上田城風雲編

第43話 月と星の夜に

 今宵は本当によく晴れている。

 信州の高い夜空に無数の星々が瞬く中、白い満月が穏やかに輝いていた。


 礼次郎は一人、離れの部屋にいた。

 部屋にある行燈全てを灯し、机の前に座っている。

 その木の机の上にあるのはふじの赤い櫛。


 礼次郎は薄い灯りの中で、その櫛を見つめていた。



 ――これで良かったのだろうか・・・



 礼次郎は櫛に手を触れた。


 螺鈿の部分を指でさする。



 ――それともオレは間違っているのだろうか・・・



 礼次郎は豊かな睫毛を伏せた。


 当初はここまででもなかった。

 無論身を切り裂かれるような悲しみではあったが。


 しかし、短い時間に怒涛の如く様々な出来事が起きて、その悲しみを感じる余裕が無かった。

 だが、上州から信州に入り、徳川の手に落ちぬ心配から多少解放されると、徐々にふじを失った悲しみが心の内で大きくなって来ていた。


 しかも、



 ――ふじを失ったのは自分の浅はかな計のせいだ。



 礼次郎はそう思い込んでいる。


 愛する人が、自分のせいで想いが通じ合ったと同時にいなくなってしまった事実は、彼の心の中で大きな枷となってしまっていた。



 ――ふじ、もうこの空の下にお前はいない・・・オレはどうすればいい?



 礼次郎は机に肘を付き両手を組むと、額をそれへ当てた。


 静かで激しい懊悩が礼次郎の胸をしめつけた。


 そしてしばしの時が過ぎた後、礼次郎はふっと別のことを思った。



 ――そうだ、ゆりにはちゃんと謝っておかないと・・・


 この事情はゆりには関係の無い事。

 むしろ彼女にはいい迷惑だったろう。

 

 礼次郎は顔を上げた。


 しかし少しの迷いが腰を重くさせた。



 ――どうするか・・・



 ――まだ起きてるよな・・・訪ねてもおかしい時間じゃないし・・・今夜のうちに話をする方がいいよな・・・よし!



 礼次郎は意を決して立ち上がった。


 そしてゆりのところへ行こうと障子を開けた。


 だが、


「何だこれは・・・!?」


 障子を開けたそこには二枚並んだ灰色の鉄の板。


 まるで鉄の扉のようであった。


 しかしこちら側に取っ手などはない。


 礼次郎はそれを開けようと隙間に指をかけて左右に引っ張った。

 しかし全く動かない。


 そこで押してみたがやはり動かない。


「おいおい、何だこれ・・・」


 礼次郎は困惑した。


 そして距離を取って助走をし、体当たりをしてみたがやはりびくともしない。


 この部屋で外に通じている入り口はここしかない。あとは三方が壁である。


 礼次郎ははっきりと理解した。


「やられたか・・・!」


 礼次郎は額に汗を浮かべた。


 閉じ込められたのである。


 逃げられないように。



 その時、ゆりもまた一人で自室にいた。


 行燈を灯し、机の前に座り、右手で頬杖をついてぼんやりとした表情。


 机の上には縄が巻かれた黒い玉のような物があり、ゆりは無意識にそれを左手で左右に転がしていた。


 ゆりは手を止めると、溜息を一つついて机に突っ伏した。


「はぁ・・・」


 そして顔を左に向けた。


 彼女の頭の中で、先程聞いた礼次郎の話が残ったまま離れなかった。


 ゆりは、礼次郎の胸中を思った。



 ――想う人が自分の目の前で・・・



 行燈の光がゆりの大きな瞳に映った。



 ――きっと想像もできない辛さだよね・・・



 ゆりは顔を反対側に向けた。


 机の右脇には、開けっ放しの葛篭の中に、ゆりが作った薬やら医術の道具、また火薬等様々な物が入っていた。



 ――もしかしてあの時礼次郎が持ってた赤い櫛はおふじさんの物だったのかな・・・



 ゆりは葛篭の中に入っていた手毬を手に取った。


「ふうっ・・・」



 ――やめよう・・・考えるのは・・・


 

 ゆりは手毬をぽんっと部屋の隅に投げつけた。



 そしてゆりは目を閉じた。



 ――でも・・・何だろう?



 ――胸が変・・・心が・・・何だか穴が開いたような・・・でも何かごちゃごちゃになっているような・・・



 ゆりは目を明けて顔を上げると、机の前の窓の障子を空けた。



 ――・・・何か変・・・何だろうこの気持ち・・・



 窓から外を見上げた。


 星々の輝きが夜空を彩っている。


 そして月は優しい光を下界に降り注いでいた。



 ――さっきは突然のことでびっくりしたのもあったけど・・・怒りすぎちゃったかな・・・


 

 ゆりの脳裏に、礼次郎の顔が浮かんでは消えた。


 真剣な顔、憂いの顔、そして笑顔。



 ――あんな事情があったなんて知らなかったから・・・



 ゆりは夜空を見たまま何か考え込んだ。


 そして、


「謝ろうかな・・・」


 ぽつりと呟いた。


 ――まだ寝てないはずよね・・・だったら早い方がいいわよね・・・


 ゆりは障子を閉めると、


「うん、礼次郎に謝ろう」


 謝りたいだけではない。

 礼次郎とちゃんと話をしたかった。

 色々な話を。


 彼女は部屋を出て、礼次郎のいる離れの屋敷へ向かった。



 ゆりの部屋と礼次郎がいる離れの屋敷は同じ二の丸内。

 しかも距離は近い。


 ゆりはすぐに離れの屋敷までもう数歩、と言う距離まで来た。



 ――でもどうしよう。謝って、それから何を話すの?なんか、おふじさんの話はあまり礼次郎からは聞きたくなくなって来た・・・やっぱりやめようかな・・・



 と、躊躇いから脚を止めると、急に離れの屋敷からドンッ、ドンッと音が聞こえて来た。



 ――え?何・・・?



 ゆりが左手を胸に当てた。


 ドンッ、ドンッ、と言う音が再び聞こえた。


 ゆりが恐る恐る近づくと、入り口であるはずの障子が無く、代わりに二枚の鉄の板が並んであった。


「え、何これ・・・?」


 再び、先程より強いドンッ、と言う音が中から聞こえた。


 ゆりは、


「礼次郎・・・?礼次郎そこにいるの・・・?」


 大きな声で中に呼びかけた。

 すると、


「ゆり・・・殿か!?」


 中から礼次郎の大声が飛んで来た。


「そうよ、どうしたのこれ!?」

「聞きたいのはこっちだ、どうなってるんだ?ちょうどゆりに謝りに行こうと思って外に出ようと障子を開けたらこの鉄の扉があったんだ!」

「ええっ!?」

「どうやっても開かない・・・さっきから体当たりしてるんだがびくともしない!そっちから開けられないか!」


 この二枚の大きな鉄の板は確かに扉になっているようだが、ゆりの側にも取っ手らしき物がなかった。


「ダメ・・・こっちにも取っ手が無いわ」


 ゆりは隙間に指をかけて開こうと力を入れた。

 だが、ゆりの非力では当然の如く微動だにしない。

 ゆりは何か開ける方法は無いかと鉄の扉をくまなく観察したが、全くそのような物は無く、一面ただの鉄の板であった。


 中で、礼次郎は必死に体当たりを続けた。

 だがそんな礼次郎をあざ笑うかの如く、鉄の板は全く動かない。


「くそっ・・・順五郎たちが来てくれれば・・・」


 礼次郎が順五郎と壮之介の一刻も早い帰りを願った、その時。


「ん・・・?」


 礼次郎が何かに気付いて天井を見上げた。


 天井から白い煙が一条入り込んで来ていた。

 そして、見る間にもう一条、また一条と増えて行く。

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