第16話 群 青

外に出ると、太陽は西に傾いて昼間の暑さは多少おさまり、海を渡ってくる風は心地良い潮の香りを運んでくる。

健作は両手を上げて大きく深呼吸した。

典子は立ち止まると「健作さん、お疲れ様でした。Samさんはなんかにんじんのマスターに似て、懐の深さを感じさせてくれる素敵な方でしたね。」と言った。

「うん、僕もそう思ったよ。何よりビヤダルのような体形もそっくりだしね。」と健作が言うと、二人は微笑んだ。

「なんか俺、とってもやる気が出てきたっていうか、『よし、頑張るぞ!』っていうような気持が心の底から湧き上がってきたよ。」

「私はちょっと緊張してます。でも健作さんの演奏が、本場のJazzを知り尽くした人たちにどう受け入れられるか、楽しみでもあります。」

健作の演奏が受け入れられないはずはないと確信している典子はそう言った。


「ねぇ健作さん、今日は綺麗な夕日が見られそう。ちょっと寄り道して夕焼けを観に行きません?」と、健作に声をかけた。

「そうだね。東シナ海に沈むでっかい太陽でも観て帰ろうか。」


『Blue Dolphin Diving Club』と書かれたワンボックスカーに二人は乗り込むと、健作がハンドルを握り国道58号を宜野湾に向けて走り始めた。

AFN(American Forces Network・・・米軍放送網)にあわせてあるラジオからは、ケニーGが演奏するソプラノサックスのすばらしい音色が流れていた。

健作は、その曲に合わせてメロディーを口ずさんでいる。

典子はどこを見るとはなしに、流れ去る風景を見ていた。


牧港を過ぎたところで典子は左に曲がるように指示すると、国道58号のバイパスに入って、宜野湾海浜公園の駐車場へと車を導いた。

駐車場に車を止めると、すぐ前には真っ白な珊瑚砂の宜野湾トロピカルビーチが広がっている。

このビーチは、コンベンションセンターを中心に、公園が整備されたときに造られた人口の渚だ。


車を降りると、二人は並んで砂浜へと向かった。

二人の手が触れると、どちらともなく手をつないで歩いていた。

急に眼前が開けると、東シナ海の水平線にまさに大きな太陽が沈もうとしていた。

「うわぁー、綺麗な夕日だ!」

健作はそう叫ぶと、二人は手をつないだまま夕日に向かって駆け出した。大きな太陽にシルエットとなって映える二人の姿はまるで夕日に吸い込まれていくようだった。

波打ち際で二人が止まると健作は息が上がってはーはーしていた。典子は健作の後ろにそっと回ると両手で健作の背中を「ドン」と突いた。

バランスをくずした健作は、倒れまいとして典子にしがみつくと、二人はその場に崩れ落ちた。

永遠とも見紛うばかりの真っ白な時間が過ぎ去って、二人は目を開けると、顔と顔を突き合わせている。


健作は、典子に「大丈夫!?」とささやくと、典子は「ええ」と微笑んだ。

二人には、波が寄せては砕けて引いていく、心地よい音しか聞こえない。

すべてが茜色のベールに覆われると、健作はそっと典子の唇に自分の唇を重ねた。

二人は、この瞬間が永遠に続くことを願わずにはいられなかった。


二人は並んで砂浜に座って、群青の帳が天頂から降り始める様を黙ってみていた。

ふと健作は海から吹いていた風がやんで無風状態であることに気が付いた。

「あれ、いつの間にか風が止んだね。」

「ええ、時間的に海風から陸風に変わる瞬間の夕凪だと思います。」

「なるほど、これが変化の瞬間か。」

健作がすくっと立ち上がると、典子も健作の隣に立ちあがった。

健作は遠く未来を見据えているかのように薄暮の空を見上げて、「群青の緞帳が西の空に降りて、第一ステージは終演した。そしていよいよ新たなステージの開幕だ。」と言うと、「ガンバルゾー!」と力を振り絞って叫んだ。

健作の声はこだまするでもなく、東シナ海に吸い込まれていった。


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