6.追憶〈3〉


「大丈夫?」「大丈夫か!」と心配する二人の声に応えるように首を縦に振る。大田さんが僕の額に手を当て熱を確認した。


「大丈夫かい?何があったんだい?」

普段は穏やかなマスターだが、この時ばかりは真剣だった。

「わかりません…立とうとしたら立てませんでした…」

「熱はないみたい。体はどう?痛いところはない?」

その問い掛けに平気だと伝えるが、全然立ち上がれない。


「奥で休むかい?まだ5時半だ。少し休んでいきなさい」とマスターは入り口のOPENの札を回し、奥への扉を開いて準備をしに行った。

大田さんは、動けない僕をおんぶして部屋へ運んでくれた。長くきれいな髪が顔にふれ、いい匂いもしてきた。

年上の異性にこんなことをされるのは初めて。正直ドキドキする。


普段入ることのない部屋。事務室みたいだ。

デスクにはパソコンといろいろな資料のようなものが置かれており、本棚には珈琲にまつわる本や経営にかかわる本のほか、ピアノの楽譜のようなものまで並べられている。中央に背の低い机とソファが置かれており、そこに僕は、横にされ毛布を掛けられた。


「ここは普段、私の部屋として使っている部屋よ。休日なんかはここで仮眠をとったりしてるわ」とこの部屋の説明をしてくれた。

「私はまだ店があるから、ちょっと表に出るけど、何かあれば言ってくれ」とマスターは部屋を後にした。


「あの…時間は大丈夫ですか?」

「私なら大丈夫。今日はマスターの家に泊めてもらうことになってたから。もう少ししたら夕飯の手伝いに駆り出されちゃうけどね」

「マスターと本当に仲がいいんですね」

「ここ夜にはバーになってね。遅くまで営業してるから、ピアノの練習にはぴったりなのよ。だから、マスターの奥さんに夜遅くなるならって、時々泊めさせてもらっているのよ」


「そういえば、世羅くんは門限とかあるの?」

「ないですよ。8時くらいまでに帰れば、何も言われません。今日は喫茶に寄るって伝えてあるので」

「そう、なら少し寝なさい。ちょっと休めば楽になるわ」

僕はそう促されて眠りについた。


眠っている時に夢を見た。

僕が彼女とライブをしている夢。しかも二人だけで。

きっと目前に控えるライブのことと、彼女の姿が夢の中で混ざり合っただけだろうが、心のどこかでそれを望んでいるように思えて、恥ずかしくなった。



ふと、目が覚めて身体を起こした。そのころには大分楽になっていた。どうやら一時間半ほど眠っていたらしい。

彼女の姿は無い。マスターの家へ行ったということだろう。

まだフラフラするが自力で立ち上がれた、壁に手をついて身体を支えながら、喫茶の店内へ戻る。


マスターが声をかけた。

「もう、大丈夫なのかい?」

心配そうに尋ねる。

「はい…もう大丈夫です。ありがとうございました」

「とても大丈夫そうには見えないぞ。一人で帰らせるなって彼女がうるさいから家まで送るよ」

とマスターが車のキーを見せた。


「そういえば、大田さんはどこに?」

「彼女なら、私の家に行ってるよ。夜の営業が始まるまで時間があるから、その間に腹ごしらえっていう感じかな」

「あの、看病ありがとうございましたと伝えておいて頂けますか?」

「わかった。ちゃんと伝えておくよ。さぁ、表に車を出してあるから」と出口まで支えてもらって外に出た。


まだうっすら明るいが、辺りは深い青に包まれている。店が並ぶ通りではあるが、シャッター通りと化しているため明かりも人の気配も少ない。


家までの道のりを教え、向かってもらった。あっという間に着いたこともあり、その間、マスターと話をすることはなかった。


お礼を言い、車を見送った。


家に帰ると母親が「大丈夫?喫茶で倒れたって聞いて驚いたわよ」

「ごめん……というか、なんで母さんの連絡先知ってるの?」

「そりゃ、知ってるわよ。うちのお得意様だし、一応仕事以外でも交友のある顔なじみなのよ?」

「そうだったんだ……」

「学生証で住所見て、驚いたって言ってたわ~」


「でも、まさか、女の子と会ってたとはね~」とからかった。


母は飲食店向けに食料品を卸している会社に勤めている。女手一つで二人の子供を育てるシングルマザーだ。


「マスターとも仲良くなったのね」

「まぁ。顔なじみにはなったかな」


「少し寝てくる」と言って自分の部屋に行った。


「晩ごはんは?」などの質問に適当な返事をしつつ、部屋のドアを閉めた。


ベットで横になった。額に手をやると熱いと感じるくらいの熱を持っていた。

風邪の気配など無かったのだが……。


ふと目線を本棚に移す。

久しく手に取られていない楽譜が並ぶ。


「お前の曲はいつもありきたりなんだよ…」という言葉が頭をよぎった。

「懐かしいな…なんで、今更思い出すんだよ…」と呟いた。


5年くらい前、いわゆる小学生の頃のこと。音楽関連の会社に勤務していた父が手掛けた音楽スクールに通っていた。

テーマに合う曲のフレーズを自作して、発表会で演奏する課題が毎月のように出ていた。


僕にそんな素質はなく、いつも誰かの真似をするばかり。

だから、スクールでは講師に、家では父にこの言葉をよくかけられた。


スクールは父が他界してすぐ、経営難に陥り廃校になった。


他界して少し経ってからやめるつもりでスクールに挨拶に行った際、会社の人から父が立ち上げたんだという話を聞かされ、残る決意をした。しかし、その数ヶ月後にスクールは突如閉鎖された。


当時は大人の事情など知る由も無かったから、何が何だかわからなかった。


そこからはあまり音楽に触れることが無くなった。

その空白の時間が、音楽との向き合い方を良くも悪くも変えた。


当時からの付き合いはほとんど絶たれ、ピアノの腕も落ちた、

でも、ギターを始めるきっかけになった。新たな仲間もできた。


今は音楽のある日々が戻ってきている。望んでいたものとは言えないが、それでも充実した日々に変わりはない。


それもこれも妹のおかげだ。


母がご飯を持ってきてくれたらしく、廊下に置かれていた。

晩飯を食べて、食器を洗いに行き、トイレと歯磨きを済ませた。

原因がよくわからないが、身体はもう本調子に戻っていた。


部屋に戻ろうとしていると、妹が自室の扉から覗く。

昨日の警戒感はなく、素直に心配しているようだった。

「お兄ちゃん、大丈夫なん?」


できるだけ、心配させないように大丈夫と伝えると、

「何かあれば、言うんよ?」と言われた。


そっくりそのまま言い返してやりたいところだったが、素直に返事をして部屋に戻った。


彼女が心配しているところは極力見たくない。少なくとも自分のことで心配をかけたくはなかった。

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