闇の影

状況を説明する前に、すまん、とデリフィスは短く謝った。


説明を終えた後も、同じように謝った。


デリフィスの謝る姿を、これまでに見たことがあったかどうか。


ルーアは、思い出すことができなかった。


シーパルが死の淵をさ迷っていることに、責任を感じているらしい。


状況を分析した限りでは、デリフィスに責任があるとルーアには思えなかった。


デリフィスは、その場にいたのにズィニアを止められなかった。


それを、腑甲斐無いと思っているのかもしれない。


「ズィニアなんだな……」


静かに、テラントは呟いた。

口調だけでなく、表情も静かである。


馬車の中だった。

窓枠の辺りを、じっと見つめている。


ルーアは、横になっているシーパルの頬を、軽く叩いてみた。


冷たい。ひんやりとした体。


「……死んでるようにしか見えねえなぁ」


「ちょっと、ルーア……」


咎めるような視線を、ティアが向けてくる。


「でも、生きてるんだよな?」


「うん……」


沈痛な面持ちで、ユファレートが頷く。


「なら、まだ手遅れじゃねえな。助けるぞ、なんとしても」


「でも、どうすんだい? 『ヒロンの霊薬』は……」


シーパルの知人だというヨゥロ族の女パナが、御者台にいるキュイを気にしながら言う。


馬車には、彼女の夫であるドーラもいた。

巨漢である。


馬車は、明らかに定員オーバーだった。

かなり狭い。


「キュイ、取り敢えず……」


テラントの指示で、馬車が動き出した。


しばらくして到着したのは、テラントの両親が暮らす館である。


シーパルを背負って、テラントだけが館へと入っていった。


また怒鳴り声が響き、だが今度はすぐに聞こえなくなる。


しばしして、テラントだけが出てきた。


どこまで事情を説明したのかはわからないが、シーパルだけは預けてきたらしい。


テラントの表情は、静かなままだった。


「……ここなら、シーパルがこれ以上危害を加えられる心配はないと思う。まあ向こうは、シーパルがもう死んだと思い込んでるだろうが、念のためな」


「……で、これからどうする?」


ルーアは聞いてみたが、テラントは答えなかった。

キュイに眼をやる。


「キュイ、お前は戻れ」


キュイは、少し驚いたようだった。


「将軍、私は……」


「副将軍だというのに、御者みたいな真似をさせて悪かった。もう充分だ。あとは、俺たちでやる」


「私も、最後まで手伝わせてください」


「お前には、部隊の指揮があるだろうが。ルシタのこともある」


「……」


キュイが、俯いた。


「……わかりました。それでは、私は戻ります。御武運を、将軍、みなさん」


「ああ」


キュイが、馬車を操り去っていく。


テラントが小さく、すまんな、と呟いた。


「……さて、これからのことだが」


懐から、なにやら紙束を取り出す。


「ダンテ・タクトロスという奴を見つけよう。それで、あるいはシーパルを助けられるかもしれん」


そう言って、テラントはみんなの顔を見渡した。


◇◆◇◆◇◆◇◆


ロデンゼラーの街中に、アジトはいくつもあった。


それが、ラグマの軍隊や警察に次々と潰され、『コミュニティ』の構成員も大勢捕縛された。


王宮にある『ヒロンの霊薬』を回収するという計画は、破綻してしまった。


敗れたのだ。ベルフ・ガーラック・ラグマに。


それを考えると、ダンテの体は屈辱に震えそうになる。


だが、ダンテは感情を殺して耐えた。


敗者とはいえ、指揮官なのだ。

敗れたなら敗れたなりの指揮を執らなくてはならない。


ダンテは、ロデンゼラー南西門の近くのアジトにいた。


ここに、元々所持していた『ヒロンの霊薬』百本を隠匿していたのだ。

まだ、軍も警察も来ない。


この百本の『ヒロンの霊薬』だけは、死守しなくてはならない。


ここからは、逃亡戦だった。


ラグマ政府が、ダンテが『ヒロンの霊薬』を所持している事実を掴んでいるのかはわからない。


だが、ベルフ・ガーラック・ラグマは、ダンテたち『コミュニティ』のメンバーを逃がすつもりも、『ヒロンの霊薬』が持ち出されることも許すつもりはないだろう。


ラグマ政府の追跡をかわしつつ、ラグマ政府が手を出せない地域まで逃亡しなければならない。


街の脱出はできるだろう。

抜け道があるのだ。


ただ、兵士に調査させたところ、すでに全ての街道は軍により封鎖されていた。


(どうするか……)


アジトの二階に、ダンテはいた。

空き家である。


ダンテの右腕のような存在であるラフもいた。


兵士のほとんどは、外へ放ってある。


軍や警察が近付いてきたら、すぐに連絡が入るはずだ。


残った兵士は、三十五人。

二千を超える戦力だったというのに、なんたることだと思う。


もっとも、ダンテに連絡を取れないだけで、無事な者もいるだろうが。


トンスは、どうしているのか。

二百の撤退の指揮を任せたが、それもほとんど捕らえられていた。


トンスとも、しばらく連絡が取れていなかった。


夕刻近くになって、そのトンスがアジトへやってきた。


報告を受けて、怒りが込み上げた。


撤退の最中に、トンスは余計なことをしたらしい。


そのため、デリフィス・デュラムやユファレート・パーターの追撃を受け、犠牲を出している。


おまけに、ズィニアが撤退の時間を稼いだという。


あの男に、借りを作ってしまったではないか。


さらに、王宮近くにいたユファレート・パーターたちに奇襲をかけていたが、返り討ちにあいトンスは右腕に重傷を負っていた。


骨まで達する傷である。

当分、右腕は使い物にならないだろう。


兵士から、連絡が入った。

軍隊が向かってきているらしい。

トンスが付けられていたようだ。


ダンテは、言い訳を認めない。

だから、トンスはひたすら謝るばかりである。


力があると認めていたのに、なんという体たらくだ。


失敗を重ね過ぎている。

処分しようかと思ったが、やめた。

戦力不足である。


それに、今ここで殺すよりも、別の死なせ方がある。


まずは、軍隊を撃退することだ。


「ラフ」


呼んだ。


ラフがいれば、撃退はそう難しくないだろう。


「わかっています」


ラフが、右腕の袖を肩まで捲った。


肌の表面が変形し隆起する。

瘤が割れて眼球が覗く。


右手首から肩口までに、びっしりと無数の眼がある状態になった。


ラフは、『悪魔憑き』なのである。


無数の目玉が、次々と転がり出てくる。


空洞になった眼にはまた目玉が生まれ、そして再びラフの体から離れていく。


ラフの意思に従い、無数の目玉は窓から外に出ていった。


「……三十人います。表に十人、裏にも十人。両隣の民家の庭に、五人ずつの配置です」


目玉から見えるものが、ラフには視える。


無数の目玉に映る無数の光景が、どういう視え方をしているのかはわからないが。


小さな炸裂音と悲鳴がした。

大方、剣で斬り付けでもしたのだろう。


強い衝撃を与えると、目玉は破裂して近辺の者を傷付ける。


外で、激しい光が煌めいた。


「……魔法使いがいますね。いくつか消し飛ばされました」


話している間にも、ラフの右腕からは目玉が生まれていた。


「俺がやろう」


ダンテもラフも、魔法が使える。

当然、魔力を探知できる。


敵の魔法使いの位置は、今ので大体わかった。


そして、ダンテも『悪魔憑き』だった。


ダンテの意思により、普段は自身の影に溶け込ませている『悪魔』が、身を起こす。


黒い液体のようなそれは、自在に形を変えられる。


硬度を上げてやれば、武器にも盾にもなる。


それが、表向きのダンテの『悪魔憑き』としての能力だった。


真の能力を知る者は、ダンテ自身以外はラフとトンス、それにクロイツくらいなものだろう。


『影』が、無数に小さく分裂して、鋭く尖っていく。


影の針。


「行け」


呟き、それを飛ばす。


小さな手応え。


「当たりました。ですが、急所は外れたようです」


視えるラフが、状況を伝える。


「逃走しました。右です。……そのまま直進してください」


断末魔。

今度こそ、魔法使いの体の中心を貫いた手応え。


「包囲を狭めてきています。ですが……」


すでに、ラフの目玉もアジトを囲んでいるだろう。


下手に刺激を与えると、破裂する。

迂闊に仕掛けられないはずだ。


「……もう、殲滅できる距離です」


「終わらせるぞ」


「はい」


慣れたパターンだった。

ラフの目玉が、敵へ向かい出しただろう。


ダンテは、『影』を分裂させて飛ばした。


『影』とラフの目玉が次々接触して、破裂する。


それがまた別の目玉を巻き込み、さらに破裂。


連鎖する破壊に、いくつもの悲鳴が起きる。


「……どうだ?」


「……生存者無し。殲滅しました」


ラフの右腕にある無数の眼が閉じる。


ラフの能力は、体力の消耗が激しい。


そのため、余り長い時間は使えない。


欠点はそれくらいなものだった。


「……ここはもう使えんな」


アジトの周囲は、破裂した目玉のため一変していた。


両隣の民家も倒壊しているようだ。


じきに、次の部隊がくるだろう。


「四十二番のアジトは、まだ制圧されていません」


ラフの言葉に、ダンテは頷いた。


「すぐに移動するぞ」


ここから、五キロほど北にあるアジトだった。


『ヒロンの霊薬』を保管してある、『氷狼の棺』を抱える。


冷蔵保存できる魔法道具である。


『ヒロンの霊薬』は熱や湿気に弱いのだ。


万能薬に最も近い薬とされているが、保管が難しい。

そして、黄金並の価値がある。


必ず、逃亡を成功させなければ。

ラグマ政府の手が届かないところまで。

だが、どうやって。


他国に逃げ込むにも、街道は封鎖されている。

国境の警備も厳しいだろう。


「行きましょう」


ラフに促される。


四十二番のアジト。

地図を思い浮かべる。


近くに、病院があったはずだ。

ラグマ王国の副将軍キュイが、足しげく通う病院。


ふと、閃くことがあった。


あった。

すぐ近くに。


ラグマ王国領土内にも拘わらず、ラグマ政府が手を出せない所が。


問題は、どうやってそこまで行くか。


ラグマ王国の副将軍キュイ。病院。


思い付くことがあり、ダンテは低く笑った。


あの娘。ユリマだったか。

今一使い道がないと思っていたが、あるではないか。


「お前たちは、先に行け。俺は、寄る所ができた」


ラフが、怪訝な顔をする。


「トンス、もうミスをするなよ」


青い顔をして、トンスが頷く。


ダンテの怒りを恐れているのだろう。


だが、ダンテは怒りなど忘れていた。


上手くいく。

ベルフ・ガーラック・ラグマに、一矢報いることができるのだ。


ダンテは、また低く笑った。


◇◆◇◆◇◆◇◆


テラントが持っていた紙束は、ロデンゼラーで活動する『コミュニティ』の構成員の情報をまとめたものだった。


個人情報はもちろん、拠点や、いざという時に使用するであろう逃走ルートまで、詳細に記載されている。


城の近くにいたユファレートとデリフィスを遠距離狙撃した男についても、記されていた。


トンスという。

ロデンゼラーの『コミュニティ』の構成員を束ねる立場であるダンテ・タクトロスに、長く従っている男である。


ルーアたちは、ダンテ・タクトロスが必ず『ヒロンの霊薬』を所持していると決め付け、行動していた。


ダンテ・タクトロスを倒し、『ヒロンの霊薬』を手に入れる。


そこまでは、全員の意志は統一されていた。


その後については、話すことは避けられた。


理由は、ラグマ王国の『ヒロンの霊薬』についての政策にある。


ルーアは、『ヒロンの霊薬』を用いて、シーパルを蝕む毒を消すつもりだった。


『ヒロンの霊薬』の個人使用は、ラグマ王国では国家反逆罪に当たる。

捕まれば死刑である。


大変なリスクであり、全員にそれを強制で背負わせるわけにはいかない。


シーパルは、これまでに何度も助けてくれた。


その存在がなければ、ルーアは死んでいたかもしれない。


だから、そのくらいのリスクは背負っていい、とルーアは思っていた。


リーザイまで逃げ延びることができれば、助かるかもしれない。


ストラームやエスに泣き付き、庇護を求めればいいのだ。


問題が、他にもある。

それは、デリフィスやユファレートが会った、ラグマ王国執務官ジェイク・ギャメの言葉の中にあった。


『ヒロンの霊薬』でシーパルを助けることは、『メスティニ病』で苦しむ子供を、一人死なせることでもある。


一生背負わなければならないことだろう。


眼をつぶることも、耳を塞ぐことも、許されはしない。


重い問題である。

だから、『ヒロンの霊薬』を入手した後のことは、話し合われていなかった。


先送りにすることに、どれ程の意味があるのかわからないが。


とにかく今は、ダンテ・タクトロスを捜していた。


トンスの行方を知ることができれば、ダンテ・タクトロスを見つけられるかもしれない。


みんなで、情報を収集した。


ロデンゼラー中央地区で重傷を負ったトンスは、軍や警察に追われながら南西へ向かったらしい。


南西地区へ入った所で、傷を塞ぎ終えたのか、血の跡は消えたという。


そして、トンスの行方もわからなくなっていた。


ただし、状況は刻一刻と変化している。


軍や警察は、今頃トンスの行方を掴んでいるかもしれない。


ルーアたちにとっては、『ヒロンの霊薬』の争奪戦である。


『コミュニティ』はもちろん、ロデンゼラーの軍や警察も競争相手だった。


テラントがキュイを帰した理由は、それだった。


地図を人数分購入して、テラントが持つ資料を写した。


『コミュニティ』の構成員が利用するアジトが、いくつもある。


このどこかに、ダンテ・タクトロスやトンスがいる可能性が高い。


そして、アジトのほとんどが軍や警察に制圧されていた。


まずは、どのアジトが制圧済みで、どのアジトが無事なのかを知る必要がある。


みんなで手分けして、情報収集に当たった。


パナやドーラも協力してくれている。


行動を別々にするのも危険だが、今は街中を軍人や警官が駆け回っている。


そして、『コミュニティ』は敗者であり、逃げ惑っている状態だった。


ルーアたちに手出しをする余裕はないだろう。


ユファレートだけは、一人にすることはできない。

すぐに迷子になってしまう。


ユファレートに付くことを、テラントが志願した。


ユファレートがズィニアに狙われているからだろう。


あの男ならば、軍人や警官の眼もお構い無しに、襲い掛かってくる恐れがある。


十七時三十分に、集合する約束をした。


場所は、公園。

木立の向こう、近くに病院が見えた。


ユリマが入院している病院である。


複数の情報屋と接触し、できるだけ情報を集めて、ルーアは公園に向かった。


すでに、ティア、ユファレート、テラント、デリフィスはいた。


みんなで、集めた情報を照らし合わせていく。


ほとんどのアジトが、すでに制圧されていた。


だが、ぽつりとまだ無事なアジトもあった。

この近くである。


付近で、『コミュニティ』の構成員と軍隊の戦闘があったばかりだという情報を、ティアが持っていた。


「……当たりか?」


ルーアは呟いた。

テラントとデリフィスは、眼を光らせている。


当たりならば、急がなければならない。


軍や警察の先回りをして、ダンテ・タクトロスを倒し、『ヒロンの霊薬』を入手しなければならない。


「行ってみよう。だけど……」


ルーアは、ベンチを立ち上がりかけたティアに手を向けた。


「オースターはここにいてくれ」


「……なんで?」


ティアが、不満そうに頬を膨らませる。


「パナさんとドーラさんがまだだからな」


二人は、ロデンゼラーの滞在が長い。


広い範囲の情報を集めていた。

中央地区、西地区、南地区である。


トンスが南西地区に来たのは、追っ手の眼を欺くためかもしれないのだ。


中央地区へ引き返した可能性もある。


遠くを調べている分、パナとドーラは刻限に間に合っていなかった。


「二人が戻ったら、情報を整理しておいてくれ。今から向かう先が外れだった時に、すぐに動けるようにな」


トンスの実力は、侮れない。

彼が従うダンテ・タクトロスが、それ以下の実力ということはないだろう。


ティアでは、戦力になる可能性も足手まといになる可能性もあった。


それでも、できることはあるのである。


「……わかったわよ」


置いてきぼりになるが、一応は素直にティアは頷いてくれた。


「……よし、行こう」


全員が、張り詰めた表情をしている。


シーパルに、あとどれくらいの時間が残されているのか。

ルーアは、それを考えていた。


◇◆◇◆◇◆◇◆


体のいい置いてきぼりではないだろうか、思ったが文句は言わなかった。


みんな、これから敵がいるかもしれない場所へ向かうのである。


誰か一人が残る必要があるのなら、戦闘能力が一番低い者が残るべきなのだろう。


テラントやデリフィスのようには戦えない。


ユファレートやルーアには魔法がある。


ティアが、残るべきなのだ。


「……って、納得しちゃ駄目よねぇ」


いつかは、彼らと並んで戦えるくらいにならなくては。


パナとドーラの到着を、しばらく待った。


待つのも役割だろうが、シーパルの生命の危機だと思うと、もどかしいものがある。


乗り合い馬車が、公園の前で止まった。


降りる乗客の中に、パナとドーラの姿がある。


ティアの姿を認め、駆け寄ってきた。


「ごめんよ、遅くなった!」


パナは、やはり人の眼が気になるのだろう。


フードを被り、マスクとマフラーを着用していた。


日が沈みかけ幾分涼しくはなったが、ラグマ王国は南国である。

九月の夕方でも、空気に熱が篭っている。

額にびっしりと汗をかいていた。


「いいんです。それよりも……」


「ああ、そうだね。ダンテとかが捕まったって話は聞かなかった。中央地区のアジトは、ほぼ潰されてるね。残りも、時間の問題って感じ。西地区と南地区は……って、あれ?」


そこで、はたとパナは口を止めた。

辺りを見渡し。


「あんただけかい? 他のみんなは?」


「みんなは……」


みなが走り去った方へと、眼をやる。

とうにその姿はない。


不意に、小さいが高い音が聞こえた。


遠くで、多分ガラスが割れ砕ける音。


音が聞こえた方にティアは眼をやり、そして見開いた。


「……なにあれ?」


病院の三階か。窓が破れているところがある。


そこから滲み蠢いている、黒いなにか。


(三階って……)


一度訪れただけの病院の見取り図など、思い浮かばない。


ただ、昨日会った少女の病室は、三階にあった。


(まさか……)


自然と体が動き出していた。


「パナさんとドーラさんはここに!」


一言残し、ティアは病院へと駆け出した。


公園の近くである。

すぐに辿り着いた。


妙に静かな雰囲気。

病院の中に飛び込んだ。


「!?」


争った形跡はない。

だが、医者や看護師、患者たちが、大勢倒れ伏し、あるいは座り込んでいた。


意識はあるのか、呻き声や泣き声が聞こえる。


(なにが……)


床に尻を付いて啜り泣いている女性の看護師の肩を、ティアは掴んだ。


「大丈夫ですか!? なにがあったんですか!?」


ティアを見た看護師の顔が、引き攣った。

おそらくは、恐怖で。


「なんで……なんでこんなことをするの!? わたしはこんなっ……! ごめんなさい! もう許して!」


泣き喚きながらティアの手を払うと、床にうずくまった。

錯乱している。


他の者に声をかけても、似たような反応だった。


(一体、なにがあって……)


パナとドーラもやって来た。

待っておくように言ったのだが、気になったのだろう。


さらにその後方、まだ病院の外だが、通報を受けたのか警官や軍人たちの姿が見えた。


「パナさん、ドーラさん! ここの人たち、お願いします!」


パナは薬師であり、ドーラはその夫である。


病人の介抱など、多少は慣れているだろう。


ティアは、病院の階段を駆け上がった。


警官たちを待つべきかもしれないが、一刻を争う状況かもしれないのだ。


もし手に負えない危険があるのならば、とにかく時間を稼ぐ。


何十秒後か何分後かには、警官たちが来てくれるはずだ。


三階に到着するまで、足を止めなかった。


廊下に、やはり看護師や患者たちが倒れている。


廊下の先、扉が開け放しになっている病室。


ぼんやりとしか場所を覚えていないはずなのに、なぜか確信してしまう。

あそこは、ユリマの病室だ。


駆け出す。心拍数が上がっていた。


小剣の位置を確かめながら、病室に入り込む。


「なっ!?」


病室の中央にいる男。

痩身で、涼しげな眼。

テラントが持っていた資料に記されていた、似顔絵そのままだった。


「ダンテ・タクトロス……」


いきなり、敵の親玉と出くわしてしまった。


足下から、黒いなにかが盛り上がっている。


影が身を擡げているように見えた。


「なによこれ……?」


「『悪魔憑き』、という言葉だけで、説明は足りるか?」


低く、なかなか渋味のある声音だった。


ダンテ・タクトロスは、『悪魔憑き』だったのか。


脇に抱えている青い箱には、見覚えがある。


『氷狼の棺』という、物を冷蔵保存できる魔法道具。


孤児院で暮らす間、何度も見た。

熱や湿気に弱い『ヒロンの霊薬』を保存するために、使用されていたのである。


本当に、『ヒロンの霊薬』を持っていた。


「……俺のことを知っているのだな、ティア・オースター」


「……あたしのことを知っているのね、ダンテ・タクトロスさん」


小剣を構える。


ダンテの足下から伸びた影が、ユリマを掴んでいた。


「その子を、放しなさい……」


あまりダンテから眼を離せない。

影に捕われたユリマを一瞥だけするつもりで視線を送り、ティアは息を呑んだ。


ぐったりとしたユリマ。

薄暗い室内ですぐに気付けなかったが、鼻や口からは血が流れ出ている。


「……あんたねえ!」


思わず、一歩踏み出していた。


「そんな小さな子に、なんてことすんのよ!」


「勘違いするな、ティア・オースター。この娘が、勝手に血を吐いたのだ」


「!」


重い病にかかっているとは言っていたが、そこまで病状は進行していたのか。


もしかしたらユリマも、一刻の猶予もない状態なのかもしれない。


いつまで持つかわからない、シーパルのように。


「『サット症候群』だったな、この娘は……」


ダンテが、溜息混じりに言った。


「まったく……。役に立ちそうだからと、せっかく捕らえたのだ。もう少し持ってくれよ」


ティアは、頭に血が昇るのを感じていた。


「……その子を、放して」


自分でも驚いてしまうような、低い声が出た。

小剣の柄を握る、両手が痛い。


ダンテは、余裕の表情だった。


「やめた方がいいな、ティア・オースター。お前では、万が一にも俺には勝てん」


「そんなの、やってみなきゃ……」


「わかるさ。影は闇だ、ティア・オースター」


「……?」


「そして、お前の闇は深い……」


「……なんか、あれね。妄想大好きな中学生とかが言いそうね、そういうこと」


率直な感想をティアが口にすると、片方の眉をダンテは上げた。


影が、形を変えて揺らめく。


来る。


だが、激しい足音と共に、何人もが病室に入ってきた。


警官たち。

四人ほどは杖を持っている。

魔法使いの部隊なのだろう。


「ダンテ・タクトロスだな!? 動くな!」


鋭い警官たちの声。

ダンテの舌打ちが聞こえた。


影が蠢き、窓を破る。

次の瞬間には、ダンテは窓から脱出していた。


「……!」


朦朧とした瞳のユリマと、一瞬眼が合う。


ティアは、窓に駆け寄った。


三階である。

だが、ダンテの影が伸びて、木立を掴む。


壁や地面を叩き、落下の衝撃を和らげる。


負傷することなく、ダンテは着地していた。


駆け寄る警官や軍人たち。

ダンテの影が動き、跳ね飛ばしていく。


ダンテが、病院の敷地の外へ駆け出した。


「ユリマ!」


逃げられてしまう。


ティアは、警官たちの間をこじ開けて部屋を出た。

廊下を走り階段を駆け降り。


パナとドーラは、唖然と外を眺めていた。


負傷した、何人もの警官や軍人。

ダンテの姿は、すでにない。


「ユリマ……!」


逃げられた。そして、連れ去られた。


病弱な女の子が捕まっていたのに、なにもできなかった。


ティアは、奥歯を噛み締めた。

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