プロローグ

 おなかの奥でぱちぱちと泡が弾けるような感触に、少女は笑みを浮かべた。


 昨日から感じる、不思議な感覚。


 これがきっと最初の胎動というものなのね。


 少女はベッドの上で起き上がり、自らのおなかを見下ろした。

 以前平らだったおなかはふくらみが生じている。

 おへそから陰部へと、うっすらとまっすぐ黒い線のようなものが現れてきたし、下腹部の体毛は濃くなった。


 少女は、そ、と下腹部を撫でた。

 一日、一日と成長していく赤ちゃん。

 最初は戸惑ったけど、今は愛しくてたまらない。


 少女はカールした赤い髪を耳にかけた。

 頰と首すじに、大きな吹き出物が目立つ。

 

いまだかつて、肌荒れなんかしたことのなかった少女はこの肌の変化に戸惑った。

 これも、妊娠中のホルモンバランスがもたらしたのだと思う。


 妊娠初期、中期は肌が荒れるけど、後期になると嘘のように今度は肌がきれいになると、誰かが言っていたっけ。

 赤ちゃんのために、身体が隅々まで栄養をゆきわたらせるから。


 また、ぱちぱちというおなかの奥の感触に、少女はくすぐったくなった。


 そのとき、部屋の外から聞こえた足音に、少女は身をこわばらせてドアの方を見た。

 地下室への階段を降りる足音は止まり、カチャリ、と鍵が開く音がしてドアが開かれる。


「……お願いよ」


 少女は、ドアを開けて入ってきた人物に何度目かの懇願をする。


「あたしを、外に出して。お願い」


 ベッドの近くに置いてあるテーブルに、盆にのった食事が置かれた。

 栄養バランスを考えて作られた、野菜がたっぷりのメニュー。肉はササミを使い、脂質を抑えてある。

 貧血気味の少女のために、食事には少量のレバーペーストが添えられていた。


「お願い」


 彼女の言葉には答えず、食事を運んできた人物は体をドアの方に向けると、部屋から出て行った。

 ドアが閉まり、再び鍵がかけられる音がする。


 少女は、唇を噛んだ。


 食べなきゃ。とりあえず。


 悪阻(つわり)は、ようやくマシになってきた。

 赤ちゃんは、これから急に大きく成長する。

 だから、ちゃんと食べなきゃ。


 ベッド上で身を滑らせ、少女はテーブルに近づき、普段のお祈りも忘れて皿の上のチキンサンドに手を伸ばす。

 大きくかぶりついて、少女は咀嚼した。


淡白なチキンを噛み締めながら少女は、目の前の現実を睨みつけた。


 ベッド上に伸ばされた左足首には手錠がかけられ、長めの鎖の先はベッドの脚へと固定されている。


 込み上げてくる感情を、少女は必死でこらえた。


 大丈夫。

 大丈夫。


 ご飯はもらえるし、毛布にくるまっていれば暖かい。

 赤ちゃんも無事で、私も無事。


 それでも、頬を伝う涙が口に入り、チキンサンドの味と共に塩辛さを感じた。


 窓のない、三メートル四方の地下室。

 ベッドの周囲を本棚が取り囲み、本の背表紙たちが少女を無遠慮に見つめていた。


ベッドの足下には、排泄用の蓋付きのバケツ。

時の流れを教えてくれるのは、本棚の上の目覚まし時計だけ。



 少女の戦いは、まだ始まったばかりだった――

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