第69話 記憶
『行くなよ』
ドミトリーの一室で、椅子に座った彼が自分の前でつぶやく。
『……お前は、舞台とかあっちに才能があると思う。そっち行けよ。とりあえず、あの仕事は向いてない』
明日には、歓楽街(パラダイス)行きが決まっている自分に、彼は自分の顔を見つめてそう言った。
『え、今更?』
あきれた声をあげる自分に、彼は視線を下へ落とす。
『いや、そういう人もいるけどさあ、セクハラ酷いっていうよ? 特に仕事と引き換えに、要求されたりとかさあ、よく話に聞くけど。それだったら、ちゃんと料金払ってもらう方が、マシじゃねえ?』
自分の言葉に彼はもう一度顔を上げて、怒ったように自分を見た。
『行くな』
言って彼は、顔をそらすと立ち上がった。
彼自身のベッドに潜り込み、こちらに背を向けて沈黙する彼を、自分はあっけにとられて見る。
『え、お前、もしかして泣いてんの?』
彼の微かな気配に気付き、驚いて声を上げた。
彼の涙腺がかなりゆるいことは、長年の付き合いで知っている。
彼は向こうを向いたまま答えない。
目を見張って自分は、椅子に座っている身体を硬直させた――。
夢だとわかっている。
早く覚めたいと思うのに、なかなか覚めてくれない。
――次には、歓楽街(パラダイス)の初仕事の夜に移る。
店の席に座る男たちの中で、ハンチング帽を被った労働者の一人に目を留めた。
黄色に染めた髪が、必死に若作りしてるように見えて微笑ましかった。
目が合った彼は、自分に向かって優しく微笑んだ。
さめるような青い瞳と、微笑む唇の上の口髭が柔らかそうで、思わず彼を選んでしまった――。
――終わったとき、彼に背を向けて部屋の壁をひたすら見つめていた。
自分の目から、なぜか涙がこぼれているのに気付いた。
昨夜の彼と自分は同じだと、思った。
後ろの彼が、自分の髪を優しく撫でた。
首すじに唇をはわせ、彼は耳もとでささやいた。
『私ではない、誰かが良かったんじゃないのかね』
――やっと、覚めた。
……胸くそ悪い夢を見てしまった。
シアンはうつ伏せの姿勢から起き上がると、乱れた髪をぐしゃぐしゃとかいた。
サイドテーブル上の、昨夜の氷が解けたグラスの水を飲む。
隣りの箱から煙草を出してくわえ、火を付ける。
ベッドの背もたれにもたれて煙を吐くと、シアンは膝を抱えて顎をのせた。
だからあの時、あいつを頂いちまえば良かったんじゃないのか。
歓楽街(パラダイス)前夜、向こうを向いたままのキースに、シアンは身動き出来なかった。どうしたらいいか分からず、心臓がばくばくして、しばらく椅子に張り付いたままだった。
やべえ、どうしよう、と、とりあえず自分のベッドに潜って彼に背を向けたが、彼の泣き止まない気配にその晩は一睡も出来なかった。
朝が来て、ドミトリーの皆と別れを告げるときも、彼は部屋から出て来なかった。
今なら、どうするだろう。
……あの時、彼としただろうか。
想像して、シアンは首を振る。
いやいやいや、それはないだろう。
気持ちわりい。
じゃあ、この気持ちをどう解せばいいのか。
ウーに嫉妬心なんてない。
ウーとの関係を知って、おー、やっとこいつも開眼しやがったか、と微笑ましく思ったぐらいだ。
何て言ったらいいのか……。
そう。……出来の良い、愛おしすぎる弟を持った、姉の気持ち。
よし、これだな。
シアンは結論づけた。
だが、この胸のモヤモヤ感はどうしたらいいのだろう。
……おっさんに相手してもらっても、消えるわけじゃねえし。
と、シアンはちょうどシャワーを浴びて出てきたキルケゴールを見やる。
「起きてたのかね、シアン」
にっこり、とバスローブ姿の彼は笑顔を向けた。
「夢、みました」
シアンは、寝起きのぼんやりとした声で答える。
「……あなたと、最初の夜」
次の瞬間、向かってきた彼の額を片足で蹴って、シアンは阻止する。
「来ると思ったぜ。おっさんよ。もう朝だから。時間外勤務はしねえ」
額からシアンの足を外し、足の甲に口付けながらキルケゴールは言う。
「相変わらず、朝はつれないな。君は。夜はとんでもなく可愛いのに」
「仕事ですから。するなら、延長料金払ってくださいね」
彼から足を振り払うと、シアンはベッドに横向きに寝転んだ。
「ウーは、どうですか。元気にしてます?」
「元気だよ」
キルケゴールも煙草をくわえて、シアンの隣に寝転んだ。
「相変わらず、口も聞いてくれない。君と同じで、つれない娘だ」
キルケゴールの退院後、歓楽街から彼の自宅に近い家にウーは移った。
「そりゃ、怒るでしょ。閉じ込められたら」
シアンは言う。
「じきに、西オルガンに移すよ。あっちはまだ開放的だからね。ウーも気軽に外出できる」
キルケゴールは答えた。
「……キースの行方は。手がかりもつかめないんですか」
「そうだね。国の連中と、ウチの局の者が捜査してるけど、全くつかめない」
キルケゴールは火を点ける。
無言のシアンに、キルケゴールは続けた。
「私だって彼の無実を信じたいが、状況がこうそろっていてはね。下手に彼を弁護すると、私の立場も危うくなる。申し訳ないが」
「ええ、分かってます」
キースがはめられたことは間違いない。
その相手が、誰なのか、だ。
隣の彼も含めて。
「ウーは、キースに執着しているようでね。困ったもんだ」
「それが面白くないんですか」
シアンの言葉に、キルケゴールは憤慨したようにこっちを見て言った。
「だって、彼は娘と何度も寝たんだよ。しかも、興味で。ひどすぎるだろう」
「今更、父親ヅラですか。何年も放ってたくせして」
あきれて、シアンはつぶやく。
興味だけではなかったと思うが。
「早く、キースを忘れるのを祈るよ。キースより、いい男に会わせてやる」
「どうですかね」
シアンは煙草を指で挟み、肘をついて顔を支えた。
「最初の相手ってのは、なかなか、特別なんじゃないですか」
「……シアン」
肩を抱き寄せて顔を近づけようとするキルケゴールの顔を、シアンは肘で阻止する。
「だから、もうしねーって言ってんだろ。しつけーな、おっさんよ。ちなみに、今の話は、オレとおっさんには当てはまんないから」
しょげたような顔で、キルケゴールはベッドから出て立ち上がった。
「ああ、そうだ。来月末一週間は、あけておいてくれないか」
シャツに腕を通しながら、キルケゴールが言った。
「は、何で? オレをまとめ買いでもすんの?」
「そうだね。そんなもんだ」
キルケゴールは、鏡を見ながら髪を整える。
「君を、西オルガンに連れて行く」
シアンは、あんぐりと口を開けた。
西オルガン、来月末といやあ……。
「……おっさん、それ、冗談抜きで?」
「もちろん、一週間、君を借りるお金も払うよ。いろいろ、準備するものもあるだろうし、私にその都度言ってくれればいい」
キルケゴールは、シアンを振り返って笑った。
「各国に、君の美しさをひけらかしたい。存分に、着飾って欲しいね」
シアンは、あいた口がふさがらなかった。
「……はい」
しばらくして、そう答えるのがやっとだった。
そんなシアンが可愛くそそられたのか、キルケゴールはベッド上に座り込んでいるシアンに近付くと、頬に口付けた。
「じゃあ、初出陣、よろしく頼むよ。カチューシャ市国のアルケミストも呼ぼう」
上着を羽織り、彼は部屋を出て行く。
しばし、呆然とシアンは空を見つめたままだった。
夢の第一歩。
それを手に入れた。
次の瞬間、シアンは拳を突き上げて叫んだ。
「……よっしゃああ! 目指せ、カチューシャ市国移住権!」
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