7.追憶〈4〉
体調は戻ったものの、気分が優れない。何か頭の中がもやもやする。
「こんな時は珈琲でも飲みながら、じっくりとピアノの音色に耳を傾けたい」と、ふと考えてしまった。
思いを巡らしているうちに昼になろうとしていた。そろそろ起きなければいけない気がしたので重い体を起こす。
ちょうどいいタイミングで、家の固定電話が着信を知らせる。母が電話に出たようだったが、すぐに僕を呼ぶ声がする。
家の電話番号を知っているのは雄太くらいだ。しかし、それなら携帯でやりとりできる。疑問に思いつつ受話器をもらった。
「ごめんなさい。いきなり電話掛けちゃって…私、大田です」
「大田さん?なんで番号を知ってるんですか?」
「マスターに番号を教えてもらったの。体調は大丈夫?」
「もう、大丈夫です」
「そう。ならよかった。とりあえず、無理はしないでね」
「はい。気をつけます。それより、今日はいつまでいらっしゃるんですか?」
「一日いるよ。今日も泊めてもらうつもりだし」
「そうですか。ちょっとだけ顔出しますね」
「本調子じゃないなら、来なくて良いんだからね」
「大丈夫ですから…。あの、お電話ありがとうございました」
「私こそ、いきなりごめんね。じゃあまた」
「はい」と返事をして向こうが切るのを確認して受話器を置いた。
その一部始終を聞いていた母は、
「大田さんと、まさか電話をする仲にまでなってたなんてね~」とからかった。
「出会ってそんなに経ってないよ。これから喫茶に行ってくる」
「じゃあこれをマスターに渡しておいてもらえるかしら」と紙袋を渡された。
「息子がお世話になってるから、ちょっとしたお礼よ」
少し中身を覗いて、だいたい中身は分かった。
「朝ごはんは喫茶で食べたら?おいしいわよ~ホットサンド」
そう言われ、あの店のメニューを見たことがなかったと気づかされる。
「朝と昼の僅かな時間だけの限定なんだけどね。結構美味しいって近所でも評判なのよ」
そういうことならと、支度をして、空腹のまま喫茶に行った。
平日、閑散としている喫茶も、週末の昼前となれば半分くらいの席が埋まっている。ただ、相変わらず満席とはいかない。
ざわざわとした店内のカウンター席に大田さんがいた。
「あ、丈人くん。いらっしゃい」
「こんにちは。今日はピアノ弾かないんですか?」
「今は休憩中なの。昨日は途中で帰ってごめんね。体調、本当に大丈夫?」
「大丈夫です。体もすっかり治りましたから」
「そう?ならよかった。何か頼んだら?」とメニューを差し出された。
初めて見るメニュー。
朝食セット 500円
昼食セット 500円
ホットサンド 350円
珈琲 240円
オレンジ 200円
手製プリン 240円
※珈琲以外のメニューは昼1時まで。
と、こんな感じのラインナップ。特に珍しいものはない。
「マスター、ホットサンドと珈琲ください」
「わかった。ちょっと待っててね」
マスターは珍しく忙しそうにしている。
他愛のない会話が続き、その後は彼女のピアノ演奏に聞き入っていた。
気付けば、いつもの閑散とした店内に戻っていた。時刻は2時を回っている。彼女は気が済んだのか、演奏から帰ってきた。
「マスター。お茶出して~」
「お茶?そんなものないよ。珈琲しかないから」
「じゃ、メニューにあるオレンジって何なの?」
「あれは文字通りオレンジだよ」
「えっ!果物の?」
「ああ。見てなかったのかい?今日も注文してる人がいたよ」
「じゃあ、オレンジください」
「もう2時だろ?軽食タイムは終わったんだよ。残念だけど出せないねぇ」
「いじわる…」
この人たちの会話を聞いていると笑ってしまう。本当に仲がいいんだなと思った。
「そういえば、母からこれを預かってきたんですけど」と母から託されていた紙袋を渡した。
「おお、賀代子さんからか。ありがとうと伝えておいてくれないかい」
「わかりました。中身は何なんですか?」
「これは珈琲豆だよ。この間、珍しい豆を仕入れたと聞いてね。今度持ってきてくれるって言っていたんだ」
「何も聞いてないんですけど、お金とか受け取らなくていいんですかね?」
「大丈夫みたいだよ」と張り付けられているメモを見せてくれた。
“息子の食事代の代わりです”とそこには書かれていた。
「いいんですか?」
「この珈琲をもらえるなら、君の食事代くらい問題ないさ」
「すみません」
「よかったね~。あっそうだ!私も渡さなきゃいけないものあったんだ」
そう言いつつ、鞄からコンビニのレジ袋を取り出した。
「マスター、これあげる」と、それを渡した。
「おっ、いつものだね。助かるよ」と言いながら受け取る。
「それは?」
「栄養ドリンクだよ」
マスターが取り出して、印籠みたく掲げる。
「もうお年寄りだからね~。体を労わってもらわないとだから」
彼女は真面目な口調で言う。からかいではなく、本意なのだろう。
「ははは。おじいさん反論できないよ」とおどけてみせた。
二人の会話が途切れて、彼女が僕に問いかけた。
「どうしたの?やっぱりまだ調子悪い?」
心配そうに僕の顔を伺う。どうやら、心配されているみたいだ。自分でも、顔が引きつっていることを自覚している。
体は大丈夫なのだが、気分が優れないのは変わらない。
「大丈夫ですよ。ちょっと考え事をしてただけですから…」と誤魔化してみたが、二人の心配を払拭できなかった。
「僕、このあと予定ができたので帰ります。また来週のどこかで来ます」
「そう…わかったわ。来週はいつも通りいるから、また来てね」
「はい。マスターごちそうさまでした。それでは」
と言って、足早に喫茶を後にした。とてもあの場にいづらかった。
予定があるというのは嘘。行く当てもないので遠回りをして家に帰ることにした。
外は初夏の陽気だ。蝉の便りはまだだが、真夏のようなさわやかな空が頭上に広がる。
家に帰ると、すぐに自分の部屋に籠もった。
ふと目に留まるのは、部屋の隅に立てかけられたギター。
父親の形見で、大切に保管してある。
このギターに触れるようになったのは、父が亡くなった後。
それ以前は父が弾いている姿を数回見かけただけ。当然、触れたことは無かった。
舞衣が父の部屋から引っ張り出してきたことがそもそものきっかけ。
当時の僕は音楽から距離を置いて、毎日何をするでもなく過ごしていた。
毎日のようにピアノとにらめっこしていた少年の変わり様に周りは心配したことだろう。
舞衣も、見ていられなかったのだろうと今になって思う。
あの日、何の前触れもなく僕の部屋に来て、
「お兄ちゃん……これ、弾いて……」と言いながら僕にこのギターを渡した。
音楽と距離を置いている人に楽器を渡すというのは勇気がいることだろう。その声は静寂に消え入りそうだったが、僕を見つめる瞳は何かを訴えようとしていた。
その時、念を押すように掛けられた言葉で、はっと我に返った。
「お兄ちゃんと……また、音楽……やりたい……」
それはどんな言葉よりも僕の胸を打った。
触ってみたいという気持ちと大丈夫なのだろうかという気持ちが交錯したが、母に相談したところ、持ち主が居ないままじゃ可哀想だからと僕に管理を任せた。
そして、趣味でギターをやっていた雄太に教わり、今では人並みに弾ける。
なぜ、舞衣がピアノではなくギターを選んだのかは定かではないが、これが音楽との接点を取り戻すきっかけになり、そして、ギターを始めるきっかけにもなった。
少なくとも僕は、あの日の舞衣の勇気に感謝している。
大田さんと出会うまでの二年間は、受験勉強もあって、ギターを取る回数は減った。
その間に弾いてほしいと頼みに来ることは無かったが、高校入学を機に部活に入るようきつく言われ、それに従って今に至るというわけだ。
学校では弾くが、家で弾くことはない。故に埃を被りつつある。手に取ると時間の経過が分かる。
部活で使っているのは学校のもので、これとは音の響きや弾いた感覚が違う。父が大切そうに手入れしていた聞いている。
だから、僕も大切に扱っている。
そんな時、部屋のドアをノックされた。返事をしてみると舞衣が部屋に入ってきた。
「お兄ちゃん帰っとったん?ただいま~。今日お母さん、遅いよーたけぇ」
「じゃ…晩飯は弁当でも…」
「うち、作るけぇ手伝って!」
「お、おう…」
選択肢はなかったようだ。一人で会話を終わらせて、部屋から出ていった。
妹とは1歳差。標準語と広島弁と英語を使いこなすバイリンガルだ。ちなみに英検2級の持ち主。広島弁は幼いころによく預けられていた親戚のせいで染みついた。
父親が他界したことがきっかけで、家事などを積極的にこなすようになった。以前はもうちょっと大人しい性格だったが、すごくしっかりして積極性が増した。
妹の料理を手伝い、共に食事を済ませたあと、洗い物を一手に引き受け、部屋に籠る。
ふと、雄太のことが気になり、メールをしてみる。最近あったことをすべて書き、そっちがどうかと訊いてみた。
~~~
疲れてんじゃないのか? 部活の方も大変みたいだし、無理はするなよ。まぁ俺よりは暇そうで羨ましい。
喫茶の人にあんまり迷惑かけるなよ。なかなか顔出せないから忘れられてんじゃないのかな(笑) 残念だけどまだ当分行けそうにないわ。
俺の方は順調だ。コンクールに出ることになったし。
なんかあったらまたメールくれ。じゃーな! ~~~
久々のメールだったため、彼にしては長めの文章だった。
簡単に返事を済ませて、ベットに横になった。
ぼーっと天井を見つめていた。
「お兄ちゃん…」
ふと我に返ると、妹がドアからのぞき込んでいた。ノックに気づかなかった。
「何かあったん?」心配そうに顔を覗く。
「大丈夫!大丈夫だから。ごめんな心配かけて」
「そうなん?…ならいいんじゃけど…」
「で、何か用か?」
「あ、あの……相談したいことがあるんよ」
真剣な顔に変わった。真面目な話らしい。
「なんだよ、珍しいな」
「うちな、私立の音楽関係の高校を目指そうって、思っとるんじゃけど……」
意を決して打ち明けたようだった。
「そうなんだ。で?」
「学費のこともあるし、バイトしたいって考えとったんじゃけど、うちの学力じゃ、“えっと勉強せんといけんじゃろ~”って、言われかねんじゃん」
「確かにな」
「入学試験にピアノ演奏もあるけぇ尚更、許してくれんと思うんよ…」
「で、僕に何をしろって?」
常々バイトをしたいと言っていたのだが、母から勉学に専念しなさいと言われているのだ。いくら学費を稼ぐという目的があっても、受からなければ本末転倒。
専攻科を備える高校なだけに、実技試験もただ弾けばいいという簡単な話ではないだろう。
「勉強教えてくれんかなって……」
「教えるのは別にいいけど、両立できるか?」
「出来んと思よーるんなら、そがーなこと頼まんじゃろ!」
強い口調は珍しくて、戸惑った。とりあえず、気合いは十分のようだ。
「ただ、教えるって言っても、限界があるからな…」
英語以外の成績は下の中くらいだ。最低とはいかないものの評価はそれなりに悪い。浅はかな計画に思えるが、とりあえず話を進める。
「浦高に入れたじゃろ?」
「そりゃそうだけど、あそこは定員割れで、昔ほど敷居の高い学校じゃないよ。昔の浦高なら落ちてる」
「滑り止めで、保志浜学園受けとったくせに…」
保志浜学園とは、かつて浦高と学力で1、2を争っていた進学校だが、教育方針が独特なのと、街から外れた山の中という辺鄙な立地で、近年は人が寄りつかなくなっている。
統廃合の煽りを受けて消滅するのでは?という噂が後を絶たないほどだ。
あまり乗り気ではないが、とりあえず、引き受けなければ、喧嘩になりかねないので返事をしておく。
「…分かったよ。教えればいいんだろ」
「ありがとー。そんなお兄ちゃんが大好きじゃけ!」と抱き付いてきた。
子供の頃からの癖のようなもので慣れてはいるが、さすがにこの年齢になると恥ずかしい。反射的に妹を体から引き離した。
「やめろ。用が済んだら出てってくれ」
少し怒り気味に言った。
「は~い」とふて腐れて出てった。
彼女と会話をして、いくらか気分が晴れた。
厄介事を引き受けてしまったが、妹の頼みなら仕方ないと思えた。
彼女には色々と迷惑を掛けてきた。だからこそ、頼られたら極力、力になりたいと考えている。
勉強は得意ではないが、少しくらいなら力になれるだろう。そう目算しながら、本棚に仕舞っていた中学時代の教科書を取り出した。
そして、彼女が苦手だという単元のページを開き、頭を抱えるのだった。
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