第140話 服部半蔵
「服部半蔵だと?」
喜多も大きな衝撃を受けた。
服部半蔵と言えば、伊賀者出身の徳川家康の重臣であり、徳川家の伊賀忍者衆、甲賀忍者衆を統括する徳川忍軍の頭領である。
だが、更に驚きの言葉が、その半蔵の口から発せられた。
「お主は城戸礼次郎の下にいると言う笹川千蔵であろう?」
「………!」
千蔵は反射的に刀の柄に手をかけた。
喜多も顔を強張らせて鯉口を握った。
だが、服部半蔵はその武骨な顔に似合わない、穏やかな微笑を浮かべて言った。
「心配するな。わしはお主らをどうこうしようとは思っておらん」
「………」
「何かしようと思っていたら助けはせん」
その言葉で、千蔵と喜多はゆっくりと手を下した。
「某の存在を知っていたか……。いや、某を最初から城戸家の笹川千蔵と知っていて助けたのか?」
千蔵は冷静な顔を取り戻していた。
「いや、知らんかった。城中をうろうろするお主の存在には気付いておったがな。なんとなく忍びの者であろうとわかったが、まさか今は城戸家にいる笹川千蔵とは思わなかったわ。先程、わしらが小雲山から引き揚げて行く途中、お主と風魔玄介の斬り合いを見かけてな。面白く見物させてもらっていたのだが、その際に玄介めが言う"千蔵"と言う声を聞いてな、それでお主が笹川千蔵だと気付いたのじゃ」
「しかし、某は今は城戸家の家臣。貴殿らにとっては敵だ。敵と知って何故助けた?」
「さあ……何故であろうなあ? よくわからん。だが気がついたら助けようとしておった。我が殿に知られたら怒られるであろうなあ」
半蔵は愉快そうに笑った。
「ただ……わしはお主の父、笹川三四郎を知っておるからな。見過ごせなかったのかもしれんな」
「何? 某の父を?」
「ああ。世間の者は皆誤解しておるが、わしは正確には伊賀の忍びではない。伊賀の忍びだったのは我が父じゃ。だがそれでも、わしも幼少の頃より父に忍びの技を叩き込まれ、伊賀者たちの世界にも通じておる。それ故、お主の父もよく知っておる。友とは言えんが、歳も近かったし、仲は良かった。後に風魔の女と恋に落ちて信州に向かい、千蔵と言う息子をもうけたが、風魔の刺客に殺されてしまったと言うことも知っておる」
「………」
「だからかのう。敵方の人間とは言え、三四郎の息子が危ないと見たら、つい助けようとしてしまった。わしもまだまだ甘いな。家中の者はわしを鬼の半蔵などと言うが、これでどこが鬼なのか」
半蔵はそう言って、思い思いに座って休んでいた配下の者どもを見て笑った。
徳川の伊賀衆たちは、どっと笑い声を上げた。
「まあ、我らは家や戦と言うものを離れれば、同じ忍びの世界に生きる者同士。たまにはこれでもよかろう」
「………」
千蔵は言葉が出なかった。表情を変えずに無言でいた。
だが喜多は微笑んで小さく頷いていた。
「しかし……天哮丸に関して、わしは七天山の幻狼衆が色々と怪しいと思い、殿に願い出て奴らを探りに来たのだが、わしの予想通りであった。天哮丸はやはり奴らが横から盗んでいた。だが、まさか奴らが北条家の風魔衆だとは思わなかったわ。しかも頭領はあの風魔小太郎の息子。殿に報告したらどうなるかのう。徳川と北条は同盟関係にあり、殿が天哮丸を狙っているのは北条氏政も知っておる。それなのに、殿を出し抜いてこっそり天哮丸を我が物にしようとしておったとは」
半蔵は一転、険しい顔となった。
千蔵は無言で頷き、喜多が答えた。
「しかし、風魔玄介は今のところのらりくらりと北条家を誤魔化しているようですが、玄介ははっきりと北条から自立しようとし、奪った天哮丸も自分の物としてしまいました。結果的には北条は天哮丸を手に入れておりません」
「うむ。だがな。北条氏政が己の野心の為に天哮丸奪取の指示をしたのは事実じゃ。我が殿を裏切ってな。……これは揉めるであろうな」
半蔵は嘆息して夜空を仰いだ。
天哮丸は、世に出ればそれを巡って天下に大乱が起きるとも言われている。
――すでに天哮丸の魔力が世に出てしまっているのか?
喜多はそう憂いた。
その時、千蔵が突然口を開いた。
「半蔵殿。先程助けてくれたことは礼を言うが、勘違いめされるな。天哮丸はあくまで我が主君、城戸家の物だ。決して貴殿の主君や、北条家の物ではない」
千蔵は目に強い光を灯し、半蔵を見据えた。
半蔵は、千蔵を見て困ったような笑みを見せた。
「ふ……そうだな。すまん。わしもそう思っているよ。そして、お主らにも悪いと思っておる」
「え?」
「だが、主君の命は絶対じゃ。天哮丸を奪って来いと言われれば、従うしかない。お主もそうであろう?」
「………」
千蔵は答えなかった。
「では、我らは帰るとするか」
半蔵は配下の者どもを立たせ、皆で出発しようとした。だが千蔵がその背を呼び止めた。
「しばらく」
「何か?」
「あの……某の……両親のことについて……何か教えていただけぬか?」
あの千蔵が少し言いにくそうにしていた。
「知らんのか?」
「父については少しは聞いているが、母については風魔の女であったと言うことぐらいしか知らんのだ」
「ほう……しかし、わしもお主の父は知っておるが、お主と同様、お主の母については風魔の女であったと言うことぐらいしか知らんのだ。すまんな」
「さようか」
千蔵は表情を変えなかったが、目を伏せた。
その顔をじっと見つめた後、半蔵は言った。
「一度、風魔衆のところへ探りに行ってみたらどうだ?」
「風魔へ?」
「うむ。余計なお世話かもしれんがな」
「いえ」
千蔵は首を振った。
「では、流石にそろそろ行かねばならん。敵に向かってこういうことを言うのも何だが、達者でな」
「我らも行く。そちらこそ達者で」
「できれば避けたいことであるが、いずれ戦場で会うた時には刃を交えねばならん。その時は遠慮はいらんぞ」
「もちろん遠慮なぞするつもりはない。全力で参る故、覚悟していただきたい」
「そうか」
半蔵は楽しそうににやりと笑った。
「では」
「さらば」
そして忍びの者達は、真夜中をそれぞれの方角へ駆けて行った。
別れ際、半蔵は振り返り、飛ぶように駆けて行く千蔵の背を目を細めて見つめた。
「ああ……立派になったもんだ。安心しろ三四郎、お前の残した種は、花こそ無いが、沢山の葉をつける立派な木となるぞ」
そして翌日正午過ぎ、城戸に戻った千蔵と喜多は、探ったことを全て礼次郎に報告した。
館の大広間の上段の間で、礼次郎は呻いた。
「そうか、武想郷か。先日、龍之丞や仁井田統十郎が言った通り、やはり天哮丸が本来の力を発揮するべく甦らせるには、その武想郷に行かなければいけないわけだ」
千蔵は無言で頷いた。
「玄介が天哮丸を甦らせてしまったらおしまいだ。その前に取り戻さなければいけない」
「はい」
「しかし、武想郷の場所を示す地図を奪い返されてしまったのは残念だな。奥州に行って直接情報を集めるしかないか」
礼次郎は眉を曇らせたが、
「ご安心を。それには及びません」
「何?」
「地図ならばすでにここに」
千蔵は、右手人差し指で己の頭を指した。
彼は、あの薄暗い書見部屋で最初に地図を広げて凝視した際に、ほとんど正確に頭の中に記憶してしまっていたのである。
一流の忍びのみがなせる業である。
「ははっ、流石は千蔵だ。よし、皆を呼んで来てくれ」
礼次郎は愉快そうに手を叩いた。
しばらくして、大広間に順五郎、壮之介、千蔵、龍之丞、咲、ゆり、喜多、そして茂吉たちも呼ばれた。
礼次郎は、彼らに千蔵と喜多が探って来た情報を伝え、また、自分たちも玄介の野望を食い止め、天哮丸を奪い返すべく、武想郷へ向かう意思を述べた。
それに対し、まず口を開いたのは龍之丞であった。
「お待ちください。それではこの地を守る者がいなくなってしまいます。先日のように、北条や徳川などはいつ襲って来るかもわからないのですぞ」
礼次郎は小さく頷いた。
「そうだ。だから二手に分かれる。武想郷に向かう者達と、ここを守る者達だ」
「二組に」
「うん。そこで龍之丞、お前はここに残って守将として城戸を守ってくれるか? お前ならば安心だ」
「承知いたしました」
龍之丞は快諾し、頭を下げた。
「武想郷は奥州伊達領内だ。兵は連れて行けない。俺達だけの僅かな少人数で向かうことになる。そしてもちろん俺が行く。一緒に行ってもらうのは……」
礼次郎が言いかけたところで、ゆりが色を変えた。
「ちょ、ちょっと待って。礼次郎が自分でその武想郷へ行くの?」
「当たり前だろう」
「駄目よ。あなたの左肩の傷はまだまだなのよ。そんな状態で行けるわけないでしょ」
「そうは言っても俺が行かずにどうするんだよ」
「駄目駄目。だって武想郷へ行ったらその風魔玄介と戦うことになるかもしれないでしょう? って言うかなるでしょ。でもまともに剣を触れないその状態じゃとても戦えないわよ」
「右腕がある。それに戦う力が無くても戦わなきゃならない時がある。今がまさにそれなんだ。俺は行くぞ」
「駄目よ。あなたを治療している医者として許しません!」
ゆりが珍しく声を荒げた。
だが礼次郎は引かない。
「じゃあ、明日までに治してくれ」
「できるわけないでしょ……」
ゆりは呆れて閉口する。
順五郎が大笑いした。
「ゆり様、駄目だよ。この状況で若がうんって言うわけねえよ」
するとゆりは、一瞬の思案の後に礼次郎の目を睨むように見つめた。
「わかりました。じゃあ私も一緒に奥州へ行きます」
「ええ? 駄目だ、危ないだろ!」
今度は礼次郎が声を荒げる。
「何かあってその左肩の傷が酷くなったらどうするのよ? 一生剣を持てなくなるかもしれないわよ?」
「うっ……そうだけど……」
それ以上、礼次郎は反論しなかった。
ゆりが奥州行と決まった。
「じゃあ後は……順五郎」
「おう、俺はもちろん武想郷へ行きたいぜ。一度奥州に行ってみたかったんだ」
「いや、お前はここに残ってくれ」
「ええ?」
「城戸の地理に詳しく、信頼できる者が必要だ。それはお前しかいない」
「そう言うことか。わかった。任せてくれ」
順五郎は胸を張った。
「壮之介は俺と一緒に来てくれ。色々と意見を聞きたいからな」
「願ってもないこと。もちろんお供いたします」
壮之介は丁寧に頭を下げた。
「咲も来てくれるか? 一人でも武芸に通じている人間が欲しい」
「いいわ。ここにいるより奥州に行く方が面白そうだから」
咲は気怠そうな顔に笑みを浮かべた。
「そして千蔵と喜多だが、どちらか一人を奥州へ、もう一人をここに残して行く。ここを守るにもお前たち忍びの者の存在は欠かせないだろう」
「その通りでございます。どちらかがいてくだされば非常に頼りになります」
龍之丞がざんばら髪を揺らした。
「私はできればゆり様をお守りしたいと思っておりますが」
喜多が頭を下げた。
「そうか……じゃあ……」
礼次郎が言いかけたところへ、千蔵が進み出た。
「喜多殿、すまんが俺に行かせてはくれぬか?」
「千蔵……」
「ゆり様はお主に代わり、この俺が命に代えてでも守ってみせる。だから頼む」
千蔵は真剣な目で喜多を見つめた。どこか懇願するようにも見える表情だった。
「しかし……」
「ゆりちゃんなら大丈夫よ、私もついてるから」
咲が横から微笑して言った。
「それ故に心配と言うのもあるのだが……」
喜多は困ったような顔をする。
ゆりが笑った。
「喜多、大丈夫よ。千蔵なら安心でしょ? 礼次郎も壮之介殿もいるし」
「そうですか……では……千蔵、頼んだぞ」
まだ不安を拭いきれない顔だが、喜多は千蔵を振り向いた。
「任せてくれ」
千蔵は大きく頷いた。
「よし、じゃあこれで決まりだ」
礼次郎は手を叩いたが、
「お待ちくだされ」
と、壮之介が進み出た。
「確かに兵は連れて行けませぬが、かと言って我らだけで風魔玄介らを相手にするのは流石に無理があるのでは?」
礼次郎は頷いて、
「奥州は奴らにとっても他国。千蔵の調べでは、奴らもわずかな少人数で向かうらしい」
「しかしそれでも五分五分ではありませぬか。兵法に則れば戦うべきではない状況です」
「大丈夫。考えはある。姉上だ」
礼次郎は静かな声で言った。
「そうか、凜乃様は伊達家の家臣、永谷時房様に嫁いでいる」
順五郎が膝を叩いた。
「そうだ。姉上を通じて伊達家に協力を依頼してみるつもりだ」
「なるほど」
壮之介は大きく頷いた。
「よし。じゃあ俺達奥州へ向かう組は、明日の朝には出発する。今日のうちに準備を整えるぞ」
そして翌朝、礼次郎、壮之介、千蔵、咲、ゆりの五人は、奥州を目指して城戸を出発した。
留守を預かり、城戸を守るのは、龍之丞、順五郎、喜多。そして礼次郎の師匠、葛西清雲斎も残り、力を貸すこととなった。
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