第97話 上杉景勝と直江兼続
礼次郎らは、菊に連れられて春日山城の主殿、大広間に入った。
流石は上杉家である。この大広間は城戸の館はおろか、上田城のそれよりも遥かに広い。
そして正面中央の壁一面に、巨大な龍の絵が豪壮に描かれていた。
先程と同じように、礼次郎はゆりと並んで座り、順五郎ら三人がその後ろに座る。
菊は中央正面の上座の脇に下座を向いて座った。
しばし待っていると、急にバタバタと慌ただしい足音が聞こえて来た。かと思うと、一人の若い長身の男が勢いよく現れた。
そして男は礼次郎の姿を見つけると、いきなり、
「おお! 貴殿がかの城戸家の嫡男、礼次郎殿か!」
と、嬉しそうに礼次郎の前まで来て座り込み、
「家中では知る者は少ないが、わしは城戸家のことを知っているぞ」
「はあ」
「なるほど、これは確かに良き面構え。流石に源氏の名門、城戸家の血脈だけある。しかも美男と来たものだ。ゆり殿も果報者じゃ。しかし何故であろうか?少々生き急いでいるような感じを受けるな」
矢継ぎ早に言葉が飛び出すその喋りに、礼次郎は少し面食らった。
しかし男は尚も言葉を続け、
「後ろの三人はご家臣でござるか?いずれも腕が立ちそうですなぁ。しかし武士に坊主に忍びですか。なかなかの……」
と言ったところで、
「山城! 控えなさい!」
菊の一喝が飛んだ。
「何ですか、名乗りもせずに」
菊は呆れたように言うと、男は頭を掻いて、
「これは失礼。某、素晴らしき御仁に会うとどうも嬉しくて興奮してしまうもので……」
「貴方はそれに関係なくいつもおしゃべりでしょう」
「はっはっはっ、ばれましたか。いやしかしお方様だって……」
「山城!」
菊が再び一喝すると、男は気まずそうに咳払いし、改めて礼次郎に向き直り、
「大変失礼致しました。某、直江山城守兼続と申す」
打って変わり、落ち着いた挨拶をした。
かなりの喋り好きのようであるが、その口から発せられる声と言葉は何故か耳に心地良い。
長身で目鼻立ちの整った、どこか初夏の風のような爽やかさのある快男児である。
この男こそ、後年かの有名な直江状を徳川家康に叩きつけ、関ヶ原開戦の発端を作った男、直江兼続。
この時、若干二十六歳であった。
「城戸礼次郎頼龍と申します、此度は恐れ入ります」
礼次郎も両手をついて正式に挨拶をすると、
「うんうん、良き声じゃ。今はおいくつか?」
「そろそろ十八になります」
「お若いのう。だが先程も言ったが……」
と、再び兼続のお喋りが始まったかと思ったが、兼続は急に口を閉じて真面目な顔になると、上座の下手に移動して座った。
礼次郎も感じ取った。
突然、空気が重く変わったのである。
そして、そんな空気と共に、一人の若い男が入って来て上座中央に座った。
兼続同様に若いが、兼続とは違い、寡黙な雰囲気で威風凛然とした趣がある。
礼次郎にはすぐにわかった。
――ああ、このお方が上杉景勝殿か。
「城戸礼次郎頼龍と申します、この度は拝謁賜り、恐悦至極に存じます」
礼次郎は恭しく挨拶を述べたが、景勝は微笑し、
「そう固くならずともよいであろう」
「は」
そうは言うものの、景勝を前にすると自然と背筋を緩くすることが許されぬような、そんな重々しい威儀がある。
「上杉右近少将景勝と申す。城戸殿、よく参られた。歓迎いたす」
「は、誠にいたみいります」
「ふむ」
景勝は礼次郎の顔をじっと見つめると、
「良き若者じゃ。目の光が強い」
「さようで」
兼続が同調した。
「きっと将来、大業を成すであろうな。さて城戸殿、話を伺おう」
「は、では」
そして、礼次郎は真田信幸よりの書状を渡し、これまでの仔細を話し、勝手な頼みではあるがいくばくかの兵と軍需物資を借りたい旨を話した。
礼次郎が話し終えると、景勝は深く息を吐いて、黙然と虚空の一点を見つめた。
そしてしばしの沈黙の後、景勝が口を開いた。
「徳川家康の所業、誠に許せぬ」
短い言葉ではあるが、その声は激しい怒気を孕んでいた。
「さよう。それにその幻狼衆とか言う連中も卑怯千万。この山城、血が煮えくり返る思い。亡き不識庵様(上杉謙信)が生きておられたら激しくお怒りになるであろう」
兼続も憤った。
「では……」
その反応に、礼次郎は良い返事を期待したが、
「だが、すまぬ。兵は貸せぬ」
景勝が苦渋の顔で言った。
「え?」
「山城」
景勝は、直江兼続に促した。兼続は景勝に代わり、だが言いにくそうに口を開いた。
「今の上杉家は、先代の不識庵謙信様の時代とは違うのです。以前領有していた越中、上野、信濃の領地はすでに無く、越後一国を治めるのみ。しかもその越後も、今は我が上杉家に叛乱を起こした新発田重家が一部を支配しており、完全に治めているとは言い難い。そして我らは今も、その新発田との戦の真っ最中なのです」
「それは聞き及んでおります」
「故に、恥ずかしい話ではあるが、とても他家に兵を貸せるような余裕はござらんのです」
そう言った兼続、そして上杉景勝、共に重苦しい雰囲気で眉間に皺を寄せていた。
「そうですか……致し方ありませぬ」
礼次郎は納得したが、その表情には落胆の色が濃い。
「折角来て頂いたと言うのに、誠に申し訳ござらん」
兼続が頭を下げて謝ると、礼次郎は慌てて、
「そんな。元よりこちらの勝手な頼み事。どうかお気になさらずに」
と言うと、今度は景勝自身が、
「城戸殿、誠にすまぬ。だが、確かに我が上杉家は新発田と戦を続けているが、かつては拮抗していた戦況も、今や我らが押している。新発田討伐まではあと一息と言うところなのだ。もう少しすれば我らにも余裕が出る。さすれば必ずや援助をいたそう。約束する」
礼次郎の目を真っ直ぐに見つめ、はっきりと言った。
景勝のその瞳の色に曇りは無く、先代上杉謙信譲りの仁義と気骨が伺える強い光があった。
礼次郎は微笑み、
「ありがたきお言葉にございます」
「うむ」
景勝も微笑んだが、その笑みにはどこか暗い影がちらつく。
ゆりは、今のやり取りを複雑そうに聞いていたが、
「じゃあ礼次郎、これからどうするの?」
「これから……」
礼次郎は言葉に詰まった。
北条は裏切った。真田も頼れない。そして最期の頼みの綱であったはずの上杉家も頼れないとあれば、もはや他に方法が無い。
徳川が捨てて行った城戸の地は残っているので帰ることはできるが、そこに残った民はわずか十数名。とても国とは言えず、天哮丸を風魔玄介から奪い返すどころか、次にどこかから攻められたら終わりである。
礼次郎が思案していると、兼続が思い出したように景勝に言った。
「殿、関白様に頼んでみるのは如何でしょうか?」
「何? おお、そうか、関白様か」
景勝は思わず膝を叩いた。
「か、関白?」
礼次郎にはなじみの無い言葉である、思わず聞き返した。
だが背後の軍司壮之介は、驚いた顔で、
「関白、それはもしや豊臣秀吉殿では?」
景勝は大きく頷き、
「その通り。織田信長亡き後、今最も天下人に近いお方じゃ。実は、上杉家は今年から豊臣家に臣従しておる。わしも先日お会いしたのだが、関白様はとても気さくで気前の良いお方でな。必ずや城戸殿の力になってくれるであろう。そして関白様であれば、我ら上杉家どころではない大きな助けとなるはず」
「しかし、そのような凄いお方が私如きに力を貸してくれましょうか」
「心配無用。わし直々に紹介状を書こう」
「え? よろしいのですか?」
礼次郎が顔を輝かせた。
「うむ。ただ、わしから関白様に献上したい物があってな、城戸殿を見込んで、それを一緒に届けてもらいたいのだが引き受けてくれるか」
「当然でございます」
「よし。しかし、その物の準備に少々時間がかかりそうなのだ。それまで何日か、この春日山城に滞在し、お待ち頂きたい。」
「承知致しました」
「そうじゃ。夜、城戸殿らを歓迎する宴を催そう」
景勝が思い立って言った。
「え? そんなお構いなく……」
「構わん。折角はるばる越後まで来たのだから当然の事じゃ。用意をさせるのでしばし待ってくれい」
「何だか凄い事になって来たな。関白豊臣秀吉だってよ。会えるのかねえ」
順五郎が興奮した口ぶりで言った。
ここは春日山城の来客用の一室。
景勝が豊臣秀吉に献上する物の準備が整うまで、礼次郎らはここに寝泊まりさせてもらうことになった。
そして今は、夜の宴まで時間があるので、ゆりと喜多も共に、この部屋で時間を潰している。
「豊臣秀吉殿は今や日ノ本一の大勢力。秀吉殿がお味方になってくれるとあらば、幻狼衆どころか徳川家康すら恐るるに足らず! 宿願の城戸家再興も夢ではなくなります」
壮之介も珍しく興奮している。
千蔵も言葉は発していないが、その瞳が心なしか輝いている。
そして礼次郎の顔ももちろん明るい。
しかし、ゆりだけはただ一人、どこか浮かない顔で、
「ねえ。右少将様が献上するって物が用意できたら、礼次郎はすぐに京へ行っちゃうの?」
「もちろん。早く兵を借りて来て七天山を攻めたいからな」
礼次郎がゆりの方を向いた。
「そう……」
ゆりは複雑そうな表情となった。
「そう言えばちゃんと聞いてなかったけど、何で春日山城に?」
「え? えっと……」
ゆりは思わず口ごもった。
ふじの櫛を渡しに来た。
これだけの事で、これが全てなのだが、何故かゆりにはこれが言えなかった。
――この櫛を渡してしまったら、私はもうこの人に会えなくなる……。
ゆりは俯いた。
そして胸元の観音菩薩像を握ると、顔を上げ、ぎこちなく微笑んで言った。
「久しぶりに叔母様に会おうと思って」
「ああ、なるほど。良かったな、会えて」
ゆりの複雑な胸中など思いも至らず、礼次郎は屈託なく笑った。
春日山城内の本丸から程近い場所に、
先代上杉謙信が篤く信仰した、戦の神、毘沙門天を祀っている御堂である。
その頃、上杉景勝はこの毘沙門堂の中にいた。
立ったまま、勇壮な佇まいの毘沙門天像を無言で見つめていた。
「これで良かったのであろうか」
景勝は自問自答するように呟いた。
「現状では最善でございます」
その背へ、後ろにいた兼続が答えた。
「不識庵様であれば如何したであろう。百人でも貸したであろうか?」
「…………」
「だがな、与六」
と、景勝は振り返って兼続を幼名で呼び、
「不識庵様の足元にも及ばぬわしの才ではその百人でも惜しいのじゃ」
「殿は殿、不識庵様は不識庵様でございます」
「わしは、
「不識庵様はあの織田の大軍に勝った程の戦の天才でございます。特別すぎるお方でございます。比べるべきではございませぬ」
「わかっておる。だがそれでも苦しいのだ。わしは不識庵様の跡目を継げる器ではないのではと……」
「殿、それは……」
兼続が言いかけた時、外から小姓の声がした。
「殿、そろそろ宴の用意が整うそうにございます」
「すぐに参る」
と、景勝は答えると、再び毘沙門天像に向き合った。
「不識庵様、どうかこの喜平次に力を……」
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