『終章』
オーバー・ザ・レインボウ
第16話/1 二月。思い出の空の中にて。
学校の帰り道。傘を忘れた彼女を仕方なく入れて歩いていた。
雨の日は嫌いではないけれど、少し冷える。それでも隣は随分とご機嫌で、服を通して触れ合う腕が、あたたかかった。
雨は結局、十分足らずで上がり始め、差してきた光を見ながら少女は言う。
『虹の終わりにはねぇ、宝物があるんだよ、 』
そう、と頷いておく。雨は上がってしまった。
『いつか、行ってみようねっ』
その笑顔が眩しくて、空に目を逸らすと、なるほど。
歩いて渡ることができそうなほど、綺麗な虹が浮かんでいた。
『うん、いつか』
雨上がりの夏の放課後。
僕らはそれでも傘を開いたまま、歩き慣れた道を進んだ。
/その一週間前。
はぁ。と何度目かの溜息が漏れた。
部屋は入り口を除いて全面ガラス張り。270度ほどが青一色である。
さぞ壮観な見晴らしだろうが、しかし室内は人工物で溢れている。まるで水族館の巨大水槽に入っているのが電子機材。そんなアンバランスさ。
無意味にボリュームコントロールバーの数々を上げては下げて、彼はもう一度、大きな溜息をついた。スタッフが入れてくれた、アルミのマグカップに入った紅茶もそろそろ
ヘッドフォンを首にかけ、思い切り紫煙を天井に吹いた。灰皿も吸殻で一杯で不満そうだ。……おかしいな、愛煙家であったのはもう何年も昔の話で、今は立派に愛妻家になっているはずなのに。
しばし、男は過去の情熱に浸る。こう言ってしまうと、自分が歳を取ったのを痛感せざるを得ないのだが――ぼやかずにはいられなかった。
「昔は良かったよなぁ……」
クソ、と毒づく。やはり歳を取ったなぁと思った。けれど思い出す。思い出さずにはいられまい。
春先の、暖かくもまだ冷たさを残した風を。
それすら心地良いと笑う、彼らの熱を。
喉を涸らして叫ぶ現状を。
本能でセレクトするディスク。身体が伝えるチューニング。
質が悪くなった、などとは誰も思わない。
けれど、いや。だからこそ。あの頃が忘れられない。
――洗練されていくにつれて、あの当時が如何に神話めいて輝いたのかが判ってくる。過去を美化してしまうのは人間の性分だが、飾り立てた思い出すら、あの頃の
それでも、今も僅かな熱を帯びる幸福な事もあった。
けたたましく叫ぶだけの――実際は頭も体力も使う――仕事だが、ここ最近はいかんせんリスキーなものになってきたし。
『いってらっしゃい』という送りの言葉が二つに増えた。そんな些細な幸せは家庭の事情。
冷めかけの紅茶を飲む。一枚のプリントを見て、ああ……それでもこの
<クリムゾンスノウ>
「……愛してるよ、マリアちゃん。エルも」
まさか自分たち運営を賞金首扱いして捕まえるのが目的ではないだろう。現在の賞金稼ぎのトップたちは――先駆者がそうであったように、その身に逆に賞金がかかっても驚愕と納得を同時に生産してしまうような、強いて言えば劇場型賞金稼ぎだ。
彼等はつまり、スタンスを崩さない。
【赤】の称号をチーム名の先に付けていないことから、今回はカラーズとしてではなくライダーとしての参戦の意気込みが伝わってくる。
「……今年でケリ、なぁ。オレの引退にもぴったりだ」
実のところ、エルが擁するチームが優勝争いをしたのは二回だけ。残りは……それこそ伝説の前に霞んでしまったのだが。
「若さか。若さなのか。……思えばオレも歳を取ったもんだ」
きっと彼らはもう来ないのだろう。
若さと才能と努力。いや、二十一世紀は半分も経っていないのに早くも今世紀最大とはよく言ったもんだ。
けれどそれも流行り廃りの中の話。多くのFP賞金首を生んだきっかけになった少年少女たちはもう居ない。
ある者は空を降り、またある者は死んでしまった。
――黙祷にも似た沈黙を一分程。
やはり今回が最後だろう。ならばこそ、一切の不満や未練なく、自分の仕事をしよう。きっと出場者達はそれに恥じない熱い闘争をしてくれるだろうから。
「あぁでも<IRIS>が引退したのはほんと悔やまれるよなぁ……」
ホッチキス留めされたプリントの二枚目をめくる。
「マシィさん。こっちのチェック終わってるっすよ……ってなんすかその蛍光灯切れかけの部屋みたいな微妙な暗さ」
「……うっさいなあ。一喜一憂してるの。FPの黄金期に想いを馳せてただけ。FP好きなら誰でもなるんだよ、これ」
「はぁ、玉石混交的な? あの頃は良かったみたいな? 『あー俺も十歳までは入れたのか女風呂に! アーッ戻りてえーそんな頃に!』みたいな? 空を飛ぶことに興味もなければFPライダーにもあんま興味ないんでわかんないっすけどオレ」
「ADくん、キミを買った理由はその類い稀なる技術あってこそだけどさぁ……いや雇っといてなんだけどさあ……空に興味ないのにこの仕事選んだの? なんで?」
「えーソレ言うんだあー。いやほら、給金良いし……」
「世知辛いなあ」
「マジで。ま、ほらアレです。興味なくても特等席じゃないすか、ココ」
「ますますわかんない。これアーティストのライブだったらぶっ殺される発言してるよね。なに、見たいライダーでもいるの?」
「そうそれ。知人ってやつですよ。仲良くしてます。だから授業参観的な」
「ハァン? OK、まぁいいや。誰?」
「えーっと、ほらこの名前――って結構たくさん出るんすねえ」
二人して二枚目のプリントにお行儀良く並ぶ名前を見る……これなら問題あるまい。まだこの大会の勝利に意味があると信じている一流たちが揃っている。
一字一句読み間違わないように、チームとメンバーの名前を読み取っては口と頭の中で転がしていく。まるでワインを含み、その産地や年代を調べるような丹念さ。
それが、不覚にも止まってしまう。
「Hoooow……!」
「その芸古くないっすか」
「興奮してきてんだよ言わせんな!」
気だるげにツマミを上下させていた指が次第にリズム良くチューニングを始める。
もう片方の手が精密な動作で選曲を開始。貧乏揺すりみたいにだらしなく動いていた足は、ドラムのバスを叩くような力強さ。
「あーあーあー! 良いじゃねぇか良いじゃねぇの! オレぁ……オレ達ぁ四年も待ったぜ愛すべき馬鹿野郎ども!!」
【チーム<WonderLAND>】
【チーム<OZ>】
最後の二行は、その二つのチームが彩っていた。
鼓動がギアを上げてきたところで内線。乱暴な手で受話器を取った。
「アロー!? せっかくノッて来たとこなんだよどうしたぁ!?」
『ヒッ! テンションが実況モードになってる!? じゃなくてせんぱ、じゃなかったマシィさん! やっばいですやっばい! いま【赤】の方々から連絡が入ったんですけど――』
「ハァ!? マジかそりゃあ! いや今年はいよいよもってとんでもねぇなぁ!!」
「……ハンドル握るとキャラ変わる設定に懐疑的だったけど、マジでこういう人種いるんだなぁ……」
/そして現在。
『Yeaaaaah! 聞いてるか空飛ぶピーターパンシンドローム共! 今年も最後まで手前ら馬鹿野郎どもに付いてくお馴染み、DJマシィだ! ここでHOTなニュースをプレゼントするぜッ!!』
十台以上はあろうかというモニタが遥か下の地上――休憩中の選手たちを映し出す。
『実はなぁ! ……先日、うちのベイビーがめでたく二歳の誕生日を迎えてってゥオイイイイイ! ジョークだジョーク! そんな死んだ目で世間話に戻るなよ!? こっちゃモニタで全部見えてんだぜぇ!? オーライベイビー。今日はなんとビッグなゲストが文字通り人海戦術で押し寄せてきやがった! おかげでこっち放送スタッフもどっこも放送させてくれないからネット上で見事に電波ジャックさ! 良いか、ライダーズ! 今日は! 手前らの憧れの! 全世界の敵の! ミリオンダラー2チーム! ご存知【OZ】と【WonderLAND】が参戦だぁぁぁぁ!! ……おお? エルもマリアちゃんも笑ったな? 笑ったよな!? YES! YES! YES! 今回もヒートアップしそうじゃねぇか!! だけど実はもっとクレイジーな事態に遭遇寸前なんだなぁこりゃあ! なんと! この事態を察知しやがったアメリカ主力の世界警察がパトカー白バイ戦闘ヘリに加えてカラーズまで動員して押し寄せるって情報が入った! ヘタすりゃ引退&即ブタ箱なんて笑っちまうこの状況!! 笑えよエア・ジャンキーズ!! オレは逃げも隠れもしねぇぜ!! もちろんミリオンダラーもそうだろう!!』
息を思い切り吸う。
『大蛇の王冠も! 逃げやしねぇ! ハエみてぇに! 鳥みてぇに! ドラゴンみてぇに! 奪いに来やがれライダーズ! 定時にスタートすんぜ! アップは済ませたか!? 今のうちにトイレ行っとけよぉ!』
『スネイクス・リトルクラウン
――二十一世紀。携帯電話はすっぽり手に納まるサイズから小型化せず、代わりに電話である事の意味が危ぶまれる程の機能を詰め込み始めたこの時代の代表、その全てが今日、この場所に集った。
専業賞金稼ぎ【カラーズ】――その頂点である『色つき』。
賞金首のトップ。八つの席に座る劇場型犯罪者【ミリオンダラー】。
そして、地を歩く人間でありながら、空を飛ぶことに魅せられた
当然ながら、主役は――世界中を大いに沸かせた彼らにおいて他ならない。
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