第7話 募る思い

健作は時計に目をやると午前4時30分だった。

もう一寝入りしようとベッドに横になると、再び眠りに落ちていった。


羽毛布団のような柔らかな優しさに包まれて、心地よい眠りが続いた。

やがて、意識の奥底で誰かが呼んでいる。

「健作さん! ・・・健作さん!」

呼びかけに続いて泰山木の香りが漂ってくると、

「ん、なに智子さん・・・・」といいながら、ベッドの上に起き上がった。


心地よい眠りに、3週間に及んだ野営生活の疲れもすっかりとれていた。


「なんだ、夢だったのか。」

健作はベッドから降り立つと、窓際に歩み寄った。

窓から外を眺めると、瀬戸内海が綺麗に見えているが、遠くは靄がかかっている。

昨夜のことを思い返すと、ブランデーを飲み始めたところまでは覚えていたが、あとは智子の笑顔しか思い浮かばない。


時計を見ると9時30分。

その頃智子は、仙遊寺の本堂で手を合わせていた。


もうホテルの朝食は間に合わない。

そこで、シャワーを浴びて身支度を整えると、ロビーに下りていってチェックアウトした。


友人たちとの昼食会の待ち合わせの時間には少し余裕があったので、荷物を車の助手席に放り出すと徒歩で今治城へと向かった。


地図を見ると、城内には神社があるが、なんとこのお城は神社の持ち物だという。


質素な中にも力強さを感じさせる素敵なお城だ。

現在の天守閣は、1980年(昭和55年)に鉄筋コンクリート造で再建された。

お堀の水は、海から海水が導かれている。


お城の中を散策して車にもどると、今治の友人たちとの待ち合わせの時間が迫っていた。

「よし、朝食を抜いたから、おなかはペコペコだ。

美味いものを食べに行くぞ!!」


車をスタートさせると、待ち合わせの場所へと急いだ。



「今日も一日お疲れ様。」

智子は、みんなに声をかけてボーディングブリッジへと足を踏み出した。


智子の後を、後輩たちがひそひそ話しをしながら続いて歩いていく。

「ね、智子先輩、先日の松山のフライトから、なんか変わったような気がしない?」

「えっ、どんな風に?」

「う~ん、美しさに磨きがかかったっていうか・・・ そう、輝いているっていう感じかな。」

「うんうん、そうだね、華やかさが増したって感じがするね。」


智子は後ろを振り返ると、

「えっ、何か言った!?」

と聞いてきた。

「えっ、あっ、いや何でもありません。」


報告を済ませると、京浜急行に飛び乗って空港を後にした。

智子は、京急沿線の横浜市内に住んでいる。

改札を出ると駅前のスーパーに入った。

「今日の晩御飯は何にしようかなぁ・・・」

ぶらぶら店内を歩くが、食べたいものが思い浮かばない。

惣菜売り場で足を止めると

「なんか疲れちゃったから、お鮨でも買って帰ろうかな。」

鮨のパックをかごに入れると、お酒の並んでいる棚に向かった。


お酒の冷蔵ショーケースの前でふと立ち止まると、緑鮮やかなビンが目に飛び込んできた。

ねずみをモチーフにしたようなかわいらしい文字で「ねね」と書かれている。

「よし、今晩はこれにしよう。」

発泡純米酒ねねをかごに入れて精算を済ませると、家路を急いだ。


駅前ロータリーを出てやや急な坂を上っていくと、小高い丘の上に智子のすむマンションは建っている。


入り口で手をかざすと、入り口のガラスドアが開いた。

エレベーターに乗り込んで最上階のボタンを押すと、エレベーターは音も無く静かに動き出す。


エレベーターの扉が開いて、廊下を歩いていくと、日中の暑さとは裏腹に、さわやかな風がほほをなでる。

智子は部屋の前まで来ると、「ふー」と大きく息を吐き出した。

ハンドバックの中から鍵を出すと、扉を開けて真っ暗な中に一歩足を踏み入れた。

日中の暑さがむっとするほどこもっている。

電気を点けてクーラーのスイッチを入れると、バスルームに行き、お風呂のスイッチを入れた。


荷物を片付けていると、程なくしてお風呂が沸いた。


暖かいお湯にゆっくり浸かると、一日の疲れが抜けていく。

軽く湯船の中でストレッチをして、身体をほぐすと、お風呂からあがった。


バスローブを纏うと先ほど買ってきた鮨と日本酒を冷蔵庫から出してリビングの机の上に並べる。

部屋の照明を落とすと、窓から街の夜景が浮かび上がった。 家々の瞬く灯りの先には漆黒の闇が広がり、蛍の灯りのように点々と船の停泊灯が瞬いている。


立ち上がってオーディオ装置の前に行き真空管アンプのスイッチを入れると、ほのかなオレンジ色の明りがともる。

数十秒たって、真空管が温まると、FM放送がスピーカーから流れ出した。


ジャズが聴きたくてCDを選んでいると、ラジオから懐かしい曲が流れ出した。

思わず手を止めると、目を閉じて聞き入った。


大橋純子のシルエットロマンス


いつしか智子は、一筋の涙を流しながら一緒に口ずさんでいた。


リビングの床に座り込むと、目の前の鮨をつまむでもなく日本酒をワイングラスに注いで飲みはじめた。


窓の外に広がる闇には、機内で初めて健作を見かけたときのこと、熱海でのこと、今治でのこと、今まで廻った四国のお寺さんのことなどが、走馬灯のように映し出されて行った。


どれくらい時間か経っただろう。

やがて、机の上に放り出したままのスマホが、メールの着信を知らせる光を点滅させていることに気がついた。


「誰からだろう・・・」

智子はスマホを手に取ると、メールを開いた。


智子さん

こんばんは、健作です。

先日は今治で大変失礼しました。


どうも僕は居眠りしてしまったようですね。

本当にごめんなさい。

この埋め合わせに、お食事でもご馳走させていただけませんか。


八十八箇所巡りの様子など、ぜひお聞かせください。


そうそう、次のクラシックカーのイベントの出番が決まりました。

11月の横浜赤レンガ倉庫前で開かれる横浜ヒストリックカーデー

に参加します。


まだちょっと先ですが、もしお仕事のご都合がつけば、お越しください。その時にお時間があればご一緒にお食事でもいかがですか。

また、お会いできる日を楽しみにしています。


メールは健作からだった。


今までの重苦しい空気が一気に吹き飛ぶのを感じると、智子はスマホのスケジュールのアプリを開いた。

日程を確認すると、11月のその日はフライトの予定が入っている。

「う~ん、その日はお仕事が入ってる。

・・・でもまだ一ヶ月以上先のことだから、何とかしてみよう。」


スピーカーからはMilt Jackson Quartetの軽やかなリズムが流れ出していた。

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