第72話 父と娘
昨夜、この部屋に到着したシアンとキルケゴールだったが、再会したウーはシアンにはほっとしたような笑顔を見せ、キルケゴールには嫌悪感をあらわにした。
そのあと、部屋にこもって二人は言い争っていた。
内容のほとんどは、隣の部屋にいたシアンには筒抜けだった。
父と娘の親子喧嘩ってこんなものなのかね、と、思いながらソファーに座ってシアンは煙草を吸っていた。
******
「こっちにやって良かった。随分と、見かけも言葉遣いも女らしくなったもんだ。やはり西オルガンの環境はいい」
椅子に腰かけてこっちを見やるキルケゴールを、ウーは立ったままにらみつけた。
「どうして、いつもあなたのいうとおりにしなきゃならないの」
明日着るようにと渡されたドレスを見て、ウーは腹ただしそうに言った。
「あたしは、自分が行きたいとこに行きたいときに行って、したいようにするわ。どうして、指図されなきゃならないの」
「君が私の娘で、私は君の父親だからだ」
「父親なんてどうでもいい。要は、母だわ。どの女王(メヤナ)から産まれたかよ」
声を大きく張り上げたウーを、
「それは、お前がいた密林の中での話だろう」
手を組んで、キルケゴールはウーを面白そうに見上げた。
「外の世界では、父と母は同じ立場なんだ。お前は、もうこの世界にいるんだ。私に従いなさい。セイラムから外の世界の話を聞いていたんだろうに。なら聞くが、なぜセイラムはお前をよこした。なぜお前は、それに従ったんだね」
「……」
無言でキルケゴールを見下ろすウーに、キルケゴールは軽く笑った。
「まあ、キースを逃がすためだったのだから、仕方ないといえば仕方ないだろうが」
「……彼を、どうしたの」
ウーが、つぶやいた。
最後に、彼といたのはこの男だ。
だがいくら聞いても、彼はただキースが姿を消したというだけだ。
「彼をどこにやったの」
「……私もそれが知りたくてたまらないが」
キルケゴールは苦笑して答えた。
「彼のことは忘れなさい」
目の前の男は悠然と微笑んで言う。
「真実はどうであれ、これから彼はこの国での重罪犯罪人扱いだ。彼を追うとろくなことにはならない」
ウーは、キルケゴールの真っ青な瞳を見つめた。
「あたしをこの国から出して」
キルケゴールは、目で笑った。
「なにも、ずっとここに閉じ込めておこうというわけじゃない。ただ、今しばらくはこの国に居てほしいと思ってるだけだ。君は、今までまともな教育もうけず密林で暮らしていたんだ。心配するのは当然だろう? 君に常識が身に着いたら、そのときはどこへでも旅行に連れて行ってあげるから」
この男の本意がわからない。
あたしを、どうしようとしているのか。
「私の、保護下にいなさい。君みたいな美女は心配だ。悪いようにはしない。今だって、ある程度自由にさせているだろう?」
キルケゴールは優しげな声を出す。
密林の中にいた時、母の話を聞いて、広い世界を見たいと心の奥底にひそかな願望が生まれた。
あまりにも幸せそうにこの男との思い出を語る母セイラムを、下女(クアン)だった自分は嫉妬した。
父親はどういう男なのだろうかと憧れをもったこともある。
まさか、ニャム族をはなれることになろうとは思わなかった。
でも、キースが現れて、彼と逃げて、外の世界を知って。
自分の父親はキースのような男だと、勝手に思っていた。
それがこんな男だったなんて。
「君は、しばらくはこの国を出られない。その間は、ここで居心地良く過ごすことを考えなさい」
キルケゴールは、机の上に小さな香水瓶を置いた。
「これも、私からのプレゼントだ。私の好きな香りでね。君にもつけてもらいたいが……それは君の自由だな」
彼は、椅子から立ち上がる。
「明日のパーティーも、君の気晴らしになるかと思ったんだ。君を外の世界が、華々しくむかえてくれるいい機会だと思ったんだがね」
彼は、部屋を出て行った。
ウーは彼が去った後、机の小瓶に目を移す。
瓶を手に取り、蓋をゆるめた瞬間、鼻に流れてくる芳香に気付いた。
病室で会った、紅毛の女性がつけていたのと同じ香り。
次の瞬間、頭の奥から呼び起されるような強い記憶に目を見開いた。
母の、においだ。
シャン・セイラムは、特有の体臭を持っていた。
花のような、かぐわしい、うっとりとするようなにおいを。
自分は、母の膝に頭をのせて、存分に味わったものだ。
……腹が立つ。
なんだか、無性に腹が立つ。
どうして、母はあんな男を……。
キルケゴールが、部屋を出て行ってからしばらくして、何かが割れるような音がしたのにシアンは気づきソファーから立ち上がる。
軽くノックして、シアンはウーがいる部屋のドアを開けた。
「どうした、ウー。グラスでも、割っちゃった……」
と、声をかけたシアンは割れたのがとんでもないものだと気づいて目を見開いた。
「うわ、ばっか……ちょっとちょっと、おにーさんホテルの人呼んでー!……どうすんの、ウー、ホテルの人怒っちゃうよ」
あわてて部屋に入ると、すでに部屋中がその濃厚な香りに満たされていた。
「うわあ、オレ、このにおい苦手なんだよ。勘弁」
鼻をおさえながら悲鳴気味に言うシアンは、微動だにせず立っているウーを見て気づく。
「どうしたの、ウー」
「……香りが、鼻にくる」
すん、と鼻を鳴らして、ウーは目じりを手のひらで軽く拭った。
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