撥ね上げている水流を見た。


「ここに立ったまま、ひたすらに見てろ。だが、ぼーっと見るんじゃねえぞ。水がどう動き、飛沫がどうやって撥ね、流れて行くのか、それをじっと目で追うんだ。いいな?」

「はい。わかりましたが……しかしこれが稽古ですか?」

「そうだ。まずはこれだ。いいか、俺が言った通りに見ていろ。わかったな?」

「は、はい。わかりました」


 何だかよくわからないが、礼次郎は一応清雲斎を信頼している。

 師匠の言う通り、川縁の岩の上に立ち、白く泡を弾けさせながら落ちて行く水流を見つめた。



 そして、まだ西の空に赤みが留まっているうちから、館の広間で、新年を祝う宴が開始された。

 宴はいつも通りに和やかに始まったが、今日は皆の杯の進みがいつもよりも速い。恐らく、未だ痛快な戦勝気分が残っているところに、新年の目出度い雰囲気が重なったからであろう。酒豪揃いの城戸家の面々は、水を飲むかの如くにどんどんと飲み、外が宵闇に包まれ、中庭にいくつもの篝火が赤々と焚かれ始めた頃には、大広間はすでにどんちゃん騒ぎとなっていた。


 そして、四つ半(23時)を回った頃には、主だった者らは皆すでに酔い潰れて寝てしまっていた。

 順五郎、壮之介、龍之丞、清雲斎、茂吉、咲らは、大広間のあちこちに寝転がり、大いびきをかいている。千蔵ですら、居眠りをしてしまっている。だが、広間の隅で壁を背にして寝ているところは、流石に忍びの者と言えるかも知れない。

 ゆりと喜多、そして客人の伊川瑤子は、酔い潰れると言うところまでは行かなかったが、流石に深酔いをしたので、早目に退出して自室で寝ていた。

 昼間の疲れから、あまり飲んでいない礼次郎だけが、頬は赤いものの、表情もしっかりとしたままに起きていた。


「元旦から酷いもんだ。こんな時に敵に攻め込まれたら終わりだな。」


 潰れて寝ている面々を見て苦笑しながら、礼次郎は立ち上がった。

 そして、後片付けをしているおみつら女中、下男たちに加わり、自分も片づけの手伝いをしようとしたが、


「若殿、そのようなことは私たちがやりますから。若殿は休んでてください」


 おみつは慌てて飛んで来てそれを止めようとする。


「そうは行くか。お前たちはほとんど飲まずに働きっぱなしじゃないか。俺が片づけるからお前たちこそ休めよ」

「いえいえ。これは私たちの仕事です。このようなこと、若殿にやらせるわけには参りません」

「でもな……」


 礼次郎が尚も言うと、おみつはじっと礼次郎の顔を見つめた。どこか切なげである。


「何だ?」


 礼次郎が不審そうに聞くと、おみつは表情を緩めた後にふふっと笑みを漏らし、その後、小さい溜息をついた。


「若殿はやっぱりお優しいですね。それが行けないんだけど……」


 そして、


「では、布団を持って来て皆様方にかけて上げてください。このままじゃ風邪ひいてしまいます」

「そうか、わかった」


 礼次郎は笑って頷いた。そして布団を取りに行って戻って来ると、眠り込んでいる連中にかけ始めた。

 全員にかけ終わった頃、ちょうどおみつらも乱れた膳などを下げ終え、広間がさっぱりとしていた。


「うん、綺麗に片付いたな」

「はい。今年はいつもより人が少ないので、まだ楽な方ですよ」

「まあとにかく、ご苦労だった。腹が減っただろう。飯でも食べて休んでくれ。あ、もちろん飲めるなら飲めよ」

「はい、そうさせていただきます」


 おみつらは行燈や燭の火を消し、退出して行った。

 だが、去り際に、礼次郎が呼び止めた。


「あ、悪いんだが……片づけ終わった後にこんなこと言うのも本当に申し訳ないんだけど、一本持って来てくれるか?」


 おみつは振り返り、にっこりと笑って頷いた。


 礼次郎は、先程布団を取りに行った時に、黒貂の羽織を持って来ていた。

 それを羽織り、大広間の外の廊下に座り込むと、目の前の障子を少し開けた。外の冷気が流れて込んで来た。しかし、今日は不思議と暖かい日であったし、酔いの回っている身体には、このわずかな冷気が心地良かった。

 わずかに開けた障子の間から、外の篝火の揺らめきを見つめ、次いで夜空に浮かぶ白い月を見上げた。

 やがて、おみつが熱くした瓶子と盃を盆に載せて持って来た。


「寒いですから、ここで飲むのもほどほどにしてくださいね」

「わかってる」


 おみつは、礼次郎の傍らに盆を置いた。盆の上には、酒だけではなく、肴も二皿あった。大根の香の物が数切れと、刻んだ青菜の漬物、そして焼き味噌であった。


 おみつは盆を置くと、また廊下を戻って行きかけた。

 だがそこに、ゆりが手燭を片手にやって来た。いかにも寝起きと言った感じで、目を擦りながら歩いて来る。

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