参.犬神欠点
その一.湯煙天国に不吉な予兆
吹雪が紅梅社中に入社し、一週間が過ぎた。
「吹雪ちゃん、まだー?」
「今行きます」
細い裸身を晒した状態で、吹雪は白髪を結い上げた。そして洗面用具を入れた桶を取ると、浴場の入り口で待っているサチの元に急ぐ。
吹雪が来るのを見て、サチはガラス戸を開けた。
むっと押し寄せてくる湯気の先に、白とピンクのタイル張りの女子浴場がある。
浴場に入り、サチは嬉しそうに声を上げた。
「あ、夕子さん!」
「おぉ、ワンコにブキちゃんじゃないか。いらっしゃい」
浴槽でくつろいでいた夕子が軽く手を挙げる。その手には白い杯、浴槽の縁に置かれた桶の中にはとっくりがある。どうやら一杯やっていたようだ。
「夕子さんったらお酒飲んでる!」
「ふふ、いいでしょ。あげないよぉ」
「いいんですか? 規則とか……」
吹雪がおずおずとたずねると、夕子はひらひらと手を振る。
「大丈夫。皆やってる」
「えぇー……」
吹雪は言葉に悩みつつ、桶で湯をすくって体にかけた。サチは何故か冷水を浴びているようで、洗い場の方から「冷た! 無理! キツイ!」と悲鳴が響いてきている。
湯に入りつつ、吹雪は洗い場の方をちらっと見た。
「……何故冷水なんでしょう」
「アレも一応修行なんだって。霊気を高めるとかなんとか」
「効果あるんでしょうか……」
「さぁ……」
「もー、二人ともひどい!」
悲鳴のような声とともに、洗い場から青ざめた顔のサチが現れた。大急ぎといった様子で浴槽に入り、そろそろと体を湯に沈める。
「こういうのは気持ちの問題なの。夕子さんも滝行とかしたことあるでしょう?」
「いや、まぁ、やったことあるけど……うーん、そんなものかねぇ」
言葉を濁し、夕子は杯に口を付けた。
「それにしてもブキちゃんは肌白いねぇ。きれいだ」
「え、あ、ありがとうございます」
いきなり水を向けられ、戸惑いつつも吹雪は自分の手を見る。たしかに遠峰家の人間は、普通よりも肌の色が白い。
白磁のような肌を湯に浸し、吹雪は肩をすくめる。
「……でも色素が薄いのも困りものですよ。太陽とかにはちょっと」
「えーでもきれいだよ。それに足長いし! いいなぁ、わたし幼児体型だからなー」
サチは不満げに湯に口を付け、ぶくぶくと泡をふく。
その頭を夕子が軽くはたいた。
「こら、ぶくぶくしない。それにワンコにだって良い点あるじゃないか」
「きゃん!」
一瞬のことだった。
浴槽の縁に盃を置いた夕子が流れるような所作でサチの背後に回り込み、その胸を掴む。
「ちょ、ちょっと夕子さ――きゃああ!」
「ほら、このぷにぷに感とかなかなかのものだよ」
「きゃあああ吹雪ちゃん! ちょっと助け――」
「ふふ……ワンコさん羨ましいですね。私ね、愚兄から胸部大雪原とか言われたりしたんですよ。……ふふ、なんにも言えなくて」
死んだ目で微笑みつつ、吹雪はへたくそな水鉄砲をして遊ぶ。
「お、落ち込まないで吹雪ちゃん! ――っとと」
「ったく、ひどい話だねぇ」
夕子が吐き捨てるように言って、サチから手を離した。サチはその隙に大急ぎで夕子から離れ、ほっと一息吐く。
夕子は盃を一息に煽り、ふーっと息を吐いた。
「誰かの体をやれ小さいだの貧しいだの言う奴はね、心が小さくて貧しいのさ。どこかが足りないから人の特徴を悪し様に言うんだよ」
「さすが夕子さん! 良いこと言うなぁ……酔ってるのに」
サチが大まじめな顔でうなずく。
夕子はちっちと人差し指を左右に振ってみせた。
「アタシを侮っちゃいけないよ。――ともかくさ、気にしちゃいけないよブキちゃん」
「夕子さん……」
吹雪の眼にうっすら涙が浮かぶ。
夕子はふっと笑い、杯を置き――一瞬で吹雪の背後に回り込んだ。
「なっ、ちょっ、夕子さ――ひぁあ!?」
「大体雪原というほどじゃないよこれは。少なくともかまくらくらいはある」
「へ、変なとこ触らないくださ――うぅぅう!」
数分後。
風呂の縁に吹雪は突っ伏し、しくしくと泣いていた。
「あんな、あんな…… 信じられない……」
「しっかりして吹雪ちゃん! ほら、夕子さんも謝って!」
「あらら、うぶな子には刺激が強すぎたね。ごめんよ、ブキちゃん」
洗い場で長い赤髪を洗いながら、夕子が涼しげな表情で謝る。
吹雪は頭を抱え込んだ。
「もうお嫁に行けません……」
「そんなことないよ吹雪ちゃん!」
「逆転の発想だよ、そこは。行かなくても良いと考えな」
「夕子さんったら! どうしてそう極端になっちゃうんですか!」
ふくれっ面になるサチに対し、夕子は振り返って人差し指を立てた。
「いや、これは間違いない。第一男とつるんでもね、ロクな事ないから。男に一回殺されたアタシが言うんだから間違いない」
「うぅ――ん? え、なんですって?」
奇妙な言葉が聞こえた気がして、吹雪が顔を上げる。
「んー? あぁ、ブキちゃんは知らなかったか」
髪から泡を洗い流し、夕子が振り返った。
顔にかかった赤髪をざっと掻き上げ、飛沫を散らして背中に流す。その様がどうしてかとても色っぽく、吹雪は少しどきりとしてしまう。
だからその次に夕子が言った言葉の意味が、一瞬理解できなかった。
「アタシね、一回死んでるのさ。折檻されて殺された」
「……折檻?」
「アタシは吉原の生まれでね」
それは今も連綿と続く花街の名だ。
そこの生まれという事は――吹雪は言葉に悩み、何度か口を開く。
「あぁいいよ、そんな気を遣わなくて。あそこの生活はひどかったけどさ、アタシはそれなりに器量が良かったからまだマシな方だった」
夕子が再び浴槽に戻り、肩まで湯に沈める。
手近にあったサチの頭をぐりぐりと撫でつつ、夕子は物憂げにため息を吐いた。
「ただ……ある時、アタシの友達があそこから逃げ出してね」
「夕子さんの友達が……」
「あぁ。それでアタシが手引きしたんじゃないかって疑いを掛けられた。普通に考えて外から男が連れ出したんだろうにさ」
ばかだねぇ、と。夕子は唇を歪めて笑った。
「そんで楼主はね、アタシに行き先を吐かせようとしたのさ。二日間ぶっ続けで火責め水責め天井吊し……そんで三日目の夕方に死んだのよ、多分」
「多分?」
眉をひそめる吹雪に、夕子は肩をすくめて見せた。
「正直アタシもこのへん記憶が曖昧なんだよねぇ、なにせ死んでたわけだから」
「そ、それもそうですね」
「そうともさ。そんで、アタシが次に意識を取り戻したのは真夜中だった。箱の中に入れられて、投げ込み寺に連れていかれるとこだった」
「え、お寺……ですか?」
いまいち言葉の意味がわからず、吹雪は首をひねる。
「あ、違うよ。昔は本当に遊女の死体を寺に投げ込んでたから慣習でそう呼んでるだけ。多分今はなにか、そういう処理場があるんだと思う」
「遊女の死体を処理する場所……ですが」
「そっ。秘密裏にね。そこでアタシらはいなかったことにされるんだ」
いなかったことにされる――夕子の口調は軽いが、その言葉の意味は残虐非道だった。
吹雪は険しい表情になるのを抑えきれず、口元を手で隠した。
「で、死体は普通そこで消されるわけだけど――何分アタシは生き返っちまったもんで」
「……逃げ出した、と」
「うん。箱の中で暴れてさ、様子見に来た運び手が蓋を開けた時に一発KOしてやった」
「そ、それはすごい」
蘇ってすぐにそんなことができるのか。驚嘆する吹雪に対し、夕子はにやりと笑う。
「そうして後は命からがら逃げ出して――っとと、あれ? ワンコ?」
「うー……」
続きを話そうとした夕子の肩に、くったりとサチがもたれかかった。
その顔は真っ赤に染まっている。
「あらら、この子ったらのぼせちまってる。先に上がりゃよかったのに」
「大変、すぐに外に運ばないと」
「あぁ。ちょいと手伝ってくれるかい?」
二人は協力してサチを浴槽から出し、脱衣場にまで慎重に運んだ。長椅子の上にサチを寝かせ、体をタオルで覆って冷えないようにする。
軽くサチの肌から水気を拭ってやっていると、夕子が口を開いた。
「……ま、こんな感じでさ」
「ん?」
吹雪は手を止め、夕子を見上げる。
長椅子の側に立ち、夕子は軽く両手を広げてた。
「うちの会社はさ、アタシみたいな訳ありが多いのよ」
「訳あり……ですか」
「あぁ。ま、人間大なり小なりなにかあるものだけど、アタシらはちょいと癖が強くてね。はぐれ者が集まって、どうにかこうにか生きてるわけ」
そう言って、夕子はぽんと吹雪の肩に手を置いた。
「だからさ、なんか困ったことがあったらなんでも言いな。アタシらなら、ちょっと一味違うやり方で、アンタの助けになれるかもしれないからね」
夕子はにやっと不敵に笑う。
風呂上がりのため、彼女の顔には化粧などは一切施されていない。それでも、吹雪はその微笑に息を呑むほどの美しさを感じた。
それは元々の容貌の出来だけではなく、内側から匂い立つもののように感じられた。
「夕子さん……」
「うー……お水……」
横たえたサチがうめき、ゆるゆると手を持ち上げて顔を覆う。
吹雪と夕子はサチを見下ろした後、顔を見合わせた。
「……ひとまず、この子をどうにかしなけりゃね。アタシはお水もってくるから、その間ワンコを頼んだよ」
「えぇ、おまかせください」
ざっと夕子が寝巻を着て、脱衣場の外に出る。
一方の吹雪も手早く服を着ると、サチにそっと声を掛けた。
「ワンコさん、大丈夫?」
「うん……ちょっとふらふらするだけ……うぅ、夕子さんにまた迷惑掛けちゃった……」
「今、冷たいタオルを作りますから。ちょっと待っていてくださいね」
「ありがと……ごめんね」
「お気になさらず」
吹雪は持っていたタオルを手にすると、洗面台の方に向かった。
蛇口をひねり、タオルを水に浸し――。
背中に寒気が走った。
「っ――!」
吹雪はバッと振り返り、構えを取った。
早まりそうになる呼吸を整え、周囲の気配を探った。
蛇口から水の流れる音が静かに響いている。外で犬が遠吠えしていてやかましい。自分の呼吸音がやたらと大きく感じられる――。
しかしいくら周囲の様子を探っても、そこには自分と――のぼせたサチしかいない。
確かに一瞬、視線を感じた。
覚えのある気配だった。以前食堂で感じた、燃え上がるような悪意の視線。
「――おまたせぇ! 今戻ったよ」
がらりと引き戸の開く音に、吹雪は我に返った。
水の入ったボトルを持った夕子が脱衣場に入ってきて、サチの側に近づく。
「サチ、大丈夫? 飲めるかい?」
「ありがとうございます……」
か細い声とともにサチがゆっくりと起き上がり、夕子の助けを借りながら水を飲んだ。
吹雪は水に浸かったままのタオルを見下ろし、ついで洗面台を見つめた。
鏡には、やや青ざめた表情の自分が映っている。
「……一体、何なのでしょう?」
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