5.追憶〈2〉
「すまん。もう少し待ってくれ」
翌日、部室に向かうと先生は申しわけなさそうに伝える。
代役を見つけられなかったようだが、そこに一人の生徒が手を挙げた。
吹奏楽メンバーの
吹奏楽メンバーの中でもリーダー的な存在だという戸辺さん。
ツカは大丈夫なのかと尋ねた。
「いいわよ。どうせ、もうすぐ引退だしね。それにやってみたかったんだ」
その心配をよそに明るく答える。
「すみません。ありがとうございます」
ハナがお礼を言った。
卒業公演をすでに終えており、コンクールに出る予定もない。
思い出づくりにと引き受けてくれた。
これで普段の練習を再開できる。それを一番喜んでいたのは、言うまでもなくツカだった。
練習を終え、軽い足取りで喫茶に向かった。もう、日常の風景と化した店内。
いつものようにカウンター席に座り、出されたモカコーヒーを啜る。
閑古鳥が鳴く店に響くピアノの音色。
「マスターと大田さんって、どういうご関係なんですか?」
演奏から帰ってきた彼女に気になっていたことを訊いた。
「そうだな~友達以上恋人未満かな~」とマスターが
「そんな関係じゃないから! ただの親戚よ。ピアノができるスペースを探していた時に、お父さんからここを紹介してもらったの」
「もう5年くらいになるかな?」
マスターが振り返る。
「なんで、人前でピアノを弾こうと思ったんですか?」
その質問に他意は無かった。
場所を探してまで人の前で、それも、音楽目的な人ばかりとは言えない場所でやろうと思った理由が気になった。
彼女は普通に答えてくれた。
「好きなの。でも、たくさんの人の前でやるより、こういう所で弾いてるほうが好きなんだけどね」
コーヒーを一口飲んで、話を続ける。
「家庭の事情で3歳からピアノを始めたの。たくさん賞やトロフィをもらったんだけど、次第に求められるものは高くなって……。それが嫌で、コンクールを全部投げちゃった……それ以来、ステージでは数えるほどしか弾いてない」
彼女は表情を曇らせた。どうすればいいか分からず、「そんなことがあったんですか」としか言えなかった。
「でも、自分の意志でそうしたわけじゃないの…」ともう一度カップに口を付ける。
「ある日、講師の人に相談したの。ピアノから距離を置きたい。だけど、ピアノは弾いていたい。って。言ってることはめちゃくちゃなんだけど、その人は時間をかけて私の気持ちを汲み取ってくれた」
「それでここに?」
「いや、その時は結果を問われない演奏会に出たらどうだって提案してくれたの。積極的にはなれなかったけど、何度か参加させてもらった。ここでやってるのは、その延長みたいなものよ」
意外な過去を知った。思えば、彼女のことを何も知らない。
「それだけピアノが好きだったんですね」
軽い相づちのようなつもりだったが、さらに話を引き出してしまう。
「…いや、ピアノに愛着があったわけじゃないの…ずっと、このままピアノ一本で生きていくべきなんだって…思い込んでただけ…子供の頃からそればかりだったから」
カップの横に並べられていたグラスの水を飲み干して、話を続けた。
「私の父は音楽の教師で、母はピアニストなの。そんなに有名じゃないけどね……。そういう家系だから、物心つく前からピアノやってて、少し大きくなって、他にやりたいことができても、決して許してはくれなかった」
「そんな苦労があったんですね……」
「家では親にピアノのイロハを叩き込まれ、周りの大人から過度に期待され、ピアノを習っていた同年代の子たちからは妬まれる日々……正直地獄だったわ」
予想外にいろいろと教えてくれたことに動揺した。
「そうだったんですか……なんかごめんなさい…変なこと聞いて」と謝った。
「こっちこそ、ごめんね。変な話聞かせたね…。忘れてちょうだい…」と返事をして、また表情を曇らせてしまった。
見かねたマスターが、
「別に拒む理由はなかったし、彼女がそれを心から望んでいたから貸したんだ。どうせ、彼女以外に弾く人はいないから…」
「彼女に少し期待していたところがあったのは事実だよ。いい宣伝になるかもって。実際、君みたいにピアノ目当てのお客さんも来てくれるようになったし」とフォローする。
営業中とは思えない店内で3人の会話が続いた。
「…このことは誰にも言わないでね。一応、内緒にしてることだから」
「もちろん、誰にも話しません」と誓った。
自分だって明かしたくない過去の一つや二つある。それ以上、触れないことにして帰ることにした。
「そろそろ帰りますね……」
と席を立った時だった。
足に力が入らず、そのまま膝をついてそのまま倒れた。
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