終章
砂の丘の向こうに
「うわあ……」
一瞬、真っ白になった視界に、思わずユウキは声を上げる。
この日差し。太陽の明るさには、まだ慣れない。
思わず手を目の上にかざして、薄く目を開ける。そうして足元のおぼつかなさに気づき、冷や汗が噴き出した。
「ここって……」
「都市の外側だよ」
後から出てきたハルが、やはり少しだけ眩しそうにはしているものの、特に感慨も戸惑いも感じられない何気ない口調で注釈する。
「都市の……外側?」
目の前の手すりにしがみついて、ユウキはあたりを見回した。
そこは空に近い、というよりもユウキの感覚からしたら、空の上と言っても良さそうな場所で。ユウキは、手すりに守られてはいるものの、人が一人歩ける程度の幅しかない酷く不安定な鉄の板ようなものの上にいて、その鉄板の下はと言えば、見える限りには転落防止用の装置のひとつも見当たらなかった。
鉄板の通路は、ドーム状の都市の外周をぐるりと回るようにして、左手は下方へ、右手は上方へと伸びている。
足を竦ませながら、ユウキはごくりと音を立てて唾を飲み込み、恐る恐る聞く。
「……これを、降るの? 歩いて?」
「そうだよ」
くらり、と、目が回った。こんなに高い場所は初めてだ。ここを歩いて降りるのか。
そう思うと、ずっと続いていた緊張や散々走り回ったことによる精神的、肉体的疲労が唐突に押し寄せてきて、それにすべてを終えて外へと出てきた安堵と開放感がない交ぜになって、立っていられないほどの脱力感に襲われる。ユウキは思わず手すりにぶら下がったまま、その場にしゃがみ込んでいた。
「なんでこんな場所に非常出口があるんだよ……」
「さあな。設計者の意図は知らないよ。低い場所じゃ埋もれちゃうと思ったんじゃないか?」
「もう少し埋もれてくれれば良かったんだ」
「なんだよ、あとちょっとで帰れるのに。高いところが怖いのか?」
「ハルだって、大丈夫なの? 足、ケガしたんじゃないの?」
思いっきり眉を顰めて訊くユウキに、ハルは両手を広げて軽く口もとだけで笑って見せた。
「大丈夫だよ、このくらい。手は無事だし」
「はあ? ……お願い。おれ疲れたよ、少し休ませてよ」
ハルは呆れたように、軽くため息をついた。
「だから、みんなと一緒に早く出ろって言ったんだ」
「……だれのせいだよ」
おれのほうこそ、ため息をつきたい。
「しょうがないな」
そう言って、ハルは隣に腰を下ろす。
ユウキは通路にペタリと座り込み、空を見上げた。
青く。どこまでも、高く。広い。
大きな鳥が、翼を水平に広げて滑るように頭上を過ぎていった。
初めて外側から見た「地下都市」は、何層もの壁に囲われた、銀色のドーム型の建物だった。巨大な核シェルターらしい。
地下都市。そう思い込んでいたが、この外観からすると、上のほうの階層は地上に出ていただろう。
そう遠くはない場所に、映画や写真で目にし憧れたような青い空はあったのだ。
これを見ていてもやはり、子供たちは二〇六五年の世界に憧れていただろうか。
緑があって、雨が降って、技術の進歩した社会に。
砂の丘を吹き渡ってくる温かい風が、頬を撫でる。
空気が形を持っているかのように、確かな手ごたえで肌に当たる。
動いている。ユウキはそう思った。だれの目にも触れないものも。形のないものも。地球上に存在するありとあらゆるものが、少しずつ動き、形を変えている。時が進むということ。
それは、人の目に見えるほどの変化ではないかもしれないし、時には進化とは言いがたいものもあるかもしれない。
けれども、「退化」というものが有り得るのだとも、ユウキには思えなかった。
そこにいる人間――それらを享受する人間にとって、都合のいいものであってもよくないものであっても。すべてを引っ包め、受容して、前に進むということしかないのだろうと。
「きみを、連れてくるんじゃなかった」
ぽつりと、隣に同じように座り込んでいるハルが呟いた。
「先に降りてていいよ」
「そうじゃなくて」
「……無理やり連れ出そうとしたから?」
「それでもない」
ハルは、砂と空の境界線の辺りに視線を据えたまま。
「じゃあ、なに?」
「きみとおしゃべりをしていたせいで、最後の演奏をちゃんと聴けなかった」
「……」
「だけど、……そうだな。……おかげでまた弾ける。ユウキ、ありがとう」
ユウキはハルへと視線を向ける。ハルはやはり、砂の丘の向こうのあたりに目をやって。その瞳はとても静かで、口もとにはかすかな笑みを浮かべていた。
「……そうだよ。次はハルが弾いてくれればいいよ」
「無理だ」
「なんで?」
「もうあんなに指が動かないし」
「練習すればいいだろ?」
「……そうだなあ」ハルは笑う。「村に子供たちが戻っていろいろ済んだら、おれももう少しピアノに向かえるかな。ユウキ。労働のほうは頼んだよ」
「……」
「ああ、だけど楽譜がない。トキタさんはまったく……楽譜もCDもプレイヤーも捜しておいてくれるって言っていたのに、それっきりだ」
「そういえば」ユウキも身を起こした。「おれも、ほかの曲を捜しておいてもらう約束になっていたんだ!」
「やっぱり、一発殴っておけば良かった」
小さく笑ったハル。ユウキはほんの少しだけ、鼻の奥が熱くなって、口を引き締めて空を仰いだ。
そのまましばしの間、風に吹かれる。
少しばかり気持ちが落ち着いてくると、ユウキは身を起こして、手すりの柵越しに眼下を見下ろした。
視界のずっと先まで、砂の大地が続く。緩やかな勾配を描くその砂の地面を、いくつもの人の群れが、断続的に丘の向こう側まで連なっていた。都市の屋根の下に囲われていた、子供たち。それが、彼らの新しい土地を、生活を、ともに暮らす人を、求めて。
早くも親を見つけられた子が、いるかもしれない。高く青い空に戸惑いの視線を向ける子供も。家族と再会できない子供もいるだろう。生活の変わりようについていけない者だって、もしかしたら。
そう思えば、確実に自分が正しいことをしたのかどうかは分からない。
それでも。強く。
この青い空の下で脈々と続く人間の営みの一画になれるのであれば――。
周囲のすべてを閉ざされ時間の止まった空間で、無為な一生を過ごすよりも良かったのだと、思えるかもしれない。自分が生きていた証拠を、たしかにそこにあったのだという痕跡を、何か、遺すことができるのならば。
風に乗って、ふいに、呼びかけるような声が耳に届く。
延々と続く人の列の向こうから、その流れに逆らって、ひとつの影がこちらに向かってやってくる。
砂を蹴って駆ける馬。それに乗って。
「ルウ? それに、ユリ……」
呆然と目を向けるユウキの横で、ハルが心持ち、苦い顔をした。
「何をしてるんだ、あの二人……」
おーい! と、大声で呼ばわりながら。砂埃を上げて馬は駆けてきた。
見ているうちに、それは眼下で止まり、乗っていた二人はひらりと地に降りてこちらに向かって走ってくる。
鉄の回廊を踏み鳴らし。果敢にも、物凄い勢いで空を渡る通路を駆け上がってやってきた二人。
息を切らす二人の少女を、ハルが苦笑で迎える。
「や……っ、やったよ、……ハア、ハア……あっちの、……地下通路の入り口あたりで……ヤマトの、みんなが、……みんなを、……」
「分かったよ。分かったから、ちょっと落ち着け」
息を切らすルウ。宥めるようにハルは少女の肩を押さえた。
「いたよ。ニーナの娘も。きっと、母親に会える」
だいぶ息が落ち着いてくると、ルウは真面目な顔でハルを見上げて言った。
「みんな、予定通り。そこの――」
言いながら、ルウは視線で、砂と空との境界を示す。
「集合場所で、集まって。これから自分の村に帰る」
「ああ。ご苦労さま」
ハルは目を細めて、伝令にやってきた二人を労った。
「ハルも。ユウキも。お疲れさま」
わずかに呼吸を切らせ、頬を紅潮させながら、ユリも声を掛ける。
「あれ? ハル、ケガしたの?」
ハルはまた決まりの悪そうな顔で額に手をやって、
「ちょっとぶつけただけだよ」
と答えた。
そのまま二人とも、ハルの隣へと座り込んだ。
それにしても、青い、空だった。
ユリが、ハルへと目を向ける。
「ハル、ありがとう。良かった」
「……ん?」
「砂漠に来て。この都市で二〇六五年から来たって信じたまま二〇九九年を繰り返すことにならなくて」
「……強いな」
ハルは笑う。
「そんなことない」
ユリは、首を横に振った。
「みんながいたから。……ねえ、ハル」
真剣な色を瞳に浮かべ、ユリはハルに向き直って、問いかけた。
「どうして、私が本物のスリーパーじゃないって分かったの?」
「どうしてって、どこもかしこも。だいたい、二〇六〇年代で暮らしていてピアノを知らないなんて、有り得ないよ」
ハルは苦笑気味に、肩を竦めた。
「言ってくれてもよかったのに」
「おれが本物だから、きみは違うよって?」
いたずらっぽく、ハルは笑う。
意地悪、とつぶやいて、ユリは口を尖らせた。
ユウキは内心で頷く。そうなんだ、ハルは、本当はとっても意地悪なんだよ。
「じゃあ、もうひとつ教えて。いつ気づいたの?」
「最初から、そうじゃないのは分かったよ」
不思議そうにユリがハルの目を覗き込んだ。
ハルは、ささやかな笑いをその瞳に浮かべる。
「言葉が通じたからね。おれは最初、分からなかった。よく聞いてみれば、むかしのニッポン語とそこまで、通じないほどは違わないんだけど。発音やアクセントやイントネーションがちょっと違ってさ。でも、きみは最初から自然に話してたよ」
ハシバも。砂漠から攫ってきた子供たちの、その既に語っている言葉までは矯正できなかったのだろうか。自分が合わせるほうが早いと思ったのか。
「そう……」
「決め手は、おれの名前」
「ハル?」
「うん――今の発音では……」
ハルはそこで言葉を切って、空のかなたに視線を送る。
トキタだけが、正しく、その本当の名前を呼べたのだろうか――。
「おーい、ハルー、この中へ行ってみようよ」
じっとしていられず探索を開始したらしいルウが、離れた場所から声を掛けた。
渋い顔をして、ハルはそちらへと視線を向ける。
もう中へなんか、行きたくないだろう。破壊して、消した、二〇六〇年代へは。
けれど、ユウキはほんのわずかにそちらに気持ちを残していて。
だって。楽譜も音楽も、そこにあるんだろう?
「ハル。この都市にはピアノが十台や二十台はあるらしいよ」
ユウキの言葉に、ハルは空を見上げて困ったように笑う。
「一台でいいよ。腕が二本しかない」
ふいに。それまで頬を撫でていた心地よい風が、湿ったような肌触りに変わっていることに気づく。
首をめぐらせて、ユウキは周囲を見渡す。
「ハルッ! 大変だ!」
突然ルウが、それまでとは血相を変えて叫ぶ。
「何だ?」
「雲だ! 雲が来るよ」
遠い砂の丘の稜線に、白い雲が湧き上がってきているのが見えた。
「雨が降るよ! 冬がになる!」
もうひとつ、ルウが叫ぶ。
「ああ、これは……忙しくなるぞ」
と、ハルが呟いた。
「ユウキ。休憩はもう少し後だ!」
「えぇーっ?」
立ち上がり、砂の丘の、その先へと視線を向けたハルの髪を、一陣の風が揺らす。
風は、大地を吹き抜け砂を巻き上げながら、丘の上まで駆け上って、空へと舞い上がる。
そこに、なすべきことがあるのだと。ハルの視線を追って、ユウキは立ち上がる。
まだ見たことのない、新しい生活が。世界が。――未来が。
視界の先に。砂の丘の向こうに、広がっていた。
砂の丘を越えて 潮見若真 @shiomi
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