第8話 夜中に目が合った○○○

 普段は気にならない蝶番の音が、いやに大きく聞こえる。


 そして――。


 細く開かれたドア。

 その先の廊下に灯りはついておらず、隙間から見えるのは真っ暗な闇だ。


 あたりは静寂に支配されている。

 ドアはそれ以上開かれることなく、なんの物音もしない。


 なにかいるの? なにがいるの?


 わたしはその細い闇から目を逸らせない。

 まるで時が止まったかのような、時間。

 わたしの心臓だけが、ばくばくと大きく脈打っている。


 誰も、いない――?


 詰めていた息を小さく吐いた。


 ――瞬間。

  

 バタン!!

 

 ドアが大きく開かれた。


「ひぃっ!!」


 長方形に切り取られた闇。

 闇と、目が合う。

 いや、違う。

 闇にうごめく、無数の目玉のうちのひとつ。それと、わたしの視線が真っ直ぐぶつかっていた。


「いやっ! いやあっ!!」


 わたしは視線を振り切ると、四つん這いで、少しでもドアから離れようとあがく。

 けれど六畳のわたしの部屋では、たかが知れている。

 窓際まで逃げて、振り返る。

 と、ぞろり、と闇が部屋へ流れ込んでくるところだった。

 わたしは首を横に振った。


 いや、いやだ――。


 部屋を侵食する闇が、瞬く間にわたしのつま先を呑み込む。

 ひやりとした、ぬるりとした、なめまわすようなおぞましい感触がつま先から這い上がってくる。


 脛が、膝が、太ももが、ずぶずぶと呑み込まれる。

 闇が、幾つもの目玉が、ぎょろりとわたしを見据えて、這い上がってくる。


 恐怖で呼吸ができない。

 このまま呑み込まれたら、わたし、わたしは――。


「いくあ!」


 ふうっと遠のきかけていた意識が、呼び戻される。


「いくあ、こっちに来い!」


 すぐ傍で、わたしを呼ぶ声。


「翔汰っ!?」


 声の主を探すと、ベランダに現れた翔汰が、わたしへ手を差し伸べていた。

 けれど闇はもうわたしの下半身を呑み込んでいる。


「無理っ。ダメなの!」

「手を伸ばせ! 早く!!」

「翔汰っ!!」


 部屋の中からベランダへと、必死に手を伸ばす。

 わたしの手を、翔汰がぎゅっとつかんだ。


「放すなよ!」


 ぐい、と翔汰がわたしの手を引く。


「翔汰、助けて――」

「わかってる。っくそ!」


 わたしの上半身がベランダに出たところで、翔汰がわたしを抱きしめた。


「いくあは渡さねぇ!」


 翔汰が渾身の力でわたしを引っ張ってくれている。

 けれどその小さな体では、しつこくまとわりつく闇の中からわたしを助け出すのは容易じゃないのだとわかる。


 わたしは、引きはがされまいと翔汰に抱きついた。


「翔汰!」

「そいつらを蹴散らしてやれ!」


 言われて、わたしは無我夢中で足を動かす。

 ほんの少しだけれど、まとわりついていた闇が撹拌されたような気がした。

 その隙を、翔汰は見逃さなかった。


「っっっっ!!」


 ずるり、とわたしの体が闇から引き抜かれた。

 直後、翔汰がわたしを抱いていないほうの手で、勢いよくベランダの窓を閉めた。


 べたり、と。


 張り付いた闇が、窓をがたがたと震わせる。

 いくつもの目玉がガラス越しにわたしを凝視する。

 けれど、わたしたちのあいだには明白に境界が存在しているようだった。

 翔汰がアメジスト色の目で、その闇を睥睨する。


「おれをなめるなよ」


 低い、ゾクリとするような声で、翔汰が唸った。


 と同時に、パァン! というラップ音のような音が響いて、闇が霧散する。


 一片の闇も、ひとつの目玉も残さず、まるで何事もなかったかのように、それはわたしの目の前から消え去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る