第39話 蕎麦

「どうかした?」


 ゆりが声をかけると、礼次郎は我に返った。


「あ?・・・」


 礼次郎は慌てて櫛を懐にしまった。

 ゆりは礼次郎との間に碗を置きながら、


「綺麗な櫛ね」


 と、言って床几に座った。


「うん・・・」


 どことなく礼次郎は気まずさを感じた。


「女物みたいだけど」


 ゆりが礼次郎の顔を見て言う。


「ああ・・・えーっと・・・この前の城戸での戦の途中で落ちてるのを見つけて・・・造りが良かったから拾っておいたんだ」

「ふーん・・・」


 ゆりは礼次郎の横顔を見つめる。

 礼次郎の表情にはどことなく暗い影が差している。


「あっ、冷めないうちに早く食べないと!これが蕎麦切りよ!」


 ゆりはぱっと表情を変えて木の塗り物の碗と箸を礼次郎に差し出した。

 受け取ると、礼次郎は碗の中身を見て、


「この細長い物は・・・?これがそばきりって言うやつか?」


 好奇の目になった。


 その碗には、温かい汁の中に薄茶色の細長い物が何本も浮いていた。

 いわゆる現代で言うところの蕎麦であるが、この戦国時代、蕎麦と言えば蕎麦粉を練って餅のような塊にし、つゆや醤油などにつけて食べる蕎麦掻が普通であった。

 このような蕎麦切りはこの時代にようやく登場し、一部地域で食べ始められたばかりで、大部分の人にとってはまだとても珍しいものであった。


 ゆりが言った。


「これはね、蕎麦の粉に山芋や海苔とかを混ぜて練って、薄く延ばしてからこういう風に切ったものなの」

「へ~、これで蕎麦なのか」

「美味しいよ、さあ食べてみて」


 ゆりに促され、礼次郎は蕎麦切りの束を箸ですくった。


 ふわっ、と、えも言われぬ香りが立ち上る。

 薄茶色の蕎麦の束に、醤油色の汁が光りながら絡み落ちる。


 礼次郎はそれを口の中に運んだ。


 蕎麦切りの食感が、汁の醤油味を絡めて口の中に広がった。


「美味い!」


 礼次郎は思わず大きな声を出した。


「でしょ!?」


 ゆりは満足そうに言った。そして自分も蕎麦に口をつけた。


「これが蕎麦切りか・・・美味いなぁ、食べやすいし」


 礼次郎は続けざまに二口目を口に運んだ。


 そしてあっと言う間に食べ終えてしまった。


「あー、美味かった。ごちそうさま」


 礼次郎は満足げに碗を置いた。


 少し遅れてゆりも食べ終えた。


「良かった、気に行ってくれて」

「うん、元々蕎麦掻が好きだから。でもこういう食べ方があるとは知らなかった」

「最近流行りはじめたのよ。今度私も作り方教えてもらおう」


 ゆりは声を弾ませた。


「そう言えば、何で薬の作り方とかに詳しいんだ?」


 礼次郎がずっと聞きたかった疑問だった。


「好きだから」

「え?」


「小さい頃に・・・お屋敷に医者がいつもいて。病の人を診て何かやってたり薬を作ったりしてるのが面白くてずっと見てたの。その内自分でもやってみたくなって真似事をしてたら、その医者が色々教えてくれてね、面白くなってどんどん覚えたのよ。ここに来てからもここの医者に色々聞いたりして勉強してたわ」


「へぇ・・・すごいんだな。医術なんて興味だけで覚えらるものじゃない、きっとゆりには才能があったんだな」


「そんな・・・好きなことやってただけよ」


「じゃあ、鉄砲や火薬などは?」


 すると、ゆりは悪戯っぽい笑みを見せ、


「それも医術の興味の延長で、薬が作れるなら火薬だって作れるかもって思って、だったら鉄砲も・・・ってどんどん広がって、しまいには爆薬まで作っちゃった」


「それで作れるのがすごいよ」


「ふふっ、今はね、新しい形の鉄砲を作ってるのよ」


「新しい?それはまたすごいな。どんな?」


「ふふふ、内緒!実はもうできてるんだけどね、まだ最終的な確認や試し撃ちなどができてないの。この前爆薬で蔵の壁吹き飛ばしちゃってから色々とにらまれててね・・・」


 ゆりは楽しそうに言うが、その内容はおよそ十七歳の可憐な美少女の言うことではない。

 知らない人が聞いたらぎょっとするであろう。


 二人のそのやり取りを店の外の物陰からそっと見守っていた者がある。


 男のような装いの、ゆりの護衛役を務めるくノ一の喜多である。


 ――良かった。これなら何も問題は無さそうだ。


 喜多は、安堵して踵を返して歩き始めた。


 喜多は現在二十五歳。甲斐武田家の時代よりゆりの側に仕えており、ゆりがころころと感情が変わりやすく、何をしでかすかわからない性質であることを熟知している。

 なので、ゆりが夫となる礼次郎と初めて二人で出かけるに当たり、何か問題を起こさないかどうか心配になって遠くからそっと見守っていた。

 しかしゆりと礼次郎の二人はどうやら相性が良いらしく、会話も弾んでいる様子、これならうまく行くだろうと、喜多は安心した。


 しかし、一つ気になることがある。


 ――城戸礼次郎様の顔がどことなく晴れやかでないと言うか・・・何か無理に明るく振舞っているような気がする。


 それだけが少し引っかかる。


 ――どうかうまく行って欲しいものだが・・・"今度こそ"本当の家族と居場所を作ってもらいたい・・・


 喜多は瑠璃色の空を見上げ、心の底から願った。


 しばらく歩き、喜多は上田の城下町の外れにある真田家の忍び衆の屋敷に入った。


 白い砂が敷き詰められた庭を通り、縁側から中に入った。

 入ったすぐそこは大広間であり、ちょうど十数人の忍びが集まっていた。

 ここもまた蕎麦の良い香りが立ち込めている。

 彼らは数人ずつで輪になり、くつろぎながら蕎麦掻を食べていた。


 中の一人が喜多に気付いて声をかけた。


「おお、喜多。ちょうど蕎麦掻ができたところだ、お前も食え」

「はい、ですが私はあいにく腹が一杯で」


 喜多は腹をさすって答える。


「いいではないか、大した量ではない、美味いぞ」

「いえ、あまり満腹になってはいざと言う時に動けませぬゆえ」

「そうか、じゃあ無理にとは言わんが」

「すみませぬ」


 そう言って喜多が大広間を抜けて行こうとした時、隅にいた男に目が止まった。


 その男は他の者たちが輪になって賑やかに蕎麦掻を食べている中、一人ぽつねんと隅で蕎麦掻を食べている。


 真田信幸が重用している千蔵であった。

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