第146話 風の悪魔

 菜々や壮之介たちも緊張の表情となった。


「おや、城戸礼次郎じゃないか?」


 玄介は礼次郎を見ると、白い童顔に例の薄笑いを浮かべた。


「やっぱり私達を追って来たんだねえ。お、どういうわけか美濃島咲も一緒じゃないか」

「お前を斬る為よ」


 咲は眼光は鋭いままに冷笑すると、鬼走りの柄に右手をかけた。


「待て」


 礼次郎はそれを制した。


 玄介は、千蔵をちらりと見た。


「あの時地図は奪い返したはずだが、この場所がわかったと言うことは、千蔵、お前だな? 少し見ただけで覚えてしまったんだろう? 流石だな。母親譲りの記憶力だ」


 ――母親?


 千蔵の眉が動いた。


「だがたった六人か。残念だったな。」


 玄介は低く笑うと、


「迷いに迷って虚しくぐるぐる回っていたが、無駄ではなかったな。心置きなく武想郷へ行く為にここで始末しておこうか。やれ」


 玄介が右手を振り上げた。


 ――三十人……。


 礼次郎はすかさず叫んだ。


「逃げるぞ!」


 今いるところの右側はなだらかな斜面になっている。

 礼次郎らはその斜面に駆け出した。


「追えっ」


 玄介の命令で、幻狼衆の男たちが一斉に礼次郎らを追って駆け出した。


「千蔵、頼む!」


 千蔵は振り返り、撒き菱を取り出してばらまいた。中には鉄製のものも混じっている。

 数人の男たちがそれを踏んで躓いた。他の者たちはそれを避けて走る。だがそこへ、更に千蔵が煙玉を放った。

 たちまち大きな白煙が沸き起こり、彼らを包んだ。


 斜面を駆け下りて行く礼次郎ら。

 だがその眼前へ、数人の男たちが樹上より飛び降りて来た。


「しまった」


 礼次郎が舌打ちした。


「ここはやるしかありませんな。礼次様は先にお逃げを」


 壮之介が錬鉄の錫杖を構え、男たちに向かって行った。

 咲もまた、"鬼走り一文字"の剣を抜いて駆け出した。


「俺だけが逃げられるかよ」


 礼次郎もまた抜刀した。


「ゆり、菜々殿、安全なところへ」

「うん」


 二人は緊張した顔で別の場所へ避ける。


 相手は五人。

 たちまち乱戦となった。

 壮之介の錫杖が唸りを上げて振られ、咲の鬼走りが鋭い刃風を起こす。礼次郎は右腕一本で果敢に桜霞を閃かせる。

 対する幻狼衆は、忍びの動きを活かして上下左右に飛び回り、隙をついては変幻自在な斬り込みを見せる。

 金属音が枝葉の間に響き、青白い火花がいくつも宙に弾けた。


 幻狼衆の男たちは流石に腕の立つ手練れ揃いであった。

 壮之介が一人を地に叩き伏せた。だが、他はなかなか斬り伏せることができない。


 ――まずいな。


 礼次郎の顔に焦燥が浮かぶ。


 そして、背後より千蔵が駆け付けて来た。だが、その後ろからは更に幻狼衆の者達十数人が追って来ている。

 千蔵は走りつつ叫んだ。


「ご主君、ここはやはり逃げなければ」

「そうだよな。皆逃げるぞ」


 礼次郎は、目の前の敵に蹴りを食らわせて弾くと、刀を持ったまま、菜々とゆりのいる方向へ走った。

 壮之介と咲もそれに続き、千蔵も手裏剣を投げながら回り込むようにしてそれを追う。


「逃がさんぞ」


 幻狼衆の四人の男たちが追う。


 礼次郎らは、木陰に隠れていた菜々とゆりに合流し、そのまま斜面を横に走った。

 ふと突風が吹き抜け、頭上から葉が擦れる音が聞こえた。


 ――これは……。


 礼次郎の顔色が変わる。

 見上げると、そこにはまさに刀を振り上げながら飛び降りて来る数人の男たち。


「上だ! まずい、散れっ!」


 礼次郎が横に飛んだ。

 他の者達も弾かれるように四方に飛んで避けた。

 しかし降りて来た幻狼衆たちは、着地するや間髪入れずに襲い掛かって来る。


「こいつら三十人どころじゃないよ、もっといる」


 咲が叫んだ。


 背後からも、二十人近くの幻狼衆の者たちが駆けて来ている。


「ここは一旦とにかく逃げるんだ」


 礼次郎は、襲って来る敵の刃を潜り抜け、すぐ後ろにいたゆりの手を取って駆け出した。

 壮之介ら他の者達も後に続こうとしたが、その前を幻狼衆の男たちが刃を並べて塞いだ。


「仕方ない、我らはこっちだ」


 壮之介、咲、千蔵、菜々の四人は、敵がいない別方向へ走った。

 図らずも、礼次郎らは二手に分かれてしまうこととなった。


 それを遥か後方から見ていた風魔玄介。

 供回りの者たちと悠然と歩きながら指示を下した。


「全員で追わなくてもいい。武想郷へ急がねばならん。それぞれ十人ほどで追うんだ。残りは私と共に先を急ぐぞ」


 ――壮之介達とバラバラになっちまったか。でも今は奴らを撒かないと。


 雑木の間を駆け抜け、斜面から山道へ。また道から道へと。幻狼衆の追手から逃げるべく、礼次郎とゆりはひたすらに山中を走る。


「ゆり、大丈夫か?」


 前を走らせているゆりを気遣う。

 だがゆりは笑った。


「これぐらい……甲州では毎日のことだったわ」


 ゆりは女性ながら健脚であり、また俊足であった。


「頼もしいな。もうちょっと頑張ってくれ」


 礼次郎はそう言ったが、ちらっと後ろを振り返ると厳しい顔つきとなった。

 背後からは幻狼衆の男たちが追って来ているが、その距離がどんどん詰まって来ていた。

 彼らは元々は忍びである。常人よりも数段脚が速い。

 風の如き速さで、声も上げずに迫って来るその様は、正に"風の悪魔"、風魔であった。


 ――このままではすぐに追いつかれる。何か策は……。


 礼次郎は駆けながら必死に思考を巡らせた。

 だが、それは無駄に終わった。


 道が大幅に広くなったところに出た時、眼前に小さな爆発が起きて白煙が沸き起こった。

 礼次郎とゆりは咄嗟に立ち止まる。


 だが――


「上だ!」


 気配を察知した礼次郎、叫ぶと同時、ゆりを抱えて数段後方へ飛び退いた。

 二人が飛び退いた跡へ、三人の男たちが刀を振りながら飛び降りて来た。

 空を斬った男たちは、着地すると礼次郎らに向いて構えを取った。


 柿渋色の上下――もちろん幻狼衆の男たちであった。


「ここは奴らの庭じゃねえんだぞ。どうなってるんだ」


 礼次郎は苛立たしげに吐き捨てると、再び素早く数歩飛び退き、またゆりを自分の後ろに下がらせた。

 桜霞長光を抜いた。


 ――三人か……雑兵の類なら何とかなるが、幻狼衆相手では流石に……。


 礼次郎は、じりじりと間合いを詰めて来る三人を見回しながら、自身も摺り足で下がる。

 その時――後方より迫る来る足音。


「礼次郎、後ろ……!」


 ゆりが振り返って不安そうな声を上げた。

 そこには、追って来た幻狼衆の男たち十人が、すでにもう十五間ほどの距離にまで迫って来ていた。


 ――ここまでか……。


 礼次郎の心に絶望が忍び寄る。

 前後を挟まれた形となった。敵は合計すると十五人。


「せめて左肩がもっとまともに動くならな……でも駄目でもやるしかない」


 礼次郎は悲壮な覚悟を固めた。

 剣を下段に構えた。


「私も」


 ゆりもまた覚悟を決め、愛用の短筒を取り出した。


 だがその時であった。


「城戸礼次郎を斬るのは俺だ。邪魔するんじゃねえ」


 聞き覚えのある野太い大きな声が響いた。

 礼次郎は、はっとしてその声のする方を見た。

 すると、右手脇の雑木帯の中から、一人の長身の男が現れた。


「あ……お前……」


 礼次郎は思わず驚愕の声を上げた。ゆりも驚いて口を押さえる。


 上下朱色の小袖と袴、派手な羽織。結わずに垂らしている総髪――

 その男は、仁井田統十郎であった。


「やはりここで会ったかと思ったら、絶体絶命の危機ってやつか」


 統十郎はにやりと笑った。

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