第142話 暴力的な姉
礼次郎の無言の呼吸が激しくなった。
瞳は怒りに燃えている。内より溢れそうになる激情を抑えるかのように拳を握りしめていた。しかし、動くことができなかった。
ふと、物音がした。
礼次郎が横を見ると、ゆりが青ざめた顔で短筒を握っている。
また、その後ろでは、一見表情の無いように見える咲が、無言で荷物の中から愛刀を取り出していた。
それを見て、礼次郎の顔が覚悟を固めたものとなった。
「二人ともやめろ」
静かに制すると、自身も桜霞長光を取り出した。
壮之介は溜息をついた。
そして礼次郎は歩いて行くと、伊之助らの背中を呼び止めた。
「おい、その娘を放せよ」
何とか取り繕っていた商人の顔が崩れ、普段の礼次郎の顔に戻っていた。
「何だ? まだ言うか? しつこい奴だな」
「いいから放せ」
「ほう……商人のくせに生意気に剣を使うのか。いいだろう」
ゆりの治療が良いのか、礼次郎の回復力が凄いのか、礼次郎の左肩は、ここ数日で驚異的な回復を見せていた。
物を持ってわずかに上げられるぐらいまでにはなっていた。
左手にぶら下げるようにして剣を持つ礼次郎を見て、伊之助らは少女を地面に放ると、一斉に抜刀した。
「小娘一人ぐらいで何をむきになってやがる。大人しく引っ込んでれば、お前にもやらせてやるぞ?」
伊之助は、美貌に似つかわしくない、下卑た笑みを浮かべた。
その吐き気を催すような表情と言葉で、礼次郎の中に残っていたわずかな温情が吹っ飛んだ。
「下衆が。いいから放せよ。叩き斬るぞ」
「何っ?」
伊之助らが眦を吊り上げた。
「商人の癖にふざけた口をききやがる。いいだろう、斬り捨ててくれる」
伊之助らが一斉に斬りかかって来た。
礼次郎は鞘を投げ捨てた。――同時に二本の銀光が左右に駆け抜けた。
彼は右腕のみで抜き打ち様に一人を右なぎに斬り伏せ、返す刀でもう一人を斬り倒した。
「え?」
一瞬の早業に、伊之助と、もう一人の表情が変わる。
礼次郎は無言で伊之助の顔に鋭い視線を向ける。
「こいつ……さてはただの商人じゃないな? 他国の忍びか?」
伊之助は少し怯みの色を見せたが、剣を構え直した。
「ならば生かしてはおけん。成敗してくれる」
伊之助が気合いと共に上段から斬りかかった。
だが、その刃先に礼次郎の姿は無い。
礼次郎は伊之助の右側におり、そしてその剣は伊之助の腹を斬り裂いていた。
返す刀を振るい、止めの一撃を加えた。
伊之助は絶叫を響かせて崩れ落ちると、やがて血だまりの中に動かなくなった。
残った一人はそれを見て言葉が出ずに震えていたが、すぐに逃走した。
だがその背中に矢が刺さる。続けてもう一本、手裏剣が刺さり、男は前のめりに倒れた。
咲がいつの間にか短弓を取り出して矢を放ち、また千蔵が手裏剣を投げたのであった。
「あんた詰めが甘いよ。証拠は消しておかないと」
「………」
礼次郎は複雑そうな顔で咲を見やった。
「やってしまいましたな」
壮之介が嘆息した。
「ああ……だけど、あそこで見て見ぬふりなんてできるか」
「礼次様らしい。しかし、姉君のいる伊達領ですぞ。これがばれればただではすみますまい」
「仕方ない。伊達家の力を借りるのは諦めよう。姉上にはちょっと会って挨拶だけして、俺達だけで風魔玄介を追う」
礼次郎は険しい顔で、たった今斬り捨てた四人を見下ろしていた。
すると、先程の少女が駆け寄って来た。
「あの……ありがとうございます」
そう、礼を言った少女。見れば、歳の頃は十五、六と言ったところか、おみつと同じぐらいである。そして、美少女とまでは行かないが、可愛らしい愛嬌のある顔立ちをしている。
「いや、礼はいらないよ。それより大丈夫か? あ、血が出てるじゃないか」
少女の手の甲に傷ができて、そこが赤く滲んでいた。
礼次郎は、手拭いを取り出して拭ってやった。
「そんな」
少女は慌てて手を引っ込めたが、礼次郎はその手に手拭いを押し付けた。
「いいよ。これ使って」
「あの……あなた方は一体?」
「大した者じゃない」
「お礼がしたいのです。是非、お名前を」
「礼をしたいなら、名前は聞かないでくれ。それが一番の礼だ」
礼次郎は苦笑すると、壮之介らを振り向いて、
「行こう」
と、連れ立って歩き出した。
少女は呆気に取られたようにその背を見つめていたが、やがて手拭いを見て、目を瞠った。
「あれ? これって……」
翌日、米沢城下。
礼次郎の姉、凜乃が嫁いでいる伊達家家臣、永谷時房の屋敷――
通された一室で、礼次郎は姉が来るのを待ちながら、これまで見せたことのない種類の緊張した面持ちを見せていた。
その様子を、背後で壮之介やゆりたちは不思議そうに見守る。
(あいつ、何であんなに緊張してるのよ? 自分の姉でしょう?)
(この前、姉君は癖が強いとか言ってましたけど)
咲とゆりはひそひそと囁き合った。
やがて、襖が開き、一人の楚々とした美女が入って来た。
礼次郎の姉、凜乃である。
礼次郎は慌てて頭を下げた。
凜乃は静かに歩いて来ると、礼次郎の前に正座した。
「姉上、ご無沙汰しております」
礼次郎が頭を下げたまま言った。
「礼次、久しぶりなのですから頭を上げなさい」
礼次郎は恐る恐る顔を上げた。
そこに、約一年ぶりに会う姉の顔が、とりあえずは優しげにある。
だが、姉はその優しげな顔のままにいきなり言い放った。
「何故、お前は腹を斬っておらぬのです?」
礼次郎の顔はもちろんのこと、背後の四人の顔色も変わる。
「は、腹とは……?」
礼次郎が問うと、凜乃の美しい顔が般若のように一変した。
「知れたこと! 城戸が滅ぼされ、父上や順八、その他の者ども皆殺され、その挙句に天哮丸まで奪われたと言うではないか。しかし城戸家の次期当主たるお前はその場で潔く自刃もせぬばかりか、その仇を討つこともできずにおめおめと生き延びている。何と言う情けないこと、何という恥! それでも上州源氏城戸の誇りがあるのですか? 私はそんな情けない弟を持った覚えはありません」
「いや、お待ちください、姉上。私は今、城戸家再興と天哮丸奪還の為に必死に戦っております。ここに来たのもその天哮丸の為です」
「それで? 結果は?」
凜乃は冷ややかな視線を向ける。
「まだですが……」
「ほら見なさい、何もできていないではないか」
「しかし、あれからまだ二か月ちょっとですよ」
すると、凜乃がいきなり礼次郎の左頬を叩いた。
ぎょっとする壮之介ら。しかし、凜乃は続けて右頬を叩く。
「まだ? もう二か月ではないですか! その間にお前は何をしていたのです。何と情けない! 私が介錯をしてあげます。今すぐここで腹を斬りなさい!」
凜乃は、腰帯に差していた脇差を礼次郎の前に置いた。
礼次郎の顔が青くなる。
「いや、姉上……私がここで腹を斬ればそれでおしまいですよ。天哮丸は他人に奪われたまま、城戸家の再興もなりません」
「礼次、私に口答えをするのか?」
凜乃は凄まじい殺気に満ちた目で礼次郎を睨んだ。
かと思うと、いきなり礼次郎に飛びつき、畳に組み伏せてその顔を殴った。
「お前はいつからこの姉に逆らうようになった?」
「姉上、お待ちを!」
礼次郎は悲鳴に近い声を上げる。
しかし凜乃は構わずに礼次郎を殴り続けた。
堪らずに、壮之介が割って入った。
「姉君、どうかその辺でご容赦ください」
凜乃は手を止めて、壮之介を振り向いた。
「うん? 何だこの坊主は?」
凜乃には最初から目に入っていなかったようである。そこで初めて、他の三人の存在にも気が付いた。
「私の新しい家臣、と言うか仲間と言うか……」
「ほう、新しい……」
凜乃は四人の顔を無遠慮にじろじろと見回す。
その時、外の廊下の方からばたばたと慌ただしい足音が聞こえてきたかと思うと、再び襖が勢いよく開き、三十前後と見える男が現れた。
「凜乃! ああ、やっぱり……これ、放してあげなさい」
男は、礼次郎を組み伏せている凜乃を見ると、慌てて引き剥がした。
「どうせこうなると思ったわ。大方、仇も討てずに一人だけおめおめと生きているのは情けない、腹を斬れ、などと申したのであろう」
「行けませぬか?」
「お前はどうしてそう短気でせっかちなのだ。礼次殿にも色々と事情があろう。それを汲み取ってやらねば」
男が言うと、凜乃は不満げに唇を尖らせ、ぷいっと顔を逸らした。
しかし、一応男の言う事には従うようである。
「遅れてすまん。礼次殿、大事ないか」
男は礼次郎を心配した。
「大丈夫です。義兄上、ご無沙汰しております」
礼次郎は左肩を擦りながら起き上った。
男は永谷時房と言う。凜乃の夫であり、礼次郎には義兄に当たる。堂々たる体躯であるが、優しげな顔が印象的であった。
「なるほどな。そう言う理由で来られたわけか」
礼次郎からこれまでの大体の話を聞き、また風魔玄介を追うべく武想郷に来たと言う事情を聞いて、時房は大きく頷いた。
「ほら、見なさい。礼次殿はこの若さで立派にやっているではないか。また、左肩を負傷しているにも関わらず、自ら奥州まで来るとは大した覚悟だとは思わぬか」
時房は傍らの凜乃を見やる。
「ふん……馬鹿な弟にしてはまあまあやってるほうね。いいでしょう、今回は許してあげます」
凜乃は上から礼次郎を見下ろすように言った。
「しかし礼次殿、たった五人だけでは心許ないのではないか? 相手の風魔玄介とやらも少人数とは言え、実際には何人なのかわからん。十人以上いるかもしれん」
「そうですが、仕方ありません」
元々は、姉の凜乃を通じて伊達家に力を借りようと言う算段であった。
だが昨日、伊達政宗の寵童である槇伊之助を斬ってしまった。これが発覚すれば凜乃と時房に害が及ぶのは必至である。また、いくら正義の行いであるとは言え、政宗の寵童を斬ったなんて事を言えば、凜乃に何をされるかわからない。
だが――
「そうだ。では、わしから我が殿に力を貸してもらえるよう頼んでみよう」
時房が、名案を思いついた、と言うように顔を明るくした。
「え?」
礼次郎がびくっと身体を動かした。
「と言っても、動かすのはわしの兵だがな、しかし勝手に動かしてはならんのでな。殿に許可をもらうのだ」
「それはいいわね。そうしましょう」
凜乃も手を叩いた。
「い、いや、それは結構です。恐れ多い」
「何故じゃ? 礼次殿は我が甥。遠慮はいらんぞ。兵と言っても五十もあれば足りるであろう。それぐらいであれば殿もお許しくださるであろうし」
「しかし……これは私の個人的なことでありますし、ご領内をお騒がせしてしまいますし……」
礼次郎は半ばしどろもどろに拒否の理由を言う。
すると、凜乃の目が鋭く光った。
「兵があれば助かるであろうに、何故そうまで断ろうとする? 礼次、兵を借りると何か都合の悪いことでもあるのか?」
流石に姉弟である。礼次郎と同様、勘が鋭かった。
「い、いや……何もありません」
「では殿に力を借りればいいではないか」
礼次郎はもう何も言えなかった。
彼は、幼少の頃よりこの七歳上の姉には全く頭が上がらず、またずっと恐れていた。
こうして、礼次郎は伊達政宗に謁見することとなってしまった。
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