♯2
「キル坊、大丈夫か?」
クィンティルラは後席でキルスティがカタカタ震えているのを感じ、一応そう声をかけてから、我ながら偽善的パフォーマンスだなと思った。
大丈夫かと声かけたところで、これから行う事に際し、彼女に対してクィンティルラが出来ることは何一つ無いのだ。
今、クィンティルラにとってキルスティという人間は、極端な言い方をすればただ生きた積み荷にしか過ぎない。
無事木星上空
――〈じんりゅう〉艦尾下部格納庫・昇電DSコックピット内――――。
昇電の発艦準備を淡々と進めていたクィンティルラは、そんなこと考える自分を軽く恥じ、返事の来ない後席を振り返って見て、見晴らしの良さに軽く驚いた。
長身のフォムフォムが座っている時に比べ、ソフティスーツの上からパイロット用装具一式を着込んだキルスティが、あまりにも小柄だった為だ。
同時にフォムフォム無しで飛ぶことの心細さを改めて実感する。
身長についてはあまり他人の事は言えないが、キルスティがそこに座っている光景は、明らかに場違いで頼り無い雰囲気を漂わせていた。
わざわざ尋ねるまでも無く、彼女に飛宙戦闘機の後席に座った経験などあるわけがなく、彼女が緊張の極致にいることは明らかだ。
そんなクィンティルラの思いを知ってか知らずか、キルスティは震える手でサムズアップしてみせた。
「……そうか、ならばよし」
クィンティルラは他に言葉も思いつかず、再び正面に向き直った。
余計な事を考えている暇は無い。
目の前の任務に集中せねば、クルー全員の命が無いのだ。
…………それに、後席にフォムフォム以外の人間を乗せるのは、これが初めてというわけじゃ無かった。
ついでに言えば、前回フォムフォム以外を後ろに乗せた時のフライトは、今にして思えば悪く無い思い出でもあった。
「プリ・フライトチェック完了、昇電DS全システム・オールグリーン」
『ブリッジ了解、艦尾下部格納庫ハッチ開放します』
クィンティルラは発進準備が整ったところでブリッジに連絡すると、サヲリ副長の返事が返ってきた。
クィンティルラはブリッジに「了解」と答えると、機内からガントリーアームを操作した。
艦尾下部ハッチが開いても、UVシールドが展開されている為に、格納庫内に外圧による影響はまだ無い。
ガントリーアームに掴まれた昇電は、機尾をハッチに向けた態勢でゆっくりと船外へと押し出されていった。
同時にシートの背もたれに背中がどすんとばかりに押し付けられた。
キルスティが背後で「きゅっ」という声を漏らす。
艦の外に出た為に、艦内人口重力の加護の元から木星の2.5G重力の中に晒された為だ。
突然二倍半になった自分の肉体の重さに、呼吸すらひと苦労になってくる。
パイロットたるクィンティルラには、これぐらいのGはまだまだGの内に入らないが、キルスティにとってはそうはいかないだろう。
昇電が発進すれば、Gは2.5Gどころではすまなくなるのだ。
「アーム開放、昇電離艦する」
クィンティルラは時間を無為にしない為に、さっさとガントリーから昇電を開放した。
「ひぃゃぁぁ」
キルスティの微かな悲鳴と同時に、コックピット内が一瞬0Gになり、〈じんりゅう〉からの接続が完全に立たれた昇電は重力に引かれ、そのまま落下しそうになったが、クィンティルラがスラスターを吹かすことで機首を真上に向けた状態で空中停止させた。
普段とはまったく違う環境下での普段とはまったく違う発艦に、クィンティルラはやれやれと溜息をつきながら、早くも操縦堪を握るグローブの中で汗がにじむのを感じた。
普段であれば、メイン・スラスターノズル上部の格納庫から、電磁カタパルトで一気に加速投射される。
だが、今回上部格納庫は曳航式センサーブイのケーブルボビンが収まっている為に使えず、昇電はメインスラスターノズルを挟んで反対側の艦尾下部格納庫から、ガントリーアームで掴まれての静々とした発艦となった。
〈じんりゅう〉の船体からは離れたものの、まだ〈じんりゅう〉の展開するUVシールド内にいる為、木星雲海内の高温高圧の影響は無い。
昇電はそのUVシールドに接触しないよう、細心の注意をはらいながら〈じんりゅう〉船体を這うようにして、艦尾から艦首に向かって上昇していった。
昇電自体は、セーピアーと同様にノォバチーフにより木星雲海内用
水生哺乳類のような昇電そのものの姿は、耐圧カウルによって完全に覆われ、内部は高重力下用GキャンセラーやUVキャパシタが押し込められている。
木星の2.5Gの重力と、高圧大気内を
だが、見違える程の改修を施しても、限られたUVエネルギーしかもたない昇電が、UVシールドを展開して現深度の木星高圧大気に耐えられる時間は一〇分も無い。
その時間内に高圧大気内から脱出できなければ、昇電は搭乗者ごと豆粒程までに押し潰されてしまうことだろう。
時間を無駄には出来ない。
すでに〈じんりゅう〉はスマートアンカーを巻き取りながら僅かに上昇し、ピラー壁面に出来た裂け目の傍ギリギリまで近づいていた。
その〈じんりゅう〉艦首付近にまで昇電はたどり着くと、作戦開始までの僅かな時間の待機に入った。
クィンティルラの装着するHMDには、インストールされた簡易版
裂け目は発生時から大分広がり、昇電が楽に通過できるサイズとなっていた。
ピラー内部の様子は、すでに裂け目から打ち込んだプローブによって、最短でも200キロは直線になっていることが確認されている。
ユリノ艦長は昇電にそこを通らせるつもりなのであった。
確かに軌道エレベーターのピラーは直径が200メートルあるのだから、全幅20メートル弱の昇電は理屈の上では通過可能だ。
それに現在軌道エレベーターのピラーは、超ダウンバーストと、〈じんりゅう〉が掴まった影響でほぼ垂直になっている。
どこまで垂直かまでは分からないが、雲海上層までのかなりの距離まで、垂直となったピラーが通じているはずだ。
そして、この策の一番重要な点は、ピラーの内部は外部から隔離されている為に、無風であったということだ。
外壁に守られた回廊を登ることで、昇電は下降気流に逆らう必要無しに上昇できることになる。
ピラー内を昇る分には、現在〈じんりゅう〉を襲わんとしている長ダウンバーストの心配は無い。
この方法ならば、UVキャパシタしかもたない昇電の、限られたUVシールド展開時間のリミットが来る前に、この雲海から脱出が可能かもしれない。
だが、多少の算段があるとはいえ、このプランが充分以上にギャンブルであることは間違いない。
不確定な要素が多々ある。
どこまでピラー内が通過可能な状況なのか分かったものでは無いのだ。
10万キロの長さをもつハイパー・ナノ・カーボン製のピラーそれ自体は、ミクロな視点ではさておき、マクロな視点で言えば極めて柔軟な建造物と言える。
内部に注入された木星大気に内圧で、木星と静止衛星軌道間を繋ぐ柱だった時はともかく、内圧を失った今は、ガス潮流に翻弄されのたうつ気の抜けたチューブに過ぎない。
どこかかでピラーが使い棄てられたストローのごとく、捻じれたりひん曲がっていたならば、昇電はそこで行き止まり……いや、衝突してデッドエンドだ。
さらに高速上昇中に僅かでも内壁に接触すれば、昇電は即バランスを崩し、ピンボールの玉となって内壁をジグザグに衝突しまくりやはりデッドエンドとなるだろう。
クィンティルラは自分らだけ〈じんりゅう〉から脱出することを、後ろめたく思う必要は無い気がしてきた。
むしろこっちが先に天に召される可能性が高いくらいじゃないか! と一言言いたい気分だ。
後席のキルスティも、その事が分かっているから先ほどからカタカタと震えているのだろう、
だが、全員で助かる為には必要な任務だ。腹を括るしかない。
キルスティは大分前からすでに決心していた。
ユリノ艦長からは『サバイバル優先』云々といわれているが、そんなことは知ったこっちゃ無い。フォムフォムも他の皆も、あきらめるつもりなど毛頭無かった。
『艦長より昇電へ、あまり時間が無いのでこれが最後の通信になるわ。約30秒後に〈じんりゅう〉はUV弾頭ミサイルを裂け目からピラー内に発射。昇電はそれを追いかけ裂け目に突入。ピラー内を溯り、雲海からの脱出を試みます。まぁ多少難儀かもしれないけれど、クィンティルラならできるわ! キルスティちゃんも、上についたらテューラ司令によろしく言っておいてね! それじゃ!』
〈じんりゅう〉側もスタンバイ出来たのか、ユリノ艦長の一方的にまくし立てるような通信がコックピットに響いて来た。
「りょ、了解……です」
「クィンティルラ了解!」
なんとか声を絞り出したキルスティと共に、クィンティルラはそれに答えた。
心の準備を待つ余裕などあるはずもなく、昇電の旅立ちの時は来た。
『カウントTマイナス5……4……3……2……1……ミサイル発射!』
「ミサイル、ピラーへの突入を確認!」
『いけ昇電!』
カオルコ少佐の宣言と共に、〈じんりゅう〉艦首より放たれたミサイルが、ピラーに空いた裂け目へと吸い込まれると、ユリノ艦長が叫んだ。
「いくぞ!」
キルスティに対し……というよりは自分に対し叫びながら、クィンティルラはミサイルを追いかけるようにして、愛機をピラーにぽっかりと空いた裂け目へと突入させた。
「ひぃぁぁあぁあぁ…………!」
可聴域を超えそうなキルスティの悲鳴がコックピットに響く。
HMD視界の上下左右をハイパー・カーボン製の内壁が高速で擦過していく。
さらに、ピラー内の木星大気が粘っこい抵抗となって、クィンティルラの昇電のコントロールに反応誤差を与えていた。
半年前、地球に休暇で降りた時に乗ったメトロという乗りもの先頭車両から見た景色に、今コックピットから
が、レールに乗っている限り壁にぶつかる心配の無いメトロと異なり、今の昇電にピラー内壁との衝突を防いでくれるレールの類など無い。
僅かでもコースが狂えば即死が待ち受ける中を、昇電は全速力で上昇を開始した。
クィンティルラは飛宙機用
さらに昇電には、フォムフォムとおシズが組んでくれたピラー内飛行用操縦補助プログラムが走らされている。
そのお陰で、クィンティルラはスロットル全開でスラスターを吹かし、上昇に専念できていた。
クィンティルラは一緒に飛んではいないが、フォムフォムの存在を昇電に感じ、勇気が百倍になる気分であったが、それでもなお軌道エレベーターのピラー内を昇電で飛行するという行いは、一瞬の気の緩みを許されなかった。
ピラーの円筒の断面は、綺麗な真円では無く、不規則な楕円形となって、昇電と内壁との距離をランダムに変えて来る。
「……くそぅ!」
クィンティルラは内壁の形状に合わせ、必死に昇電をロールさせ内壁との接触を避け続けた……これを機に閉所恐怖症になるかもしれないと思いながら。
ギリギリの垂直上昇が続く中、木星の2.5Gに加速Gが上乗せされ、呼吸もままならなくなるだけでなく、全身の骨がミシミシと鳴るのを感じた。
動かせるのは眼球と指先だけだ。
だが、同時にユリノ艦長の思惑通り、昇電はピラー内を通過することで超ダウンバーストの影響を受ける事無く、猛烈な勢いで雲海上層へと向かっていた。
機外の気圧が急激に低くなっていく。それに合わせ、UVシールドにかかる負荷が減り、UVシールド展開維持時間が延長されていく。
それでも雲海上層までUVシールド展開維持限界までギリギリであったが、このまま垂直上昇し続けられれば、雲海からの脱出は叶うはずであった。
昇電は〈じんりゅう〉発艦深度から、雲海表層まで残すところあと二割まで上昇していた。
「……もう少し……もう少し」
呪文のように唱えながら、必死にGに耐え昇電を上昇させる。
だが、心なしか垂直だったはずのピラーが、僅かにカーブし始めたと感じた瞬間、無情にもコックピットに衝突アラートが鳴り響いた。
衝突アラートは、〈じんりゅう〉が先行して偵察プローブの替わりに放った、UV弾頭ミサイルから送られてきたものであった。
ピラー内の状況を数10キロ程下方にいる昇電に伝えるためだ。
UV弾頭ミサイルには、フォムフォムが組んだプログラムによって、ピラー内部が昇電の通過不可能だった場合、即座に昇電に危険を知らせるようになされていた。
とはいえ、ピラー内部を高速上昇中の昇電には、逃げることも止まることも許されない。
アラートは心の準備をパイロット達に与える以外の意味は無かった。
ピラー内部は通過不可能であった場合の対処は、UV弾頭ミサイル自体が解決する。
その為にプローブではなくUV弾頭ミサイルを放ったのだ。
もとより10万キロもある軌道エレベーターのピラーが、昇電が上昇するのに都合の良い状態を、最初から最後までキープしているなどとは、ユリノ艦長も思ってなどいなかったのだ。
昇電の機首の先で、ピラーがどういう状態になっていて、昇電が通過不可能であるとUV弾頭ミサイル内のフォムフォム製プログラムが判断したのかは分からない。
だが、クィンティルラがコックピット内にアラートが響いたと思った瞬間、昇電前方で一瞬虹色の閃光が瞬くと、まるで幻聴であったかのごとくアラートが解除された。
UV弾頭ミサイルが起爆し、そこから上のピラーと切断されたのだ。
これにより、昇電がピラー内部で行き止まりに衝突する危険は去った。
だが同時に、超ダウンバーストからピラー内部を通過することによって守られはしなくなってしまった。
間も無く真上を向いた昇電の機首の彼方から、猛烈な下降気流が襲いかかり、昇電の上昇を妨げるはずであった。
当然、上昇速度は激減し、雲海脱出までの所要時間は伸びることとなる。
そうなってしまえば、UVキャパシタに溜められた限られたUVエネルギーしか持たない昇電は、雲海脱出前にUVシールド展開維持限界に達してしまい、雲海内の高圧により圧壊してしまうはずであった―――――理屈の上では。
ユリノ艦長もフォムフォムも、当然予測されうるその事態に、対処を怠ってはいなかった。
当然、当事者たるクィンティルラもキルスティも、その奥の手について承知してはいたが、正直気のりはしていなかった。
「……ってことは……!!」
クィンティルラは先行したUV弾頭ミサイルの爆発の意味に思い至り、これから起こる事を想像して戦慄した。
クィンティルラ達には確認のしようのない事であったが、数分前、昇電がピラー内部に突入した数秒後に、〈じんりゅう〉はさらにもう一機のUV弾頭ミサイルを、昇電の10キロ程後を追尾させるようにしてピラー内部に放っていたのだ。
先行のUV弾頭ミサイルが、ピラー内部の状況から衝突アラートの信号を昇電に送ると同時に、昇電は下方で追尾しつつ上昇していたもう一機のUV弾頭ミサイルに起爆信号を発信。
昇電の下方のUV弾頭ミサイルは、信号を受け直ちにピラー内部で起爆した。
この時、UV弾頭ミサイルは、敵UVシールド貫徹用・指向性炸裂モードで起爆した。つまり進行方向へ爆発エネルギーを集中するように爆発した。
その爆発エネルギーはピラー内部故に拡散することなく、運動エネルギーとなって昇電ごとピラー内部の木星大気を思い切り真上に向かって蹴り上げた。
その瞬間、昇電はピラーをバレル替わりにした、古式ゆかしい火薬式ピストルの弾丸となった。
一瞬クィンティルラの瞼の裏に火花が散り、意識が途切れる。
先ほどまでをさらに上回る加速Gが、搭乗者の肉体を襲う。
さらにクィンティルラはBMIを介して、後席のキルスティの肉体が危険な状態になっていることに気づいた。
パイロットでも何でもない人間に、この加速Gは苛烈過ぎるのだ。
クィンティルラはこの事態に対し、昇電の生命維持装置が搭乗者の肉体的限界を自動検知して、人口重力を利用した慣性相殺システムが起動し、肉体にかかるGが減ずるのを感じた。
しかし、ここでUVエネルギーを消費する慣性相殺システムを使い過ぎれば、UVエネルギーを消費しすぎてUVシールド展開維持時間が減ってしまう。
クィンティルラは、昇電発進前に後席のキルスティをただの荷物だと思うようにしていた自分を恥じていた。
ことここに至ってはクィンティルラのパイロットとしての技量など関係ない。
昇電はユリノ艦長のアイディアを元にフォムフォムが組んだプログラムによってコントロールされており、操縦席に座る自分もキルスティと変らないただの積み荷の一つに過ぎなかった。
――こんなんじゃ……俺が選ばれた意味ないじゃんか!
クィンティルラは憤ると同時に、そんな自分を許しはしなかった。
自分に課せられた任務は、技術者たるキルスティとエクスプリカのメモリを確実に
たとえ荷物と同じ程度のことしか出来なくても、自分は昇電のパイロットなのだ。
クィンティルラは自分に出来る唯一のことをした。
BMIを介して、自分の肉体を守っている慣性相殺システムをカットしたのだ。
再び苛烈極まりないGが肉体を襲う。明らかに身体の中で幾つかの骨が折れたのを感じた。
だがクィンティルラは、薄れ行く意識の中で満足していた。
自分の分の慣性相殺システムを切ったお陰で、UVエネルギーが節約できたからだ。
これでUVシールドと推進力に回すUVエネルギーが確保できる。
昇電はピラーをバレルにした弾丸のごとく、先行していたUV弾頭ミサイルによって開口したピラー先端から、ズパァ~ンという破裂音と共に吐き出された……いや撃ちだされた。
その上昇速度は、一時的にピラー内部を昇電が自力で上昇していた時を、はるかに上回っていた。
ピラーから飛び出した昇電は、雲海表層まであと200キロ強の高度まで達していた。
だがそこはまだ超ダウンバーストの影響がある高度であった。
UV弾頭ミサイルの爆発を利用した運動エネルギーを使いきった昇電は、再び自前の推力のみで上昇を続ける。
クィンティルラは薄れかかった意識の中で、必死に機体をコントロールし続けた。
昇電が辿り着いた雲海深度200メートルは、まだ雲海内とはいえ、巨大な乳白色の雲の渓谷の中であった。
見上げれば
昇電の航法装置が、ただちにここが木星の赤道と大赤飯との接触点のやや東であることを知らせた。
クィンティルラは朦朧とする中、昇電を上昇させつつ、木星の自転速度を利用して高度をとる為に、赤道上を東へ向かって進むように舵をきった。
「……ク……クィンティルラ大尉……大丈夫ですか……返事して下さい……」
キルスティがかすれた声で後から呼びかけてくるのが聞こえた。
どうやら後席でも、自分が前席の慣性相殺システムをカットしたことは把握していたらしい。自分の肉体は、キルスティが心配せねばならないほど危険な状態のようだ。
そういえば、口の中が血の味がすることにクィンティルラは気が付いた。
だがまだ休むわけにはいかない。クィンティルラの任務は、まだ終わったわけでは無かった。
昇電のUVエネルギーが尽きようとしていた。
間も無く推進エネルギーもUVシールドも使えなくなる。
だが、最低限のUVエネルギーは、木星の強烈な電磁波と放射線からの防御に残さねばならない。さもなくば、昇電の雲海からの脱出に関係無く、コックピットのなかで二人はお陀仏になってしまうからだ。
現行の速度とコースでは、昇電は雲海の上層に辿り着くことはできそうであったが、その速度は木星の重力圏脱出速度とは程遠い。
一度雲海から脱した昇電は、ペーパークリップの端のような急カーブを描き、再び重力に引かれて雲海に落下してしまうはずであった。
クィンティルラも木星重力圏から脱出できるとは考えていなかったが、が、雲海から飛び出ている時間は少しでも長くとりたかった。
そうすれば
だが、推力無しでこれ以上の上昇など、無理な相談であった。
「大尉……大尉ったら……しっかりしてください!」
キルスティの悲痛な声が響く。
彼女の声は弱々しかったが、それでもクィンティルラが思っていたよりかは元気そうだったので、彼女はほっとした。
「大尉! ……左右から……凄いのが迫ってきているんです! ……大尉!」
勝手に安堵していたクィンティルラを余所に、キルスティの声が段々と切迫したものになってきているような気がした。
――凄いの? ……凄いのって何だ?
キルスティの言葉に、クィンティルラは億劫そうに首を捻り、機体の左右を確認してみた。
昇電を左右から挟む乳白色の雲の渓谷が、ついさっき確認した時よりも、心なしか狭くなってきている気がした。
まるで巨大なプレス機の中にいるような気分だった。
クィンティルラが中々気づくことが出来なかったのは、左右の雲の壁が余りにも巨大過ぎて、高速で狭まってきていてもゆっくりにしか見えなかったからだった。
クィンティルラの脳裏に、〈じんりゅう〉バトルブリッジ内でおシズが言った超ダウンバーストに着いての考察が、一瞬にして蘇った。
おシズが作ったシミュレーションでは、沈みゆく赤道に引っ張られた南北のガス潮流が、赤道上で衝突することによって、断続的な超ダウンバーストが発生するとされていた。
昇電は、今まさに衝突せんとする南北からのガス潮流の間に浮上してしまったのではないだろうか?
だとしたならば、昇電は数秒後に、その巨大なガス雲のプレス機に挟まれることになる。
ようやくここまで来たというのに!
「クィンティルラ大尉!」
キルスティが半泣き状態で呼びかけて来る。
だが、クィンティルラは答えなかった。
答える力が無かっただけでは無い。
答える必要も、心配する必要も無かったからだ。
キルスティががうろたえる中、ついに昇電に蓄えられたUVエネルギーが、対電磁波・放射線遮断用を除き全て使いきられた。
昇電は慣性のみでしばし上昇を続けると、放物線の頂点に達し、そこからゆっくりと雲海へ向けての降下を開始した。
そんな抗う術を持たない昇電に、ガス雲の壁が左右から情け容赦なく叩きつけられた。
クィンティルラが思ったよりは、はるかに心配すべき衝撃であった。
左右から襲いかかった雲のプレス機の衝撃は、UVシールドを失った昇電の追加カウルを情け容赦なくベコベコにした。
だが辛うじてではあるが、カウル内の昇電本体だけは無事で済んだ。
そして、その0コンマ数秒後、昇電はまるで二つのローラーに挟まれたバッティングマシーン内のボールの如く、斜め前上方に向かって吹き飛ばされた。
コックピットにキルスティのか細い悲鳴が響く。
左右から衝突したガス雲の壁の行き場を失った衝突エネルギーの約八割は、木星の重力に引かれ超ダウンバーストとなって沈んでいった。
だが残り二割のガス雲上層部は、ガスとして軽かった為に衝突エネルギーが上向きのベクトルに変換され、上昇気流となった。
それに加え、西から東へと流れるガス潮流の流速が、なんとかガス雲上層まで達していた昇電を、斜め前上方へと吹き飛ばしたのである。
三度襲って来た加速Gに、肉体が限界に達していたクィンティルラは今度こそ意識を失った。
まだ助かったと言える状態では無かったが、もう心配はしていなかった。
昇電は木星重力圏を脱出できる程の速度で撃ちだされたわけではないが、それでも木星雲海の十数キロ上空まで上昇するだけの加速を得ていた。
巨大な放物線を描き、再び昇電が雲海に没するまでに時間はたっぷりある。
それまでに
きっと、あの無闇に元気でちょこまかしたお姫様あたりが助けに来てくれるに違いない。
だからクィンティルラは少しだけ休ませてもらうことにした。
……さすがに今回はちと疲れた。
僅かに見ることが許された夢の中で、クィンティルラは昇電発艦前に、〈じんりゅう〉格納庫の更衣室内で、キルスティと交わした会話のことを思い出していた。
「クィンティルラ大尉、もし無事に
唐突に話しかけられたクィンティルラは、彼女にパイロット装具を装着させてやりながら「なんだよ急に?」と答えた。
「大尉も、自覚してるかどうかは知りませんが、心のどこかで分かっているはずです。今、〈じんりゅう〉に最も必要なものが……」
真剣な眼差しで語る幼き新任機関長に、その時のクィンティルラは、すぐに言葉を返せなかった。
彼女が言う今〈じんりゅう〉に最も必要なものとは?
――それが分かれば苦労しないって~のっ!
いつものクィンティルラであれば、そう答えたかもしれない。
だが、その時の彼女には、漠然とではあるが、キルスティの言わんとすることが分かる気がした。
最後の【ANESYS】
言葉にしてしまうにはひどく気恥かく、幻のような儚い感覚、目を閉じて思えば、それは一人の少年の姿をしていた。
「クィンティルラ大尉は、私を
パイロット姿となったキルスティは、一応の上官に対し、有無を言わさぬ気迫で断言した。
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