思い出

 車が止まり、ドーニスはバラが咲く庭の集合住宅前に降り立った。

 元は外国人専用のホテルだったのを、マンションにつくり変えたものだ。

 広く使い勝手が良く、中庭にもバラ庭園があり、ドーニスはこの住処を気に入っていた。


 外庭の柵の上で夕涼みをしていた猫たちが、ドーニスの姿を見て飛び下りた。

 車が去るのと同時に、猫たちはにゃあにゃあと鳴きながらドーニスの足元へとよってくる。

 白猫、ぶち猫、薄茶の猫。

 西部は猫の楽園だ。オデッサで猫の姿が見当たらないところはない。

 猫は女神ネーデの化身とされ、大切にされる。

 オデッサにいる猫たちは、人々から可愛がられ、まるまると太って毛艶のよい猫ばかりだ。

 三匹の猫たちは、やわらかな毛をドーニスの裾をしぼった形の南部風のズボンにすりつけた。

 ドーニスは笑みが浮かびそうになり、思わずその場にしゃがみこもうとした。


「旦那はネーデに好かれてんだねえ。ネーデは気が多いから、ザクトール神の子供も産んだかもしれねえなあ」


 庭先の集合住宅入り口で壁にもたれて座り、煙管を吸っていた一人の老人がドーニスに声をかけた。

 ここに住んでいる老人だが、出身は西部ではなさそうだ。

 以前、彼が前の通りで客相手に占いをしていたのを見たことがあり、おそらく東部出身ではないかとドーニスは思う。

 縦縞シャツワンピースのような服を一枚着た老人の裾からのぞく足首は棒のように細い。夕陽に照らされたその顔は小さく、頬の肉は削げ落ちている。

 北部風の丸く編んだ帽子を被った老人は、煙をくゆらせると黄色い歯を見せて笑った。


「お疲れさん。南部の男にしちゃ、旦那はやさしい人なんだろうねえ。それなら猫も女も近づいてくらあ」


「猫は嫌いだ」


 ドーニスは答えると、足元にまとわりつく猫を足で蹴った。

 悲鳴をあげた猫たちはうらめしげにドーニスを見上げた。


「はは。わしもネーデはいまいち好かんね。身持ちの悪い女はどうもなあ。もとは人間で悪魔のもんだった女だ。ラミレス神が血迷って、さらってこなきゃ神になるはずもない女だろうよ」


 ドーニスは老人の目の前を通り過ぎる。


「知ってるかい。東部でも猫は食べないっていうのは、ありゃウソだ。食ってるやつらがいる。緑の目を持つ一族だ。あいつらときたら、ありゃあなんだって喰うんだ……」


 老人はドーニスに話しかけ続けたが、ドーニスは無視して上の階へと階段を上った。

 途中の階の踊り場で、五才くらいの少年が母親に説教されているのに出くわした。


『悪い下僕は、主人の命令に従う。普通の下僕は、主人が命令する前に働く。良い下僕は、主人が望む前に仕事を終えている』


 キエスタのことわざだ。

 少年は要領の悪いことでも、やらかしたのだろうか。


 こちらに背を向けている母親の後ろを通るときにドーニスは目をやると、少年は下を向き、母親の言葉を反省して聞いているようだった。


 自分の母からも同じ言葉をよく聞いた。

 母が生まれた家は、代々貴人に仕えた小姓の家系だった。


 自分の部屋がある階に上り着くと、隣の部屋に住む中年女が待ち構えていて、今晩家に来て食事はどうか、と笑いながら話しかけてきた。

 これで何回目か。

 彼女には年頃になる娘が一人いる。

 もし自分の娘のことをドーニスが気に入れば、あわよくば……という下心があるのだろう。

 結構、とドーニスはすげなく断ると、自らの部屋へと入った。


 靴を脱ぎ、リビングの窓を開け放つと、洗面所へ直行する。

 頭の白いターバンを外すと、蛇口をひねって水を出し、その下に頭を突っ込む。

 頭から流れ落ちる水に、顔に手をやり洗う。

 水を止めて、顔を上げ前の鏡を見る。


 癖の少ない黒髪、濃い褐色の肌、細面。顔立ちは整っているがあっさりとしている。

 目だけは好戦的で野生的な印象が強い。

 南部の特徴を備えた容貌の男をドーニスは見つめる。

 その男を映した鏡の左端には、ヒビが入っている。


 ……半年前、衝動にかられて香水瓶を投げつけた時にできたヒビだ。

 それからずっと、そのままにしてある。


 ――あの時の自分の感情をなんといってよいのかわからない。


 ゼルダの爆破事件を知った直後だった。


 ドーニスはタオルで頭から顔を拭くと、タオルを首にかけ、ダイニングに向かった。

 冷蔵庫から、ボトルに入った水と夕食の皿を取り出す。

 皿の上には、豆と香辛料とヨーグルトのペースト、香味野菜、平たいパンがのっている。


 自炊はできる。

 幼い頃から、母を手伝った。


 ドーニスはリビングに行くと、絨毯上に腰を下ろした。

 胡座をかき、皿を目の前の床に置く。


 キエスタで独り暮らしをする男は少ない。最近では増えたというが、それは地方からオデッサへ出稼ぎに来たような男たちだろう。

 自分の地位のような男が、独りで暮らすなど滅多にないことだ。


 キエスタの男は家事が出来ない。

 従って、田舎からオデッサに進学にきた学生は寮に入るか、もしくは書生として他人の家に居候をする。


 自分が南部からオデッサの学校へ進学した時、母の生家から声がかかったがドーニスは拒否して寮に入った。

 卒後、オネーギンに仕えた自分にオネーギンは自らの血縁の家を紹介したが、ドーニスはそれを断りこの住処へ来た。


 ……それからしばらくして、母の最初の嫁ぎ先の家からも声がかかった。


 恥知らずが。

 ドーニスは、嫌悪感と共に拒絶した。

 手のひらを返したような態度に、吐き気が起こった。


 窓から、夕暮れの心地よい涼風が入ってきた。

 部屋の窓からは柵越しに黄金色に照る家々の屋根、遥か遠くに浮かぶケダン山脈が見えた。

 夕陽に照らされ、ケダン山脈は赤く光り輝いている。


「……オデッサは、世界で一番美しい都市だと思います」


 ゼルダ語でドーニスは独りごちた。

 一瞬の間の後、ドーニスは口の端を上げてボトルから水を飲んだ。


 最後に彼に会ったときのことを思い出す。


 意外だった。

 まさか、彼があのような会合に出るなど思わなかった。

 たまたまゼルダに滞在していた自分に取り入ろうとした、キエスタ大使館の男に誘われ、ドーニスはすぐ帰るつもりであの集会に出席した。

 いかがわしく汚れた会合に出席する人間とは、どんな人間なのかと興味があったからだ。


 パーティー会場で彼の姿を見つけて、ドーニスは少なからずショックだった。

 グレートルイスのレン=メイヤ=ベーカーなら、まだ分かる。

 だが、まさか彼が。


 彼と話したとき、非難めいた言葉がつい出てしまった。

 去り際にも、失礼な悪態をついてしまった。

 彼があの言葉の意味を知らないといいのだが。


 ドーニスは軽く笑って、ペーストを挟みこんだパンにかぶりついた。


 自分は、人を見る目が無いようだ。もしくは、思い込みが強いのか。

 彼には、自分が見たとおりの男であって欲しかった。


 後日、新聞の一面にのっていた人間離れした美しい女の顔を思い浮かべた。


 彼に幻想を抱いていたようだ。

 彼には、あんな愛人が既にいたようだし。


 突如、わめくような声が階下から聞こえた。


 ドーニスは、何事かと皿を持って立ち上がり、ベランダへ出た。


 声の主は、やはり階下の住人で隣の部屋の真下の住人だった。

 先程ドアの前で会った隣人とは違うもうひとつの隣人の女は、目前のベランダで絨毯を洗っていた。

 流れ落ちる泡が、真下の住人のベランダにしたたり落ちているのだ。

 真下の住人は、悪態をついているが、隣人の女は気にもかけず、絨毯を洗い続けている。


 他の国なら、ありえないと言われる光景だな。


 ドーニスは苦笑して、ベランダの手すりに皿を置いた。

 ゆるやかな微風に吹かれながら、オデッサの街並みを見下ろしつつ、夕食を頬張った。


















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