489豚 旅の終わり

「でも……勝者が私を手に入れるって結末は変わらないわけね」


 もはやファナには抵抗する気なんてなかった。煮るなり、焼くなりしてくれ、と。それはファナの年齢からすると、早すぎる諦観だった。

 彼女の波瀾万丈な人生が、年齢に見合わない精神年齢を作り上げていた。


「……元々、誰かを救いたいとか……そんな大それた思いで始まったわけじゃない……。私はただ、あの人たちが王になることが許せなかっただけ」


 闇の大精霊もファナの目からしてもまともじゃなかったけれど……。


 闇の大精霊は、大精霊の一柱らしく、北方の人々を支配し、使役した。

 時には目を輝かせる子供のように、時には正しき道を示す占い師のように、時には万物を知る賢者のように、時には癇癪を起こす痴れ者のように、闇の大精霊は自由だった。


 けれど闇の大精霊には、多くの戦闘民族が争いを繰り返す群雄割拠の時代を終わらせたという功績があった。

 遥かな昔から北の大地で謳われ続ける闇の大精霊の偉大なお伽噺おとぎばなし。それは大陸南方の強国、騎士国家ダリスで謳われる、若きエレノア・ダリスと守護騎士ドルフルーイの英雄録とも比較にならない。


 エレノア・ダリスの物語はありふれた英雄録だが、闇の大精霊は生きた歴史だ。


「あの人たちが……ドストル帝国を支配する……? 大陸を統一する前に……内乱でドストル帝国という国がなくなってるに違いないわ……」


 ――ファナ・ドストルが擁した小獅子の軍勢。

 彼らのシンボルである黄金の獅子一匹と巨大な盾。ファナは闇の大精霊が作り上げたドストル帝国という巨大国家を守ることを理想に掲げた。

 ファナは、闇の大精霊をありのままの姿で解放する、それだけに人生を使い潰すと覚悟を決めた。


「……」


 外では戦闘の音が激しくなり、何かが爆発するたびに壁が揺れた。ファナは床にうずくまり、両手で耳を押さえた。遠くから聞こえるのは誰かの叫び声、金属の音、火の轟き。


 強力な突風がぶつかり合ったのだろうヒューヒューという風切り音が耳を貫き、剣や他の魔法武器がぶつかり合うときの金属音が重なる。

 身体ではなく、ファナの精神は早急なる死を望んでいた。


「誰が争っているのか知らないけど……早く、終わらせて……私は負けた……」


 血塗られた晩餐会、スロウ・デニングが余計な行動を起こさなければ、彼女は望まれる運命を受け入れるはずだった。

 けれど結局、スロウ・デニングはファナを逃しただけに終わり、彼の人生は終わりを迎えた。彼はただ、敗北者であるファナの寿命を僅かに伸ばしたに過ぎないのだ。


「負けた私に何の価値もない……」

 ファナが隠れる民家は、外からの容赦ない攻撃で揺れている。

 石の天井には蜘蛛の巣状に亀裂が走り、衝撃を受けるたびに幅が広がり、深さが増していく。埃と瓦礫が降り注ぎ、ファナを含めたすべてを厚く覆おうとしている。


「……!」


 突然、大きな音がして、天井の大きな塊が崩れ落ちた。 

 空気が押し出されるような、耳をつんざくような音。石が砕け、空気が抜けたような音で、部屋の中は埃と瓦礫で一杯になり、視界が悪くなった。


「……ごほっ、ごほ! うう……」


 ファナは咳き込んで口を覆い、飛び散る破片から身を守ろうとした。

 部屋が閉ざされたように感じられ、最後の崩壊を待つ間、彼女はほとんど息をすることができなかった。天井全体が崩れ落ち、彼女が瓦礫の下敷きになるのは時間の問題だった。


 建物の振動が体を伝わってくるのを感じた。

 まるで自分の身体が持ち上がるのではないかと錯覚するぐらい揺れている。人の頭ほどの大きさの石の塊が頭の上で砕け散り、空中に衝撃を与え、破片が四方八方に飛び散った。


 部屋は埃で一杯になり、目も見えず、息もできない。今にも崩れ落ちそうだ。

 胸の奥にある恐怖は、時間が経つにつれて大きくなり息苦しくなってきた。


 ああ――こういう、終わり方なのね。


 外の戦いは激しさを増しているようだが、ファナにはどうでもよかった。誰と誰が戦っているのすら、興味が湧かない。

 天井はきしみ、うめき声を上げ、その重さにもはや耐えられなさそうだ。

 かつては滑らかで純粋だったのだろう灰色の表面は、今やひび割れ、剥がれ落ちてくる。


 ――どうせ死ぬなら、誰かと一緒がよかったけれど。

 ファナ・ドストルは大勢の仲間の死を看取ってきた。であるならば、最後に残った一人、ファナの最後は一人きりであることが道理だろう。


 ――でも、こういう死に方も、ドストルの王族としては相応しいのかもしれない。

 ――だって……。

 ――泣き顔なんて帝国の獅子として生まれた人間は相応しくない。


 外から、誰かの叫び声が聞こえた。

 

 けれど、そちらに思いを馳せる余裕はファナにはなかった。 

 終わりは、唐突に訪れたからだ。

 低い音が部屋に響き、天井が崩れ落ちた。天井が崩れる音は耳をつんざくようで、さっきまで聞こえていた外の音はすべてかき消されていた。


 崩れ落ちる石の天井は、ファナの目に、混沌とした破壊の象徴として映った。荒削りの石の塊が、埃と瓦礫の滝となって流れ落ちている。

 落ちてくる巨大な瓦礫、その光景は完全な破壊であった。


 確実なる死を前にしても、ファナ・ドストルは不思議と心が落ち着いていた。彼女は死なないと思っていた訳ではない。これで闘争の日々が終わるからだ。

 戦う日々も、逃げ回る日々も、心を擦り減らす毎日に別れを告げることが出来るからだ。

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