第983話 ある男のある日

「今日のところはこんなものですかねぇ……」



 男は仕事で使っていた書類をまとめ、机の引き出しの中にしまった。男のいるその仕事部屋は普通の人のそれとは違う。様々な道具に賞状やトロフィー、記念品の数々が置かれており特に変わっているのは世間ではロングハートくんと呼ばれているマスコットの着ぐるみがその場にあることだった。

 


「今思えばアナズムでの日々も悪くなかったかもしれませんね。戻りたいとは思いませんが……」

「団長、失礼します」

「おや、どうしましたか」



 男の部屋に一人の青年が入ってきた。ぴったりと全身を包んだタイツを履いており、遠目で見ても目立つような化粧を施している。

 


「本公演最終日である来週水曜に打ち上げをするとのことでしたが、場所はどこがいいか団員達の話がまとまりました」

「決まりましたか。何処が良いと?」

「ここから歩いて十分ほどにある焼肉屋です」

「なるほど、あとで場所のデータを下さい。前回は居酒屋でしたが今回は焼肉ですか。良いですね」

「俺、ちょっと楽しみです! ところで団長」

「なんです?」

「あの……個人的に気になっていたのですが、団長の実家……どうなりました?」



 男はその質問を聞くと少し大きなため息をついた。だが特別機嫌が悪いわけでもなさそうであった。



「なんとかなりそうですよ。あと一週間もすればまた普通に住めるとのことです」

「そうでしたか。すごいニュースになってましたもんね。まさか団長の実家が氷漬けになるなんて……奇怪ですよね。なにかこんな現象が起こるような心当たりありませんか?」

「ぬっ……」



 少し前に、周囲はなんともなかったのにもかかわらず男の実家だけが氷漬けになるという事件が起きた。幸い、氷漬けになった時には住人が全員外出中であり死傷者は居なかったが甚大な被害を被っていた。

 その後からある名門の中学と高校が存在する区域で歴史的に見てももありえないほどの落雷が発生したり、テレビ局に隕石が落ちてきたりと大騒ぎであり、氷漬けになった家というのは少し話題から薄れていたが一応今でも話に挙げられることが多々あるようであった。

 男は、自分の実家が氷漬けになったことも、ありえないほどの落雷が発生したことも、隕石が落ちてきたことも、全てなにが原因か見当がついていた。ただこの件について話し合えるのは五人の子供たちだけであり、男は自身の仕事の忙しさとその子供達の学業への妨げをしないとこを優先し連絡はとらないで置いていた。



「あ、変なこと聞いてしまいましたね、申し訳ありません」

「いぇ、お気になさらず。あれは一生笑い話になりますからねぇ……ははは。サーカスが儲かって、俺のお財布も潤ってたからすぐに復興作業に取りかかれたのが幸いですよ」

「なるほど。あ、そろそろメイク落としてきますね。お疲れ様でした」

「早くメイク落とさないと肌が荒れますからね」



 青年は男の部屋から退出した。男は机の上に肘をつき、額を置く。考えていることはただ一つ。以前自身が暴れまわった地球とは別の世界のことについて。

 男はそこで多くの人間を殺した。結果的に一部を除いて生き返ったとはいえ、なん十万人ものその世界に住む人間を殺してきた。ただ男はそのことを反省はせど後悔はしていなかった。

 元の生活に戻る、ただ一つの願いのために行動し、百何十年とあれこれ試してきた結果であったから。心が痛まないのは商売においても多くの人間を今まで蹴落としてきたため、前々から慣れていたからだと自身の中で結論づけていた。



「しかし……一体向こうでなにが……」



 自分が迷惑をかけた少年達はまだこちらとあちらを行き来している。そのことが一番気がかりであった。ただ既に男には協力できることがない。



「気にしても仕方ないですよねぇ……。下手に首を突っ込んでまたこの生活が崩れても嫌ですし」



 そう言うと男はコーヒーを淹れるために立ち上がった。

 その瞬間、彼は見覚えのある光が足元から出現したことに気がつく。そしてその円形の光から先に進もうとしても、どうにもできないことは知っていた。



「どういうことですか。まさかまたですか……また俺は呼び出されるのですか。……仕方ありません、前と違って帰る方法はちゃんとあるのです。悲観する必要はありませんね」



 既に逃れられない事柄に男は諦めた姿勢をとり、その時が来るのを目を瞑って待機した。

 


「まさか本当に別世界の人間を呼べるとはな……」

「アリムちゃんみたいに可愛い子じゃなくて、おじさんだよ?」

「こいつがかつて悪魔神の側近だった男なのか?」



 聞こえてくるひどく性悪そうな声と可愛らしい少女の声の喋り声。転送が終わったことを確信した男は目を開いた。そこは薄暗く質素な部屋で、その場にいる多数の一風変わったに人物が注目していることに気がついた。



「ここは……アナズムですか?」

「ああそうだ。……どうやらこいつで間違いないだな」

「うん、この人の名前は愛長光夫、こっちの名前はメフィストファレスだって!」



 少女が男の名前を呼んだ。なぜこの少女が自分の両方の名を把握しているか理解できなかったが、とりあえずこの場にいる全員が魔力的に邪悪な存在であることはわかった。元邪悪な存在であった男であるがゆえに。

 

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