戯れの午前
自分の身は、自分で守る。
それが軍人であり、一人前の男というものであろう。
そのためなら、逃亡や撤退は、決して恥ではない。
誇りを胸に、勝ち目のない巨大な敵にも、敢然と立ち向かう。
その生き方を、否定はしない。
だから、恥辱に塗れ、泥を啜りながらも命に執着する生き方を、否定しないで欲しい。
ラグマ王国王都ロデンゼラーの郊外にある、一軒の館。
ルーアたちが、ここ数日世話になっている家である。
「命に執着することは……逃げることは……決して恥ではない」
このままこの家の中にいたら、死ぬ。
呟いて、ルーアは玄関から外へと出た。
風。外の空気。
九月になっていた。
ラグマの夏は長い。
暦の上では秋でも、まだ残暑は厳しかった。
それでも、夏の盛りにこの国に来た時よりは、ずっと過ごしやすくなっている。
ルーアは、眼付きを鋭くした。
「……どけ」
行く手を遮る三人の男に、低く唸るように告げる。
そんなことで、この三人が臆することなどないが。
正面に、テラント。
くすんだ金髪を掻き上げる。
眼には、ふてぶてしい光を湛えていた。
左に、デリフィス。
隙なく斜に構える。
女がつい振り返ってしまうような顔立ちに、陰が差した。
右に、シーパル。
緑色の頭髪に、青白い肌をした、ヨゥロ族。
いつもは人懐こい顔は、緊張のためか強張っていた。
彼らも必死なのだ。
ここでルーアの逃亡を許せば、彼ら三人の誰かが、死の淵をさ迷うことになる。
だから結託して、ルーアを阻む。
誰だって、死にたくはない。
負けられない戦いが、ここにある。
三人とも、ルーア以上の剣士か魔法使い。
その包囲を突破するのは、容易ではない。
デリフィスが、半歩進んだ。
それを、睨みつけて牽制する。
ルーアは、地面を蹴り付けた。
狙うは、デリフィスの逆方向にいるシーパル。
デリフィスに視線を送ったことは、シーパルに対するフェイントになるはずだ。
魔法を使わせない。
シーパルを相手にするのならば、その一点のみに心を砕く。
彼を選んだのは、甘く見ているからではない。
だが、彼は純粋な魔法使い。
体術はそれ程遣えないはずだ。
シーパルの反応は、少し遅れている。
「くたばれや、ゴルアァァ!」
裂帛の気合いと共に、有無を言わさずシーパルを張り倒す。
「よし!」
眼前が開けた。
このまま駆ければ、逃げられる。
引っ掛かるものもあった。
シーパルが接近戦を得手としていないのは、知っている。
だが、それにしても脆すぎはしないか。
「……時間……空間……封印……解放……」
ぶつぶつと呪文のようなものが聞こえ、ルーアはぎくりとした。
シーパルの魔力の波動。
ルーアは、咄嗟に左に跳躍した。
しかし。
「ルーン・バインド!」
魔力の縄が、腿や足首に絡み付いてくる。
(……俺の行動を、読み切りやがった!)
「くっ!」
肩越しに見ると、地面に倒れ込んでいたシーパルが、顔を上げた。
不敵な笑みを浮かべて。
「このブロッコリーめ!」
「まさかの野菜呼ばわり!?」
ルーアの一言に、緑色の頭髪を押さえるシーパル。
ともあれ、これはまずい。
この魔力の縄、強度はそれ程でもなく、ルーアの力ならば簡単に引き千切ることができる。
わずかな足止めにしかならない。
だが、そのわずかな時間で事足りる男たちがいる。
「とぉう」
間抜けな掛け声を上げて、テラントが身を舞い上がらせた。
両足の裏を、ルーアの体に叩き込む。
「ぐぺっ!?」
為す術もなくルーアの体は吹っ飛び、地面を舐めるように転がっていく。
立ち上がろうとしたところを、すかさずデリフィスに踏み付けられた。
そのまま、押さえ込みにかかる。
「だぁぁっ! くそっ! どけっ! 重てえんだよ、デリフィス!」
「はっはっは」
両手の土を払いながら、テラントが朗らかに笑う。
「諦めろ諦めろ。いくらお前でも、俺ら三人から逃げられるもんかよ」
「あっきらめて、堪るかあぁっ!」
手足を地面とデリフィスに突っ張るようにして、ルーアは抵抗した。
体重で勝るデリフィスの体が、わずかに持ち上がる。
「おお……」
テラントが、感嘆からか拍手した。
「往生際の悪い奴め。おい、デリフィス」
「ああ。両手両足をへし折って、眼球を抉り出そう」
「そうだな。口さえ無事なら、味見はできるもんな」
「待て待て待て待て待て待て待てぇえい!」
真顔でルーアの腕の関節を極めるデリフィス。
悲鳴を上げる肘に、ルーアは悲鳴を上げて抗議した。
そして、派手な音を立てて玄関の扉が開き、ユファレートが飛び出してくる。
「もう嫌ぁぁぁっ!」
追い縋るように、水色の煙が屋内から湧く。
まるで、ユファレートの四肢に絡み付くようでもある。
頭を抱え、彼女は駆けていった。
重度の方向音痴であるユファレートが無事に戻ってこれるか、非常に不安ではある。
「やあルーア。そろそろ出番ですよ」
にこやかに言うシーパル。
人の心配をしている場合ではなかった。
取り敢えずルーアは、爽やかなシーパルの笑顔に、犬歯を剥き出しにして中指を立てた。
◇◆◇◆◇◆◇◆
ズィニア・スティマが生きている。
ズターエ王国王都アスハレムから東に、街や村、関所などで、次々と小さな騒動を起こしていた。
そしてそれが、ラグマ王国王都ロデンゼラーでぴたりと収まった。
誘いだろう。ルーアだけでなく、全員がそう思った。
小柄な体型、長い両腕、二本の小剣を背負い、腰の後ろにも小剣。二十代半ばの男。
目撃情報からして、当人に間違いなさそうだ。
あのユファレートの魔法を浴びて、生き延びているというのも信じがたいものがある。
だが、爆心地にいたのだろう。
ズターエ王国の調査によると、ある一点から急に、破壊の跡が小さくなっているという。
『拒絶の銀』。ズィニアと相対する時は、その魔法道具の存在を忘れてはならない。
エスの調査網すら擦り抜けてきた男が、その名も姿も晒している。
テラントを、止められるわけがなかった。
ルーアも、まったく用がないわけではない。
あの男のせいで、死ななくていい人間が、大勢死んでいる。
再び行方を眩ませた、ハウザードの行き先も気になる。
ズィニアとハウザードは同じ組織の者であり、アスハレムでは並んで同じ儀式に参加していた。
他人、ということはないだろう。
手掛かりを、ズィニアは持っているかもしれない。
アスハレムの一件で、キュイという男と知り合った。
テラントの昔の部下だったらしく、今でも彼を敬慕している。
キュイの協力がなければ、今頃ルーアたちは、犯罪者として追われているか、刑務所の中か、あるいは棺桶の中だったかもしれない。
みんなが感謝していたが、逆にキュイは恐縮していた。
自分の失態のせいで人質を取られ、ルーアたちを危機に陥れた、と責任を感じていた。
あれは、誰のせいでもない。
誰もが、敵の実力も策略も見抜けなかった。
敢えて責任を問うのならば、敵に利用されるような案を出した者だろう。
そしてそれは、ルーアとテラントだった。
だから、キュイに責任はない。
ルーアとテラントがいくらキュイにそう言っても、彼は自分が未熟なせいだと頭を下げるだけだった。
頑なところはある。
償いをしたいと、キュイは考えていたようだ。
ロデンゼラーで宿を捜していると、キュイがやってきて、半ば強引に自宅となる館まで案内された。
宿として利用して欲しい、ということだった。
さすがに断ったが、キュイはしつこく、結局世話になることになってしまった。
根負けした感はある。
いつ、『コミュニティ』に襲われることになるかわからない。
巻き込むことを恐れたが、さすがにその辺りはキュイも考慮していた。
館は街の南西の郊外にあり、すぐ側には、キュイの部隊の軍営がある。
近郊の山々に拠る、ラグマ王国の政府に帰順していない、小数民族への備えらしい。
キュイの部下が、常時二百人控えていた。
テラントの件もあり、『コミュニティ』のことを知るキュイは、部下の身辺調査もしっかり行っているという。
部下は全員、信用して大丈夫なようだ。
いざとなったら、そこへ逃げ込めばいい。
緊急事態ならば、一般の旅行者が軍営に入り込んでも、問題にはならないだろう。
近辺には演習場があり、キュイの部隊の調練をよく見る機会があった。
激しい調練だった。
キュイは四百の部下を従えており、それが二隊に分かれぶつかり合う。
精兵だというのは、一目でわかった。
キュイの指揮もいい。
テラントやデリフィスが、思わず唸るほどだった。
しばらく、平穏な日々が過ぎていった。
テラントは情報屋に依頼して、ズィニアの行方を捜しているようだが、今のところこれといった情報はない。
『コミュニティ』からの襲撃もなかった。
キュイの部下たちが眼を光らせているので、館の近くを出入りする者があればすぐにわかる。
ぐずぐず泣くユファレートを連れ戻したのも、キュイの部下だった。
感情が高ぶり泣いているのではなく、眼や鼻に強い刺激を感じて泣いているらしい。
憂鬱に、ルーアは館を見上げた。
死刑執行を待つ気分とは、こういうものではないだろうか。
大陸最大の王国ラグマの副将軍にしては、小さな館だった。
一般の住居と、さほど変わらない。
テラントの話によれば、この何倍もの館を構え、維持していくだけの禄が、副将軍には与えられるらしい。
だが、贅沢とは縁のない館だった。
家の中には最低限の家財しかなく、五頭は入る立派な馬小屋には、葦毛の馬が一頭いるだけである。
キュイが贅沢を好まないのか、節制しているのか、貯蓄をしているのか。
ちなみに、現在キュイはいない。
極秘の任務でもあるのか、ここ数日帰ってきていない。
留守を預かっているのは、彼の妻のルシタである。
多分、年齢は二十代前半だろう。
決して美人というわけではなく、平凡な容姿をしているが、どこか人を安心させるような印象を与える女性である。
キュイと結婚してまだ一年ということだが、すでに何十年と連れ添った雰囲気がある。
専業主婦として、非常に有能なのではないかとルーアは思った。
使用人はいない。
炊事洗濯掃除、全ての家事を、一人でてきぱきと進める。
世話になっている身分だからと、手伝うことも考える。
だが、思い付くことは、全部ルシタが終わらせているのである。
下手に手伝うと、むしろ邪魔になりそうだった。
出される食事が、また絶品だった。
食事に対して、喰えればそれでいいという感覚のルーアでも、素直に美味いと感じさせる。
どこにでもある食材を、美味く喰わせる術を心得ている、という感じだった。
レパートリーも豊富である。
キュイの館で世話になるようになった二日目からは、ルシタはティアとユファレートに、尊敬の眼で見られるようになっていた。
家にいる間、キュイは彼女に頼り切りだった。
それなのにルシタは、キュイをぞんざいに扱ったりはしない。
いつも立てている、という感じだった。
夫に尽くすタイプの女性なのだろう。
ルシタはキュイに従順で、キュイは心から大切にルシタを想っている。
髭面の厳ついキュイと、それに寄り添うルシタを、ティアなどは憧れの眼差しで眺めていた。
悩みを、ルシタに相談していた。
ティアの悩み。それは、料理が苦手だということ。
(……適当な説明しやがって)
料理が苦手というレベルではない。
食材を使って、料理以外の別のなにかを作り上げてしまう。
ティアの更正は、ユファレートもとっくに匙を投げていたため、野放しの状態だった。
料理が上手になりたい。
虚しい願望である。
わたしに任せて。胸を叩くルシタに、ルーアはばれないように溜息をついた。
繰り返す。ルシタは、専業主婦として非常に有能である。
だが、所詮はただの人間。
限界というものがあるのだ。
ティアが、料理と称する物体の味見に指名するのは、決まってルーアだった。
このままだと死ぬ。
台所から聞こえる悲鳴、皿が割れる音、異臭に、ルーアはそう確信した。
ティアが作る物の味見をするくらいなら、全裸で街の中を駆け回る方がまだましである。
逃げるのは失敗した。
ルーアが逃亡すると、テラントかデリフィスかシーパルが生贄となる。
だから、彼らも必死だった。
その包囲を、突破できそうにない。
(どうする……どうする俺!?)
退路は断たれた。
このまま、死を待つしかないのか。
否。
昔から、虎の仔を得たければ敢えて虎の巣へ入れ、というではないか。
台風の中心は無風である。
きっと、最も危険な所にこそ、活路はある。
意を決して、ルーアは台所の扉を開いた。
「……!」
凄惨な現場である。
床に散乱する割れた皿。
謎の水色の煙を吐き出す、床に転がる謎の物体。
女性が顔を覆い、体を震わせ座り込んでいた。
(手遅れだったか……!)
ラグマ王国では標準的な金色の髪をセミロングにした女性。
ルシタである。
そして。
「……はぁーっ……ふはぁーっ……はぁーっ……はぁーっ……」
息を荒くし、血走った眼で辺りをぎょろぎょろと見回す、包丁を両手で持つティアの姿。
なんという挙動不審さ。
街の通りだったら、間違いなく警官に連行されている。
「……おい、オースター……」
「ああんっ!?」
眼をぎらつかせ、ルーアを睨みつけてくる。
「……い、いや、なんでもありません……ごめんなさい……」
その剣幕に、思わずルーアは後退り、謝っていた。
またティアは、息を乱しながら辺りを見回し始める。
完全に、錯乱していた。
異臭に耐え切れなくなったのだろう。
自爆というやつだった。
この煙を吸い込むのはまずい。
ルーアは息を吸い込むと、大きく踏み出した。
「てい」
ティアの手首に手刀を当てて、包丁を叩き落とす。
空いている手で、襟首を掴んだ。
「はい、退場ー」
そのまま、台所の外へと放り投げる。
床を転がったティアは、すぐに身を起こした。
眼をぱちくりとさせて。
「……あれ? あたし、一体なにを……?」
「マジか、この女……」
呻きつつ、ルーアはルシタの肩を叩いた。
「ルシタさん……」
「わたしは……わたしはなんて無力なんでしょう……」
さめざめと泣いているのは、ユファレートと同じく眼と鼻をやられたからだろう。
「助けを求める少女一人も、救えないなんて……」
なかなかにノリがいい。
「あなたの勇気を、俺は決して嗤いません。ですが、人は分を弁えなければなりません」
台所に立つと、なぜかティアは二秒でテンパりだす。
そして、およそ考えつくありとあらゆる失敗を重ねていくのだ。
予想外の失敗も織り交ぜてくるので、誰にも止めることはできない。
「あなたの心意気には、感服致します。ですが、誰にもオースターの病気は治せません。あなたの行為は、言ってみれば天に唾をするようなものであり……いっててててぃ!? 鷲掴みにされた延髄が物凄く痛いっ!?」
「……目茶苦茶言ってくれるわね、ルーア……」
背後から覗き見るように、ティアがいた。
正気に返ってはいるようだが、視線は刺すようである。
「ねえ……」
ティアは、床に転がる物体を指した。
もくもくと水色の煙を出している、茶色の塊。
大きさは枕ほどか。
なぜか、表面がびくびくと脈打っている。
「……味見を」
「できるか!」
即座にルーアは叫んでいた。
「そうよねえ……いくらなんでも、床に落ちたの食べれないよねえ……」
「いや、それじゃなくて! それもだけど!」
ティアの手を振り解いて、ルーアも物体に指を向けた。
「お前、なに作ろうとした!? なに作ろうとした!?」
「え……わかんない」
「わかれよ!」
叫び過ぎて、喉が痛い。
「他に突っ込みの言葉が思い付かん! わかれよ! 自分がなにを調理しようとしているのかくらい、把握しようよ!」
「えー……」
「えー、じゃなくて! お前、日に日に悪化してるじゃねえか!」
「そんな病気みたいな言い方しないで!」
「病気だ!」
ルーアは駆け出した。
水色の煙が、台所中に充満しつつある。
「とうっ!」
その物体を蹴り飛ばした。
窓を突き破り、外へと飛んでいく。
「あーっ!? ちょっと! なにすんのよ!?」
「浄化だ!」
そう言って、掴み掛かってくるティアを、ルーアは払いのけた。
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